第1682話 2018/06/03

『論衡』の「二倍年齢」(2)

 とうてい百歳まで生きられる人はいなかったと思われる後漢時代の王充が、なぜ人の寿命を「百歳」と理解していたのでしょうか。『論衡』を精査した結果、王充は同時代の人間の寿命を根拠に実証的に「百歳」という寿命を主張したのではなく、古典などに伝えられた説話や伝承を根拠に、人間の本来の寿命(正命)を「百歳」と定義づけていたことがわかりました。それを示しているのが『論衡』の次の記事です。

 「何を以て人の年は百を以て寿となすを明らかにするや。世間に有ればなり。儒者の説に曰く、太平の時、人民は※(イ同)長にして百歳左右なるは、気和の生ずる所なり、と。」(「気寿第四」『論衡』上、74頁)
 ※「(イ同)長」とは丈(身長)が長いの意味。(イ同)は人偏に「同」。

 以下、堯の寿命が九八歳、舜は百歳、周の文王は九七歳、武王は九三歳、周公は百歳前後、周公の兄の邵公は百歳前後の例を並べ、さらには老子は二百余歳、邵公は百八十歳、殷の高宗や周の穆王は百三十・百四十歳以上とする伝承をあげています。このように、王充は後漢時代の人々の寿命ではなく、二倍年暦などで伝承された周代やそれ以前の「二倍年齢」記事などを根拠に人の本来の寿命(正命)を「百歳」と主張していたのでした。
 それでは後漢時代の人の一般的寿命は何歳と王充は認識していたのでしょうか。直接的には記していませんが、そのことを推測できる記事が『論衡』にはありました。(つづく)


第1681話 2018/06/02

『論衡』の「二倍年齢」(1)

 今日は久しぶりに岡崎の京都府立図書館に行き、『論衡』と『大載礼記』(新釈漢文大系。明治書院)を閲覧しました。好天に恵まれ、平安神宮の朱の鳥居が青空に映えてとてもきれいでした。
 後漢時代の人、王充の『論衡』は古田先生も度々著書で取り上げられていますから、古田ファンや古田学派の研究者にはお馴染みでしょう。今回、わたしは『論衡』の全容に初めて接したのですが、その目的は後漢代の知識人が二倍年暦や「二倍年齢」についてどのように認識していたのか、あるいはそれらの痕跡が『論衡』にあるのかの調査でした。『論衡』は新釈漢文大系本でも三巻あり、全巻読破は大変でしたが、何とか斜め読みすることができました。
 一読して驚いたのですが、『論衡』中に人の寿命として「百歳」という記述が散見され、一倍年暦を採用していた後漢代でも、人の寿命については「二倍年齢」で表記するケースがあったのかと一瞬勘違いしたほどです。たとえば次のような記事です。

 「百歳の命は、是れ其の正なり。百に満つる能はざる者は、正に非ずと雖も、猶ほ命と為すなり。」(「気寿第四」『論衡』上巻、72頁)
 「正命は百に至って死す。随命は五十にして死す。遭命は初めて気を稟(う)くる時、凶悪に遭ふなり」(「命義第六」『論衡』上巻、100頁)

 しかし、『論衡』の他の具体的な人物の年齢記事を見る限り、一倍年暦に基づく「一倍年齢」と思われ、ここでは王充が当時の人の寿命として「百歳」と記していることを不思議に思いました。いくらなんでも後漢代の人間が百歳まで生きられるとは考えられないからです。しかも『論衡』では特別な長寿記事として「百歳」と記しているわけではありません。それは「一般論」であるかのように「百歳」と繰り返し記されているのです。
 新釈漢文大系の解説によれば、「人間の命は、気の厚薄によって左右されるもので、ふつうの人の(寿)命は百歳をもって正数とすることを、古代の聖王の例を引き論証している。」とあります。(つづく)


第1680話 2018/06/01

5月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 5月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《5月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2018/05/06 向井一雄著『よみがえる古代山城』の是非
2018/05/08 八重洲ブックセンターと丸の内の丸善偵察
2018/05/20 「古田史学の会」会計監査を実施
2018/05/24 桂米團治師匠からのお電話
2018/05/31 『東京古田会ニュース』180号「大越論稿」を拝読して


第1679話 2018/05/26

九州王朝の「分国」と

     「国府寺」建立詔(4)

 九州王朝が告貴元年(594)に建立を命じた「国府寺」ですが、その寺院の名称が「国府寺」として諸国に統一されていたのかという問題について、説明します。

 九州王朝が告貴元年(594)に建立させた寺院の名称については、既に紹介したように次の二史料の存在がわかっています。

 一つは『聖徳太子伝記』に見える「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)」の記事にある「国府寺」です。「国府寺と名付ける」と明確に記されていますから、実証的にはこの記事を根拠に「国府寺」と理解する他ありません。しかし、論理的に考証(論証)しますと、各国にある「国府寺」が同名だと、諸国間の連絡や中央での管理記録において区別がつかず不便な統一名称となります。従って、もし「国府寺」と名付けられたとしても「正式名称」としては冒頭に国名が付されたのではないでしょうか。たとえば大和国府寺とか肥前国府寺のようにです。

 二つ目の史料が『日本書紀』推古2年条の「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」という記事です。ここでは「寺」という一般名ですが、「即ち、是を寺という」という記事は不思議です。それまで倭国には「寺」と呼ばれるものが無かったかのような記事だからです。また「諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る」ということであれば、この「佛舎」は諸国に一つずつの「国府寺」とは異なります。他方、「みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ」とありますから、詔勅による「国家事業」と解さざるをえません。おそらく、『日本書紀』編纂者は、九州王朝による「国府寺」建立をこのような表現にして、九州王朝や九州王朝による「国府寺」建立詔の存在を伏せたと思われます。

 以上の史料事実から、九州王朝が告貴元年(594)に建立を命じた「国府寺」は少なくとも通称として「国府寺」と呼ばれていたのではないかと推定できます。(つづく)


第1678話 2018/05/25

九州王朝の「分国」と

      「国府寺」建立詔(3)

 九州王朝が6世紀末頃には全国を66国に「分国」していたことを説明しましたが、次いで「国府寺」建立を命じた詔勅が告貴元年(594)に出されたとする理由(論理展開、史料根拠)を改めて説明します。

①九州年号「告貴」の字義は「貴きを告げる」ですから、海東の菩薩天子、多利思北孤にとって「貴い」詔勅が出されたことによる改元と考えるべきである。

②九州王朝系史料に基づいて編纂されたと思われる、九州年号(金光、勝照、端政)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)」という記事がある。近畿天皇家側史料『日本書紀』などに見えない記事であり、九州王朝系史料に基づくと考えざるを得ない。

③この告貴元年甲寅(594)と同年に当たる『日本書紀』推古2年条に次の記事がある。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

④『聖徳太子伝記』に見える「国府寺」建立記事と『日本書紀』推古紀の「三宝興隆・造佛舎」詔勅記事が同年(594年)であることを偶然の一致と考えるよりも、共に九州王朝(多利思北孤)による「国府寺」建立を命じた詔勅に基づいたものと理解するほうが合理的である。

⑤『隋書』国傳に見える国の使者(大業三年、607年)の言葉として、煬帝に対し「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す」とあり、古田先生の理解によれば、「重ねて」とは海東(倭国)において仏法を興した多利思北孤に次いで隋の天子が重ねて仏法を興した意味とされている。そうであれば、このとき既に「国府寺」建立を命じており、そのことをもって「仏法を興した」と多利思北孤は自負していたとしても不思議ではない。

⑥多利思北孤が隋よりも先に「仏法を興した」とする根拠として「法興」年号(591〜622年)がある。「法興」とは「仏法を興す」という意味で、「法興寺」と呼ばれる寺院もこの時代に創建されている。なお、正木裕さんによれば、「法興」は多利思北孤の法号であり、それが「年号的」に使用(法隆寺釈迦三尊像光背銘、伊予温湯碑)されたとされる。

 以上の理由から、「国府寺」建立を命じた詔勅が告貴元年(594)に出されたとわたしは考えています。しかしながら諸国で「国府寺」が完成したのは更にその後ですから、必ずしも7世紀初頭に諸国の「国府寺」が完成したとする考えとは矛盾しません。(つづく)


第1677話 2018/05/25

九州王朝の「分国」と

     「国府寺」建立詔(2)

 九州王朝は6世紀末には九州島内諸国を9国に「分国」し、全国を66国に「分国」したと、わたしは考えています。このことを「続・九州を論ず 国内史料に見える『九州』の分国」(『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』古田武彦・福永晋三・古賀達也、共著。明石書店、2000年)に詳述しましたので、ご参照ください。簡単にその論理性や史料根拠を説明します。

①「九州」という地名は、中国の天子が自らの直轄支配領域を九つに分けて統治したことを淵源に持ち、後に天子の支配領域全体を「九州」と称するようになったという政治用語である。九州王朝の多利思北孤は「海東の菩薩天子」を自認していたと思われるため、その時代(7世紀初頭)までには中国に倣って九州王朝も九州島を九つに分国したと考えられる。その名残が「九州島」の地名「九州」として現代まで続いている。

②「聖徳太子」が日本全国を33国から66国に分国したとする次の記事が史料中に見える。
「太子十八才御時(崇峻二年、589年)
春正月参内執行國政也、(中略)太子又奏シテ分六十六ケ國玉ヘリ、(中略)筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、昔ハ六ケ國今ハ分テ九ケ國、名西海道也、(後略)」『聖徳太子傳記』(文保二年頃〔1318〕成立)
「人王卅四代の御門敏達天皇の御宇に聖徳太子の御異見にて、鏡常三年(敏達十二年、583年)癸卯六十六箇國に被割けり。(中略)年號の始は善記元年」『日本略記』(文録五年〔1596〕成立)

③『日本書紀』推古紀に「火葦北国造(敏達十二年、583年)」と「肥後国の葦北(推古十七年、609年)」という記事が見え、「火国」が「肥前国」「肥後国」に分国されたのが583年から609年の間であることを示している。

④これらの史料事実は、九州王朝による66国への分国が583年あるいは589年であることを示しており、それ以外の時期の「分国」を示す史料を管見では知らない。

 以上のような論理性と史料根拠により、九州王朝による66国への分国が告貴元年(594)以前になされていたとする仮説は有力であり、これ以外の「史料根拠に基づいた仮説」の存在を、今のところわたしは知りません。(つづく)


第1676話 2018/05/24

九州王朝の「分国」と

      「国府寺」建立詔(1)

 「洛中洛外日記」に連載した「九州王朝の『東大寺』問題(1〜3)」を「古田史学の会」会員の山田春廣さんがご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)に転載されました。そうしたところ、早速、読者から反応があり、山田さんと読者の服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による応答が続けられました。学問的で真摯な応答であり、多元的「国分寺」研究の深化をもたらすものと思われました。

 同応答を読みますと、山田さんや服部さんが指摘された主たる疑問は概ね次の三点に集約できるようです。

①九州王朝による66国への分国が告貴元年(594)にはなされていたとは思えない。(山田さんからの疑義)

②中国ではじめて全国に同じ寺院名の寺院を建立(あるいは既存の寺院に新たに命名する)したのは、隋もしくは唐の時代であると考えられ、告貴元年(594)に「国府寺」が建立されたとは考えにくい。7世紀以降ではないか。(服部さんからの疑義)

③中国では隋や唐になって初めで全国に同名の寺院が建立されており、倭国での同様の建立あるいは命名は、中国を習ってのこととみるのが妥当と考えられる。従って、倭国がそれよりも早く「国府寺」という名称の寺院を諸国に造らせたとは考えにくく、「国府寺」という名称にもこだわらない方がよいのではないか。(服部さんからのご意見)

 これらのご指摘・疑義に対して、わたしは告貴元年(594)までには九州王朝は全国を66国に「分国」しており、諸国に「国府寺」建立を命じたのも告貴元年とするのが最も有力な仮説であり、その通称として「国府寺」と称されていたとしても問題ないと、今のところ考えています。学問的論議が更に深化するよう、その理由について説明することにします。(つづく)


第1675話 2018/05/23

太宰府と藤原宮・平城宮の鬼瓦(鬼瓦の論証)

 「洛中洛外日記」1673話「太宰府出土『鬼瓦』の使用尺」で紹介した『大宰府史跡発掘50年記念特別展 大宰府への道 -古代都市と交通-』(九州歴史資料館発行)に掲載された太宰府出土鬼瓦ですが、鬼気迫る形相の芸術性の高さが以前から注目されてきました。そこでその芸術性という側面から多元史観・九州王朝説との関わりを指摘したいと思います。
 大宰府政庁や大野城から出土した古いタイプの鬼瓦は立体的で見事な鬼の顔ですが、大和朝廷の宮殿の鬼瓦は藤原宮のものは「弧文」だけで鬼は描かれていませんし、平城宮のものも何種類かありますが古いタイプは平面的な鬼の裸体があるだけで、太宰府のものとは雲泥の差です。すなわち、王宮の規模は大きいものの、鬼瓦の意匠性においては規模が小さい大宰府政庁のものが圧倒的に芸術的なのです。このことは次のようなことを意味するのではないでしょうか。

①王宮の規模の比較からは、藤原宮や平城宮の方が日本列島を代表する王朝のものにふさわしい。
②鬼瓦の比較からは、王朝文化の高い芸術性を引き継いでいるのは太宰府である。
③この現象は九州王朝から大和朝廷への王朝交替の反映と考えることができる。
④ということは、太宰府では王朝文化を継承した瓦職人がいたことを意味する。
⑤太宰府にいた高い芸術性と技術を持つ瓦職人により、優れた意匠性の軒丸瓦が造られたと考えるのが自然な理解である。
⑥従って、7世紀末頃に大和・筑前・肥後の三地域で同時発生したとされる「複弁蓮華文軒丸瓦」の成立と伝播の矢印は「北部九州から大和へ」と考えるべきである。
⑦観世音寺や大宰府政庁Ⅱ期に使用された「複弁蓮華文軒丸瓦」(老司式瓦)の発生は、大和の藤原宮に先行したと考えざるをえない。
⑧この論理帰結は、観世音寺や大宰府政庁Ⅱ期の造営を、藤原宮(694年遷都)よりもはやい670年(白鳳十年)頃とするわたしの理解と整合する。

 九州王朝説を支持する「鬼瓦の論証」として、以上を提起したいと思いますが、いかがでしょうか。


第1674話 2018/05/22

済み会員総会と

 谷川清隆 (国立天文台)さん講演会のお知らせ

 「古田史学の会」古代史講演会と2018年度会員総会のお知らせです。今回は国立天文台の谷川清隆さんを講師にお招きし、古天文学の視点から多元的古代(倭国と日本国)について講演していただきます。
 講演会後に「古田史学の会」会員総会と懇親会を行いますので、会員の皆様のご参加をお願いします。講演会は非会員の方も参加できます。講演会は無料、懇親会は有料で当日会場にて参加受付します。詳細は下記の通りです。

【日時】2018年6月17日(日)13時30分〜16時50分 場所:大阪府立大学I-siteなんば2階C1会議室

【住所】大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル2階(南海難波駅南800m、地下鉄大国町駅東450m)

1、開会あいさつ 13時30分〜13時40分
  古賀達也(古田史学の会代表)

2、古代史講演会 13時40分〜15時10分(質疑応答〜15時40分)
「七世紀のふたつの権力共存の論証に向けて」
 講師:谷川清隆 (国立天文台特別客員研究員)
 略歴:1944年生。東京大学理学部物理学科卒業。東京大学大学院博士課程満期退学。天文学専攻。
1978年、緯度観測所研究員。1988年、国立天文台助教授。2007年、退職。
2018年現在、国立天文台特別客員研究員。理学博士。
興味分野は、歴史以外に歴史天文学、三体問題、カオス。
(講演要旨)隋書を含めてそれ以前の中国の歴史書には日本列島内の国として「倭」のみが出てくる。正確には、歴代王朝の東夷伝 (ただし、漢書では地理志の燕地、北史では列伝巻八十二)に出てくる国という意味である。少なくとも西暦600年までは「倭」である。一方、西暦701年以降は、「日本国」が中国 (唐)に認められた日本の支配者である。もう「倭国」はない。
 七世紀が問題で、旧唐書では、「倭国」と「日本国」があったとし、新唐書では「日本国」があったとする。新旧唐書で日本列島の権力に関して意見が異なる。新旧唐書の意見が違っているにしても、隋書の記録からして「倭国」が西暦600年以後も存在し、新旧唐書の記録からして「日本国」が西暦701年以前に存在していたことは明確である。
 本講演では、七世紀の「倭国」と「日本国」の問題に正面から取り組む。
 (中略)
「異なる王朝の記録」を判別することは困難な作業ではあるが、講演当日には、二つの王朝の記録が共存する期間があることを示す努力をする。

3、古田史学の会2018年度総会
 15時50分〜16時50分

4、終了後懇親会 17時〜
 ・講演会の参加費は無料、懇親会は別途当日徴収します。
 ・同会場S3研修室で11時より「古田史学の会」全国世話人会を開催します。

(問い合わせ先)古田史学の会事務局長 正木裕
 〒666-0115兵庫県川西市向陽台1-2-116
 ℡090-4909-8158
 Email:masakike476@hera.eonet.ne.jp


第1673話 2018/05/20

太宰府出土「鬼瓦」の使用尺

 昨日の関西例会で、いつも各地の博物館などの図録を持参して紹介されている久冨直子さんから、九州歴史資料館発行の『大宰府史跡発掘50年記念特別展 大宰府への道 -古代都市と交通-』を譲っていただきました。カラー写真満載の206頁の分厚い図録ですが、お値段はなんと1000円とお買い得です。久冨さんが九州歴史資料館で5冊ほど購入され、そのうちの1冊を分けていただきました。
 同図録に掲載されている出土品の写真はいずれも見慣れたものではありますが、1冊中にこれだけそろうと改めて多くのことに気づかされました。中でも美術的にも高い価値を有する、大宰府政庁や大野城出土の鬼瓦(重要文化財)に興味深いことを発見しました。重要文化財に指定されている大宰府跡出土のもの(九州国立博物館所蔵)と九州歴史資料館所蔵で大宰府政庁跡出土のもの、同じく大野城太宰府口城門跡出土の鬼瓦の寸法がいずれも縦50.0cm、幅45.0cmと記されており、かなりの精度で同一寸法で造られているのです。わたしが注目したのは縦50.0cmという寸法で、この50cmという長さを決めるに当たり使用された「尺」は太宰府政庁Ⅱ期造営に使用された「唐尺(1尺=29.6〜29.7cm)」ではなく、より短い1尺=25cmの「尺」ではないでしょうか。1尺約30cmの「尺」では50cmという寸法は出てこないと思われるのです。1尺=25cmの「尺」であれば、縦2尺・幅1.8尺ときりのいい値が得られますが、1尺約30cmの「尺」では縦はきりのいい値が得られません。
 この1尺=25cmの「尺」はいわゆる「南朝尺」系統の短い「尺」のように思われますが、政庁は北朝系統の「唐尺」で造営し、その屋根に乗せた鬼瓦はより古いタイプの「南朝尺」系統のものを使用したということになり、これは不思議な現象です。この他にも様々な可能性があると思いますので、これから検討します。
 こうした新たな知見に接することができ、同図録を提供していただいた久冨さんに感謝します。


第1672話 2018/05/19

九州王朝の「大嘗祭」

 本日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。6〜9月はi-siteなんば会場です。
 日野智貴さんは関西例会初発表です。古田先生が指摘されていた『日本書紀』推古紀・舒明紀編年の「12年ずれ」の現象が孝徳紀まで続いているという仮説が発表されたのですが、古田説や古田学派内の諸説をよく勉強されており、好感が持てました。日野さんは奈良大学で国史を専攻(三回生)されているだけはあって、よくまとめられわかりやすい発表でした。ただし、相手が大学生であっても容赦のない質問や批判が出されたことは言うまでもありません。それら批判にも臆することなく日野さんは応答され、将来が楽しみな若き研究者の登場でした。
 今回の発表でわたしが特に注目したのが、岡下英男さんの発表レジュメに掲載されていた『日本書紀』に見える「大嘗」記事の表でした。天武二年(673)と持統五年(691)の「大嘗」記事について、天武二年記事は九州王朝の大嘗祭に天武は参加・協力しただけであり、持統五年記事は大嘗祭を執り行ったとする「古田説」を紹介されました。ところが、両年ともその当年や前年に九州年号の改元がなされていないことから、『日本書紀』のこの記事が事実であれば、この「大嘗祭」記事は九州王朝のものではなく、天武や持統の即位にかかわる「大嘗祭」記事と考えなければなりません。あるいは、九州王朝の大嘗祭記事であれば、九州王朝にとっての大嘗祭は即位とは無関係に執り行われていたということになります。結論はこれからの研究に委ねることとなりますが、岡下さんのレジュメにより、こうした問題意識を得ることができました。
 この他にも茂山憲史さんの「論証」と「実証」に関する報告でも重要な質疑応答がなされ、いつにも増して刺激的な関西例会となりました。
 5月例会の発表は次の通りでした。なお、最後に予定されていた正木裕さんの発表「俾弥呼と『倭国大乱』の真相」は時間不足のため来月に先送りとなってしまいました。時間不足の原因として、わたしの質問が多すぎると司会の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)よりお叱りを受けました。いつものことですが、申しわけありません。
 なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔5月度関西例会の内容〕
①十二年後差の適用範囲(奈良市・日野智貴)
②九州王朝と近畿王朝の並立に関する仮説(茨木市・満田正賢)
③百済系単弁軒丸瓦(九州式単弁瓦)とは(八尾市・服部静尚)
④前方後円墳に関してのいくつかの事例(大山崎町・大原重雄)
⑤天の岩戸神話と前方後円墳(大山崎町・大原重雄)
⑥『古事記』記載「吉野之河尻」の古層性(神戸市・谷本茂)
⑦記・紀2つのパンフレット(神戸市・田原康男)
⑧「定策禁中」を考え直す(京都市・岡下英夫)
⑨『古事記』の存在意義 「帝王本紀」は天智政権の撰録であった?(東大阪市・萩野秀公)
⑩フィロロギーと古田史学【11】終(吹田市・茂山憲史)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 6/01奈良中央図書館で「古代奈良研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん「よみがえる日本の神話と伝承 天孫降臨の真実」)・『古代に真実を求めて』21集「発見された倭京 太宰府都城と官道」の発行記念講演会(9/09大阪i-siteなんば、9/01東京家政学院大学千代田キャンパス、他)、5/25プレ記念セッション(森ノ宮)・11/10-11「八王子セミナー」企画中・5/25「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)・6/17「古田史学の会」会員総会と記念講演会(講師:東京天文台の谷川清隆氏)・「古田史学の会」関西例会会場、6〜9月はi-siteなんば・新会員増加・その他


第1671話 2018/05/13

九州王朝の「東大寺」問題(3)

 九州王朝の「東大寺」、すなわち「国府寺」の総本山にふさわしい寺院遺跡が筑後から見つかっていないことから、次に7世紀初頭から太宰府遷都した倭京元年(618)頃の筑前を検討してみました。

 九州王朝を代表する寺院である観世音寺は創建が白鳳10年(670)と考えられますから、全国国府寺の「総本山」とすることができません。この他には太宰府条坊都市内に「般若寺」が出土していますが、これも創建瓦として観世音寺と同じ老司Ⅰ式が出土しているため、7世紀後半頃となり、「総本山」とするには時代が新しく対象から外れます。

 そこでわたしが注目しているのが観世音寺寺域から出土した百済系素弁軒丸瓦です。「洛中洛外日記」1638〜1644話「百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)〜(6)」で論じましたが、白鳳10年創建の観世音寺に先行する寺院がこの地に存在していたことはまず間違いないと思われます。ただ、礎石などの遺構は不明です。太宰府条坊の右郭中心部の「通古賀」の北東ですから、条坊都市造営に当たり、全国国府寺の「総本山」が置かれていても妥当な位置ではないでしょうか。しかもご本尊は百済伝来の阿弥陀如来像ですから、格式からしても問題ないと思いますがいかがでしょうか。

 この他の有力候補遺跡としては筑前ではありませんが、小郡市の井上廃寺があります。出土瓦編年の再検討が必要ですが、候補としてあげておきたいと思います。