第1472話 2017/08/06

一元史観から見た前期難波宮(2)

 わたしが前期難波宮を九州王朝副都とする説に至ったきっかけは、その規模の巨大さと律令官制に対応した最古の朝堂院様式の宮殿遺構だったことです。大阪市中央区法円坂から発見された前期難波宮の巨大さについて、関西の方ならよくご存じかもしれませんが、遠方の方には実感する機会がないかもしれません。そこで、一元史観の研究者がどのように前期難波宮の規模や様式を捉えているのかをご紹介します。
 村元健一さんの論文「前期難波宮の南方空間」(『大阪歴史博物館 研究紀要』13号、2015年)では前期難波宮について次のように説明されています。

 「本稿で扱う前期難波宮は7世紀半ばの王宮であり、孝徳朝の難波長柄豊碕宮と考えられている。この宮城は中軸線を正方位にとり、中枢部を左右対称に築き、しかも広大な朝堂院を設けるなど、前代までの倭王宮とは隔絶した規模を有することが明らかとなっており、宮城の平面配置は藤原宮以降の古代宮城の規範となっている。また、この宮城の存在によって倭王権への権力集中を一定程度認め、所謂『大化改新』の具体像が語られるようになってきている。」(11頁)
 「前期難波宮は対外的に倭国の威信を示すために築かれたとされる。視覚的には岬の突端の高所に築かれ、遠方からでも非常に目立つようになっている。また宮城内では、内裏南門とその東西両側の八角殿の造営に見られるように、宮城の正面観を南方に強く打ち出したものであったことは明らかである。このように『見られる』ことを強く意識した宮城と言えるが、その周辺の様子はどうだったのであろうか。」(12頁)

 村元さんはこのように前期難波宮を「前代までの倭王宮とは隔絶した規模」「平面配置は藤原宮以降の古代宮城の規範」「この宮城の存在によって倭王権への権力集中を一定程度認め」られるとされています。そして論文を次の言葉で締めくくっておられます。

 「新たに難波に生まれた『都』は倭の新たな王都の誕生を予感させるものだったのである。」(21頁)

 一元史観の研究者がここまで評価する巨大王宮前期難波宮を通説通り近畿天皇家の孝徳の宮殿とするのか、九州王朝の副都とするのか、どちらの理解が九州王朝説と整合性があるのかは言うまでもないでしょう。一元史観の論者との前期難波宮の評価を巡っての「他流試合」を想定してみてください。かれらは本稿で紹介した村元論文と同じように主張し、「だから九州王朝などなかった」と言うはずです。仮に前期難波宮を天武朝造営と反論しても同様です。一元史観の論者は同様に「だから九州王朝はなかった」「九州にこれ以上の規模の宮殿は出土しているのか」と言うはずですから。(つづく)


第1471話 2017/08/06

一元史観から見た前期難波宮(1)

 前期難波宮九州王朝複都説について、関東の古田学派の皆さんにより論議検討が進められており、提唱者として名誉なことと感謝しています。そこで、今まで「洛中洛外日記」では前期難波宮九州王朝複都説の立場で説明などしてきましたが、今回は視点を変えて大和朝廷一元史観の研究者からは前期難波宮がどのように捉えられているのかをご紹介します。
 たとえば、「洛中洛外日記」1470話で紹介した市大樹さんの論文「難波長柄豊碕宮の造営過程」(武田佐知子編『交錯する知』思文閣出版、2014年)では冒頭に次のように記されています。

 「一九五四年から続く発掘調査によって、大阪市の上町台地法円坂の一帯から二時期にわたる宮殿遺構が検出され、上層を後期難波宮、下層を前期難波宮と呼んでいる。後期難波宮が聖武朝(七二四〜四九)に再興された難波宮であることは異論を聞かない。これに対して前期難波宮は、ほぼ全面に火災痕跡があることから、『日本書紀』朱鳥元年(六八六)正月乙卯条に『酉時、難波大蔵省失火、宮室悉焼』と記される難波宮に相当すると見てよいが、造営時期を孝徳朝(六四五〜五四)・天武朝(六七二〜八六)いずれとみるのかで長い議論があった。しかし、一九九九年に北西部にある谷から「戊申年」(大化四年、六四八)と書かれた木簡が出土したことや、造成整地土から七世紀中葉の土器が多く出土したことなどもあり、現在では孝徳朝の難波長柄豊碕宮とみるのがほぼ通説となっている。」(285頁)

 このように前期難波宮を七世紀半ばの造営とすることがほぼ通説であると記されています。わたしの九州王朝副都説も造営時期についてはこの立場に基づいているのですが、そうしたわたしの理解を“大阪歴博の考古学者の見解を盲信したもの”と非難される方もあるようです。しかし、前期難波宮を七世紀中頃の造営とするのは市さんも記されているように学界ではオーソドックスな見解であり、とりたててこの立場に立ったこと自体を盲信したなどと批判されるいわれはありません。
 もちろん学問研究は「多数決」ではありませんから、七世紀中頃造営説に反対される前期難波宮天武朝造営説に立つ論者は、わたしの理解(前期難波宮「孝徳期」説)を批判される前に、考古学界・古代史学界の通説(前期難波宮=難波長柄豊碕宮「孝徳朝」説)を学問的に批判されてはいかがでしょうか。現在まで膨大な論文や発掘報告著が出されていますから、一元史観との「他流試合」の対象に事欠くことはないでしょう。(つづく)


第1470話 2017/08/05

白雉改元「難波長柄豊碕宮」説

 今日は京都市右京中央図書館で市大樹さんの論文「難波長柄豊碕宮の造営過程」(武田佐知子編『交錯する知』思文閣出版、2014年)を閲覧・コピーしてきました。市さんは木簡研究で優れた業績をあげられた研究者ですが、この論文では前期難波宮の造営時期についての新説を発表されました。その結論は『日本書紀』白雉元年条(650)に見える白雉改元の儀式の舞台を難波長柄豊碕宮(前期難波宮)とするものです。
 前期難波宮に関しては一元史観の学界内でもいくつかの矛盾や疑問を抱え、その解決のための緒論が発表されてきました。中でも白雉改元の大規模な儀式が行われた宮殿が難波(上町台地)のどこにあり、『日本書紀』孝徳紀に記されたどの宮殿(難波埼宮・小郡宮・大郡宮・味経宮など)とするのかが問われてきました。というのも、最も巨大な「朝庭・朝堂院」を有する前期難波宮(一元史観では長柄豊碕宮とする)の完成は孝徳紀白雉三年九月(652)であり、白雉改元の儀式が開催された孝徳紀白雉元年(650)には未完成だったからです。「洛中洛外日記」575話で白雉改元の宮殿を「小郡宮」とする説を紹介したこともあります。本稿末尾に転載します。
 このような問題に対して出されたのが市さんの「白雉改元、難波長柄豊碕宮(前期難波宮)」説です。改元の年次は『日本書紀』の通り「白雉元年(650)」とされているので、前期難波宮の造営開始をそれまで有力視されていた「大化五年(649)」(吉川真司説)ではなく、「大化二年(646)」頃からとされました。その結果、「白雉元年(650)」には前期難波宮の宮殿部分は完成していたとされました。

 「大化五年三月、左大臣阿倍内倉梯麻呂の死を弔う挙哀儀礼が豊碕宮の朱雀門で実施された。この時点までに豊碕宮の内裏前殿と朱雀門がほぼ完成していたと考えられる。豊碕宮では国家的な儀礼時に国家の威容をアピールするのに必要な建物から優先的に建設していったのである。」(297頁)
 「このように⑱は豊碕宮での儀式のありようを伝えたものとみられる。そうであれば、ここに登場する「朝庭」「紫門」「中庭」「殿前」は、順に前期難波宮の朝堂院の庭、内裏南門、内裏前殿の庭、内裏前殿の前に比定できる。白雉元年二月の段階において、豊碕宮の中枢部には、内裏前殿・朱雀門に加え、少なくとも内裏南門が建設されていたと考えられる。」(299頁)
 ※⑱は孝徳紀白雉元年二月条の白雉改元の儀式の記事。

 このように、それまで不明とされてきた白雉改元の儀式の舞台を前期難波宮とされました。すなわち、一元史観では解決できていなかった課題について一つの解決案を示されたのです。この市さんの説が成立可能かどうかは別の機会に論じますが、前期難波宮の存在や『日本書紀』に記された白雉改元儀式をどのように理解するのかは、一元史観でも多元史観でも解決しなければならない重要課題なのです。

【転載】
第575話 2013/07/28
白雉改元「小郡宮」説
(前略)
 ちなみに近畿天皇家一元史観の通説では、白雉改元の宮殿を小郡宮とされているようです。吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤海』(吉川弘文館、2011年)によれば、「難波宮の先進性」という章で白雉改元の宮殿について次のように紹介しています。
 「白雉元年(六五〇)、小郡宮とは明記されていないが、おそらくはそうであろう宮において白い雉が献上された(『日本書紀』白雉元年二月甲申条)。その様子は以下のようであった。(中略)白雉献上の様子や礼法の規模の大きさからすると小墾田宮より大規模であったように推測されるが、遺構などが見つかっていないため、これ以上踏み込むことはできない。」(117〜118頁)
 このように小郡宮説が記されていますが、「小郡宮とは明記されていないが」「おそらくはそうであろう」「遺構などが見つかっていない」「これ以上踏み込むことはできない」という説明では、とても学問的仮説のレベルには達していません。それほど、白雉改元「小郡宮」説は説明困難な仮説なのですが、ある意味、著者は正直にそのことを「告白」されておられるのでしょう。その「告白」が指し示すことは、白雉改元の儀式が可能な大規模な宮殿遺構は前期難波宮しか発見されていないということです。「白雉」は九州年号ですから、改元した王朝は九州王朝です。その場所の候補遺構が前期難波宮しかなければ、前期難波宮は九州王朝の宮殿と考えざるを得ません。


第1469話 2017/08/04

『塩尻』の中の九州年号(1)

 『塩尻』は江戸中期の随筆で170巻以上が現存するといわれています。天野信景(さだかげ)(1663―1733)の著で、1697年(元禄10)ごろから1733年(享保18)に執筆され、原本は1000巻に及ぶとのこと。著者は尾張藩士で、博学の国学者として知られ、その合理主義的な学風は、平田篤胤らにも大きく影響したとされています。
 『塩尻』は著者自身が「人の見るべきにあらず、只(ただ)閑暇遺忘に備ふ」というように、その草稿は反故(ほご)紙などに書き散らしたもので、散逸が甚だしく完本はなく、1782年(天明2)名古屋の書林西村常栄が編集した百巻本のほか、数種の写本が伝わっています。今回、わたしが読んだのは国会図書館所蔵百巻本を底本とした活字本ですが、尾張地方での九州年号史料が比較的少ない理由を探るため、『塩尻』を読んでみることにしました。すなわち、当地の高名な学者である天野信景が九州年号をどのように認識していたのかを調べることにしたのです。(つづく)


第1468話 2017/08/03

『塩尻』の「三倍年暦」?

 江戸時代の尾張の学者、天野信景翁の随筆『塩尻』(内閣文庫所蔵百巻本の活字本)を読んでいます。内容は多岐にわたり、著者の博学が遺憾なく発揮されています。
 その中で、インドにおける「三倍年暦」かと思われるような次のような記述が目に留まりましたので、ご紹介します。

○天竺の暦は一歳を三季とせり。熟時〔自正月至四月〕、茂時〔自五月至八月〕、實時〔自九月至十二月〕。されは正五九月は印土三季の初月也。阿蘭陀の暦は二十四時とし一時を六十刻と定め、酉の時を一日のはしめとす。閏月を置ずして寒暑たかはさる法あり。されは萬國暦法同しからず。或は建寅の月を歳首とし、亦春分を年始とするもあり。阿蘭陀は唐の冬至より十日目に當る日を元日とか。或は國によりて月虧初る日を一月の初とさたむ。
 ※〔〕内は二行細注。句読点は古賀が付した。

 以前に古代インドにおける二倍年暦に関する論文「二倍年暦の世界」(『新・古代学』7集、2004年。新泉社)を発表したことがありますが、そのときは法華経や原始仏教教典などを史料根拠に釈迦や高齢の弟子等の年齢表記が二倍年暦によるものとしました。
 『塩尻』に記されたこの「三倍年暦」の史料根拠はわかりませんが、しかし「三季」とありますから、日本の四季に対応するものがインドでは「三季」とされるということで、一年を三年と数える「三倍年暦」ではなさそうです。


第1467話 2017/08/02

7月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 7月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 7月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2017/07/02 『多元』140号のご紹介
2017/07/06 名古屋駅JRゲートタワーの三省堂
2017/07/14 西安博物館の金印と神獣鏡
2017/07/21 『九州倭国通信』No.187のご紹介


第1466話 2017/07/29

「[身冉]牟羅国=済州島」説を撤回

 「古田史学の会」内外の研究者による、『隋書』の[身冉]牟羅国についてのメール論争を拝見していて、これはえらいことになったとわたしは驚愕しました。
 今から22年も前のことなのですが、『古田史学会報』11号(1995年12月)でわたしは「『隋書』[身冉]牟羅国記事についての試論」という論稿で、[身冉]牟羅国を済州島とする仮説を発表しました。今から読み直すと、明らかに論証は成立しておらず、どうやら結論も間違っていることに気づいたからです。
 そこで、7月の「古田史学の会」関西例会にて22年前に発表した自説を撤回しますと宣言しました。そうしたら野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)から「えぇーっ。古賀さん撤回するの?」と声があがり、「すみません。撤回します」と謝りました。学問研究ですから、間違っていると気づいたら早く撤回するに限る、意地をはってもろくなことにはならないと思い撤回したのですが、恥を忍んで撤回の事情と理由を説明します。
 これは言い訳にすぎませんが、当時は会員も少なく今ほど『古田史学会報』に原稿が集まらず、編集を担当していたわたしは不足分の原稿を自分で書くことがありました。その際、余った余白分の字数にあわせて原稿を書く必要がありました。11号の拙稿もそうした穴埋め原稿として仕方なく急遽執筆したことを憶えています。従って、論証も説明も不十分な論稿と言わざるを得ません。こうした事情が当時はあったのです。しかし、それでも掲載に問題ないと判断したわけで、40歳のときのわたしの学問レベルを恥じるほかありません。
 次に研究論文としての論証上の問題点を説明します。対象となった『隋書』の当該部分は次の通りです。

「其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗」「其南海行三月,有[身冉]牟羅國,南北千餘里,東西數百里」(『隋書』百済伝)

 この記事によれば、[身冉]牟羅國を済州島とするためには少なくとも次の論証が必要です。

①国の大きさが「南北千餘里,東西數百里」とあり、短里(1里76m)表記であることの説明。
②同じく国の形の表記が縦横逆であることの説明。
③その位置が百済の南「海行三月」の所と表記されていることの説明。
④『隋書』国伝には済州島のことを「[身冉]羅国」とされ、「[身冉]牟羅國」とは異なることの説明。

 この中で、拙稿でとりあえず説明したのは①と②だけで、③と④は検討課題として先送りにして論証していませんでした。しかも、今から見ると②の論証も不適切でした。すなわち、「筑後国風土記逸文」の磐井の墓(岩戸山古墳)の縦横の距離の表記が実際の古墳とは一見逆になっている例を[身冉]牟羅國にも援用したのですが、「筑後国風土記逸文」には「南北各六十丈、東西各四十丈」とあり、『隋書』百済伝の表記にはない「各」という文字があり、南北間が六十丈ではなく南辺と北辺が各六十丈という意味です。「東西各四十丈」も東辺と西辺が各四十丈となり、岩戸山古墳の現状に対応しています。他方、『隋書』の記事には「各」の字が無く、表記通り縦長の地形を意味していると理解せざるを得ず、従って横長の済州島では一致しません。
 『隋書』国伝の済州島の表記「[身冉]羅国」との不一致についても次のように曖昧に処理して、論証していません。
 「国伝には済州島が[身冉]羅国と記されている。はたしてこの[身冉]羅国と百済伝末尾の[身冉]牟羅国が同一か別国かという問題(通説ではどらも済州島とする)も残っているが、この表記の差異についても別に論じることとする。」
 このように問題を先送りにして、しかも別に論じることなく22年も放置していました。更に論稿末尾を次のような「逃げ」の一文で締めくくっています。
 「本稿では問題提起にとどめ、いずれ論文として詳細を展開するつもりである。」
 以上のように、22年前の拙稿は論証が果たされておらず、その後も論じることなく今日に至っています。そのため、わたしは自説を撤回しました。拙稿の誤りに気づかせていただいた「メール論争」参加者の皆さんに感謝します。それにしても、「若気の至り」とはいえ、インターネット上に後々まで残るみっともない論稿で、恥ずかしい限りです。


第1465話 2017/07/27

倭国王宮の屋根の変遷

 「古田史学の会」会員の山田春廣さんのプログ「sanmaoの暦歴徒然草」に学問的刺激を受けています。最近も九州王朝倭国の王宮に関する作業仮説(「瓦葺宮殿」考)を提起され、読者からコメントも寄せられています。当該仮説の是非はこれから論議検討が進められることと思いますが、コメントを寄せられた服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から重要な疑問が提示されました。それは、倭国の王宮の屋根の変遷において、寺院などは瓦葺き建設なのになぜ前期難波宮など王宮は板葺きなのかという疑問です。
 たしかに考えてみますと、寺院建築では法隆寺や四天王寺(難波天王寺)のように7世紀初頭には礎石造りの瓦葺きです。比べて、近畿天皇家の飛鳥宮(板葺宮、清御原宮)や、わたしが九州王朝副都と考える前期難波宮、そして大津宮は堀立柱造りの板葺きとされています。そして7世紀後半頃になってようやく大宰府政庁Ⅱ期の宮殿が礎石造りの瓦葺きです。7世紀末の藤原宮も近畿天皇家の宮殿として初めて礎石造りの瓦葺きとなります。
 中国風の「近代建築」である瓦葺宮殿を建築できる技術力を持ちながら、自らの王宮は九州王朝も近畿天皇家も7世紀後半から末にならなければ採用しなかった理由は何なのでしょうか。わたしは次のように今のところ推定しています。それは日本古来の宗教思想に基づき、「天神の末裔」である倭国天子には、「神殿造り」の堀立柱と板葺きの宮殿こそが権威継承者としてふさわしいと考えられていたのではないでしょうか。現在でも伊勢神宮を瓦葺きにしないのと同様の理由です。
 仏教が伝来し、寺院建築には舶来宗教として中国風の礎石造りの瓦葺きがふさわしいと考えられたため、早くから瓦葺きが採用されたものと思われます。そして、7世紀後半頃になると中国風の宮殿が倭国天子にもふさわしいとされ、礎石造りの瓦葺きが採用されるに至ったものと考えています。
 既にこうした仮説は発表されているかもしれませんが、とりあえず作業仮説として提起します。皆さんからのご意見ご批判をお待ちしています。


第1464話 2017/07/27

冨川ケイ子さん「[身冉]牟羅国論争メモ」

 「洛中洛外日記」1448話で、「古田史学の会」内外の研究者による、『隋書』の[身冉]牟羅国についてのメール論争が勃発したことをお知らせしましたが、参加者による熱心な応答により学問的にとても優れた論争へと発展しています。もちろん「決着」がついたわけではありませんが、学問の方法や史料批判など重要な問題も含まれており、興味深く拝読させていただいています。
 その論争内容をまとめた「[身冉]牟羅国についての論争メモ」が冨川ケイ子さんから論争参加者に発信されましたので、転載させていただきます。その中に、わたしの説の紹介もあり、わたしが自説を撤回すると今月の「古田史学の会」関西例会で述べたのですが、そのことも紹介されています。自説撤回の理由については別に説明する予定です。
 以下、冨川さんからのメールを転載します。なお、冨川さんからは「メモ」なので文章として不完全で、これでもよければ転載してくださいとの趣旨のコメントをいただいています。この点、お含みおきください。

各位
谷本さんが参加されたのを機会に、皆様のご意見を集約してみました。下のメモは多元の会合からの帰りの電車の中でケータイで書いたものが元なので、ご意見の根拠など漏れている点が多々あってご不満もおありと思いますけれど。
メールでの議論は後から参加された方が読めないのが欠点ですね。
冨川

■史料
隋書百済伝 百済
「其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗」「其南海行三月,有[身冉]牟羅國,南北千餘里,東西數百里,土多?鹿,附庸於百濟。百濟自西行三日,至貊國云」

隋書[イ妥]国伝
「其國境東西五月行南北三月行至於海」

◆石田敬一氏の説
(東京古田会ニュースNo.161〜162)
[身冉]牟羅国=済州島
百済の南 [身冉]牟羅国は短里で済州島の大きさに合う
東西と南北は辺と辺(東西と南北は常識の反対)
九州は縱5月、横3月の大きさ

◆古田武彦氏の説
(『古代の霧の中から』p.166-167 ミネルヴァ版p.143-144)
(東京古田会ニュースNo.145〜146の講演録)
[身冉]牟羅国と[身冉]羅国は違う
隋書は短里か、東西と南北は辺と辺か、調べていうのが自分の学問
[身冉]牟羅国は百済から南に3月ならボルネオかスマトラかルソンか

◆清水淹氏の説
(多元NO.138)
石田説を支持
九州王朝の勢力は九州と山口県あたりまで
その他は間接支配
蘇我氏は九州王朝の代官
天智天皇は近畿豪族の勢力を結集して独立をはかる

◆西村秀己氏の説
百済の南3月は済州島ではない
[イ妥]国の東西5月は北米まで
[身冉]牟羅は「たんむら」ではなく「ぜんむら」と読む

◆服部静尚氏の説
(清水説批判、多元No.140に掲載)
[身冉]牟羅国にはノロ鹿が住む
沖縄のケラマ鹿は外来、鹿骨の出土はある
台湾に在来種の鹿あり

◆古賀達也氏の説
(古田史学会報No.11)
[身冉]牟羅国=済州島説は石田・清水両氏より古い
撤回したい
ボルネオだとこうやの宮の人形と関わりがあるかも

◆正木裕氏の説
根本的には3月行であれ5月行であれ九州島に収まらない
[身冉]牟羅国は済州島ではない
呉志は長里で「夷洲」は台湾(方位は南、距離は400㌔)ではなく「沖縄」等西南諸島

◆冨川ケイ子説
[身冉]牟羅国は百済より大きい可能性がある
5パーセントくらいセイロン島
20パーセントくらい台湾
75パーセント沖縄説
九州はどの方角でも1か月以内で横断できる


第1463話 2017/07/25

『丹哥府志』の古伝承(2)

京丹後市の森茂夫さん(古田史学の会・会員)から紹介された『丹哥府志』に記された古伝承で、河良須神社以外にも興味深いものがありました。それは7世紀に遡る可能性がある「国分寺」に関する伝承です。『丹哥府志』「巻之六 丹波郡 三重の庄 五十河村(いかが村)」に次のような記事が見えます。

【観音堂】(内山)
観音堂は元高雄山妙法寺の寺跡なり、文武天皇大寶二年府中國分寺より此地に移すといふ棟札あり、開山詳ならず。

森さんからのメールでは「府中国分寺(天橋立の近く)は741年以降だと思いますので702年にはこの地名はないはずです。後世の地名によって記述したものとは思いますが。」とのこと。
森さんのご意見のように、この大寶二年の国分寺記事は「後世の地名によって記述したもの」とするのが従来の考え方でした。しかし、わたしたち古田学派では多元的「国分寺」という視点により、九州王朝が7世紀に国分寺(国府寺)を大和朝廷に先だって創建していたという仮説に基づき、7世紀に遡る国分寺遺跡の調査を進めています。もしかするとこの「大寶二年府中國分寺」も九州王朝時代の国分寺のことかもしれません。そうした仮説に基づいて、丹後の国分寺遺跡の考古学的調査結果などを調べてみたいと思います。


第1462話 2017/07/23

『丹哥府志』の古伝承(1)

 「洛中洛外日記」1436話と1437話において、舞鶴市の朝代神社(あさしろじんじゃ)が『丹哥府志』の記録などを根拠に白鳳元年(661)創建であったことを論じました。その「洛中洛外日記」を読まれた京丹後市の森茂夫さん(古田史学の会・会員)から『丹哥府志』に記された興味深い伝承記録についての情報が寄せられましたので、ご紹介します。

 『丹哥府志』「巻之八 加佐郡第一 志楽の庄 小倉村」の項に、河良須神社の勧請が「天智天皇白鳳十年辛未の秋九月三日」とされているのですが、この「九月三日」が先の朝代神社の創建日と同じなのです。『丹哥府志』には朝代神社の創建記事が次のように記されています。

 「田辺府志曰。朝代大明神は日之若宮なり、白鳳元年九月三日淡路の国より移し祭る」

 ともに白鳳年間の創建であり「九月三日」の日次が同じなのは偶然とは考えにくく、両神社には何か関係があったのではないかと思います。『丹哥府志』の河良須神社の記事は次の通りです。

◎小倉村(市場村の次、若狭街道、古名春日部)
【河良須神社】(延喜式)
社記曰。丹波の国加佐郡春日部村柳原に鎮座ましますは豊受大神宮なり、神名帳に所謂河良須神社是なり、今正一位一宮大明神と稱す、天智天皇白鳳十年辛未の秋九月三日爰に勧請す、明年高市皇子故ありて丹波に遁る、此時柳原の神社へ詣で給ふ時に和歌一首を作る、(後略)

 ここに見える「天智天皇白鳳十年辛未」の表記ですが、九州年号の白鳳十年の干支は庚午で670年に当たります。辛未は天智十年(671)のことであり、『日本書紀』の紀年と九州年号が一年ずれて「合成」された姿を示しています。従って、本来の伝承が九州年号の「白鳳十年」であれば、「天智天皇」「辛未」は後世において『日本書紀』の影響を受けて付加されたものと考えられます。

 「明年高市皇子故ありて丹波に遁る」という伝承も興味深いものです。天智十年の明年であれば「壬申の乱」の年(672)に相当しますから、その年に高市皇子が丹波国に逃れたという伝承が真実か否かはわかりませんが、何らかの歴史事実を反映したものではないでしょうか。なお、ネット検索によると「河良須神社」ではなく「阿良須神社」とあり、森さんから送っていただいた『丹哥府志』活字本の誤植のようです。(つづく)


第1461話 2017/07/22

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(10)

 前期難波宮九州王朝副都説への批判・対案として出された「天武朝」造営説が、文献史学でも考古学でも成立困難であることを説明してきました。一元史観の古代史学界でも考古学界でも前期難波宮「孝徳期」造営説が事実上の定説となっていることも、それだけ合理的な根拠があるからです。それにもかかわらず、なぜ古田学派内から、どう考えても「無理筋」の「天武朝」造営説が出されてきたのでしょうか。
 わたしはその理由について、ほぼ見当がついています。このテーマについては古田先生との10年にわたる意見交換や間接的な「論争」がありました。古田先生は前期難波宮を『日本書紀』に記されていない近畿天皇家の宮殿ではないかと考えておられましたが、ついにそのことを論文に書かれることはありませんでした。そして、2013年の八王子セミナーにて「検討しなければならない」との発言に至ったのですが、それもかなわないままお亡くなりになられました。
 古田先生との本件に関する応答や背景について、いずれ稿を改めて論じたいと思います。それは7世紀における九州王朝の実体に関する認識(諸仮説)の是非にかかわる問題でした。(完)