第1896話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(5)

 日野さんへの返答の3回目を転載します。

2019.05.11【日野さんへの返答③】
 九州王朝(倭国)の難波支配がいつ頃から始まったのかという問題への有力な「解」となったのが、冨川ケイ子さんの論稿「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収)でした。それは『日本書紀』崇峻即位前紀(用明天皇二年、587年)に見えるいわゆる蘇我・物部戦争記事の後半に記された捕鳥部萬(ととりべのよろず)征討記事です。河内を中心として八カ国の権力者であった捕鳥部萬を「朝庭」が滅ぼすという記事で、冨川さんはこの「朝庭」こそ九州王朝(倭国)のことであるとされました。
 この冨川説によれば、この六世紀末頃の河内・難波征討により九州王朝はこの地を自らの直轄支配領域にするとともに、全国の分国と律令による一元支配の端緒になったとされました。従って、この「河内戦争」記事に律令用語(国司など)が現れるのは、九州王朝(倭国)が律令による支配を行った痕跡とされました。
 わたしはこの冨川説を最有力と考え、九州王朝による7世紀中頃に前期難波宮や条坊都市難波京の造営を可能とした背景を説明できるとしました。というよりも、この冨川説以外に九州王朝が摂津難波を支配したとできる史料や伝承がないのです。
 更にこのことと関連するような考古学的事実として、律令行政機能を有す巨大な難波複都造営に先立ち、数万人規模の巨大都市の出現に対応するための食糧増産の準備を九州王朝は始めています。それは古代最大規模のダム式灌漑施設「狭山池」(大阪狭山市)の造営です。この遺構から出土した木樋材の伐採年が616年(年輪年代測定)を示しており、まさに河内戦争以後の7世紀初頭頃から造営を開始したことがわかります。同時に九州王朝は難波天王寺も建立しています。このことは既に述べたとおりです。

 「倭京二年 難波天王寺聖徳造」(『二中歴』)※倭京二年は619年。

 この狭山池の堤体(ダム)の工法(敷粗朶工法)が水城と同じであることも判明しており、この点も九州王朝との関連を裏付ける根拠の一つとなっています。
 こうして、前期難波宮九州王朝複都説と「河内戦争」説などにより、六世紀末頃(河内・難波侵攻と分国開始)から7世紀中頃(評制樹立)に至る当地の「九州王朝史」が復元できてきたのです。(つづく)


第1895話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(4)

 日野さんへの返答の2回目を転載します。

2019.05.10【日野さんへの返答②】
 九州王朝(倭国)が摂津難波の支配権を有していた時期について、7世紀初頭とする史料があることから、それ以前に九州王朝は難波に進出していたと、わたしは考えていました。その史料とは「九州年号群」史料として最も成立が早く、信頼性が高いとされている『二中歴』所収「年代歴」の次の記事でした。

 「倭京二年 難波天王寺聖徳造」 ※倭京二年は619年。

 「倭京」は7世紀前半(618〜622年)の九州年号です。ちょうど多利思北孤の晩年に相当する期間です。『隋書』に見える九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)は倭京五年(622年、「法興32年」法隆寺釈迦三尊像光背銘による)に没し、翌623年に九州年号は「仁王元年」と改元されています。
 この「難波天王寺」とは現「四天王寺」のことで、創建当時は「天王寺」と呼ばれていたようです。四天王寺のことを「天王寺」と記す中近世史料は少なからず存在しますし、当地から「天王寺」銘を持つ軒瓦も出土しています。
 また、『日本書紀』には四天王寺の創建を六世紀末(推古元年、593年)と記されていますが、大阪歴博の考古学者による同笵瓦の編年研究から、四天王寺の創建を620〜630年頃とされており、『日本書紀』の記述よりも『二中歴』の「倭京二年」(619年)が正しかったことも判明しています。こうしたことから、『二中歴』のこの記事の信頼性は高まりました。
 以上の考察から、九州王朝(倭国)は7世紀初頭には摂津難波に巨大寺院を建立することができるほどの勢力であったことがわかります。しかし、その難波支配がいつ頃から始まったのかは不明でした。(つづく)


第1894話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(3)

 日野さんからの本格的な質問への返答として、わたしから5回に分けて持論を説明しました。その一回目を転載します。

2019.05.10【日野さんへの返答①】
 日野さんのご質問は本質的な問題を指摘されており、わたしも丁寧にご返答したいと思います。質問への個別の回答に先立ち、7世紀における九州王朝の歴史についてのわたしの認識の変遷と現時点での研究の到達点について、まず説明させてください。

 まず、大阪市中央区から出土した前期難波宮について、わたしの認識は次のように進みました。

① 7世紀中頃に九州王朝(倭国)は全国に評制(それまでの行政単位「県(あがた)」を「評」に変更し、その代表者「評督」を任命)を施行し、恐らくは律令による中央集権体制を構築したと思われる。
② その7世紀中頃の列島内最大規模の宮殿・官衙遺跡が前期難波宮(国内初の朝堂院様式の宮殿)であった。
③ 一元史観の通説では、前期難波宮を孝徳天皇の難波長柄豊碕宮とするが、太宰府よりも巨大な宮殿・官衙遺構(前期難波宮)を近畿天皇家のものとすることは九州王朝説としては認めがたい。
④ その結果、前期難波宮を九州王朝の複都(当初は副都と考えた)とする仮説に至った。
⑤ その後、この仮説と整合する、あるいは支持する研究や史料根拠がいくつも報告された。

 以上のような思考を経て前期難波宮九州王朝複都説が成立したのですが、そこで新たに問題となったのが、九州王朝(倭国)はいつから本拠地の九州から離れた摂津難波に複都を置けるほどの当地の支配権を確立したのかということでした。(つづく)


第1893話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(2)

 続いて、日野さんから本格的な質問がきました。以下、転載します。

2019.05.10【日野さんからの本格的質問】
 河内戦争の記事は一つだけ、それも九州王朝目線の記事が元記事と思われます。
 従って、問題が3点あります。
1.実際年代が不明であること。
2.律令制の頃と同じ用語が使用されていること。
3.「関西八国の支配者」ならば当然、大和も支配していたはずであるが、九州王朝以外に近畿天皇家の上位に立つ政権が存在したことが論証されていないこと。

 特に、私が問題視しているのは「3」です。近畿天皇家は九州王朝の分王朝ですが、「関西八国の支配者」が九州王朝の分王朝を支配していたとすると、それは一体、九州王朝とどういう関係なのでしょうか?九州王朝と無関係ならば不自然ですが、九州王朝との関係を語る史料は皆無です。
 例えば、関東王朝についてはその実在が完全に論証されたとは言い難いですが、それでも「関東王朝の伝承」の可能性がある史料は複数見つかっているわけです。
 或いは、大和は「関西八国」には含まれないかもしれません。無論、山背も関西八国に含まれていない可能性もあります。
 さらに、「2」について言わせていただくと、河内戦争の後に66国に分割されたということは、やはり河内戦争以前に山背国の境界は明確に決まっていません。そして、河内戦争の記事には「国司」の用語が用いられていますから、可能性としては富川さんや古賀さんが想定しているよりも後世の記事の可能性があるのです。
 このように、まだ十分に論証が尽くされたとはいえない仮説を論拠に「考えられません」と言われることには、疑問があります。
(つづく)


第1892話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(1)

 FaceBookと「洛中洛外日記」で連載した「京都市域(北山背)の古代寺院」を読んだ日野智貴さん(古田史学の会・会員、奈良市)からFaceBookにコメントが寄せられ、問答が続きました。
 日野さんは奈良大学の学生さんで国史を専攻する古田学派内でも気鋭の若手研究者です。今回、寄せられた質問やわたしの見解への鋭い疑問の提起など、学問としてもハイレベルで深い洞察力に裏付けられたものでした。その二人のやりとりを「河内戦争」問答と銘打って「洛中洛外日記」でご披露することにしました。もちろん日野さんの了承もいただいています。
 まずは発端となった日野さんからの質問とわたしの返答の序盤戦を転載します。

2019.05.09【日野さんからの質問】
 一応、「この時代は九州王朝(倭国)の時代で、この地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられません。」という部分については、古田学派でも統一見解とは言えないと思います。近畿天皇家の勢力範囲については、初期からずっと議論があり今でも決着を見ていないと思います。
 大和と山城の境界が確定したのは恐らく多利思北孤の時代である(それ以前には山背の一部が大和に編入されていた可能性も否定できない)わけですし。

2019.05.10【古賀の返答】
 日野さん、コメントありがとうございます。
 冨川ケイ子さんの論文「河内戦争」において、タリシホコの九州王朝が摂津・河内を制圧する前の当地の権力者は関西八国の支配者であり、それは近畿天皇家の勢力でもないとされています。わたしは冨川説は有力と考えており、それであれば山城国が近畿天皇家の影響下となるのは七世紀第四四半頃と考えています。壬申の乱以降ではないでしょうか。
 河内戦争の勝利後に九州王朝は全国を66国に分国したものと思いますが、いかがでしょうか。
(つづく)


第1891話 2019/05/12

古田武彦『邪馬一国の証明』が復刻

 ミネルヴァ書房から古田先生の『邪馬一国の証明』が復刻され、送られてきました。ご遺族の古田光河さん(ご子息)からの贈呈によるものです。
 同書は角川文庫として1980年に発行されたものの復刻です。名著『「邪馬台国」はなかった』以降の論争に関わるテーマとその学問の方法に焦点を当てた一冊です。文庫本として発行されたこともあり、現在では入手困難となっていましたので、この度の復刻は古田ファンや研究者にとっても待たれていたものでした。
 復刻本冒頭には古田光河さんによる「復刻のご挨拶」、次いで荻上紘一さん(大学セミナーハウス理事長)の「復刊に寄せて」が掲載されています。そこには理系の研究者らしい学問の方法についての解説がなされています。たとえば次のような文章で、理系論文のような表現に荻上先生らしいなと思いました。

 「人物Aと人物Bが同一であることを証明することは簡単ではないが、別人であることの証明は簡単である。人物Aと人物Bの属性を比較して、一致しないものが一つでもあれば両者は同一人物ではないと断定できる。」

 また、松本深志高校ご出身の荻上さんが聞かれた岡田甫校長の言葉を紹介されながら、次のように特筆されています。

 「『論理の赴くところに行こうではないか。たとえそれがいずこに到ろうとも。』と並んで古田先生が大切にした言葉が『師の説にななづみそ』である。したがって、我々は古田先生の本や論文を批判の目を持って読まなければならない。『古田先生の本に書いてあるから正しい』という判断をすれば、学問ではなく宗教になってしまう。」

 この荻上さんの主張は全くその通りです。この「復刊に寄せて」は末尾に「二〇一八年十二月五日」と執筆年月日があり、この一節にはある重要なメッセージが込められているのではないかと推測しています。
 この文が書かれた日の一ヶ月前の11月10〜11日、荻上さんが理事長をされている大学セミナーハウスで「古田武彦記念 古代史セミナー2018」が開催されました。そこである発表者が予定されていたテーマとは無関係に突然わたしに対して「古田説と異なる説(前期難波宮九州王朝複都説)を発表している」と声高に非難されるという一幕がありました。わたしは黙って聞いていましたが、恐らくは呼びかけ人であり主催者としての荻上先生がこうした言動に困惑されたことは想像に難くありません。ですから、それに対する荻上先生のメッセージが、一月後に書かれたこの「復刊に寄せて」に込められていることをわたしは疑えません。
 同書末尾には谷本茂さん(古田史学の会・会員)による「『邪馬一国の証明』復刻版解説」が収録されています。谷本さんは京都大学の学生時代からの古田先生のファンであり、古田学派の重鎮のお一人です。同書にはその論文「魏志倭人伝の短里ーー『周髀算経』の里単位ーー」が掲載されており、古代中国の天文算術書『周髀算経』に短里が使用されていることを『数理科学』(1978年3月号)に発表された経緯やその後の論争などについて解説されています。これも理系の研究者である谷本さんらしい文章です。
 このように同復刻版は学問の方法に関する古田先生の考えが詳述されており、復刻にあたって添えられた古田光河さん、荻上紘一さん、谷本茂さんの文章も古田史学をより深く理解する上で貴重なものです。ご一読をお勧めします。


第1890話 2019/05/09

京都市域(北山背)の古代寺院(6)

 連載した「京都市域(北山背)の古代寺院」の最後として大宅廃寺(山科区)を紹介します。大宅廃寺は早くから顕著な遺跡として認識されていましたが、昭和33年の名神高速道路建設に伴う調査でその一部が明らかとなりました。そして平成16年の調査で金堂基壇(二重基壇)が発見され、七世紀末頃の創建であることがわかりました。
 大宅廃寺の発掘調査で、最も注目されたのが藤原宮の瓦(藤原宮6646C型式)と同笵瓦の出土でした。しかも藤原宮よりも大宅廃寺の瓦の方が先行しており、この地で使用された笵型が藤原宮に転用されたこととなります。この事実は、七世紀末頃には近畿天皇家の影響力が山背国にまで及んでいたことを意味します。当時の近畿天皇家は没落した九州王朝に替わって列島の第一権力者に上りつめ、701年には王朝交替(九州王朝・倭国から大和朝廷・日本国へ)を果たし、九州年号に代えて[大宝」年号を建元しました。そのことを大宅廃寺から出土した藤原宮との同笵瓦も「証言」しているのではないでしょうか。
 このように、京都市域の古代寺院遺構を多元史観・九州王朝説で俯瞰することにより、新たな山背国古代史学が成立すると思われます。(おわり)


第1889話 2019/05/08

京都市域(北山背)の古代寺院(5)

 京都東山の「八坂の塔」として有名な五重塔には法観寺という正式名があることはあまり知られていません(俗称は八坂寺)。元々は塔の北側に金堂や講堂などがあったと推定され、出土した瓦の編年から七世紀第3四半期の創建とされています。昭和53年の塔基壇調査では心礎の巨石が創建時のままで移動していないとのことで、三度の焼失のたびに同じ位置で再建されたことが判明しました。
 伝承では、聖徳太子が四天王寺建立のため山背国愛宕郡の材を求めたとき、この地が気に入り、一堂を建てたことが法観寺の始まりとされています。しかし、七世紀前半の飛鳥時代の遺物が出土しないことから、この伝承は否定されています。心礎の位置(高さ)が基壇上にありますので、七世紀後半頃(白鳳時代)の創建とする見解にわたしも賛成です。白鳳10年(670)年創建とされる太宰府・観世音寺の五重塔もこの様式です。もし飛鳥時代(七世紀初頭頃)であれば心礎は法隆寺五重塔のように地下に埋まっていると思われます。
 他方、広隆寺と同様に法観寺も聖徳太子伝承を持つことには注目すべきです。それは九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の伝承があって、それが後世において聖徳太子伝承として伝えられた可能性があるからです。このように京都市の東西(東山区と右京区)に聖徳太子伝承を持つ大形寺院が現存することは、京都市域が古代において九州王朝との強い関係を持っていたことをうかがわせ、古田史学・多元史観にとって重要な研究課題です。(つづく)


第1888話 2019/05/07

京都市域(北山背)の古代寺院(4)

 北野廃寺(北区北野上白梅町)が最古級(飛鳥時代、七世紀前半頃)の寺院遺跡とれさていることを紹介しましたが、京都市域(北山背)には同じく飛鳥時代の創建とされる広隆寺(右京区太秦)が現存しています。聖徳太子との関係が深く、国宝彌勒菩薩像がある洛西の古刹です。寺域内の発掘調査では七世紀前半頃に遡る素弁蓮華文軒丸瓦が出土していることから、飛鳥時代に遡る創建と見てよいようですが、瓦の編年から北野廃寺の方がより古いとされています。
 北野廃寺と同様に、創建は九州王朝(倭国)の時代ですから、聖徳太子との関係も疑う必要があります。七世紀前半のこの地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられませんので、聖徳太子に関連する伝承や解釈も、九州王朝の天子・多利思北孤か太子の利歌彌多弗利のものだったのではないでしょうか。
 『日本書紀』の史料批判も含めて、大和の飛鳥や斑鳩以外の地の聖徳太子伝承の見直しが必要です。もちろん広隆寺もその対象です。なぜなら、中世以降に成立した聖徳太子伝記類には九州年号(金光など)が散見され、九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の伝承が近畿天皇家の厩戸皇子の伝承に置き換えられていることがわたしたちの研究により明らかとなりつつあるのですから。(つづく)


第1887話 2019/05/07

京都市域(北山背)の古代寺院(3)

 八角仏塔の樫原廃寺(西京区)、巨大金堂基壇の北白川廃寺(北区)に続いて北野廃寺(北区北野上白梅町)を紹介します。北野廃寺は昭和11年の路面電車(チンチン電車)の敷設工事により発見されました。大量の古瓦が出土し、瓦や土器の編年などにより飛鳥時代(七世紀前半頃)の全国的にも最古級の寺院跡であることがわかりました。京都市考古資料館の展示でも素弁蓮華文軒丸瓦や須恵器坏H、同Gが展示されており、学芸員の方の説明でも七世紀後半の須恵器坏Bは出土していないとのことで、北野廃寺は七世紀前半頃の創建と考えられます。
 この時代は九州王朝(倭国)の時代で、この地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられません。従って、飛鳥時代の最古級の寺院創建は九州王朝の影響下でなされたと思われます。既に七世紀初頭頃には九州王朝は難波や河内を直轄支配地としていたと考えられますから、北野廃寺は同時代の難波天王寺などの九州王朝系寺院との関係を考えるべきと思います。
 本稿に関連する〝余談〟ですが、九州王朝説・多元史観に立つと「飛鳥時代」という呼称も再考が必要となりそうです。(つづく)


第1886話 2019/05/06

京都市域(北山背)の古代寺院(2)

 京都市考古資料館の特別展示「京都の飛鳥・白鳳寺院 -平安京遷都以前の北山背-」で最も注目した遺跡が北白川廃寺跡(左京区)でした。銀閣寺の北側に位置する北白川地区から廃寺跡が発見されたのは昭和9年のことで、巨大な金堂基壇(36.1m×22.8m)や回廊が出土しました。その後、昭和50年になって金堂の西80mの地点から塔跡も発見されました。
 わたしが驚いたのはその金堂基壇の巨大さです。北白川廃寺創建は出土瓦(山田寺式)を根拠に七世紀の第三四半期の早い時期と編年されており、その時代の寺院の金堂としては奈良県桜井市から出土した吉備池廃寺(37m×約28m)に次ぐ大きさとのことです。現存する法隆寺金堂の基壇が22.1m×18.8mですから、これと比べてもかなりの規模であることがおわかりいただけるでしょう。
 ここで問題となるのが、この北白川廃寺のことは『日本書紀』にも後の史料にも見えず、山背(やましろ)国の北部にこのような巨大寺院を建立した勢力についても不明です。想定される創建時期が前期難波宮とほぼ同時期であることも見逃せません。巨大な北白川廃寺は近畿天皇家とは関係が薄い勢力、あるいはその存在を近畿天皇家が『日本書紀』には記したくなかった勢力による造営と考えるべきではないでしょうか。すなわち、九州王朝系勢力が創建に関わったのではないでしょうか。
 さらに同廃寺の南に隣接する小倉町別当町遺跡からは、「高志」「丁」の刻印をもつ無紋銀銭が出土しています(七世紀中頃と編年)。無紋銀銭は近江の崇福寺遺跡や難波から数多く出土しています。前期難波宮を九州王朝の複都(太宰府「倭京」と難波京の両京制)とするわたしの説や、近江朝を九州王朝系とする正木説の立場からすれば、九州王朝と関わりが深いとされる地から無紋銀銭が出土していることとなり、小倉町別当町遺跡から出土した無紋銀銭も偶然と見るよりも、北白川廃寺を創建した勢力(九州王朝系か)との関係を検討すべきものと思われるのです。(つづく)


第1885話 2019/05/05

京都市域(北山背)の古代寺院(1)

 京都市考古資料館(上京区)で特別展示「京都の飛鳥・白鳳寺院 -平安京遷都以前の北山背-」(無料)が開催されていることを久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から教えていただき、昨日、見学してきました。
 わたしは古代史研究において、山背(やましろ)国、中でも京都市域についてはそれほど興味がなく不勉強でした。ところが今回の特別展示を拝見して驚きました。もしかすると古代の京都市域(北山背)は九州王朝と関係が深い地域ではないかと考えるようになりました。その理由について紹介したいと思います。もちろん、調査研究や論証はこれからですので、考古学的事実とわたしの感想を記していきます。
 最初に紹介するのが西京区の樫原廃寺です。昭和41年の発掘調査により、七世紀唯一の八角仏塔が出土しています。同時期における八角形の建造物は前期難波宮の八角殿(二基)と熊本県の鞠智城の八角鼓楼(新旧の各二基)が知られているだけですから、非常に珍しいものです。前期難波宮は九州王朝の複都(太宰府「倭京」と難波京の両京制)とわたしは考えていますし、鞠智城も九州王朝による要塞的施設ですから、八角仏塔が出土した樫原廃寺も九州王朝との関係があるのではないかと推測しています。
 造営年次は前期難波宮の652年(九州年号「白雉元年」)だけが判明しており、鞠智城鼓楼や樫原廃寺との先後関係は未詳です。しかし、樫原廃寺の八角仏塔を建立した工人集団と前期難波宮の八角殿を造営した工人集団(番匠)とが全くの無関係とは考えにくいのではないでしょうか。なお、樫原廃寺からは八角仏塔を取り囲む回廊・築地塀と大形の中門が出土していますが、金堂に相応しい規模の遺構は回廊内から発見されていません。八角仏塔の北側に小規模の建築物があるだけという、不思議な遺構です。(つづく)