第1685話 2018/06/05

『論衡』の「二倍年齢」(4)

 周代史料に見える二倍年暦による「二倍年齢」表記の「百歳」を、そのまま一倍年暦の「百歳」と王充が誤認していたことを説明しましたが、それでは後漢時代の他の人々は周代史料などに見える「二倍年齢」表記の「百歳」をどのように認識していたのでしょうか。そのことをうかがわせる記事も『論衡』にありましたので、紹介します。

 「語に称す、『上世の人は、(イ同)長佼好にして、堅強老寿、百歳左右なるも、下世の人は、短小陋醜にして、夭折早死す。何となれば則ち、上世は和気純渥にして、婚姻時を以てし、人民は善気を稟(う)けて生れ、生れて又傷(そこな)はれず、骨節堅定、故に長大老寿にして、状貌美好なり。下世は此に反す、故に短小夭折し、形面醜悪なり』と。此の言は妄なり。」(「斉世第五十六」『論衡』中巻、1207頁)

 世間の人が「大昔の人は身長も高く、体格もよく百歳くらいの長寿で姿も美しいが、後世の人は身長が低く醜悪で早死にする。」などというのは妄言であると王充が批判した記事です。この後、王充は延々と反論を述べ、後世の人の身長が低いということには根拠がなく、また百歳まで生きると主張しています。その反論には論理的な面もありますが、「百歳」まで生きることの理由については説得力ある反論になっていません。
 この記事でわたしが注目したのは「大昔の人は身長も高く、体格もよく百歳くらいの長寿で姿も美しいが、後世の人は身長が低く醜悪で早死にする。」という当時の人々の認識です。既に説明したように、当時の人の一般的な寿命は五十歳(随命)と推定されますから、周代史料などに記された「二倍年齢」の「百歳」表記を一倍年齢で理解してしまうと、大昔の人よりも後世(後漢時代)の人の方が「夭折早死」となってしまうわけです。
 更に身長も低くなっていると認識されていることも、殷代や周代と後漢代の「尺」単位が変化していることによると思われます。殷の牙尺は一尺約16cm、周代の1尺は約18.4cm、後漢・前漢代は約23cmでとされていることから(異説あり)、たとえば身長160cmの表記は殷代では約「十尺」、周代では約「九尺」、前漢代・後漢代では約「七尺」と表記されますから、「尺」単位の歴史的変遷を知らなければ、大昔(殷代・周代)の人よりも今(後漢代)の人の方が「短小」と誤解されてしまうわけです。
 以上のことから、後漢代の人々(知識人)には「二倍年暦」やそれに基づく「二倍年齢」、そして「尺」単位の変化が忘れ去られていたことがうかがえます。周代史料の多くが漢代に集録・編纂されていることを考えると、この誤解と、その結果引き起こされる周代史料への誤解釈や改変が発生しうることに留意した史料批判が必要です。(つづく)


第1684話 2018/06/04

「実証と論証」茂山さんからのメール

 「学問は実証よりも論証を重んずる」と村岡典嗣先生が言われたこの言葉の意味や、それを受け継がれた古田先生の学問の方法についてより深く学びたいとわたしは願ってきました。
 そこで、フィロロギーの創始者であるアウグスト・ベークの著書『解釈学と批判 -古典文献学の精髄-』にまで遡っての解説を茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)にお願いして始まった「フィロロギーと古田史学」と題した関西例会での11回に及んだ講義もこの五月で最終回を迎えました。毎回、資料を作成して難解なベークの著書を解説していただいた茂山さんに深く感謝いたします。
 その終了後に、「学問は実証よりも論証を重んずる」に絞ってご意見をまとめて欲しいと更にお願いしていたところ、メールで「実証と論証について」という御論稿をいただいたのですが、わたし一人のものとするのはもったいないと思い、茂山さんのご了解をいただいて、転載することにしました。
 茂山さんは哲学を専攻されたとのことで、難解なベークの著作を深く考察され、そのエッセンスをわたしたちに教えていただきました。このテーマは奥が深く、まだまだこれからも勉強しなければならないと考えていますが、今回いただいた茂山さんの論稿はよく納得できるもので、学問の方法を身につけるためにもこれからの指針にしていきたいと思っています。

【以下、メールを転載】
古賀 様
          2018.5 茂山憲史

 村岡典嗣氏の「学問は実証より論証を重んじる」という言葉を理解するためには、村岡氏が自らの学問を「アウグスト・ベークのフィロロギーに基づいています」と公言していたのですから、ベークのフィロロギーからこの言葉を理解しなければならないように思います。
 ベークのフィロロギーについて1年にわたって報告してきたことを踏まえると、村岡氏の「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉は、具体的には多くの意味を内蔵していて、「肯定してもよい部分」と「容認してはいけない部分」があるように思います。

 肯定できるのは、
「事実を示すことが実証だと勘違いしてはいけません」
「実証にも常に論証が含まれていなければ、つまり、事実の理解と主張についての論証がなければ、学問的とは言えません」
「論証抜きの事実だけを根拠に、ひとの論証を否定することはできません。ひとの論証を否定できるのは、さらなる論証によってのみです」
という意味に理解することです。

 一方、容認できないのは
「実証の証明力(信頼度)よりも論証の証明力(信頼度)の方が、より大きい」
「実証と論証の結果が対立したときは、論証の方が正しいと結論するべきです」
「論証が完全であれば、実証の作業は必要ありません」
などと理解することです。

 村岡氏が言及していない方法論上の問題を、論理学とベークのフィロロギーから追加するなら
「仮説は論証されるべきものです」
「事実と合わない、という理由だけで仮説を葬り去ることはできません」
「文献学における論証は、かならず事実から出発しなければなりません」
「したがって、自ずとその論証は実証でもあり、実証がないという批難は当たりません」
「個別部分的に実証がないという批判はできますが、それを理由に仮説や論証の全体を葬り去ることはできません」
「実証より論証を重んじるからといって、論証にあぐらをかき、論証に緻密さや論理性を欠くようでは学問とは言えません」
などでしょうか。

 ベークは「未完成は欠陥ではない」といっていました。「未完成」ですから「証明できた」ということでないのは、当然なのです。ここで重要なのは、それが「欠陥ではない」ということです。「その仮説を捨て去ってしまってはいけませんよ」と言ってくれているのです。「未完成」ということは「否定の論証」も完成していないのですから、何も決まっていません。


第1683話 2018/06/03

『論衡』の「二倍年齢」(3)

 後漢時代の人の一般的寿命を推定できそうな次の記事が『論衡』に見えます。

 「正命は百に至って死す。随命は五十にして死す。遭命は初めて気を稟(う)くる時、凶悪に遭ふなり」(「命義第六」『論衡』上巻、100頁)

 この記事は先に紹介しましたが、ここに見える「随命は五十にして死す」にわたしは注目しました。この「正命」や「随命」に関して次のような説明が続きます。

 「亦、三性有り、正有り、随有り、遭有り。正は五常の性を稟くるものなり。随は父母の性に随(したが)ふものなり、遭は悪物の象に遭得するもの故なり。」(「命義第六」『論衡』上、100頁)

 新釈漢文大系の説明によれば、「五常」とは「仁義礼智信の常に行うべき五つの道」で、「正命(百歳)」を得るのはこうした性質を受けた者であり、父母に従った性質は随であり、その「随命」は五十歳とされています。「遭命」は生まれながらの疾患や不慮の事故による夭折と説明されています。
 この理解に立てば、普通に父母の性を継いでいれば「随命(五十歳)」ですから、後漢時代の普通の人の一般的な寿命が五十歳であることを前提にした理解と思われます。従って、後漢時代の人の一般的寿命は五十歳(随命)と認識されていたと考えられます。
 この五十歳は二倍年暦の「百歳」に相当しますから、周代でも後漢代でも人の一般的な寿命は一倍年暦の五十歳と認識されていたことになります。その上で、王充は周代史料に見える二倍年暦による「二倍年齢」表記の「百歳」を、そのまま一倍年暦の「百歳」と誤認してしまったために、当時の一般的な人の寿命である五十歳を「随命」と定義し、到底あり得ない「百歳」を「正命」と定義したものと思われます。すなわち、後漢代の王充は周代の「二倍年暦」やそれに基づいた「二倍年齢」という概念を知らなかったと思われるのです。(つづく)


第1682話 2018/06/03

『論衡』の「二倍年齢」(2)

 とうてい百歳まで生きられる人はいなかったと思われる後漢時代の王充が、なぜ人の寿命を「百歳」と理解していたのでしょうか。『論衡』を精査した結果、王充は同時代の人間の寿命を根拠に実証的に「百歳」という寿命を主張したのではなく、古典などに伝えられた説話や伝承を根拠に、人間の本来の寿命(正命)を「百歳」と定義づけていたことがわかりました。それを示しているのが『論衡』の次の記事です。

 「何を以て人の年は百を以て寿となすを明らかにするや。世間に有ればなり。儒者の説に曰く、太平の時、人民は※(イ同)長にして百歳左右なるは、気和の生ずる所なり、と。」(「気寿第四」『論衡』上、74頁)
 ※「(イ同)長」とは丈(身長)が長いの意味。(イ同)は人偏に「同」。

 以下、堯の寿命が九八歳、舜は百歳、周の文王は九七歳、武王は九三歳、周公は百歳前後、周公の兄の邵公は百歳前後の例を並べ、さらには老子は二百余歳、邵公は百八十歳、殷の高宗や周の穆王は百三十・百四十歳以上とする伝承をあげています。このように、王充は後漢時代の人々の寿命ではなく、二倍年暦などで伝承された周代やそれ以前の「二倍年齢」記事などを根拠に人の本来の寿命(正命)を「百歳」と主張していたのでした。
 それでは後漢時代の人の一般的寿命は何歳と王充は認識していたのでしょうか。直接的には記していませんが、そのことを推測できる記事が『論衡』にはありました。(つづく)


第1681話 2018/06/02

『論衡』の「二倍年齢」(1)

 今日は久しぶりに岡崎の京都府立図書館に行き、『論衡』と『大載礼記』(新釈漢文大系。明治書院)を閲覧しました。好天に恵まれ、平安神宮の朱の鳥居が青空に映えてとてもきれいでした。
 後漢時代の人、王充の『論衡』は古田先生も度々著書で取り上げられていますから、古田ファンや古田学派の研究者にはお馴染みでしょう。今回、わたしは『論衡』の全容に初めて接したのですが、その目的は後漢代の知識人が二倍年暦や「二倍年齢」についてどのように認識していたのか、あるいはそれらの痕跡が『論衡』にあるのかの調査でした。『論衡』は新釈漢文大系本でも三巻あり、全巻読破は大変でしたが、何とか斜め読みすることができました。
 一読して驚いたのですが、『論衡』中に人の寿命として「百歳」という記述が散見され、一倍年暦を採用していた後漢代でも、人の寿命については「二倍年齢」で表記するケースがあったのかと一瞬勘違いしたほどです。たとえば次のような記事です。

 「百歳の命は、是れ其の正なり。百に満つる能はざる者は、正に非ずと雖も、猶ほ命と為すなり。」(「気寿第四」『論衡』上巻、72頁)
 「正命は百に至って死す。随命は五十にして死す。遭命は初めて気を稟(う)くる時、凶悪に遭ふなり」(「命義第六」『論衡』上巻、100頁)

 しかし、『論衡』の他の具体的な人物の年齢記事を見る限り、一倍年暦に基づく「一倍年齢」と思われ、ここでは王充が当時の人の寿命として「百歳」と記していることを不思議に思いました。いくらなんでも後漢代の人間が百歳まで生きられるとは考えられないからです。しかも『論衡』では特別な長寿記事として「百歳」と記しているわけではありません。それは「一般論」であるかのように「百歳」と繰り返し記されているのです。
 新釈漢文大系の解説によれば、「人間の命は、気の厚薄によって左右されるもので、ふつうの人の(寿)命は百歳をもって正数とすることを、古代の聖王の例を引き論証している。」とあります。(つづく)


第1680話 2018/06/01

5月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 5月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《5月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2018/05/06 向井一雄著『よみがえる古代山城』の是非
2018/05/08 八重洲ブックセンターと丸の内の丸善偵察
2018/05/20 「古田史学の会」会計監査を実施
2018/05/24 桂米團治師匠からのお電話
2018/05/31 『東京古田会ニュース』180号「大越論稿」を拝読して


第1679話 2018/05/26

九州王朝の「分国」と

     「国府寺」建立詔(4)

 九州王朝が告貴元年(594)に建立を命じた「国府寺」ですが、その寺院の名称が「国府寺」として諸国に統一されていたのかという問題について、説明します。

 九州王朝が告貴元年(594)に建立させた寺院の名称については、既に紹介したように次の二史料の存在がわかっています。

 一つは『聖徳太子伝記』に見える「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)」の記事にある「国府寺」です。「国府寺と名付ける」と明確に記されていますから、実証的にはこの記事を根拠に「国府寺」と理解する他ありません。しかし、論理的に考証(論証)しますと、各国にある「国府寺」が同名だと、諸国間の連絡や中央での管理記録において区別がつかず不便な統一名称となります。従って、もし「国府寺」と名付けられたとしても「正式名称」としては冒頭に国名が付されたのではないでしょうか。たとえば大和国府寺とか肥前国府寺のようにです。

 二つ目の史料が『日本書紀』推古2年条の「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」という記事です。ここでは「寺」という一般名ですが、「即ち、是を寺という」という記事は不思議です。それまで倭国には「寺」と呼ばれるものが無かったかのような記事だからです。また「諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る」ということであれば、この「佛舎」は諸国に一つずつの「国府寺」とは異なります。他方、「みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ」とありますから、詔勅による「国家事業」と解さざるをえません。おそらく、『日本書紀』編纂者は、九州王朝による「国府寺」建立をこのような表現にして、九州王朝や九州王朝による「国府寺」建立詔の存在を伏せたと思われます。

 以上の史料事実から、九州王朝が告貴元年(594)に建立を命じた「国府寺」は少なくとも通称として「国府寺」と呼ばれていたのではないかと推定できます。(つづく)


第1678話 2018/05/25

九州王朝の「分国」と

      「国府寺」建立詔(3)

 九州王朝が6世紀末頃には全国を66国に「分国」していたことを説明しましたが、次いで「国府寺」建立を命じた詔勅が告貴元年(594)に出されたとする理由(論理展開、史料根拠)を改めて説明します。

①九州年号「告貴」の字義は「貴きを告げる」ですから、海東の菩薩天子、多利思北孤にとって「貴い」詔勅が出されたことによる改元と考えるべきである。

②九州王朝系史料に基づいて編纂されたと思われる、九州年号(金光、勝照、端政)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)」という記事がある。近畿天皇家側史料『日本書紀』などに見えない記事であり、九州王朝系史料に基づくと考えざるを得ない。

③この告貴元年甲寅(594)と同年に当たる『日本書紀』推古2年条に次の記事がある。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

④『聖徳太子伝記』に見える「国府寺」建立記事と『日本書紀』推古紀の「三宝興隆・造佛舎」詔勅記事が同年(594年)であることを偶然の一致と考えるよりも、共に九州王朝(多利思北孤)による「国府寺」建立を命じた詔勅に基づいたものと理解するほうが合理的である。

⑤『隋書』国傳に見える国の使者(大業三年、607年)の言葉として、煬帝に対し「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す」とあり、古田先生の理解によれば、「重ねて」とは海東(倭国)において仏法を興した多利思北孤に次いで隋の天子が重ねて仏法を興した意味とされている。そうであれば、このとき既に「国府寺」建立を命じており、そのことをもって「仏法を興した」と多利思北孤は自負していたとしても不思議ではない。

⑥多利思北孤が隋よりも先に「仏法を興した」とする根拠として「法興」年号(591〜622年)がある。「法興」とは「仏法を興す」という意味で、「法興寺」と呼ばれる寺院もこの時代に創建されている。なお、正木裕さんによれば、「法興」は多利思北孤の法号であり、それが「年号的」に使用(法隆寺釈迦三尊像光背銘、伊予温湯碑)されたとされる。

 以上の理由から、「国府寺」建立を命じた詔勅が告貴元年(594)に出されたとわたしは考えています。しかしながら諸国で「国府寺」が完成したのは更にその後ですから、必ずしも7世紀初頭に諸国の「国府寺」が完成したとする考えとは矛盾しません。(つづく)


第1677話 2018/05/25

九州王朝の「分国」と

     「国府寺」建立詔(2)

 九州王朝は6世紀末には九州島内諸国を9国に「分国」し、全国を66国に「分国」したと、わたしは考えています。このことを「続・九州を論ず 国内史料に見える『九州』の分国」(『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』古田武彦・福永晋三・古賀達也、共著。明石書店、2000年)に詳述しましたので、ご参照ください。簡単にその論理性や史料根拠を説明します。

①「九州」という地名は、中国の天子が自らの直轄支配領域を九つに分けて統治したことを淵源に持ち、後に天子の支配領域全体を「九州」と称するようになったという政治用語である。九州王朝の多利思北孤は「海東の菩薩天子」を自認していたと思われるため、その時代(7世紀初頭)までには中国に倣って九州王朝も九州島を九つに分国したと考えられる。その名残が「九州島」の地名「九州」として現代まで続いている。

②「聖徳太子」が日本全国を33国から66国に分国したとする次の記事が史料中に見える。
「太子十八才御時(崇峻二年、589年)
春正月参内執行國政也、(中略)太子又奏シテ分六十六ケ國玉ヘリ、(中略)筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、昔ハ六ケ國今ハ分テ九ケ國、名西海道也、(後略)」『聖徳太子傳記』(文保二年頃〔1318〕成立)
「人王卅四代の御門敏達天皇の御宇に聖徳太子の御異見にて、鏡常三年(敏達十二年、583年)癸卯六十六箇國に被割けり。(中略)年號の始は善記元年」『日本略記』(文録五年〔1596〕成立)

③『日本書紀』推古紀に「火葦北国造(敏達十二年、583年)」と「肥後国の葦北(推古十七年、609年)」という記事が見え、「火国」が「肥前国」「肥後国」に分国されたのが583年から609年の間であることを示している。

④これらの史料事実は、九州王朝による66国への分国が583年あるいは589年であることを示しており、それ以外の時期の「分国」を示す史料を管見では知らない。

 以上のような論理性と史料根拠により、九州王朝による66国への分国が告貴元年(594)以前になされていたとする仮説は有力であり、これ以外の「史料根拠に基づいた仮説」の存在を、今のところわたしは知りません。(つづく)


第1676話 2018/05/24

九州王朝の「分国」と

      「国府寺」建立詔(1)

 「洛中洛外日記」に連載した「九州王朝の『東大寺』問題(1〜3)」を「古田史学の会」会員の山田春廣さんがご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)に転載されました。そうしたところ、早速、読者から反応があり、山田さんと読者の服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による応答が続けられました。学問的で真摯な応答であり、多元的「国分寺」研究の深化をもたらすものと思われました。

 同応答を読みますと、山田さんや服部さんが指摘された主たる疑問は概ね次の三点に集約できるようです。

①九州王朝による66国への分国が告貴元年(594)にはなされていたとは思えない。(山田さんからの疑義)

②中国ではじめて全国に同じ寺院名の寺院を建立(あるいは既存の寺院に新たに命名する)したのは、隋もしくは唐の時代であると考えられ、告貴元年(594)に「国府寺」が建立されたとは考えにくい。7世紀以降ではないか。(服部さんからの疑義)

③中国では隋や唐になって初めで全国に同名の寺院が建立されており、倭国での同様の建立あるいは命名は、中国を習ってのこととみるのが妥当と考えられる。従って、倭国がそれよりも早く「国府寺」という名称の寺院を諸国に造らせたとは考えにくく、「国府寺」という名称にもこだわらない方がよいのではないか。(服部さんからのご意見)

 これらのご指摘・疑義に対して、わたしは告貴元年(594)までには九州王朝は全国を66国に「分国」しており、諸国に「国府寺」建立を命じたのも告貴元年とするのが最も有力な仮説であり、その通称として「国府寺」と称されていたとしても問題ないと、今のところ考えています。学問的論議が更に深化するよう、その理由について説明することにします。(つづく)


第1675話 2018/05/23

太宰府と藤原宮・平城宮の鬼瓦(鬼瓦の論証)

 「洛中洛外日記」1673話「太宰府出土『鬼瓦』の使用尺」で紹介した『大宰府史跡発掘50年記念特別展 大宰府への道 -古代都市と交通-』(九州歴史資料館発行)に掲載された太宰府出土鬼瓦ですが、鬼気迫る形相の芸術性の高さが以前から注目されてきました。そこでその芸術性という側面から多元史観・九州王朝説との関わりを指摘したいと思います。
 大宰府政庁や大野城から出土した古いタイプの鬼瓦は立体的で見事な鬼の顔ですが、大和朝廷の宮殿の鬼瓦は藤原宮のものは「弧文」だけで鬼は描かれていませんし、平城宮のものも何種類かありますが古いタイプは平面的な鬼の裸体があるだけで、太宰府のものとは雲泥の差です。すなわち、王宮の規模は大きいものの、鬼瓦の意匠性においては規模が小さい大宰府政庁のものが圧倒的に芸術的なのです。このことは次のようなことを意味するのではないでしょうか。

①王宮の規模の比較からは、藤原宮や平城宮の方が日本列島を代表する王朝のものにふさわしい。
②鬼瓦の比較からは、王朝文化の高い芸術性を引き継いでいるのは太宰府である。
③この現象は九州王朝から大和朝廷への王朝交替の反映と考えることができる。
④ということは、太宰府では王朝文化を継承した瓦職人がいたことを意味する。
⑤太宰府にいた高い芸術性と技術を持つ瓦職人により、優れた意匠性の軒丸瓦が造られたと考えるのが自然な理解である。
⑥従って、7世紀末頃に大和・筑前・肥後の三地域で同時発生したとされる「複弁蓮華文軒丸瓦」の成立と伝播の矢印は「北部九州から大和へ」と考えるべきである。
⑦観世音寺や大宰府政庁Ⅱ期に使用された「複弁蓮華文軒丸瓦」(老司式瓦)の発生は、大和の藤原宮に先行したと考えざるをえない。
⑧この論理帰結は、観世音寺や大宰府政庁Ⅱ期の造営を、藤原宮(694年遷都)よりもはやい670年(白鳳十年)頃とするわたしの理解と整合する。

 九州王朝説を支持する「鬼瓦の論証」として、以上を提起したいと思いますが、いかがでしょうか。


第1674話 2018/05/22

済み会員総会と

 谷川清隆 (国立天文台)さん講演会のお知らせ

 「古田史学の会」古代史講演会と2018年度会員総会のお知らせです。今回は国立天文台の谷川清隆さんを講師にお招きし、古天文学の視点から多元的古代(倭国と日本国)について講演していただきます。
 講演会後に「古田史学の会」会員総会と懇親会を行いますので、会員の皆様のご参加をお願いします。講演会は非会員の方も参加できます。講演会は無料、懇親会は有料で当日会場にて参加受付します。詳細は下記の通りです。

【日時】2018年6月17日(日)13時30分〜16時50分 場所:大阪府立大学I-siteなんば2階C1会議室

【住所】大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル2階(南海難波駅南800m、地下鉄大国町駅東450m)

1、開会あいさつ 13時30分〜13時40分
  古賀達也(古田史学の会代表)

2、古代史講演会 13時40分〜15時10分(質疑応答〜15時40分)
「七世紀のふたつの権力共存の論証に向けて」
 講師:谷川清隆 (国立天文台特別客員研究員)
 略歴:1944年生。東京大学理学部物理学科卒業。東京大学大学院博士課程満期退学。天文学専攻。
1978年、緯度観測所研究員。1988年、国立天文台助教授。2007年、退職。
2018年現在、国立天文台特別客員研究員。理学博士。
興味分野は、歴史以外に歴史天文学、三体問題、カオス。
(講演要旨)隋書を含めてそれ以前の中国の歴史書には日本列島内の国として「倭」のみが出てくる。正確には、歴代王朝の東夷伝 (ただし、漢書では地理志の燕地、北史では列伝巻八十二)に出てくる国という意味である。少なくとも西暦600年までは「倭」である。一方、西暦701年以降は、「日本国」が中国 (唐)に認められた日本の支配者である。もう「倭国」はない。
 七世紀が問題で、旧唐書では、「倭国」と「日本国」があったとし、新唐書では「日本国」があったとする。新旧唐書で日本列島の権力に関して意見が異なる。新旧唐書の意見が違っているにしても、隋書の記録からして「倭国」が西暦600年以後も存在し、新旧唐書の記録からして「日本国」が西暦701年以前に存在していたことは明確である。
 本講演では、七世紀の「倭国」と「日本国」の問題に正面から取り組む。
 (中略)
「異なる王朝の記録」を判別することは困難な作業ではあるが、講演当日には、二つの王朝の記録が共存する期間があることを示す努力をする。

3、古田史学の会2018年度総会
 15時50分〜16時50分

4、終了後懇親会 17時〜
 ・講演会の参加費は無料、懇親会は別途当日徴収します。
 ・同会場S3研修室で11時より「古田史学の会」全国世話人会を開催します。

(問い合わせ先)古田史学の会事務局長 正木裕
 〒666-0115兵庫県川西市向陽台1-2-116
 ℡090-4909-8158
 Email:masakike476@hera.eonet.ne.jp