第1658話 2018/04/24

『論語』二倍年暦説の史料根拠(2)

 わたしは、『論語』(孔子〔紀元前552〜479年〕)の時代の前後に相当する「周代」史料に二倍年暦が採用されていれば、その「周代」に位置する『論語』も二倍年暦と考えるべきとしたのですが、史料根拠は次のような「周代」史料でした。

■『管子』(春秋時代〔?〜紀元前645年〕、管仲の作とされる)
「召忽曰く『百歳の後、わが君、世を卜る。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺を奪うや、天下を得といえども、われ生きざるなり』。」(大匡編)

■『列子』(春秋戦国時代〔紀元前400年頃〕の人、列禦寇の書とされる)
「人生れて日月を見ざる有り、襁褓を免れざる者あり。吾既に已に行年九十なり。是れ三楽なり。」(「天瑞第一」第七章)
「林類年且に百歳ならんとす。」(「天瑞第一」第八章)
「穆王幾に神人ならんや。能く當身の楽しみを窮むるも、猶ほ百年にして乃ち徂けり。世以て登假と為す。」(「周穆王第三」第一章)
「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」(「周穆王第三」第八章)
「太形(行)・王屋の二山は、方七百里、高さ萬仞。本冀州の南、河陽の北に在り。北山愚公といふ者あり。年且に九十ならんとす。」(「湯問第五」第二章)
「百年にして死し、夭せず病まず。」(「湯問第五」第五章)
「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)

■『荘子』(紀元前369〜286年頃の人、荘周の書とされる)
 「今、吾れ子に告ぐるに人の情を以てせん。目は色を視んと欲し、耳は声を聴かんと欲し、口は味を察せんと欲し、志気は盈(み)たんと欲す。人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。病瘻*(びょうゆ)・死喪(しそう)・憂患(ゆうかん)を除けば、其の中、口を開いて笑う者、一月の中、四、五日に過ぎざるのみ。天と地とは窮まりなく、人の死するは時あり。時あるの具(ぐ)を操(と)りて、無窮の間(かん)に託す、忽然(こつぜん)たること騏驥(きき)の馳(は)せて隙(げき)を過ぐるに異なるなきなり。」(盗跖(とうせき)篇第二十九)
 ※病瘻*(びょうゆ)の 瘻*は、強いて言えば、やまいだれ編に由の下に八。(表示できない。)

■『荀子』(周代末期の人、荀況〔紀元前313?〜238年〕の思想を伝えたもの)
 「八十の者あれば一子事とせず。九十の者あれば家を挙(こぞ)って事とせず。」(巻第十九、大略篇第二十七)
【通釈】八十の老人がいる家ではその子供一人は力役につかなくてよい。九十の老人がいれば家中みな力役につかなくてよい。
 「古者、匹夫は五十にして士(つか)う。天子諸侯の子は十九にして冠し、冠して治を聴く其の教至ればなり。」(巻第十九、大略篇第二十七)
【通釈】むかし、一般の人民は五十歳になってから仕官したが、天子や諸侯の子は十九歳になると〔一人前の男子として元服して〕冠をつけ、冠をつけると政治をとったが、それはその教養が十分に身についていたからである。

■『礼記』(周代から漢代の儒教関係の書を編集したもの。前漢代の成立か。)
 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」(曲礼上篇)

■『曾子』
 「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免(ゆる)すべし。」(曾子立事)
 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(曾子疾病)
 ※各著者生没年はウィキペディアを参照したが、諸説あり、大まかな先後関係の理解のために記した。周代の二倍年暦採用が正しければ、これら年代の西暦との対応も見直さなければならない。

 以上の用例が示すように、『管子』をはじめ『荀子』『礼記』に至るまで、「周代」史料の「年齢記事」が基本的に二倍年暦で著されていることは、まず動かないとわたしは判断しました。したがって、“『論語』だけは一倍年暦で記述されていた”と理解する方が不自然であり、どうしても「不自然だが一倍年暦の可能性が高い」と主張したいのであれば、そう主張する側に論証責任が発生します。
 関西例会でも繰り返し説明したことですが、わたしは『論語』の年齢記事は二倍年暦とした方がよりリーズナブルであると考えていますが、『論語』の年齢記事だけから『論語』二倍年暦説を唱えたわけではありませんので、この点は誤解の無いようにお願いします。
 なお、ここで紹介した「周代」史料とは、必ずしも周代で成立したというわけではなく、周代の説話や史料に基づいて、後の漢代に成立した史料を含みますが、具体的な年齢記事は周代の記録をそのまま採用したと考えています。なぜなら、成立時代(一倍年暦の時代)の寿命の二倍の年齢にわざわざ換算し、当時としては不自然な長寿年齢(百歳など)に書き換える必要や必然性はないからです。逆に、その当時の一倍年暦の認識により、「百歳」とあった「周代」史料の年齢記事を不審として、「五十歳」と一倍年暦に換算することはあり得ます。その場合は、「周代」史料でありながら、年齢記事は換算修正された一倍年暦表記となります。(つづく)


第1657話 2018/04/23

『論語』二倍年暦説の史料根拠(1)

 先日開催された「古田史学の会」関西例会で、わたしから「『論語』二倍年暦説の論理構造」を発表したのですが、批判意見が出され激しい論争となりました。そのときの主な批判意見の一つとして、『論語』そのものからは二倍年暦との論証は成立しておらず、『論語』の時代の前後の「周代」史料(『管子』『列子』)に二倍年暦が採用されていても、『論語』が二倍年暦で記されているとは限らないというものでした。
 わたしの理解では、『論語』の前後に相当する「周代」史料に二倍年暦が採用されていれば、その間に位置する『論語』も二倍年暦と考えるのが「周代」史料に対する基本的理解であり、『論語』だけは一倍年暦のはずとする側に論証責任が発生すると考えています。しかし、関西例会での論争(わたしからの説明)では納得していただけなかったため、それではどのような史料や論理性を提示すれば説得できるだろうかと、帰りの京阪電車の車中で思案しました。
 関西例会では激しい論争がよく勃発するのですが、大半はわたしが論争の当事者です。論争の結果、わたしが間違っていると気づけば自説を撤回し、どちらが正しいか判断がつかない場合はペンディングして、勉強を続けます。また、自分が正しいと思うが、相手を納得させることができなかった場合は、一人で「反省会」を行い、どうすれば納得させることができるのか、自分の説明のどこが不十分・不適切であったのかを考えるようにしています。
 学問研究とはこのようにして深化発展するものと確信していますし、異なる意見が出され、論争や検証が行われることこそが大切と思っています。誰からも疑問や反対意見が出なければ、その学問・学説はその時点で発展が止まります。ですから、批判や異なる意見が出され、頻繁に論争が勃発する関西例会とその参加者をわたしは誇りに思っています。(つづく)


第1656話 2018/04/22

都城様式と律令制の対応の論理

 昨日、「古田史学の会」関西例会が福島区民センターで開催されました。5月はドーンセンター、6〜9月はi-siteなんばに戻ります。
 今回も谷本茂さんから『古田史学会報』に発表した拙稿「律令制の都『前期難波宮』」に対して、わたしが全く気づかなかった論点を指摘され、「前のめりにならないように」とのアドバイスをいただきました。その指摘とは、前期難波宮を九州王朝律令(常色律令とわたしは仮称)に対応した都城様式とする論理を採用すれば、同じ様式の藤原宮も九州王朝律令の都城としなければならなくなるが、そこまで言い切ってもよいのかというものです。
 確かにこの指摘はその通りで、わたしもそこまで言い切る自信はありません。「論理の導くところへ行こう。たとえそれがいかなる所であっても。」という岡田甫先生の言葉に従うのが古田先生の「弟子」の心意気であると返答はしたものの、これは大変な指摘を受けたと思いました。この件については、よく考えてみることにします。ちなみに、谷本さんは学生時代から古田先生のご自宅に出入りされていた、古代史分野では最古参の「弟子」です。
 わたしからは、前月の例会での谷本茂さんからの拙論「『論語』の二倍年暦」へのご批判に答えるため、その論理構造について発表しました。ここでも谷本さんや服部静尚さんと激しい論争となり、双方相譲らず、時間切れとなりました。この件については、もっと丁寧な説明が必要と思いましたので、「洛中洛外日記」などで史料根拠を明示したいと考えています。
 例会後の懇親会では、初参加の日野智貴さん(奈良大学、国史専攻)から、伊勢神宮は九州王朝が創建したとする仮説などをお聞きしました。是非、関西例会で発表するようにと勧めました。
 4月例会の発表は次の通りでした。発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔4月度関西例会の内容〕
①前方後円墳は治水と祭祀のモニュメント(大山崎町・大原重雄)
②神話構造の二重性について(神戸市・谷本茂)
③論証の諸刃の剣である「戊申年」木簡(神戸市・谷本茂)
④「百済様式の古瓦は九州から出土しない」は嘘だった(八尾市・服部静尚)
⑤「『論語』の二倍年暦」の論理構造 -谷本茂さんにお答えする-(京都市・古賀達也)
⑥「不改常典の法」の意味するもの(京都市・岡下英夫)
⑦フィロロギーと古田史学【10】個人的批判と古田史学の実際(吹田市・茂山憲史)
⑧ホアカリの天孫降臨(東大阪市・萩野秀公)
⑨九州王朝の統治範囲(エリア)について(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 新年度会費入金状況・『古代に真実を求めて』21集「発見された倭京 太宰府都城と官道」の売れ行き好調・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)3/23服部静尚さん「ポルトガルの宣教師が見た安土桃山時代の日本」の報告・『古代に真実を求めて』21集「発見された倭京 太宰府都城と官道」の発行記念講演会(9/09大阪i-siteなんば、9/01東京家政学院大学千代田キャンパス、他)、5/25プレ記念セッション(森ノ宮)・東京古田会、多元的古代研究会で「八王子セミナー」企画中・6/17「古田史学の会」会員総会と記念講演会(講師:東京天文台の谷川清隆氏)・水野顧問の転居先・「古田史学の会」関西例会会場、5月はドーンセンター、6〜9月はi-siteなんば・新会員増加・その他


第1655話 2018/04/20

天智五年(666)の高麗使来倭

 「洛中洛外日記」1627、1629、1630話(2018/03/13-18)「水城築造は白村江戦の前か後か(1〜3)」で、水城築造年が『日本書紀』の記事通り、白村江戦後の天智三年(664)で問題ないとする見解について説明しましたが、このことを支持すると思われる天智五年(666)の高麗遣使来倭記事について紹介します。
 水城築造を白村江戦の前とする説の論拠は、白村江戦後に唐軍の進駐により軍事制圧された状況下で水城など築造できないとするものでした。わたしは唐軍二千人の筑紫進駐は『日本書紀』によれば天智八年(669)以降のことであり、『日本書紀』の水城築造記事がある天智三年段階では筑紫は唐軍の筑紫進駐以前で、水城築造は可能としました。この理解を支持するもう一つの記事が、『日本書紀』天智五年(666)条に見える高麗使(高句麗使)の来倭記事です。
 『日本書紀』天智五年(666)条に次のような「高麗(高句麗)」から倭国に来た使者の記事が見えます。

 「高麗、前部能婁等を遣(まだ)して、調進する。」(正月十一日)
 「高麗の前部能婁等帰る。」(六月四日)
 「高麗、臣乙相菴ス等を遣して、調進する。」(十月二六日)

 これらの高麗(高句麗)使は、当時、唐との敵対関係にあった高句麗が倭国との関係強化を目指して派遣したと理解されています。というのも、この年(乾封元年)の六月に、唐は高句麗遠征を開始しています。従って、倭国が唐軍の制圧下にあったのであれば、高句麗使が倭国に支援を求めて来るばすはなく、また無事に帰国できることも考えられません。
 こうした高句麗使来倭記事は、少なくとも天智五年(666)時点では倭国は唐軍の制圧下にはなかったことを示しています。


第1654話 2018/04/17

神籠石山城の編年方法の検討

 神籠石山城の列石築造について、プレカット工法が採用されているのではないかとする作業仮説(思いつき)を「洛中洛外日記」で連載したことがあります。第893〜895話「神籠石築城はプレカット工法(1〜3)」(2015/03/09-11)です。その要点は次のようなものでした。

 「中国(隋・唐)からの侵略の脅威に備えて、『同時期多発』で首都太宰府や各地の主要都市防衛の山城築城に迫られたが、『石垣』タイプ築城に必要な大量の石組工人を確保できなかったため、比較的簡易に築城できる神籠石タイプを採用したのではないでしょうか。
 大石の運搬は大変ですが、石切場で同じサイズに加工された石であれば、現地に運搬した後は並べるだけでよいのですから、これなら指導的工人が少人数でも築城が可能だからです。すなわち石材のプレカット工法を九州王朝は採用したのです。事前に寸法通りカットされた石材であれば、山頂や急斜面での石材の加工場所は不要ですから、ある意味では合理的な工法なのです。」

 神籠石がプレカット工法であることは、まず疑いのないところと思いますが、そうであれば石切場では正確に寸法を計測して石材を加工したばずです。中でもその「高さ」は、神籠石列石の構造上の必要性から、正確に切りそろえなければなりません。なぜなら、「長さ」や「奥行き」は少々不揃いでも構造上それほど問題となりませんが、「高さ」だけはそろえておかないと、その列石の上に土塁を構築するのに不便だからです。その点、「長さ」は一列に並べればよいのですから、必ずしも統一する必要はありませんし、「奥行き」も最終的には列石の内側を土で埋めますから、これもそれほど問題とはなりません。
 こうした理解を前提にすれば、石切場で神籠石の「高さ」を規定の寸法で整形するため、そのとき使用した「尺」によって測定され、統一化されているはずです。そうであれば、どの「尺」が採用されたかを計算で割り出し、時代により長さが変化した「尺」との対応により、神籠石山城築造のおおよその年代が判明するのではないでしょうか。
 たとえば「南朝尺」類が使用されていれば、石材の「高さ」から約25cmで割り切れる整数値が得られる蓋然性が高くなり、「北朝尺」類が使用されていれば約30cmで割り切れる整数値が得られるとする考え方です。この方法で各地の神籠石山城の石材の「高さ」から、南朝尺使用時代か北朝尺使用時代かの大まかな編年が可能ではないかと考えています。これから調査検証してみます。


第1653話 2018/04/15

九州王朝系近江朝廷の「血統」論(3)

 天智のように遠縁の男系「血統」と直近の皇女という「合わせ技」で即位した先例が『日本書紀』には見えます。第26代の継体です。『日本書紀』によれば継体は応神から五代後の子孫とされています。

 「男大迹天皇は、誉田天皇の五世の孫、彦主人王の子なり。」(継躰紀即位前紀)

 このように誉田天皇(応神天皇)の子孫であるとは記されていますが、父親より先の先祖の名前が記紀ともに記されていません。男系で近畿天皇家と「血統」が繋がっていることを具体的に書かなければ説得力がないにもかかわらず記されていないのです。この史料事実を根拠に、継体の出自を疑う説はこれまでにも出されています。
 そして今の福井県三国から紆余曲折を経て、継体(男大迹)は大和に侵入するのですが、臣下の助言を受けて第24代の仁賢の娘、手白香皇女を皇后とします。継体の場合は天智に比べれば遠縁とは言え6代ほどしか離れていませんが、天智は瓊瓊杵尊まで約40代ほどの超遠縁です。ですから、継体の先例はあったものの、周囲の豪族や九州王朝家臣団の支持を取り付けるのには相当の苦労や策略があったことと推察されます。
 ところが『続日本紀』では、天智天皇が定めた不改常典により皇位や権威を継承・保証されているとする宣命が何回も出されています。従って、701年の王朝交替後の近畿天皇家の権威の淵源が、初代の神武でもなく、継体でもなく、壬申の乱の勝者たる天武でもなく、天智天皇にあるとしていることは九州王朝説の視点からも極めて重要なことと思います。
 正木さんから九州王朝系近江朝という新仮説が出されたことにより、こうした男系「血統」問題も含めて、古田学派の研究者による論争や検証が待たれます。(了)


第1652話 2018/04/15

九州王朝系近江朝廷の「血統」論(2)

 天智が「九州王朝の皇女を皇后に迎えても天智の子孫は女系」になると一旦は考えたのですが、よくよく考えてみると、そうではないことに気づきました。
 『日本書紀』によれば、そもそも近畿天皇家の祖先は天孫降臨時の天照大神や瓊瓊杵尊にまで遡るとされ、少なくとも瓊瓊杵尊まで遡れば、近畿天皇家も九州王朝王家と男系で繋がります。歴史事実か否かは別としても、『日本書紀』では自らの出自をそのように主張しています。従って、天智も九州王朝への「血統」的正当性は倭姫王を娶らなくても主張可能なのです。このことに、わたしは今朝気づきました。
 しかし現実的には、瓊瓊杵尊まで遡らなければ男系「血統」が繋がらないという主張では、さすがに周囲への説得力がないと思ったのでしょう。天智の側近たちは「定策禁中(禁中で策を定める)」して、九州王朝の皇女である倭姫王を正妃に迎えることで、遠い遠い男系「血統」と直近の皇女という「合わせ技」で天智を九州王朝系近江朝廷の天皇として即位させたのではないでしょうか。
 この推測が正しければ、『日本書紀』編纂の主目的の一つは、天孫降臨時まで遡れば九州王朝(倭国)の天子の家系と男系により繋がるという近畿天皇家の「血統」証明とも言えそうです。なお、こうした「合わせ技」による「血統」証明の方法には先例がありました。(つづく)


第1651話 2018/04/15

九州王朝系近江朝廷の「血統」論(1)

 今上天皇の御譲位が近づいていることもあり、皇位継承における男系・女系問題などを考える機会が増えました。そうした問題意識もあって、九州王朝の「血統」についても考えてみました。
 近年発表された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の九州王朝系近江朝という仮説は、『日本書紀』に見える「近江朝廷」の位置づけを九州王朝説から論究した最も有力なものと、今のところわたしは考えています。その正木説の主要根拠の一つである、九州王朝の皇女である倭姫王を天智が皇后として迎えることにより、天智は九州王朝の「血統」に繋がることができたとするものがあります。この意見には賛成なのですが、九州王朝の皇女を皇后に迎えても天智の子孫は女系となり、果たしてそのことで九州王朝やその家臣団、有力豪族たちを納得させることがてきたのかという疑問を抱いていました。
 もちろん当時の倭国内で男系が重視されていたのか、そもそも九州王朝が男系継承制度を採用していたのかも不明ですから、別に女系でもかまわないという批判も可能かもしれません。しかしながら、『日本書紀』によれば近畿天皇家は男系継承制度を採用したと考えざるをえませんから、当時の代表的権力者の家系は男系継承を尊重したのではないでしょうか。とすれば、天智が九州王朝のお姫様を正妻にできても、「ブランド」としての価値はあっても、九州王朝の権威をそのまま継承する「血統」的正当性の根拠にはならないように思われるのです。
 そうしたことを正木説の発表以来ずっと考えていたのですが、今朝、あることに気づきました。(つづく)


第1650話 2018/04/13

古代日本銘文鏡のフィロロギー

 「洛中洛外日記」1646話(2018/04/10)「縄文神話と縄文土器のフィロロギー」で、『古田史学会報』145号に掲載された大原重雄さんの「縄文にいたイザナギ・イザナミ」の画期性について述べました。古代人の思想性や精神文化をフィロロギーにより復元する方法として、縄文土器の文様を史料として採用するという着眼点が素晴らしい論文でした。
 このように従来は思想史の史料として省みられなかった物について、古田先生から託されたテーマがあります。30年ほど前のことだったと思いますが、三角縁神獣鏡に記された銘文について、学界は単なる中国伝来の「吉祥句」として受け止めているが、これら国産鏡に記された銘文は当時の日本人の思想や価値観を著した第一級の同時代史料であり、フィロロギーの研究対象であると古田先生からうかがいました。そして誰かこの研究をやってもらいたいとも言われました。
 このときの先生の言葉が今でもときおり脳裏に浮かぶのですが、わたしの研究対象から外れていたこともあり、全く手をつけてきませんでした。ところが今回の大原論文に触発され、少しずつでも始めなければ冥界の先生に叱られるのではと思うようになりました。
 三角縁神獣鏡の紋様や銘文についての古田先生の見解については「三角縁神獣鏡の盲点」(古田史学の会HPに収録)が参考になります。どなたか一緒に研究しませんか。


第1649話 2018/04/13

九州王朝「官道」の造営時期

 「古田史学の会」は会誌『発見された倭京 太宰府都城と官道』(明石書店、2018年3月)において、太宰府を起点とした九州王朝「官道」を特集しました。その後、同書執筆者の一人である山田春廣さんが、ご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)において「東山道」の他に「東海道」「北陸道」についての仮説(地図)を発表されました。こうした古田学派研究陣による活発な研究活動に刺激を受けて、わたしも九州王朝「官道」について勉強を続けています。
 中でも九州王朝「官道」の造営時期について検討と調査をおこなっているのですが、とりあえず『日本書紀』にその痕跡がないか精査しています。山田さんが注目され、論文でも展開された景行紀に見える「東山道十五国」も史料痕跡かもしれませんが、そのものずばりの道路を意味する「大道」については次の三つの記事が注目されます。

(A)「この歳、京中に大道を作り、南門より直ちに丹比邑に至る。」『日本書紀』仁徳14年条(326)
(B)「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
(C)「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』孝徳紀白雉4年条(653)

 (B)(C)はいわゆる「難波大道」に関する記事と見なされて論争が続いています。(A)は、仁徳の時代に「京」はないとして、歴史事実とは見なされていないようです。
 わたしたち古田学派としてのアプローチは『日本書紀』のこれらの記事が九州王朝系史料からの転用かどうかという視点での史料批判から始めなければなりませんが、わたしとしては確実に九州王朝系史料に基づいた記事は(C)ではないかと考えています。すなわち、前期難波宮を九州王朝が副都として造営したときにこの「大道」も造営したと考えれるからです。また、実際に前期難波宮朱雀門から真南に通る「大道」の遺構も発見されており、考古学的にも確実な安定した見解と思います。
 しかし、この「処処の大道」が太宰府を起点とした「東海道」「東山道」などの「官道」造営を意味するのかは、『日本書紀』の記事だけからでは判断できません。7世紀中頃ではちょっと遅いような気もします。本格的検討はこれからですが、(A)(B)も含めて検討したいと思います。

 


第1648話 2018/04/12

発見された後期難波宮の大規模区画と官衙群

 前期難波宮には律令官制に対応した東西の官衙遺構が発見されています。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究によれば、律令官制を支える中央官僚は八千名に及ぶとの試算が示されています。他方、前期難波宮の上部に造営された聖武天皇の後期難波宮には前期難波宮のような大規模官衙遺構の発見がありませんでした。
 ところが、大阪文化財研究所発行『葦火』185号(2017年4月)に高橋工さんの「後期難波宮西方で官衙地区を初めて発見」という報告が掲載されていることに気づきましたので紹介します。
 発見された遺構は難波宮史跡公園の西、大阪医療センター内に位置し、後期難波宮の五間門区画の塀と官衙(役所)建物群が見つかりました。8世紀の土器が出土しており、後期難波宮の遺構と見て問題ありません。しかも南北の規模は約200m、東西は100m以上あることもわかりました。これは内裏をも凌駕する規模をもっていた可能性もあるとされています。
 今回の調査区は「五間門区画」と呼ばれているもので、後期難波宮大極殿の西方にあり、東面に2棟の五間門を持つ、掘立柱塀を巡らせた一画です。五間門は宮殿の正門などに採用される格式の高い門とされ、この区画を天皇や上皇の御在所とする説もあるそうです。その南側からは堀立柱建物群も発見されており、これらは官衙の一部と見られています。このことから「五間門区画」の南方に官衙群が展開していたと推定されています。
 後期難波宮は、神亀3年(726)から聖武天皇によって造営が始められ、天平16年(744)に一時的に皇都として定められましたが、遷都期間が短かったこともあり、実際に都の機能を有していたか不明でした。しかし今回の発見により、政治を行う機能が備わっていたことが証明されたと思われます。このことは多元史観・九州王朝説にとっても無関係ではありません。今後、七世紀における九州王朝の都城を論じる場合、宮殿だけではなく、律令官制の中央官僚群が政務に就いていた大型官衙遺構の出土が不可欠となったからです。
 たとえば、7世紀における律令官制による全国統治が可能な官衙遺構を持つ王都は、太宰府(倭京)、前期難波宮(難波京)、近江大津宮(近江京)、藤原宮(藤原京)が知られています。7世紀において、これら以外の地に九州王朝(倭国)の王都があったとする場合は、宮殿・官衙遺構の明示を一元史観論者から求められることでしょう。この一元史観論者からの指摘や批判に答えられるような理論構築がわたしたち古田学派の研究者には必要です。先月発行した『発見された倭京 太宰府都城と官道』もそうした取り組みの一環なのです。


第1647話 2018/04/11

後期難波宮の基幹排水路と谷の整地

 大阪文化財研究所が発行している『葦火』188号(2018年1月)に高橋工さんによる「後期難波宮の石組 基幹排水路を発見」という発掘調査報告が掲載されており、その中に興味深い記事がありましので、ご紹介します。
 今回発見されたのは後期難波宮の東側に南北に伸びる基幹排水路で、前期難波宮造営時に埋め立てられた谷の整地層(厚さ2.4m以上)の上に造られた石組溝として出土しました。この溝について、次のように説明されています。

 「これらの溝は、宮殿の雨水や廃水を集めて流した基幹的な排水溝とみてよいでしょう。排水溝に集まった水は、地形にそって南へ流れ、調査地付近で暗渠となって、整地層の下から埋められていない谷へ排出されたものと考えられます。」

 そして、わたしが最も注目したのは次の指摘です。

 「整地層の分布から、宮殿の中枢部に近い谷の北部のみを埋め立て、調査区より南側は谷が埋め立てられずに残っていたとみられます。また、整地層のすぐ北側には、朱雀門から東へ延び、宮の南を画する塀があるはずです。塀のすぐ外側は谷が埋め立てられていなかったことになり、大規模な土木工事である整地が、必要最小限の範囲で行われたことを示しているとみてよいでしょう。」

 このように前期難波宮造営時に、上町台地に入り組んでいる急峻な谷を平地にまで埋め立てているものの、それは必要最小限だったようです。逆から言えば、宮殿造営に必要であれば大きな谷も埋め立てたということを意味します。次のような記述もあります。
 「調査区はこの谷を東西方向に横断していたので、谷の幅が約40mであることがわかりました。谷の中は、約3.5m掘っても底が出なかったので、それ以上の深さです。
 これほど急峻な谷は、難波宮を造営する際には障害となったはずです。実際、この谷は2.4m以上の厚さをもつ整地層で埋め立てられ、平地として造成されていました。」

 前期難波宮朱雀門の南側に谷が入り込んでいることを根拠に、難波京には朱雀大路が無かったとする見解があったのですが、今回の調査で、宮殿のすぐ側で平地にまで埋め立てた整地層が発見されたことにより、難波京造営にあたり、朱雀大路にかかる谷も埋め立てられたと考えてもよいと思われます。難波宮は発掘調査のたびに新発見が続き、前期難波宮九州王朝副都説を提唱するわたしとしては目が離せません。