第1298話 2016/11/16

権力者「出身地名」の広域化

 古代において、中国でも日本でも権力者の出身地(発生地)の地名が、その権力範囲の拡大に伴って広域化するという現象があります。
 たとえば近畿天皇家の場合は地方名称「大和(やまと)」が、そのまま日本国の別称となり。それから派生した「大和魂」とか「大和なでしこ」という言葉も作られました。もちろん「奈良県の魂」「奈良県の女性」という意味ではなく、「日本の魂」「日本の女性」を意味するわけです。
 それは九州王朝においても同様だったと思われます。九州内の地方権力者「生葉(浮羽)の臣」の場合でも、その出身地「うきは」は現在の福岡県うきは市ですが、「うきは」地名の淵源はうきは市の中の小領域「大字浮羽」です。このことを知ったのはわたしの本籍が以前は「浮羽郡浮羽町大字浮羽」だったからです。そこには古賀家墓地があり、父やご先祖様が眠っています。
 これが九州王朝の天子の場合はどうでしょうか。筑紫君磐井などに見られるように、九州王朝の天子・国王は「筑紫」という地名を冠しています。今の福岡県にほぼ相当する地域で、6世紀末頃には筑前と筑後に分国されています。これが『日本書紀』編纂の時代になると「九州島」を「筑紫」とする表記例が現れます。この傾向は中世にも引き継がれ、「筑紫」地名が広域化します。
 逆に「筑紫」地名の淵源をたどりますと、現在の筑紫野市に「大字筑紫」「字筑紫」がありますので、権力者「出身地名」が広域化するという現象からすれば、九州王朝の淵源の地がこの「字筑紫」だったということになります。当地の近隣には筑紫神社(筑紫野市原田)もありますから、まさに「筑紫の中の筑紫」という地域です。
 その観点からすれば、古田説では九州王朝は天国領域(壱岐・対馬など)から天孫降臨で糸島半島に侵攻した勢力ですから、その淵源は天国領域か、せめて九州島内では糸島博多湾岸の地こそ「出身地」と称すべきです。ところが「筑紫君」を自称していますから、糸島博多湾岸よりも内陸部に位置する「筑紫」を淵源とすることを主張しています。この不思議な現象について、その理由はまだよくわかりませんが、おそらくは九州王朝発展史にその理由があることでしょう。九州王朝はどうしても「筑紫」を名乗りたかった、そう考えるほかありません。近世でも尾張出身の秀吉が一時期「羽柴筑前守」を名乗ったように。この小領域「筑紫」の謎は今後の研究テーマです。


第1297話 2016/11/13

『九州倭国通信』に「条坊都市の多元史観」掲載

 今年から機関紙交流を始めた「九州古代史の会」から『九州倭国通信』No.183が送られてきました。5ページにわたり、拙稿「条坊都市の多元史観」を掲載していただきました。
 一元史観の文献史学研究者よりも、一元史観の考古学者の研究論文に九州王朝説を支持する考古学的事実が発表され始めたことを紹介し、中でも井上信正さんの太宰府条坊都市研究の論理性と画期性を解説したものです。
 今月26日(和水町)と27日(福岡市)で行う古代史講演会で、「日本最古の条坊都市 太宰府から難波京へ」というテーマでも詳しくお話ししたいと思います。特に九州の皆さんのご参加をお待ちしています。


第1296話 2016/11/12

パリの画家、奥中清三さんとの邂逅

 今日は四年ぶりに帰国されたパリの画家、奥中清三さん(古田史学の会・会員)と大阪でお会いしました。四年前は京都でお会いし、京都御所や相国寺、同志社大学をご案内したのですが、今回はI-siteなんばの図書館の古田武彦コーナーを正木裕さん(古田史学の会・事務局長)とご案内しました。
 奥中さんは44年前にパリに行かれ、モンマルトルでパリ市公認の画家として活躍されています。古くからの古田先生のファンで、邪馬壹国の「壹」の字をモチーフとした作品を数多く手がけられています。その中の一枚をお土産としていただきましたので、I-siteなんばの古田武彦コーナーに飾らせていただきました。わたしのfacebookにその写真などを掲載していますので、ぜひご覧ください。
 その後、大阪歴博や紅葉が美しい大阪城、難波宮址をご案内しました。古田先生没後の古田学派の状況や最新の研究動向についてもご説明し、長時間歓談しました。再会を約束し、固い握手を交わしてお別れしました。「朋あり、遠方より来る。また楽しからずや」の快晴に恵まれた秋の一日でした。


第1295話 2016/11/04

井上信正説と観世音寺創建年の齟齬

 今朝は新幹線で豊橋市方面に向かっています。今日は蒲郡地区の顧客訪問を行い、明日は豊橋技術科学大学で開催される中部地区の化学関連学会で招待講演を行います。講演テーマは機能性色素の概要と金属錯体化学の歴史と展望(用途開発)などについてです。化学系学会等の講演はこれが年内最後となり、その後は今月26〜27日の熊本県和水町と福岡市での古代史講演に向けて準備を始めます。一昨日も京都市産業技術研究所で講演したのですが、今年は講演回数がちょっと多すぎたように感じますので、来年はもう少し落ち着いたペースに戻したいと思っています。

 拙稿「多元的『信州』研究の新展開」を掲載していただいた『多元』136号(多元的古代研究会)を新幹線車内で精読していますが、大墨伸明さん(鎌倉市)の「大宰府の政治思想」に太宰府条坊に関する井上信正説が紹介され、自説に援用されていることに注目しました。わたしも以前から井上信正さんの太宰府条坊の編年研究に関心を寄せてきましたので、古田学派の研究者に井上説が注目されだしたことは喜ぶべきことです。
 井上説の核心は太宰府条坊の北側にある政庁や観世音寺の区画と条坊都市の規格(小尺と大尺)が異なっており(そのため観世音寺の南北中心軸は条坊道路と大きくずれている)、政庁・観世音寺よりも条坊都市の方が先に造営されていることを考古学的に明らかにされたことです。その上で、井上さんは政庁2期の成立時期を通説通り8世紀初頭(和銅年間頃)、条坊都市の成立はそれよりも早い7世紀末とされました。その結果、太宰府条坊都市と藤原京(新益京)とは同時期の造営とされました。
 この井上説は大和朝廷一元史観にとっては「致命傷」になりかねないもので、わが国初の大和朝廷による条坊都市とされている藤原京と地方都市に過ぎない太宰府条坊都市が同時期に造営された理由を説明しにくいのです。ですから井上説は多元史観・九州王朝説にとって刮目すべきものです。
 政庁や観世音寺よりも条坊都市の成立が早いとする井上説に賛成ですが、その年代については井上説では説明困難な問題があります。それは観世音寺の創建年についてです。『続日本紀』などにも観世音寺は天智天皇が亡くなった斉明天皇のために造営させたという記事があり、どんなに遅くても670年頃には大宰府政庁2期宮殿の位置と共に方格地割を決め、造営を開始していなければなりません。そうすると観世音寺以前に太宰府条坊都市が造営されたとする井上説により、条坊都市造営の年代は更に遡って、遅くても7世紀前半頃となります。その結果、太宰府条坊都市は藤原京よりも早く、わが国最古の条坊都市ということになるのです。この論理的帰結は九州王朝説にとっては当然のことですが、大和朝廷一元史観の学界にとって受け入れ難いものなのです。このような大和朝廷一元史観にとって「致命傷」となる論理性を持つ井上説は学界に受け入れられないのではと、わたしは危惧しています。
 他方、文献史学から観世音寺創建年を見ますと、九州年号の白鳳年間とする『二中歴』や、白鳳10年(670)とする『日本帝皇年代記』『勝山記』があります。観世音寺創建瓦の老司1式瓦の編年も藤原京に先行するとされてきましたから、文献史学と考古学の双方が観世音寺創建年を670年頃と、一致した結論を示しています。その上で井上説の登場により、太宰府条坊都市の造営は7世紀前半頃となり、わが国最古の条坊都市は九州王朝の都、太宰府ということになるのです。井上説が一元史観の学界に受けいれられることを願ってやみません。


第1294話 2016/10/31

10月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 10月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 10月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/10/02 古代史講演会2件のご案内
2016/10/08 湊哲夫『飛鳥の古代史』を読書中
2016/10/09 作業仮説「倭京論」の論理構造
2016/10/14 「邪馬壹国研究会・松本」が発足
2016/10/25 『季刊唯物論研究』誌からの執筆依頼


第1293話 2016/10/30

『続日本紀』の年号認識(3)

 『続日本紀』の中で最も注目されてきた年号記事が次の「聖武天皇の詔報」です。

 「詔し報へて曰く、『白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、仍て公験を給へ』とのたまふ」『続日本紀』神亀元年冬十月条(724)

 聖武天皇が治部省からの問い合わせに対して応えた詔勅に九州年号(倭国年号)の「白鳳」「朱雀」が現れており、古田先生はこの記事を九州年号実在の史料根拠の一つとされたことは有名です(古田武彦『失われた九州王朝』参照)。
 この詔報には二つの重要なテーマが含まれています。一つは、神亀元年(724)当時の聖武天皇の「発言」に前王朝の九州年号(倭国年号)がなぜ使用されているのかということ。二つ目は『続日本紀』編纂時(797年成立)において、『日本書紀』では存在を隠している前王朝(倭国)の年号が用いられている聖武天皇の詔報を、なぜ『続日本紀』に収録したのかというテーマです。
 一つ目の疑問については次のように考えることができます。すなわち大和朝廷の聖武天皇にとって、自らの王朝の最初の年号「大宝」以後の年次特定については自らの年号を用いて著すことが可能ですが、700年以前の九州王朝の時代の年次特定の方法は干支を用いるか、九州年号(倭国年号)を用いるか、『日本書紀』の紀年(○○天皇の即位何年)を用いるしかありません。
 本件のように白鳳時代(661〜685年)は神亀元年(724)よりも干支一巡以前の白鳳元年等も含まれており、干支で表記した場合、一巡前と同じ干支が神亀元年の直前にも存在することとなり、干支表記だとどちらの年かが判断できません。ですから干支表記は不都合となります。
 次に『日本書紀』紀年の使用も本件のような僧侶の「名簿」のような行政記録文書に関する場合は適切ではありません。というのも、700年以前の戸籍や「名簿」のような行政記録文書は九州王朝の時代ですから九州年号で記録されていたはずです。従って、本件の詔報のように行政記録の不備欠損に対する治部省の資料も700年以前は九州年号表記となっていたと考えられますから、聖武天皇の返答も九州年号を使用せざるを得ないのです。そもそも、治部省からの質問に「白鳳以来朱雀以前」の資料が不備欠損しているのでいかがしましょうかと、九州年号を使用して問い合わせていたと考えられます。そうでなければ、聖武天皇が「白鳳以来朱雀以前」とわざわざ九州年号により年代を限定して返答する必要がないからです。
 このように、聖武天皇の詔報に見える九州年号「白鳳」「朱雀」は、大和朝廷が700年以前の年次特定を行う際に九州年号を使用していたという理解が可能となるのです。なお、二つ目の疑問についてはまだよくわかりません。何が何でも『続日本紀』に収録しなければならないような重要な記事とも思われないからです。引き続き検討します。(つづく)


第1292話 2016/10/29

『続日本紀』の年号認識(2)

 「建元」は一つの王朝にとって最初の年号制定を意味しますから、1回だけです。それ以降は「改元」が繰り返されるのですが、大和朝廷(近畿天皇家)にとっての「建元」は『日本書紀』にはなく、『続日本紀』に記された次の「大宝建元」記事だけです。

 「甲午(21日)、対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大宝元年としたまう。」『続日本紀』文武天皇、大宝元年三月条(701)

 これ以後は現代の「平成」まで改元が繰り返されるのですが、『続日本紀』の「大宝建元」に続く、「慶雲」「和銅」「霊亀」「養老」の「改元」記事(詔勅)は次の通りです。

 「五月甲午(10日)、備前国、神馬を献る。西楼の上に慶雲を見る。詔して天下に大赦し、改元して慶雲元年としたまう。」『続日本紀』文武天皇、慶雲元年五月条(704)

 「和銅元年春正月乙巳(11日)、武蔵国秩父郡、和銅を献る。詔して曰く、(中略)故、慶雲五年を改元して和銅元年として、御世の年号と定め賜う。(後略)」『続日本紀』元明天皇、和銅元年正月条(708)

 「九月庚辰(2日)、禅を受けて、大極殿に即位す。詔して曰く、(中略)其れ和銅八年を改元して霊亀元年とす。」『続日本紀』元正天皇、霊亀元年九月条(714)

 「癸丑(17日)、天皇、軒に臨みて、詔して曰く(中略)天下に大赦して、霊亀三年を改元し養老元年とすべし、とのたまう。」『続日本紀』元正天皇、養老元年十一月条(716)

 この様に『続日本紀』において、「建元」と「改元」は明確に使い分けられています。この時代は大和朝廷が九州王朝に代わって列島の代表王朝になり、『古事記』や『日本書紀』編纂の時代ですから、当然、九州王朝の歴史的実在は自らも周囲の豪族たちも知悉していたはずです。この『続日本紀』における「建元」と「改元」の表記使い分けについて、大和朝廷一元史観の学者は全く説明できていませんし、特に古田先生の九州王朝説(九州年号説)が発表されてからは意識的に避けているようにも見えます。
 上記の「建元」「改元」記事で注目すべきは、「改元」記事は天皇の詔勅を記載しており、同時代の最高権力者による「発言」が『続日本紀』に採用されているのですが、大和朝廷にとって最も重要な「大宝建元」記事は「詔勅」の転載ではないことです。「大宝建元」の詔勅を文武天皇は出さなかったのでしょうか。それ以後は「改元」の詔勅を採用しているにもかかわらず、『続日本紀』では最も重要な「大宝建元」の詔勅がカットされているのです。『続日本紀』中では最初の年号制定である「大宝建元」の詔勅が出されなかったとは考えられません。
 それではなぜ『続日本紀』編者は「大宝建元」の詔勅をカットしたのでしょうか。恐らく文武天皇による「大宝建元」の詔勅には、九州王朝に代わって大和朝廷が列島の代表王朝になったことを高らかに宣言し、それまで国内で使用されていた九州年号(倭国年号)の無効と、自ら「建元」した「大宝」が正当な年号であることを国内配下の豪族たちに宣言した文言が「大宝建元」の詔勅にはあったはずです。ですから、その詔勅をそのまま『続日本紀』に転載したら、『日本書紀』が隠した九州王朝(倭国)の存在を認めてしまうことになるため、「大宝建元」の詔勅を転載できなかったと考えられるのです。
 ちなみに、701年に「大宝建元」したとき、九州年号の「大化・白雉・朱鳥」を盗用した『日本書紀』はまだ成立していません(成立は720年)。自らの史書に九州王朝や九州年号をどのように取り扱うかという編纂方針が確立する前に、「大宝建元」の詔勅が発布されたのではないでしょうか。
 『続日本紀』に「大宝建元」の詔勅が記されていないという史料事実について、古田先生の九州王朝説(九州年号説)ではこうした理解や説明が可能ですが、旧来の大和朝廷一元史観では、やはり説明不可能なのです。(つづく)


第1291話 2016/10/28

『続日本紀』の年号認識(1)

 「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」のタイトルを持つ『古代に真実を求めて』20集の編集作業も本格的な段階に入りました。九州年号(倭国年号)特集号で、古田史学の会編『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)以後の九州年号研究の最先端論文と、多くのコラム記事などにより構成された、読んで面白い一冊となりそうです。
 そこで改めて九州王朝から大和朝廷へ王朝交代したとき、大和朝廷の年号認識がどのようなものであったのかを精査するため、『続日本紀』編者の年号認識について考えてみることにしました。『続日本紀』の成立は797年ですから、九州王朝が滅び、大和朝廷が列島の代表者になって約百年後です。その頃の近畿天皇家の歴史官僚の年号認識に迫ってみます。
 『日本書紀』には九州年号(倭国年号)の大化・白雉・朱鳥が盗用されていますが、『続日本紀』に一番最初に記されている年号が「白雉」です。文武天皇四年(700)三月条の道照和尚崩伝に見える次の記事です。

 「初め、孝徳天皇の白雉四年、使に従いて唐に入る。」『続日本紀』文武四年三月条

 孝徳天皇白雉四年(653)に道照が唐に渡った記事ですが、このことは『日本書紀』白雉四年五月条に記されています。その記事を『続日本紀』でも採用したものです。すなわち、「白雉」を孝徳天皇の年号とする立場に立った記述です。
 ところが翌年の文武天皇五年(701)の三月に「大宝建元」記事が現れます。

 「甲午(21日)、対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大宝元年としたまう。」『続日本紀』大宝元年三月条

 「建元」とは王朝にとって初めて年号を制定することで、それ以降の年号変更は全て「改元」です。『日本書紀』の「白雉」年号を記載した翌年に「大宝建元」と表記することの矛盾に『続日本紀』編者が気づかないはずがありません。(つづく)


第1290話 2016/10/27

「御舟入」の淵源

 三笠宮殿下が薨去され、「昭和」や「戦後」が歴史となりつつあり、感慨深いものがあります。ご葬儀に関する報道で「御舟入(おふないり)」という言葉が用いられ、「納棺」のことと説明されていました。皇室では納棺のことを「御舟入」と称されていることに、この言葉は古代にまで遡るものではないかと思いました。
 『隋書』「イ妥国伝」によれば古代日本の葬儀の風習として、ご遺体を船に乗せて運ぶという次のような記述があります。

 「死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。貴人の場合、三年間は外で殯(かりもがり=埋葬前に棺桶に安置する)し、庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。」『隋書』「イ妥国伝」

 この葬儀の記事に続いて有名な阿蘇山の記事が見えます。

「阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。」

 九州王朝や北部九州におけるご遺体を舟に乗せるという風習を淵源とするのが、皇室における「御舟入」という言葉ではないでしょうか。「舟形石棺」や肥後北部に分布する石穴墓に見られるご遺体を安置する部分にある舟のような文様の彫り込みも、この風習に淵源するように思われます。
 「御舟入」という皇室用語に、九州王朝(倭国)と皇室(大和朝廷の末裔)の関係を感じるのですが、いかがでしょうか。


第1289話 2016/10/26

「九州古代史の会」11月と新春例会のご案内

 今年から交流を始めました「九州古代史の会(木村寧海代表)」11月例会と新春例会のご案内をいただきましたので、ご紹介します。
 11月例会では「古田史学の会」会員でもある中村通敏さんが講演されます。新春講演会では木村寧海代表と当地の高名な考古学者、井上信正さん(太宰府市文化財課主任主査)の講演です。井上さんのご講演には、スケジュールが許せば参加したいと思っています。概要は下記の通りです。詳細は「九州古代史の会」ホームページをご参照ください。

 九州古代の会 11月例会のご案内

日時 11月6日(日) 午後1:30
場所 早良市民センター 視聴覚室
   福岡市早良区百道2-2-1 電話 092-831-2321
テーマ
(1)タリシヒコ考「タリシヒコの謎に挑んだ人たち」
  講師 会員 中村通敏氏
(2)隋書イ妥国伝を読む
  講師 事務局長 前田和子氏
会費 「九州古代史の会」会員:無料 一般:500円

※12月例会 休会

新春講演会 1月15日(日)1:30
場所 ももち文化センター 第一研修室
テーマ
(1)百人一首の謎
  講師 代表 木村寧海氏
(2)太宰府古代都市と迎賓施設
  講師 太宰府市文化財課 主任主査 井上信正氏
※新年会 同日17:30〜 天神平和楼 4000円


第1288話 2016/10/25

大阪狭山池博物館特別展

     「河内の開発と渡来人」

 先日、「古田史学の会」で訪問見学と洛陽出土三角縁神獣鏡の講演会(西川寿勝さん)を開催した大阪府立狭山池博物館から、特別展のご案内とポスターが届きました。お世話になったお礼も込めてご紹介いたします。同博物館は安藤忠雄さんの設計で、それだけでも一見の価値があります。難点としてはやや入り口の場所がわかりにくいところですが。以下、同館ホームページからの転載です。

平成28年度特別展河内の開発と渡来人 -蔀屋北遺跡の世界-

期間:2016年10月8日(土)〜12月4日(日)
会場:特別展示室
展示概要:
  狭山池の築造には半島渡来人による土木技術が数多く取り入れられていることが知られます。近年、河内に定着した初期の渡来人の痕跡が発掘成果によって確かめられつつあります。今回、四条畷市蔀屋北遺跡(しとみやきたいせき)の渡来系遺物などを取り上げ、狭山池築造前の渡来人の動向を展示・公開します。
入場料:無料
主催:大阪府立狭山池博物館・大阪狭山市立郷土資料館
共催:四条畷市教育委員会
協力:古代の馬研究会
後援:南海電気鉄道株式会社・泉北高速鉄道株式会社

歴史学セミナー: 午後2時〜4時 会場‥2階ホール 定員‥126名(先着順)

第1回:2016年10月16日(日)
「蔀屋北遺跡の発掘成果」岡田賢 氏(大阪府教育庁文化財保護課)
「河内の開発と渡来人」西川寿勝(本館学芸員)

第2回:2016年11月5日(土)
「五〜六世紀の河内湖周辺の開発」田中清美 氏(帝塚山学院大学講師)
「五〜六世紀の北河内の集落動向」野島稔 氏(四条畷市立歴史民俗資料館館長)

第3回:2016年11月20日(日)
「河内馬飼と大和馬飼」平林章仁 氏(龍谷大学教授)

対談「追検証 古代の王権と馬飼」平林章仁 氏・工楽善通(本館館長)
古代の馬研究会シンポジウム:
日時:2016年10月29日(土)午後1時〜4時30分
会場:2階ホール
定員:126名(先着順)
発表者:丸山真史 氏(東海大学)・諫早直人 氏(奈良文化財研究所)・菊池大樹 氏(京都大学人文科学研究所)
討論会参加者:丸山真史 氏・諫早直人 氏・菊池大樹 氏・青柳泰介 氏(奈良県立橿原考古学研究所)・覚張隆史 氏(金沢大学)・積山洋 氏(大阪文化財研究所)・大庭重信 氏(大阪文化財研究所)・宮崎泰史(本館学芸員)
本館学芸員による展示解説:
とき:会期中の毎週日曜日 午前11時から30分間程度
ところ:特別展示室


第1287話 2016/10/22

江浦洋さん講演「大坂の陣を掘る」

 昨日は正木裕さん(古田史学の会・事務局長)主宰セッション「誰も知らなかった古代史 第9回」を聴講しました。今回のカタリストは考古学者の江浦洋さん(大阪文化財センター次長)で、テーマは「大坂の陣を掘る」。豊臣時代の大坂城三の丸の堀の発掘調査での数々の成果を説明していただきました。
 堀の底に障子状の段差(堀障子)を設け、防衛力を強化していることや、出土木簡に記された戦国武将(菅平右衛門)の数奇な運命など興味は尽きませんでした。またNHKの大河ドラマの舞台となっている「真田丸」(大坂城の南東にあった防衛施設)をNHKが発掘を予定していることなども教えていただきました。
 質疑応答では、わたしは次の質問をしました。回答とともに記します。

(質問)難波宮よりもその北の大坂城の位置が標高が高いとされているが。
(回答)その通りです。ですから宮殿の北側にも何らかの施設があったとする意見もあります。
(質問)大坂城築城の前は摂津石山本願寺がありましたが、「石山」という地名から石が多いのですか。
(回答)当地には石は多くありません。埴輪などが出土していることから古墳の石室の石があったため、「石山」と呼ばれていたとする説もあります。

 このような回答があることは予想していましたが、わたしにはどうしても理解できない問題があって、再確認するために江浦さんに質問したのでした。それは次の疑問です。

1.上町台地北端に宮殿(前期難波宮)を造営するのに、なぜ最高地の場所(大阪城の位置)に造営しなかったのか。宮殿の北側の高地は宮殿防衛上からも重要な場所となる。

2.古墳の石室があったぐらいで「石山」という地名は大げさであり、古墳があった地を「石山」と呼ばれた例をわたしは知らない。

 このような疑問を抱いているのですが、わたしは次のような作業仮説(思いつき)を考えています。
 前期難波宮や難波京を造営した九州王朝は、それ以前に太宰府条坊都市を造営し、その北側には首都防衛のための大野城を築城しています。したがって、前期難波宮造営でも同様に北側の「高地」に石塁で囲まれた防衛施設を築城し、前期難波宮や難波京が攻められたとき、避難施設として使用する目的を持っていたのではないでしょうか。そして後に、この石塁で囲まれた「高地」が「石山」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。この作業仮説は証明が困難ですが、上記の疑問に答えることができる「思いつき」ではないでしょうか。
 なお、江浦さんには来年1月22日(日)の「古田史学の会」新春講演会(i-siteなんば)で講演していただきます。前期難波宮発掘の成果を語っていただけます。とても楽しみにしています。