第1670話 2018/05/12

九州王朝の「東大寺」問題(2)

 九州王朝の「東大寺」、すなわち「国府寺」の総本山にふさわしい寺院が見つかっていないという問題を検討するうえで、まず押さえなければならないのはその時代です。九州年号の倭京元年(618)以降の7世紀前半であれば太宰府(倭京)遷都後ですから、その建立地は筑前と考えるべきでしょう。それ以前の6世紀なら筑後の可能性が高いように思います。もちろん肥後や肥前の可能性も否定できません。

 九州王朝が「国府寺」建立を諸国に命じたのは告貴元年(594)が有力とわたしは考えています。その詳細は「洛中洛外日記」718話「『告期の儀』と九州年号『告貴』」に記しましたが、おおよそ次のような理由です。

 ①九州年号「告貴」は「貴を告げる」という字義であり、九州王朝の天子・多利思北孤の時代(594年)に告げられた「貴」とはよほど貴い事だったと思われる。
②九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に次のような「国分寺(国府寺)建立」記事がある。
「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)
③この年は推古2年だが、『日本書紀』の同年に次の記事がある。
「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」
④これらの史料事実から、「告貴」とは各国毎に国府寺(国分寺)を建立せよという「貴い」詔勅を九州王朝の天子、多利思北孤が「告げた」ことによる改元の可能性がある。
⑤そうであれば、『日本書紀』推古2年条の佛舎建立の詔こそ、実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映と考えられる。

 以上ような論理展開により、わたしは九州年号「告貴」は九州王朝の「国府寺」建立詔に基づく年号と考えました。従って、告貴元年頃に九州王朝が全国の「国府寺」の「総本山」を建立したとすれば、その場所は太宰府遷都以前の王都と考えられる筑後が最もふさわしいということになります。しかし、6世紀末頃の大型寺院遺構が筑後から出土したという報告を今のところわたしは知りません。(つづく)


第1669話 2018/05/12

谷本茂さんのNHK講座のご案内済み

 古田学派の「兄弟子」にあたる谷本茂さん(古田史学の会・会員)がNHKカルチャーの一日講座で講師をされることになりました。下記の案内が届きましたのでご紹介します。ご興味のある方はぜひご参加ください。

NHK文化センター 梅田教室 一日講座
「謎の巨大古墳への新視点
〜卑弥呼・仁徳・継体の陵墓論〜」

2018年5月29日(火)10:00〜12:00
講師:谷本茂

 世界文化遺産候補に決まった百舌鳥・古市古墳群が大きな話題になり、改めて巨大古墳の歴史的意義と被葬者への関心が高まっています。しかし、現在の古墳と被葬者の(公式な)比定関係には多くの疑問があり、古代史に興味を持つ人の大きな関心事となっています。考古学者から比定修正の説が提案されていますが、その方法論は従来の考え方の域を出ていない様に思われます。
 本講座は、記紀資料の原典記述に基づき、従来の比定方法とは全く異なる視点から、古墳前期の箸墓、中期の「仁徳天皇陵」、後期の「継体天皇陵」を具体例として、被葬者との関係を解説します。“古代の姿”を復元する方法の楽しさと問題点を実感していただければ幸いです。
(※恐縮ですが有料です)
お問い合わせ先:NHK文化センター・梅田教室TEL:06-6367-0880


第1668話 2018/05/11

山田春廣さんの「実証・論証」論

 今年9月に東京家政学院大学で開催される『発見された倭京』出版記念講演会で、多元的古代官道について講演される山田春廣さん(古田史学の会・会員)がご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)で、「実証」と「論証」について論じられています。わたしは「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を古田先生から教えていただいたのですが、わたし自身の理解が不十分なため、その意味についてうまく説明できないでいました。この山田さんのブログを拝見し、このような説明の仕方もあるのかと感銘しました。
 山田さんのご了解のもと、以下転載します。

「学問は実証より論証を重んじる」
―「実証主義」は「教条主義」、科学は「仮説主義」―

 肥さんが夢ブログでこの難しいテーマを論じられた。
 学問は実証より論証を重んじる
 http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/05/post-4dad.html
 私は、肥さんとは別の角度から論じてみたいと思う。
 学問は、様々な分野に分化している(化学、物理学、歴史学、社会学、…、〜学と)。
 〜学とつけば学問かといえば、そうではない。文学は学問ではなく芸術だ。芸術は「表現したい」という欲求を満たす活動で、副次的にその表現が他の人を楽しませる。
 学問は芸術とは違う。学問する者は、「表現したい」という欲求をもっているかもしれないが、それは目的ではない。学問は「知りたい」という欲求を満たす活動だ。ただ「知りたい」のであれば「読書」、「鑑賞」、「見学」、「旅行」などといった行為をすればよい。文学は鑑賞法といったことも扱うかも知れないが、それはハウ・ツー(How to 〜)であり、ハウ・ツー(うまくやるにはどうすれば良いか)を知ることは、学問とは異なる。学問は「真実」を「知りたい」という欲求を満たすための活動で、それが他の人の同じ欲求を満たす。
 「能書き」はこれくらいにして、本題に入ろう。
 私は、学問を「真実を知ろうとする活動」だと考えている。しかし、この考えを他人に強制しようという意図はない。
 学問(真実を知ろうとする活動)=サイエンス(科学)と考える。サイエンスでなければ真実を知ることができないと考えている。この考えに反対の考えもある。宗教やイデオロギーである。
 宗教やイデオロギーは「論証されていないこと」を事実・真実としている。科学と対極の考え方と言える。だとすれば、科学と宗教の違いを確認しておくことが重要だと考える。

 科学的とは

 「科学」は「科学的な方法論」によって成り立つ。「科学的な方法論」には「科学的なものの考え方」が含まれる、というよりそれが基礎になってはじめて成り立つといえる。
 「科学的なものの考え方」とは「科学は仮説によって成り立っている」とする考え方である。今現在「正しい」とされていることも、それは「今のところ、正しいとされている(だけ)」と考える「ものの考え方」である。昨日まで「太陽が地球を回っている」とされていても(それで天体の運行が計算できていても)、今日は「地球が太陽を回っている」と証明されてしまうようなことは科学では「起きるのが当たり前」と考える「ものの考え方」である。「科学的なものの考え方」によれば「現在正しいとされていること(認識や理論)も仮説である」ということである。これと対極にあるのが宗教・イデオロギーである。

 神学(イデオロギーの典型)

 宗教・イデオロギーの典型として「神学」をとりだして論じよう。
 神学は、科学とは「ものの考え方」において科学の対極の考え方に基づいている。科学は「科学は仮説によって成り立っている」と考えるのに対して「神学は絶対的真理によって成り立っている」と考えている。いや、神学は言うであろう。「神は絶対的真理だ」と。
 とにかくこう言おう。科学が「真理・真実」といっても「仮の正しさ」であるが、神学が「真理・真実」といえば「絶対的正しさ」をいっている。これが科学と神学の違いである。

 神学の証明法

 神学の真理の証明法は、次の通りである。
・絶対的真理が定義されている(経典・福音書などに)
・ここにこう書かれていると実証する
・Q.E.D(証明終り)

 科学の証明法

・現象・事実をうまく説明できる仮説を立てる
・従来説明できなかったことがその仮説によって説明できると論証する
・論証した仮説の通りであることを実証する
・Q.E.D(証明終り)

 神学と科学の違い

 ご覧の通り、神学と科学の違いは「論証」が有るか無いかなのです。そしてこの「論証」は何の為になされているかといえば、「従来説明できなかったことがこの仮説によって説明できる」と論証しているのです。つまり「仮説」を立てて「この仮説で説明できる」と論証し、「仮説の通りである」ことを実証する、これが科学的方法論なのです。
 これに対して「神学」の真骨頂は「実証」です。「実証」こそが「神学」の「神学」たる所なのです。神学の実証法は「典拠主義」といわれます。「どこどこにこう書いてある」「誰々がいつどこでこう言われた」という実証法です。この実証からは何も新しい知見は出てきません。いや、出てきては困るのですから、神学にとって「典拠主義」は正しいありかたなのです。「実証主義(実証することが目的、つまり実証すれば事足りるとする立場)」は「典拠主義」なのです。「典拠主義」は英語で dogmatismといいます。「典拠主義」は「教条主義」とも訳されます(教義の条文をもって証明するから「教条」です)。これによって異端審判(宗教裁判)ができるわけです。
 一方、科学は、従来説明できないことを何とか説明できるようにする仮説を立てることに努力しますから、新しい仮説によって新しい知見がもたらされて、「真実(いまのところはそう見えている)を知りたい」という欲求を満たし、他の人の同じ欲求を満たすわけです。
 神学(イデオロギーの代表)が一つたりとも新しい知見をもたらさず、科学が新しい知見をもたらすのは、神学は「実証主義」であるが、科学は「仮説主義」だからなのです。
 つまり、科学の本質は「実証」などではなく、「仮説」を立てるところにあるのです。

 結語

 学問は新しい知見を得るための活動なのですから、「学問(科学)は実証より論証を重んじる」のです。
(追加注記)
「論証」は論理的に証明すること。
「実証」は具体的な事実を示して証明すること。
 これを混同してはならない。


第1667話 2018/05/10

九州王朝の「東大寺」問題(1)

 一昨日の東京出張では、代理店やお客様との夕食の予定が入らなかったので、肥沼孝治さん宮崎宇史さん冨川ケイ子さんと夕食をご一緒し、夜遅くまで5時間以上にわたり古代史談義を行いました。そこでの話題は、『論語』の二倍年暦、多元的「国分寺」研究、九州王朝の「東大寺」問題、そしてわたしが5月27日の多元的古代研究会主催「万葉集と漢文を読む会」で発表予定の「もう一つのONライン 670年(天智九年庚午)の画期」など多岐にわたり、とても有意義でした。

 中でも精力的に多元的「国分寺」研究に取り組んでおられる肥沼さんとの対話には大きな刺激を受けました。古田学派の研究者で進められている多元的「国分寺」研究の成果はいずれ『古代に真実を求めて』で特集したいと願っていますが、そのためにはどうしても避けて通れない研究テーマがあります。それは九州王朝にとっての「東大寺」はどこかという問題です。

 大和朝廷による国分寺の場合、その全国国分寺の「総本山」としての東大寺がありますが、もし九州王朝による「国分寺(国府寺)」創建が先行したのであれば、同様に九州王朝にとっての「東大寺」が九州王朝の中枢領域(筑前・筑後)にあってほしいところです。ところがその九州王朝「国府寺」の総本山にふさわしい寺院が見つかっていないのです。しかも、この問題についての古田学派内での研究を見ません。この問題抜きでの多元的「国分寺」研究特集は完成しないとわたしは思うのです。(つづく)


第1666話 2018/05/09

『論語』二倍年暦説の史料根拠(8)

 今回は文献史学や古典の史料批判というテーマから離れて、そもそもなぜ『論語』二倍年暦説への批判が発生するのかという現代日本人の認識について考えてみることにします。
 わたしの『論語』二倍年暦説に反対される方々には通底する「共通誤解」があるのではないでしょうか。それは紀元前数百年頃の周代においても「70歳や80歳を越える長寿の人は少なからず存在していた」とする考えが暗黙のあるいは明確な前提となっていると思われるのです。はっきり言って、この認識は学問的根拠を持たない「錯覚」ではないかとわたしは思っています。かく言うわたしも同様に錯覚していました。
 わたしは古代における二倍年暦の研究過程で、周代のような紀元前数百年頃の人間の寿命は50歳かせいぜい60歳までで、それを越えるケースは極めて希ではないかと考えるようになりました。その理由の一つは、「周代」史料の二倍年暦による高齢寿命記事は管見では「百歳(一倍年暦の50歳)」か「百二十歳(一倍年暦の60歳)」までであり、「百四十歳(一倍年暦の70歳)」「百六十歳(一倍年暦の80歳)」とするものが見えないことです。すなわち周代の人間の寿命は50〜60歳頃が限界のようなのです。
 他方、人類史上初の超長寿社会(平均寿命は女性87.14歳、男性80.98歳。2016年厚生労働省調査)に突入した現代日本に生きるわたしたちが、人間の寿命が古代においても70歳や80歳に及ぶ例が少なからずあったのではないかと錯覚するのも無理からぬことですが、その日本においても平均寿命が50歳を越えたのはそれほど昔のことではありません。このことを説明した武田邦彦さん(中部大学教授)の著書を紹介します。

 「1920年代前半の日本人の平均寿命は男性が42.1歳、女性は43.2歳でした。赤ちゃんのときに他界する方を除いても50歳には達しません。江戸時代には45歳くらいで隠居するのが普通でしたが、昭和になっても50歳を越えたら確実に『老後』でした。」(武田邦彦『科学者が解く「老人」のウソ』産経新聞出版、2018年3月)

 このように大正から昭和初期の日本でもこれが実態でした。紀元前数百年頃の周代の実状はおして知るべしです。(つづく)

〔余談〕二倍年暦問題とは別に、武田邦彦さんの『科学者が解く「老人」のウソ』はお勧めです。特に50歳(一倍年暦の)を越えた男性の方に一読を勧めます。


第1665話 2018/05/07

『論語』二倍年暦説の史料根拠(7)

 関西例会で出された『論語』二倍年暦説への批判として、周代や「周代」史料が二倍年暦であったとしても、『論語』の年齢記事が二倍年暦かどうか論証されていないというものがありました。たとえば「周代」史料である『春秋左氏伝』が一倍年暦による編年体史料であることは、わたしも知っていましたし、谷本さんからも同様の指摘が関西例会でなされていました。こうした「周代」史料に一倍年暦のものがある理由について、わたしと谷本さんとでは見解が異なっていましたが、同時に同じような認識の部分もありました。今回はこのことについて説明します。
 わたしが二倍年暦の研究をしていて、いつも悩まされる問題がありました。それは二倍年暦から一倍年暦への変化に伴って発生する「二倍年齢」という概念でした。すなわち、天文観測技術の発展により、一年を360日(より正確には365日)とする一倍年暦が発明され、公権力により一倍年暦の暦法が採用されたのですが、このとき人間の年齢だけは従来の二倍年暦で計算するという「二倍年齢」が、一倍年暦の暦法と共に併存するという現象が発生しうるという問題です。一倍年暦を採用した公権力が年齢計算でも一倍年暦を同時に採用していればことは簡単なのですが、今までの研究結果からは「一倍年暦暦法下の二倍年齢表記」という史料痕跡が存在しており、当テーマの『論語』についても、その可能性をどのように論理的に排除できるのかという視点が必要となります。『春秋左氏伝』も同様の問題を抱えています。
 一例をあげれば、記紀に記された継躰天皇の寿命が『古事記』では42歳(485-527)、『日本書紀』では84歳(450-534)となり、継躰天皇の寿命が『古事記』との比較から『日本書紀』では二倍年暦に基づいて記された痕跡を示しています。すなわち、『日本書紀』に見える継躰の生年が二倍年齢により没年から逆算して記されたと思われます。しかし、『日本書紀』は一倍年暦で編年されていますし、継躰天皇の時代であれば、九州王朝は年号を建元しており、当時採用していた暦法が一倍年暦であったことを疑えません。
 この史料事実は、暦法は一倍年暦の時代でも、人の年齢は二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」で計算され伝承されたことを示しているのです。すなわち、一倍年暦と「二倍年齢」併存の可能性を疑うという視点が、二倍年暦研究における史料批判には必要ということなのです。『論語』の史料批判においても、この問題があるため、わたしは『論語』の年齢記事が二倍年暦で理解したほうがリーズナブルであること、弟子の曾参が二倍年暦による年齢理解で語っていることなどを根拠として説明してきたわけです。(つづく)


第1664話 2018/05/04

もうひとつのONライン「日本国の創建」

 今月26日と27日は上京し、東京古田会主催の大越邦生さん講演会「よみがえる創建観世音寺 〜そして法隆寺への移築はなかった〜」と多元的古代研究会の「万葉集と漢文を読む会」に参加します。
 近年、観世音寺の考古学編年研究に取り組んでいるのですが、わたしとは異なった視点で創建観世音寺を研究されている大越さんの講演をぜひお聞きしたいと願っていました。講演の翌日には多元的古代研究会の「万葉集と漢文を読む会」が開催されますので、せっかくの機会ですので、こちらも参加させていただくことにしました。
 多元的古代研究会の安藤会長より、「万葉集と漢文を読む会」に来るのなら何か最近の研究について少し話してほしいとご依頼をいただきましたので、九州王朝説から見た「近江朝廷」について報告しようと考えています。実は、古田先生の数ある論文の中で、非常に異質で重要な論文であるにもかかわらず、古田史学の中での位置づけが難解で、古田学派の研究者からもあまり注目されてこなかったものがあります。それは「日本国の創建」(『よみがえる卑弥呼』所収、駸々堂、1987年)という論文で、冒頭の解題には次のように記されています。

 「実証主義の立場では、日本国の成立は『天智十年(六七一)』である。隣国の史書がこれを証言し、日本書紀もまたこれを裏付ける。」(265頁)

 この「日本国の創建」問題について、「もうひとつのONライン ー670年(天智九年庚午)の画期ー」というテーマでお話しさせていただこうと考えています。ご興味のある方は、ご参加ください。


第1663話 2018/05/02

『論語』二倍年暦説の史料根拠(6)

 関西例会で出された『論語』二倍年暦説への批判として、わたしの理解では二種類がありました。一つは、周代が二倍年暦かどうか証明できていない、「周代」史料の長寿記事は実際の年齢ではないとする解釈も可能、というものです。もう一つは、周代や「周代」史料が二倍年暦であったとしても、『論語』の年齢記事が二倍年暦かどうか論証されていない、という批判です。
 今回は二つ目の批判に対して検討してみます。確かに『論語』中に年齢記事はそれほど多くなく、一倍年暦で70歳(孔子の年齢記事)の当時としては長寿の人がたまたまいたという解釈も可能だからです。こうした反論をわたしが想定していたことは、『論語』二倍年暦説の論理構造として既に説明してきた通りです。そこで、今回は別の視点から『論語』の年齢記事が二倍年暦と理解すべき論理性(論証)について説明します。
 たとえば孔子の弟子の曾参が二倍年暦で語っていた根拠として、次の記事を紹介しました。

 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)

 これ以外に、『曾子』には次の年齢記事が見えますが、先の記事が二倍年暦であれば、これも二倍年暦記事と考えなければなりません。

 「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免(ゆる)すべし。」(『曾子』曾子立事)

 大意は、30〜40歳で無芸であったり、50歳で「善」人として有名でなければ大した人間ではないというものですが、これは二倍年暦による年齢表記となりますから、一倍年暦の15〜20歳、25歳ということになります。これと類似した「人物評価」が『論語』にも見えます。「後生畏るべし」の出典となった次の記事です。

「子曰く、後生畏る可し。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。」(『論語』子罕第九)

 この記事も40歳50歳になっても名声が得られないようであれば、とるに足らない人間であるという趣旨で、先の『曾子』と同じように40〜50歳(一倍年暦の20〜25歳)が人間評価の年齢基準としています。従って、先の『曾子』の記事が二倍年暦であることから、この『論語』の記事も二倍年暦で語られたと理解すべきです。また、記事の内容から考えても、当時の古代人にとって50歳は一般的には「寿命の限界」、あるいは高齢ゾーンであり、そうした「最晩年」に名をなしていなければ畏るるにたらない、というのでは全くナンセンスです。このことをわたしは『論語』二倍年暦説の史料根拠と指摘してきましたし、古田先生も同様の見解を発表されています(『古代史をひらく』ミネルヴァ書房、243頁)。
 以上の論理性により、『論語』も二倍年暦で記されているとするのが穏当な史料理解であり、有力説と思います。(つづく)


第1662話 2018/05/01

4月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 4月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《4月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2018/04/03 『東京古田会ニュース』No.179のご紹介
2018/04/11 6月17日(日)記念講演会のご案内速報
2018/04/13 5月8日、東京出張します
2018/04/18 『九州倭国通信』No.190のご紹介
2018/04/28 「古田史学」「古田学派」の初出
2018/04/29 『多元』145号のご紹介


第1661話 2018/04/30

『論語』二倍年暦説の史料根拠(5)

 今回は「周代」史料の「百歳」記事が、わが国ではどのようにとらえられていたのかについてご紹介します。
 わたしが、九州年号研究において江戸時代の学者たちが九州年号をどのようにとらえていたのかの調査で、筑前黒田藩の儒者、貝原益軒の著作を調べていたときに次の記事に注目しました(貝原益軒は九州年号偽作説)。

 「人の身は百年を以て期(ご)となす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり、といへるは、虚語にあらず。長命なる人すくなし。五十なれば不夭と云て、わか死にあらず。人の命なんぞ如此(かくのごとく)みじかきや。是(これ)、皆、養生の術なければなり。」(『養生訓』巻第一)

 この「人の身は百年を以て期(ご)となす」という益軒の認識は「周代」史料に基づいています。たとえば『礼記』に次の記事が見えます。

 「百年を期(ご)といい、やしなわる。」(『礼記』曲礼上篇)

 また「上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり」も「周代」史料の『荘子』の次の記事によると思われます。

 「人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。」(盗跖(とうせき)篇第二十九)

 筑前黒田藩の儒者である貝原益軒が、これら儒教の古典を知らなかったとは万に一つも考えられません。『養生訓』の記事から判断すると、益軒は「周代」史料に見える「百歳」などの超長寿記事が二倍年暦とは考えもつかなかったようで、そのため「世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し」と記したのでしょう。
 先に紹介した『黄帝内経素問』の「年半百(五十歳)」という表現と同様に、ここでも「周代」史料の「百歳」記事に対してちょうど半分の「五十以下短命なる人多し」としており、江戸時代の日本人の一般的な寿命が50歳以下と認識されていたことがわかります。これら『黄帝内経素問』『養生訓』の記事によれば、中国の周代から日本の江戸時代に至るまで、人間の一般的な寿命が50歳と認識されており、現代日本という人類史上初の長寿社会に生きているわたしたちは、この寿命の推移に留意する必要があります。現代の寿命認識で古典の年齢記事を理解することは危険です。(つづく)


第1660話 2018/04/29

『論語』二倍年暦説の史料根拠(4)

 「周代」史料に散見する「百歳」記事により、周代では二倍年暦での百歳を人間の一般的な寿命と認識されていたと考えられますが、この「百歳」という表記は一倍年暦の時代になっても、一倍年暦の「五十歳」に換算されることなく、そのまま「一人歩き」した痕跡が後代史料などに少なからず残っています。たとえば、唐代の白楽天の詩にも次のような「百歳」が見えます。

 「人生百歳 通計するに三万日 何ぞいわんや百歳の人 人間(じんかん)百に一もなし」(対酒)

 二倍年暦の認識がない唐代において「人生百歳」という表現がそのまま残っているのですが、「そんな長寿の人は一人もいない」という詩です。同じ唐代の大詩人李白も「百歳(年)」という周代成立の表記を使用した次の詩を作っています。

 「百年三万六千日 一日すべからく三百杯を仰ぐべし」(襄陽歌)

 「白髪三千丈」と歌った李白らしく、「百年」を生涯の意味で用いた詩です。
 他方、周代成立の「百歳」という超寿命に疑義を示した史料もあります。中国の古典医学書『黄帝内経素問』に見える、黄帝から天師岐伯への質問です。

 「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」(『素問』上古天真論第一)

 このように、二倍年暦による「百歳」を一倍年暦表記と理解したため、「今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰う」のは「時世の異なりか」と質問したわけです。ということは、この記事の成立時は既に一倍年暦の時代になっており、そのときの人の一般的寿命が百歳ではなく五十歳と認識されていたことがわかります。
 なお、『黄帝内経素問』の書名は『漢書』「芸文志」に見えることから、前漢代に編纂されたようです。同書はその後散逸しており、唐代に編集された『素問』『霊柩』として伝えられています。
 このような暦法の変化による後世への影響発生に似た事例として、里単位の変遷があります。たとえば、周代の「短里(1里約76m)」により成立した「千里馬(1日千里〔約76km〕を駆ける名馬)」という用語が、「長里(1里約435m)」の時代でも名馬を意味する「慣用句」として使用されるのですが、長里ですと一日435kmを駆ける空想上のペガサスの話になってしまいます。
 人間の寿命を「百歳」とした周代の二倍年暦の実在を認めなければ、「千里馬」と同様に、古代における人間の寿命記事に対しても正しい理解が得られないのです。同時に、『素問』のこの記事は、周代の二倍年暦実在の証拠でもあるのです。(つづく)


第1659話 2018/04/28

『論語』二倍年暦説の史料根拠(3)

 わたしは「周代」史料の年齢記事は基本的に二倍年暦で表記されていると考えていますが、同時に後代の編纂時に一倍年暦に書き換えられる可能性もあることを指摘しました。たとえば『春秋左氏伝』などは一倍年暦で編年表記されていると関西例会で述べました。この点は谷本茂さんからも指摘された通りです。そこで、「周代」史料に一倍年暦と二倍年暦のものがあることについて、その史料状況が何を意味するのかについて説明します。
 おおよその目検討ですが、わたしは二倍年暦から一倍年暦への公権力による暦法変更は秦の始皇帝による度量衡の統一の頃に行われたのではないかと推定しています(今のところ史料根拠は見つけられていません)。そのため、「周代」の記録や伝承が一倍年暦の時代の漢代で編纂される際に、暦日記事が書き換えられる可能性があります。
 そうしたことから、漢代成立史料に「百歳」とかの二倍年暦による「長寿」記事が散見されるという史料状況が発生します。逆から言えば、周代における二倍年暦の存在がなければ、そのような史料状況は発生しません。すなわち、もし周代からずっと一倍年暦であれば、漢代に成立した「周代」史料に「百歳」などという長寿記事は空想の産物でもなければ出現できないのです。
 ところが「周代」史料に散見する「百歳」などの超長寿記事は通常の会話(説話)部分にも出現しており、当時の人々の普通の認識として語られています。たとえば、孔子の弟子の曾子の会話として次のような記事が『曾子』に見えます。

 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)

 この記事は「曾子曰く」で始まり、曾子が親孝行について述べたもので、その普通の会話中に「人の生るるや百歳の中」という普通の人を対象にした発言です。従って、当時の一般的な人間の二倍年暦による「百歳(一倍年暦の五十歳)」の人生中に「疾病あり、老幼あり。」と記していることからも、孔子の弟子の曾子は二倍年暦により寿命や年齢を認識していたと考えざるをえません。この史料事実から、曾子の師である孔子も二倍年暦により年齢を認識をしていたと考えるのが真っ当な文献理解のあり方なのです。(つづく)