第1823話 2019/01/12

難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(1)

 今朝は博多へ向かう新幹線車中で書いています。帰省を兼ねて、明日開催される「九州古代史の会」の新年例会と懇親会に参加する予定です。

 学問研究は一直線には進まず、右往左往・二転三転することが常です。ですから、自説が絶対に正しいなどとは思わず、自説に欠点や弱点はないだろうか、自説に最も不利な事実は何だろうか、もっと有力な他の説が成立する余地はないのか、などと用心する謙虚な姿勢が大切です。しかし残念ながら自説は正しいと思いこんでいますから、なかなかこうした弱点や欠点を自ら見つけることができないのが普通です。したがって論文発表の前に研究会などで口頭発表し、批判や意見を仰ぐことが重要となります。
 そうした場に恵まれず、一人で研究を続けるのは難しいものです。最初に間違ってしまうと、注意してくれる研究者が近くにいないので、その後はどんどん大きく間違ってしまい、他者から指摘されても今更後にも退けず、〝ドツボ〟にはまります。そのような研究者をわたしは何人も見てきましたから、自らがそうならないよう、遠慮なく辛辣に批判してくれる研究者が集う「古田史学の会・関西例会」には感謝しています。
 そんなわけで、新年早々に二転三転したテーマについてご紹介します。それは前期難波宮整地層から出土した「須恵器坏B」の編年についてです。昨年、「洛中洛外日記」で連載したテーマですが、大展開(転回)してしまいました。(つづく)


第1822話 2019/01/12

臼杵石仏の「九州年号」の検証(5)

 鶴峯戊申の『臼杵小鑑』の「十三佛の石像に正和四年卯月五日とある」との記事を信用するなら、次のような二つのケースを推論することができると考えました。

①鎌倉時代の正和四年(1315)卯月(旧暦の4月とされる)五日に石仏と五重石塔が造営され、石仏には「正和四年卯月五日」、石塔には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された。その後、石仏の文字は失われた。

②九州年号の「正和四年(五二九)」に石仏が造営され、「正和四年卯月五日」と刻銘された。鎌倉時代にその石仏の刻銘と同じ「正和」という年号が発布されたので、既に存在していた石仏の「正和四年卯月五日」と同じ月日に「正和四年乙卯夘月五日」と刻した五重石塔を作製した。その後、石仏の文字は失われた。

 ②のケースの場合、石仏の「正和四年」は九州年号と判断できるのですが、そのことを学問的に証明するためには、「正和四年卯月五日」と刻銘された石仏が鎌倉時代のものではなく、6世紀まで遡る石像であることを証明しなければなりません。しかし、現在では刻銘そのものが失われているようですので、どの石像に刻されていたのかもわかりません。そうすると、せめて満月寺近辺に現存する石仏に6世紀まで遡る様式を持つものがあるのかを調査する必要があります。
 臼杵石仏に関する研究論文を全て精査したわけではありませんが、今のところ臼杵石仏に6世紀まで遡るものがあるという報告は見えません。やはり多元史観の視点による現地調査が必要と思われますし、6世紀の中国や朝鮮半島の石仏の様式研究も必要です。
 更に、6世紀の倭国において「卯月」という表記方法が採用されていたのかという研究も必要です。10世紀初頭頃に成立した『古今和歌集』136番歌(紀利貞)の詞書に「うつき(卯月)」という言葉が見え、この例が国内史料では最も古いようですので、これを根拠に6世紀にも使用されていたとすることはできません。石仏の様式と「卯月」という表記例の調査も史料批判上不可欠なのです。
 以上のような考察の結果、わたしは臼杵石仏に彫られていたとされる「正和四年卯月五日」を九州年号と断定することは困難と判断しました。どれほど自説に有利で魅力的な史料や他者の仮説であっても、必要にして十分な史料批判や検証を抜きに採用してはならないと実感できたテーマでした。こうした研究姿勢は歴史学における基本的なものです。


第1821話 2019/01/11

臼杵石仏の「九州年号」の検証(4)

 『臼杵小鑑』の「正和四年」を九州年号史料とすることをわたしは一旦は断念したのですが、その後も気にかかっていましたので、他の可能性についても考察を続けました。幸いにも、『臼杵小鑑』の国会図書館本のコピーを冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)からいただいていたので、何度も精査することができました。
 その結果、鶴峯が「十三佛の石像に正和四年卯月五日とある」と記したことを信用するなら、五重石塔とは別の石仏(十三佛の石像)に彫られた「正和四年卯月五日」の文字を鶴峯は見たことになり、そこには年干支がありませんから九州年号の「正和四年」と理解したと考えることも可能であることに気づいたのです。また、『臼杵小鑑』の「満月寺」の次に「古石佛」の項があり、満月寺の近くに点在する石仏群のことが記されています。そこには「二十五菩薩十三佛」という記事が見え、「満月寺」の項の「十三佛の石像」の「十三佛」という表現と一致します。
 こうした考察が正しければ、鶴峯の時代(江戸時代後期)には臼杵の満月寺近辺には「正和四年乙卯夘月五日」と記された五重石塔と「正和四年卯月五日」の銘文を持った石仏が併存していたことになります。五重石塔の「正和」はその年干支「乙卯」の存在により鎌倉時代の「正和四年(一三一五)」と判断可能ですが、石仏の「正和四年卯月五日」は年干支がなく判断ができません。しかし、次のようなケースを推論することができます。

①鎌倉時代の正和四年(1315)卯月(旧暦の4月とされる)五日に石仏と五重石塔が造営され、石仏には「正和四年卯月五日」、石塔には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された。その後、石仏の文字は失われた。

②九州年号の「正和四年(五二九)」に石仏が造営され、「正和四年卯月五日」と刻銘された。鎌倉時代にその石仏の刻銘と同じ「正和」という年号が発布されたので、既に存在していた石仏の「正和四年卯月五日」と同じ月日に「正和四年乙卯夘月五日」と刻した五重石塔を作製した。その後、石仏の文字は失われた。

 このような二つのケースが推定できるのですが、②のケースの場合に石仏の「正和四年」は九州年号となります。それでは②のケースが成立するためにはどのような学問的根拠や論証が必要でしょうか。考察を続けます。(つづく)


第1820話 2019/01/10

臼杵石仏の「九州年号」の検証(3)

 『臼杵小鑑』で紹介された「正和四年卯月五日」が同時代九州年号金石文であることを証明するために、わたしは同石仏が現存するか史料やインターネットで調査しました。江戸時代の九州地方の地史である『太宰管内志』には同石仏の記事は見えなかったのですが、ネット上に次のサイトがありました。

「石仏と石塔」
http://www.geocities.jp/kawai24jp/ooita-usuki-mangetuji.htm
(現在は、このホームページはありません。)

 「満月寺(まんげつじ)(大分県臼杵市深田963)
 満月寺五重石塔(市指定文化財、鎌倉時代後期 正和四年 1315年、凝灰岩、塔身までの高さ90cm)」

 臼杵市の満月寺に現存する「五重石塔(五輪塔)」下部に次の刻銘(縦書き)があると紹介され、掲載された写真もそのように読めました。

【五重石塔刻銘】
「正和四年乙卯夘月五日願主阿闍梨隆尊敬白」
「滅罪証覚利益衆生所奉造立供養如件」
「右為先師聖霊尊全及隆尊之先考先妣」
「合力作者 阿闍梨圓秀」

 同刻銘を紹介した他のサイトには「阿闍梨圓秀」の「圓」を「日」とする見解もあります。上記サイト内にも「日秀」とする下記の解説もあり、混乱しているようです。写真を見ると「圓」のように読めますが、「日」の可能性もありますので、現地で実物を確認したいと考えています。ただし、どちらであっても本稿の論旨には影響しません。同サイトでは更に次の説明がなされています。

 「塔の銘文から(阿)闍梨隆尊が先師尊全及び自分の亡き父母ために造立した。作者は日秀という阿闍梨。
 相輪は、宝珠に火焔が付くなど国東式相輪で、昭和46〜47年の発掘調査の際、新たに取り付けられた。
 満月寺境内には明治初年まで二基の石造層塔があった。一基は、洪水により河岸が崩壊した時、石塔を壊して河岸の修理をした。昭和の発掘調査の時、その残欠を使用し、現在の石造五重塔を修理した。」 ※(阿)の字は古賀が付記した。

 『臼杵小鑑』には「十三佛の石像に正和四年卯月五日とある」と記されており、刻銘があるのは五重石塔ではなく「十三佛の石像」とされています。しかし、「正和四年卯月五日」とあり、これは五重石塔と類似した表記です。鶴峯は石塔と石像を間違えて『臼杵小鑑』を記したのでしょうか。
 現存する五重石塔の刻銘には「正和四年乙卯夘月五日」と年干支の「乙卯」があり、これは九州年号ではなく鎌倉時代の「正和四年(一三一五)」の年干支と一致します。ちなみに九州年号の「正和四年(五二九)」の年干支は「己酉」です。したがって、『臼杵小鑑』に紹介された「正和四年卯月五日」は九州年号ではなく、鎌倉時代の「正和」であり、鶴峯はそれを九州年号と勘違いしたと思われ、『臼杵小鑑』の「正和四年」を九州年号史料とすることをわたしは一旦は断念しました。(つづく)


第1819話 2019/01/09

臼杵石仏の「九州年号」の検証(2)

 『臼杵小鑑』の記事からだけでは、石仏に彫られているという「正和四年卯月五日」が九州年号か鎌倉時代の年号かは判断できません。鶴峯戊申は満月寺の開基を「四年ハ継体天皇の廿四年にあたれり 然れば日羅が開山も此比(ママ)の事と見えたり」という現地伝承を根拠に九州年号の「正和四年(五二九)」と判断したようですが、日羅(?-583年)は『日本書紀』によれば百済王に仕えていた人物であり、敏達紀には583年に百済からの帰国記事が見えます。「正和四年(五二九)」とはちょっと離れすぎています。もちろん鶴峯もこのことに気づいており、『臼杵小鑑』ではいろいろと〝言いわけ〟を試みていますが成功していません。
 「十三佛の石像に正和四年卯月五日とあるハ日本偽年号〈九州年号といふ〉の正和四年にて、花園院の正和にてハあらず。」とした鶴峯の見解は未証明の作業仮説(思いつき、意見)であり、鎌倉時代の「正和」ではないという反証(証拠を示しての反論)もできていません。従って、この鶴峯の「意見」を根拠に石仏の「正和四年卯月五日」を九州年号とすることはできないのです。どうしても鶴峯の「意見」を採用したいのであれば、その「意見」が正しい、あるいは鎌倉時代の「正和」とするよりも有力であることを史料根拠を示して論証する必要があります。(つづく)


第1818話 2019/01/08

臼杵石仏の「九州年号」の検証(1)

 わたしは三十年以上にわたり九州年号の研究を進めてきました。とりわけ、同時代史料の調査研究は最重要テーマでした。その中で、「大化五子年(六九九)」土器や「朱鳥三年戊子(六八八)」銘鬼室集斯墓碑、そして「(白雉)元壬子年(六五二)」木簡などの同時代九州年号史料について発表してきました。他方、九州年号史料として認定できずにきた史料もありました。そのひとつに大分県の「臼杵石仏」に関する「正和四年」刻銘があります。そこで、九州年号と認定できなかった理由について紹介し、史料批判という学問の基本的方法について説明します。
 比較的初期の頃の九州年号に「正和(五二六〜五三〇)」があり、九州年号史料として有名な『襲国偽僭考』を著した鶴峯戊申が十九歳のとき記した『臼杵小鑑』(国会図書館所蔵本。冨川ケイ子さん提供)にこの「正和」に関する次のような記事が見えます。

 「満月寺
 (前略)〈満月寺は宣化天皇以前の開基ときこゆ〉十三佛の石像に正和四年卯月五日とあるハ日本偽年号〈九州年号といふ〉の正和四年にて、花園院の正和にてハあらず。さて其偽年号の正和ハ継体天皇廿年丙午ヲ為正和元年と偽年号考に見えたれば、四年ハ継体天皇の廿四年にあたれり。然れば日羅が開山も此比の事と見えたり。(後略)」
 ※〈〉内は二行割注。旧字は現行の字体に改め、句読点を付した。(古賀)

 九州年号真作説に立つ鶴峯戊申のこの記事を読んで、九州年号「正和」が臼杵の満月寺の石仏に彫られていることを鶴峯は見ており、現存していれば同時代九州年号金石文になるかもしれないとわたしは期待しました。しかし、鶴峯も記しているように、「正和」は鎌倉時代にもあり、九州年号の「正和(五二六〜五三〇)」なのか、鎌倉時代の「正和(一三一二〜一三一七)」なのかを確認できなければ、九州年号史料とは断定できないと考えました。というのも、自説に都合が良くても、まずは疑ってかかるという姿勢が研究者には不可欠だからです。(つづく)


第1817話 2019/01/05

『続日本紀』研究の構想

 昨日は「古田史学の会・事務局長」の正木裕さんと電話で年始のご挨拶と新年のイベントやこれからの構想について意見交換しました。そのおり、久留米大学の福山教授から講演の演題を決めてほしいとのメールが届きましたので、何か講演依頼が「古田史学の会」に来ているのだろうかと正木さんにうかがったところ、久留米大学で毎年開催されている公開講座(7月初旬)への講演依頼をいただいているとのこと。相談の結果、『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集、仮称)の宣伝を兼ねて古代伝承を演題にすることにしました。正木さんは天孫降臨に関する諸伝承をテーマとされ、わたしは久留米大学での講演にふさわしい現地伝承をテーマとすることにしました。
 昨年は「古田史学の会」の役員や会員の方々が各地(大阪市・奈良市・豊中市)で古代史講演会を主宰されました。今年は服部静尚さんらにより京都市でも講演会がスタートします。平日夕方の開催ですので、出張や残業がなければわたしも参加したいと考えています。1回目は2月19日(火)18:30-20:00、会場は京都駅の北側にあるキャンパスプラザ京都(6F 演習室)です。
 これらとは別に、今すぐというわけではありませんが、『続日本紀』の勉強会を有志で行いたいと願っています。というのも、古田学派では『日本書紀』の研究は多くの研究者によって取り組まれていますが、『続日本紀』研究はまだ不十分だからです。『続日本紀』の文武紀は九州王朝から大和朝廷への交代期にあたりますし、その後の聖武天皇の頃までは王朝交替の影響が続いていますから、『続日本紀』に残されたそれらの痕跡を研究したいと以前から思っていました。わたしも「宣命」の研究などを少し行ったことはありますが、中途で放置したままとなっています。
 『続日本紀』に関心のある方があれば一緒に研究したいものです。


第1816話 2019/01/03

新年の読書『職業としての学問』(4)

 ソクラテスやプラトンの学問の方法について深く具体的に知りたいと願っていたのですが、マックス・ウェーバーが『職業としての学問』で触れていることに気づきました。次の部分です。

 〝かの『ポリテイア』におけるプラトンの感激は、要するに、当時はじめて学問的認識一般に通用する重要な手段の意義を自覚したことにもとづいている。その手段とは、概念である。それの効果は、すでにソクラテスにおいて発見されていた。(中略)だが、ここでいうその意義の自覚は、ソクラテスのばあいが最初であった。かれにおいてはじめていわば論理の万力(まんりき)によって人を押えつける手段が明らかにされたのであり、ひとたびこれにつかまれると、なんびともこれから脱出するためにはおのれの無智を承認するか、でなければそこに示された真理を唯一のものとして認めざるをえないのである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、37頁)

 ここに記された「学問的認識一般に通用する重要な手段」としての「概念」という表現は難解です。しかし、「いわば論理の万力によって人を押えつける手段」ともあることから、「論理の万力」とは論理による証明、すなわち他者を納得させうる「論証」のことではないかと思います。
 もし、この理解が妥当であればソクラテスやプラトンの学問の方法論とは「論証」に関わることではないでしょうか。そうであれば、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉や岡田先生の「論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも」、そして古田先生がよく語っておられた「論証は学問の命」という言葉に示された「論証」、すなわち「論理の力」(論理の万力(まんりき)こそがソクラテスやプラトンの学問の方法論の象徴的表現なのではないでしょうか。
 プラトンが著した『ポリテイア』、すなわち『国家』を新年の読書の一冊に選んだ理由はこのことを確かめることが目的でした。もちろん、まだ結論は出ていません。


第1815話 2019/01/03

新年の読書『職業としての学問』(3)

 古田先生が学問について語られるとき、東北大学時代の恩師で日本思想史学を創立された村岡典嗣先生(むらおか・つねつぐ、1884-1946)の次の言葉をよく紹介されていました。

 「学問は実証よりも論証を重んずる」

 この村岡先生の言葉は、近年では2013年の八王子セミナーでも古田先生が述べられ、注目を浴びました。『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』巻末の「日本の生きた歴史(十八)」にそのことを書かれたのも2013年11月です。1982年(昭和57年)に東北大学文学部「文芸研究」100〜101号に掲載された「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」にもこの村岡先生の言葉が「学問上の金言」として紹介されています。同論文はその翌年『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版)に収録されましたので紹介します。

 「わたしはかって次のような学問上の金言を聞いたことがある。曰く『学問には「実証」より論証を要する。〔43〕(村岡典嗣)』と。
 その意味するところは、思うに次のようである。“歴史学の方法にとって肝要なものは、当該文献の史料性格と歴史的位相を明らかにする、大局の論証である。これに反し、当該文献に対する個々の「考証」をとり集め、これを「実証」などと称するのは非である。”と。」(79頁)
 「〔43〕恩師村岡典嗣先生の言(梅沢伊勢三氏の証言による)。」(85頁)
(古田武彦「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」『多元的古代の成立[上]邪馬壹国の方法』所収、駿々堂出版、昭和58年)

 このように、古田先生は30年以上前から、一貫して村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」を「学問の金言」として大切にされ、晩年まで言い続けられてきました。この「学問は実証よりも論証を重んずる」は〝古田先生の学問の原点〟である〝(二)論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも。〟と意味するところは同じです。「論理の導き」とは「論証」のことであり、「たとえそれがいずこに到ろうとも」という姿勢こそ、「論証を重んずる」ことに他なりません。
 村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」と岡田先生の「論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも」が学問的に一致することに、昭和初期における両者の親交の深さを感じさせます。そしてその交流が古田武彦という希代の歴史家を生んだといっても過言ではありません。岡田先生は愛弟子の古田武彦青年を東北帝国大学の村岡先生に託されました。村岡先生も古田青年の入学を心待ちにされており、東北大学の同僚からは「君の〝恋人〟はまだ来ないのかね」と冷やかされていたとのこと。
 あるとき、古田先生になぜ村岡先生の東北大学に進まれたのですかとお訊きしたことがありました。「岡田先生の推薦であり、何の迷いもなく村岡先生のもとへ行くことを決めました」とのご返事でした。広島高校時代、古田先生は授業が終わると毎日のように岡田先生のご自宅へ行かれ、お話を聞いたとのことでした。ですから、その岡田先生の推薦であれば当然のこととして東北大学に進学されたのです。このような経緯により、東北大学で古田先生は村岡先生からフィロロギーを学び、ソクラテスやプラトンの学問を勉強するために、村岡先生の指示によりギリシア語の単位もとられました。こうして、古田先生の〝学問の原点〟の一つに「ソクラテスやプラトンの学問の方法」が加わりました。(つづく)


第1814話 2019/01/02

新年の読書『職業としての学問』(2)

 わたしは、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深める」と常々言ってきました。また、「異なる意見の発表が学問研究を進展させる」とも言ってきました。しかし、なかには自説への批判や異なる意見の発表に対して怒り出す人もおられ、これは〝古田先生の学問の原点〟の〝(四)自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風。〟とは真反対の姿勢です。
 わたしは化学を専攻し、仕事は有機合成化学(染料化学・染色化学)です。従って、自然科学においては、どんなに正しいと思われた学説も50年も経てば間違っているか不十分なものになるということを化学史の経験から学んできました。人文科学としての歴史学も、「科学」であるからには同じです。そのため、古代史研究においても新たな仮説を発表するときは、「今のところ、自説は正しいと、とりあえず考える」というスタンスで発表しています。これと同様のことをマックス・ウェーバー(1864-1920)は『職業としての学問』で次のように述べていますので、紹介します。同書は1917年にミュンヘンで行われた講演録です。

 〝(前略)学問のばあいでは、自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。(中略)学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。(中略)われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事することができない。原則上、この進歩は無限に続くものである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、30頁)

 ここで述べられているマックス・ウェーバーの指摘は学問を志すものにとって、忘れてはならないものです。古田先生が〝わたしの学問の原点〟とされた、次の二つのこととも通底しています。〝(三)「師の説にななづみそ」(先生の説にとらわれるな)(本居宣長)、(四)自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風。〟(つづく)


第1813話 2019/01/01

新年の読書『職業としての学問』(1)

 みなさま、あけましておめでとうございます。

 年末から2019年の研究テーマなどを考えてきました。そして、古代史研究の他に、古田先生の「学問の方法」について、わたしが学んできたことや感じてきたことなどを「洛中洛外日記」などで紹介することをテーマの一つとすることにしました。
 古田先生の「学問の方法」については少なからぬ人が今までも述べてこられました。例えば昨年11月に開催された「古田武彦記念古代史セミナー」では大下隆司さん(古田史学の会・会員、豊中市)が具体的にレジュメにまとめて発表されており、参考になるものでした。特に次の4点を紹介され、わたしも深く同意できました。

 古田先生の〝わたしの学問の原点〟
(一)学問の本道は、あくまでソクラテス、プラトンの学問とその方法論にある。
(二)論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも。
(三)「師の説にななづみそ」(先生の説にとらわれるな)(本居宣長)
(四)自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風。

 いずれも古田先生から何度も聞かされてきた言葉であり、先生の研究姿勢でした。セミナーでは質疑応答の時間が限られていましたので、この4点については賛意を表明しただけで質問は差し控えました。しかし、わたし自身もまだよく理解できていないのが(一)の〝学問の本道は、あくまでソクラテス、プラトンの学問とその方法論にある。〟でした。先生がこのように言われていたのはよく知っているのですが、〝ソクラテス、プラトンの学問とその方法論〟とは具体的に何を意味するのか、どのような方法論なのか、わたしは古田先生から具体的に教えていただいた記憶がありません。
 もしあるとすれば、(二)の〝論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも。〟です。この言葉は古田先生の広島高校時代の恩師である岡田甫先生から講義で教えられたというソクラテスの言葉だそうです。ただ、プラトン全集にはこのような言葉は見つからないとのことでした。恐らくソクラテスの思想や学問を岡田先生が意訳したものと古田先生は考えておられました。わたしも『国家』や『ソクラテスの弁明』など数冊しか読んだことはありませんが、そのような言葉とは出会ったことがありません。ご存じの方があれば、是非、ご教示ください。
 こうした問題意識をずっと持っていましたので、この正月休みにプラトンの『国家』とマックス・ウェーバーの『職業としての学問』を久しぶりに読みなおしました。(つづく)


第1812話 2018/12/31

12月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 12月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 「洛中洛外日記【号外】」配信を希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《12月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2018/12/09 大学セミナーハウスHPに新・八王子セミナー報告
2018/12/18 『古代に真実を求めて』22集の巻頭言
2018/12/28 関西例会後の懇親会風景「仮説の性格」
2018/12/30 『多元』149号のご紹介