第1207話 2016/06/09

鞠智城7世紀前半造営開始説の登場

 歴史公園鞠智城・温故創生館の木村龍生さんからご紹介いただいたのが『鞠智城東京シンポジウム2015成果報告書「律令国家と西の護り、鞠智城』(熊本県教育委員会、2016年3月31日)です。同書に収録された鞠智城東京シンポジウム(明治大学)の基調講演「鞠智城と古代日本東西の城・柵」(国立歴史民俗博物館名誉教授・岡田茂弘さん)に次のような注目すべき発言が記されていました。要点部分のみ抜き出しました。

 「鞠智城から出た瓦は単弁八葉の蓮華文瓦です。これと類似する瓦は大野城跡の主城原で出土しています。(中略)これは大野城でも一番古いタイプです。鞠智城でも、この瓦に伴う、丸瓦、平瓦は一番古いタイプだということが判っています。そうすると大野城のこの瓦と、鞠智城の瓦葺の建物はほぼ同じくらいの時期に造られたということがいえます。この辺は文献に出てこない鞠智城が大野城とほぼ近いということがいえる証拠になります。」(p.40)

 「鞠智城内には六世紀代の古代集落があり、それに伴った土器もあります。ところが七世紀の第1四半期、第2四半期、第3四半期、第4四半期という形で、第3四半期から急激に量が増えてくるという状態が分かると思います。この第3四半期から第4四半期はまさに大野城や基肄城が造られた時期です。」(p.40)

 「考えてみますと。古い土器が出てくるということに注目しますと、鞠智城の台地の部分は実は改変されていまして、層位が攪乱されているから、きちんと分かる状態ではないのです。しかし貯水池の場合は低地ですから、出土層位が残っています。特に貯木場の周辺では、瓦のでる、つまり大野城の創建期と同じ時期の瓦の出る包含層の下から、須恵器だけ出る包含層が知られています。これは鞠智城が大野城などよりも古くに造られた可能性を秘めているわけです。」(p.41)

 「大化の改新の直後に、南九州に対する施策があったにもかかわらず、それは『日本書紀』には書かれていません。なぜか消えてしまったということを示しています。鞠智城はその段階で、まさに南に対する前線本拠地として造られたのだと私は考えています。」(p.42)

 「同時に鞠智城については、いつ造られたのか、築城についての記載がありません。なぜないのかというと、一番合理的な解釈は、大野城や基肄城のより前に造られていたからです。南に対する防衛の拠点として、前に造られていたから、既にある城として大野城や基肄城とともに整備はされたが、既にあるから、新たに山城を造ったとは書かれていないと解釈すれば合理的です。結局、鞠智城は大野城や基肄城よりも、一段古く造られたのです。」(p.43)

 「鞠智城というのは七世紀の中葉に、東北の越国に造られた城柵に対応するように、南九州の熊襲・隼人に対する根拠地として建設された西日本の最初の城柵です。」(p.46)

 以上のように、岡田さんは鞠智城創建時期が7世紀中葉とする考えを述べられたのですが、その根拠は大野城出土瓦よりも古い土器が鞠智城から出土していることと、『日本書紀』の「大化改新」直後に南九州施策が記されていないということのようです。従来説よりも一歩前進した仮説と思いますが、学問的に論証が成立しているとは言い難く、まだ「作業仮説(思いつき)」程度の位置づけが妥当の様に思われます。
 その理由は次のような点です。

1.大野城の造営年代が従来説に依っている。瓦が大野城と鞠智城と同時期とする意見は考古学的出土事実の比較に基づかれているので、学問の方法論として問題ありません。しかし「土器」の比較は大野城出土「土器」となされるべきです。

2.鞠智城から出土する古い土器に注目されているにもかかわらず、7世紀第1四半期の土器の位置づけをスルーされています。7世紀第1四半期の土器の存在は鞠智城創建とは無関係とされるのなら、その考古学的理由を示されるべきでしょう。自説に都合の悪い土器(データ)を無視して、都合のよい土器(データ)だけで「論」を立てるのは学問的にアンフェアです。理系の論文や学会発表で同様のことを行ったら、「研究不正」と見なされ、即アウトでしょう。

3.近畿天皇家一元史観に依っておられるため、『日本書紀』の史料批判が不十分です。特に「大化改新詔」については一元史観の学会内でも見解が分かれています。九州王朝説に立てば、『日本書紀』「改新詔」の記事が九州年号「大化(695〜702)」の頃の事績か7世紀中葉の事績か、個別に検討が必要です。

4.南九州勢力の服属時期には、九州王朝への服属と大和朝廷への服属という多元史観的課題がありますが、一元史観の限界により、そうした検討・考察がなされていません。

5.「熊襲」と「隼人」の定義や位置づけが、現地の最新研究に基づいていない。この点、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の指摘があります。

 以上のような課題や論理的脆弱さは見られるのですが、一元史観内においても鞠智城創建年代を古く見る岡田説が出現したことは貴重な動向と思います。(つづく)


第1206話 2016/06/08

大野城・基肄城よりも早い鞠智城造営

 従来説では鞠智城の造営時期は大野城や基肄城と同じ7世紀の第3四半期から第4四半期頃とされていました。近年では大野城出土木柱の年輪年代測定により、白村江戦(663年)よりも前ではないかという説が有力になりつつあるようです。文献には鞠智城創建記事が見えないのですが、さしたる有力な根拠もないまま、鞠智城も大野城・基肄城と同じ頃に造営されたと考えられてきたのです。
 他方、わたしは近年の「聖徳太子(多利思北孤)」研究の進展により、『隋書』「イ妥国伝」に記されているように、隋使は肥後まで行き阿蘇山の噴火を見ていることから、その隋使を迎える宿泊施設があったはずで、その有力候補が鞠智城ではないかと考えました。肥後国府(熊本市付近か)では阿蘇山の噴煙は見えても噴火は見えませんから、やはり内陸部の鞠智城が有力なのです。この推察が正しければ鞠智城からは7世紀初頭の住居跡が出土するはずですし、同時期の土器も出土するはずです。
 このように、わたしは鞠智城6世紀後半〜7世紀初頭造営説に到着しつつあり、そのことを久留米大学での公開講座(5月28日)や和水町での講演(5月29日)で発表しました。そしてその翌日(5月30日)に訪れた歴史公園鞠智城・温故創生館で木村龍生さんから、近年、鞠智城の造営時期は従来説よりも早いとする説が出されていることを教えていただいたのです。


第1205話 2016/06/07

「須恵器杯B」は畿内より筑紫が早い

 一元史観でも編年が揺らいでいる「須恵器杯B」の成立年代をなるべく正確に判断する必要があるため、比較的安定した考古学的史料事実に基づいて考察してみます。

 最も編年の信頼性が高いのが前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」です。木簡(「戊申」年、648年)や自然科学的年代測定(年輪セルロース酸素同位体測定、年輪年代測定)というクロスチェックを経ていますので、遅くとも650年頃以前の「須恵器杯B」と考えられます。しかし、前期難波宮の水利施設造営時の地層から大量に出土した須恵器は「須恵器杯G」と呼ばれるタイプで、蓋につまみがあり、底に「脚」がない須恵器杯です。これは7世紀第2四半期頃と編年されており、前期難波宮が完成した652年(『日本書紀』による)と同時期かその直前であり、大阪歴博の考古学者はこの出土事実を前期難波宮孝徳期造営説の有力根拠の一つとしています。ですから、前期難波宮での7世紀第2四半期の流行土器は「須恵器杯G」であり、それに少数の「須恵器杯B」が混在していることとなり、「須恵器杯B」の近畿での発生時期がこの頃であったとする理解を支持します。なお畿内で「須恵器杯B」が主となって出土するのが藤原宮整地層(天武期)ですから、通説通り畿内での「須恵器杯B」の興隆時期は7世紀第4四半期(天武期・持統期)となります。わたしも畿内出土の「須恵器杯B」の発生と興隆の年代観はこれでよいと思います。

 他方、大宰府政庁遺構出土の「須恵器杯B」はⅠ期の整地層やⅠ期の時代の地層から、主流土器として出土しています(杉原敏之「大宰府政庁と府庁域の成立」『考古学ジャーナル』588号2002年所収、Facebookの写真参照)。このⅠ期は通説の編年でも天智期(660〜670年頃)からⅡ期が造営される8世紀初頭とされ、筑紫ではこの頃に「須恵器杯B」の興隆期を迎えていたことになり、畿内よりも興隆期が約20年ほど早くなるのです。一元史観に立ってもこれだけ「須恵器杯B」興隆期が揺らぐのですが、これに九州王朝説による修正を加えれば、「須恵器杯B」の筑紫での興隆時期は更に遡ることになります。(つづく)


第1204話 2016/06/07

大宰府政庁出土「須恵器杯B」の年代観

 『西都大宰府』に記されているように、大宰府政庁1期整地層から、従来7世紀第4四半期と編年されていた「須恵器杯B」が出土するということはかなり衝撃的なことです(Facebookに写真を掲載してます)。なぜなら、大和朝廷一元史観に立った通説でも大宰府政庁1期は天智の頃(660年前後)とされており、その下の整地層から出土した「須恵器杯B」は660年以前の土器となり、従来編年よりも20年ほど早くなるからです。
 もしこの「須恵器杯B」を従来通り7世紀第4四半期と編年してしまうと、大宰府政庁1期の堀立柱遺構も7世紀第4四半期以降となってしまい、白村江戦(663年)の10年以上も後に建てられたことになります。そうすると、通説でも665年頃に造営されたとするあの巨大な水城や大野城、基肄城は一体何を防衛していたのか、全くわけがわからなくなるのです。このように、大宰府政庁1期整地層から出土した「須恵器杯B」は一元史観の編年では数々の矛盾が生じ、理解不能となるのです。したがって、通説を維持する為にも「須恵器杯B」の編年を7世紀中頃以前にしなければなりません。前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」の編年も同様の論理的帰結を指し示していることは既に述べたとおりです。(つづく)


第1203話 2016/06/06

大宰府政庁1期整地層出土の「須恵器杯B」

 7世紀第4四半期に編年されていた「須恵器杯B」が前期難波宮整地層から出土していたことから、その発生時期が約30年ほど早くなることに気付いたわたしは、大宰府政庁遺構の出土土器を調べてみました。
 大宰府政庁遺構は三期からなり、通説では最も下層のⅠ期は天智天皇の頃、Ⅱ期は8世紀初頭とされてきました。しかし、九州王朝説の立場から見ると、Ⅰ期は条坊都市が造営された7世紀初頭から前半、Ⅱ期は7世紀後半の白鳳10年(670)頃とわたしは考えてきました。
 そこで出土土器を調べてみたのですが、『西都大宰府』(昭和52年)に記された土器の解説を見ると、何と政庁Ⅰ期下層整地層から「須恵器杯B」が出土していたのです(FaceBookの写真参照 7,8の土器)。このことにとても驚きました。九州王朝説の立場から考えると7世紀初頭の頃には「須恵器杯B」が九州では発生していたこととなり、通説よりも、前期難波宮整地層の「須恵器杯B」よりも更に早くなるのです。いくらなんでも、これは早すぎると思われ、わたしの仮説が間違っているのかもしれません。
 『西都大宰府』の発行は昭和52年で一般向け書籍なので、掲示土器数も少ないため、比較的新しい学術論文を追跡調査しました。(つづく)


第1202話 2016/06/05

前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」

 「須恵器杯B」の年代観が七世紀の編年の揺らぎの一因になっているのですが、わたしがそのことを知ったのは小森俊寛さんの『京から出土する土器の編年的研究』(2005)によってでした。同書で小森さんは前期難波宮整地層から少数だが「須恵器杯B」が出土していることを根拠に、前期難波宮の創建時期を天武期とされ、孝徳期とする大阪歴博などの考古学者と論争が続けられました

 現在では戊申年(648)木簡や出土木柱のセルロース酸素同位体測定、水利施設出土木材の年輪年代測定の結果がいずれも七世紀前半を指し示すことなどから、通説通り七世紀中頃の創建とする意見が圧倒的多数意見となっています。わたしもこの科学的測定結果とクロスチェックを経た652年(九州年号の白雉元年)造営説でよいと考えています。

しかし、同時に従来は七世紀第4四半期と編年されてきた「須恵器杯B」の発生時期の編年が古くなったのですから、この事実は「須恵器杯B」が出土した他の遺跡編年にも再検討を迫ると考えています。鞠智城も例外ではなく、大宰府政庁遺跡も同様です。(つづく)


第1201話 2016/06/05

鞠智城出土炭化米のC14測定年代

 「洛中洛外日記」1200話で、鞠智城創建時期は7世紀初頭の多利思北孤の時代まで遡るのではないかと述べましたが、Facebook での読者(西野さん)から鞠智城出土炭化米の炭素同位体年代測定がなされており、7世紀よりも古いという測定結果が出されているとのご教示をいただきました。こうしたリアルタイムでの応答や情報交換ができることはFacebook などの強みで、「古田史学の会・WEB例会」を構築したいという、わたしの希望の良き先例となりそうです。
 西野さんからご紹介された『鞠智城 第13次発掘調査報告』(平成4年3月、熊本県教育委員会)の「第七節 出土炭化物について」(p.51)によると「平成3年度の第13次調査で炭化米が出土したので、カーボンの年代測定を京都産業大学理学部の山田治教授に依頼した。結果は下記の通りであるが、若干の補足説明を行う。」として、次のように記されています。

①山田教授によれば、一年生植物である炭化米の測定年代は、年輪を有する木材等と違い、試料自体に原因を持つ誤差は生じないという。
②南側八角形建築址の堀形埋土を切る柱穴より出土した炭化米の年代は1000±15BPで、これは西暦950±15年に該当するが、この値は更に細かく考察すると第21表の14C年代と年輪年代との対照表では、標準偏差2倍、信頼度95%でAD(西暦)1000〜1020年になる。しかるに、文献上から鞠智城が消える年代が879年(『三代実録』による)なのでカーボン測定値と文献資料の年代は大体一致する事になる。
③17調査区の北東隅から検出された炭化米の年代測定結果は1450±15BPとなり、これは西暦500±15年という事になる。同じく、第21表によりAD590〜640年(6世紀後半〜7世紀中葉)という事になる。この年代は大きな問題である。そもそも文献上に鞠智城が現れるのは西暦698年(『続日本紀』による)であるので、年代が若干、遡ることになる。平成2年度に鞠智城の第9次調査(昭和62年度調査)で長者山より出土した炭化米を同教授のもとで測定した所、西暦650±30年(第21表によりAD660〜770年)という文献記録と照合しても妥当な線がでているが、今回はその年代よりも70〜130年程以前のものとなってしまう。この件に関し、鞠智城の築造年代にもかかわってくる問題なので(これまでの調査結果では城内から検出される竪穴住居址の最終年題が6世紀後半であるので、それ以前に鞠智城の築造年代が遡る事は考えられない。炭化米の年代はギリギリの線である)、今回は山田教授の結果報告のみの掲載に留める事にする。

 以上のように、この炭化米の測定年代の取り扱いに困っているのですが、わたしの多利思北孤の時代に創建されたとする説にはよく対応しており、自説に自信を深めました。この報告書の存在をご教示いただいた西野さんに感謝申し上げます。


第1200話 2016/06/04

鞠智城編年の

キーファクター「須恵器杯B」の年代観

 和水町講演会の翌日に鞠智城を再訪問し、歴史公園鞠智城・温故創生館の木村龍生さんに鞠智城出土土器編年について教えていただきました。通説では鞠智城の創建は7世紀第3四半期とされているのですが、わたしは7世紀初頭のタリシホコの時代にまで遡るのではないかと考えています。
 その主たる理由は7世紀の年代判定に使用されている須恵器の編年が各地で揺らいでおり、特に従来は天武期とされてきた「須恵器杯B」が652年に創建された前期難波宮整地層から出土していることから、その編年が30年ほど古くなったのです。
 「須恵器杯B」とは蓋につまみがあり、底に「脚」がある土器なのですが、木村さんから見せていただいた『鞠智城跡Ⅱ』(2012年)の土器編年表も鞠智城出土「須恵器杯B」が7世紀第4四半期に位置付けられています(FaceBookに写真を掲載しています)。この問題は古代の遺跡編年が雪崩打って変化する重要なテーマですので、慎重に検討したいと思います。
 最後に、昨年に続いての鞠智城訪問でしたが、わたしの通説と大きく異なる意見や質問に対して、休日出勤までして懇切丁寧に答えていただいた木村さんに感謝申し上げます。


第1199話 2016/06/03

方保田東原遺跡・双子塚古墳を訪問

 5月29日の和水町講演会も無事に終えて、その翌日は菊水史談会の前垣さんと考古学者の高木正文さんの御案内で、弥生時代から古墳時代前期にかけての国内でも最大級の環濠集落である方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)と遺跡敷地内にある山鹿市出土文化財管理センターを訪問しました。高名な高木さんのおかげで、収蔵庫内にも入れていただき、土器や鉄鏃、ガラス玉などを間近で見ることができました。
 学芸員の方の説明ではこの度の大地震により、出土土器が少なからず破損したとのことでした。このような大規模な環濠集落が熊本県にあったことを、わたしは知りませんでしたので、とても勉強になりました。
 黒曜石が多数散らばっていた吉野ヶ里遺跡とは異なって、ここは鉄鏃の出土が多いように感じました。肥後は鉄器の出土量が弥生末期になると福岡県を抜いてトップになるほどの鉄の産地です。ちなみに奈良県は弥生時代の遺跡からは鉄器がほとんど出土しません。にもかかわらず、「邪馬台国」畿内説を支持する考古学者が多いことは理解に苦しみます。日本の考古学は学問ではないかのようです。
 次に、熊本県最大級の前方後円墳である山鹿市双子塚古墳を訪れました。同古墳をわたしは韓国にある方部が三角錐のように尖っている前「三角錐」後円墳と思っていたのですが、そうではなく三段築造の前方後円墳でした。写真ではなく現地で直接観察することが大切でした。


第1198話 2016/06/02

「古田史学の会」会員総会・講演会のご案内済み

 2016年度「古田史学の会」会員総会と講演会を下記の通り開催します。参加費は無料で、非会員の方も講演会は参加できます。
 講演会では、正木裕さんから『三国志』倭人伝の最新研究成果が発表され、張莉さんは朝日カルチャーなどでも好評の「食と酒の漢字」というテーマです。お誘い合わせの上、多数ご参加ください。

日時:6月19日(日)13:00開場
会場:大阪府立大学I-siteなんば2階C会議室
   大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル2階
※アクセス
○南海電鉄難波駅 なんばパークス方面出口より南約800m 徒歩12分
○地下鉄なんば駅(御堂筋線)5号出口より南約1,000m 徒歩15分
○地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線)1号出口より東約450m 徒歩7分

13時〜13時15分    開会あいさつ
◎講演会(参加費無料)
13時30分〜14時45分  「食と酒の漢字」張莉さん(大阪教育大学特任准教授)
15時〜16時 「漢字と木簡から短里を解明する」正木裕さん(古田史学の会事務局長、大阪府立大学講師)
16時30分〜17時 会員総会
 *終了後、懇親会を開催します(当日受付、会費は別途徴収)

※これに先立ち同所で10時より「古田史学の会」全国世話人会を開催します。


第1197話 2016/06/01

久留米大学公開講座は盛況

 5月28日に開催された久留米大学公開講座は、おかげさまで盛況でした。正木裕さんが「聖徳太子」(多利思北孤)は久留米にいたことを明らかにされ、九州王朝の兄弟統治についても解説されたところ、質疑応答ではその「弟」についての質問や、久留米からは7世紀初頭の宮殿遺構が発見されていないなどの鋭い本質的な質問が出されました。年々、聴講者からの質問のレベルが高くなっているように思いました。
 そうした質問に対応するように、わたしからは「弟」を「肥後の翁」とする仮説を発表しました。また、北部九州の須恵器編年が40年ほど古くなる可能性があり、久留米市から出土した筑後国府遺構の編年についても再検討する必要があることを説明しました。
 講演後は西鉄久留米駅近くの居酒屋に場所を換えて、当地の会員のみなさんや久留米地名研究会の荒川会長や久留米大学の福山教授も交えて、夜遅くまで歓談しました。


第1196話 2016/05/31

熊本県に多い古墳時代の「馬」出土

 「洛中洛外日記」1194話の「馬と塩」で、馬の飼育には大量の塩が必要であることを述べましたが、昨日、訪問した歴史公園鞠智城・温故創生館の木村龍生さんに馬と塩についてお聞きしたところ、天草の製塩土器が県内各地から出土することと、馬を飼育していたと思われる古代の牧が阿蘇外輪山付近などにあったとのことでした。
 更に、案内していただいた高木正文さん(現地の考古学者、菊水史談会)のお話では、古墳時代の「馬」の出土は熊本県と長野県が多いとのことでした。熊本県が多いのは、『隋書』の記述からも納得できますが、なぜ長野県に多いのか不思議です。しかも、長野には海がなく、塩の入手にも困難と思われるだけに、ますます不思議に思いました。古墳の周濠などから馬の骨が出土しており、埋葬の痕跡を示しているとのことでした。
 『隋書』「イ妥国伝」に見える200騎の騎馬隊や、江田船山古墳出土鉄剣の馬の象嵌など、古代の肥後が馬の産地であることは、九州王朝の実像を考える上で重要なことのように思いました。