第1256話 2016/08/16

難波朝廷の官僚7000人

 難波宮址からは次々と考古学的発見が続いています。正木裕さんの説明によると、前期難波宮の宮域北西の谷から7世紀代の漆容器が3000点以上出土しているとのこと。しかも驚いたことに、平安京では宮域の北西地区に大蔵省があり、その管轄である「漆室」が隣接していました。前期難波宮においても宮域北西地区に「大蔵」と推定される遺構が出土しており、その北側の谷に大量の漆容器が廃棄されていたのです。この出土事実によれば、前期難波宮と平安京において律令官制に基づいた宮域内の同じ位置に同じ役所(大蔵省・漆室)が存在していたこととなります。
 こうした説明を聞き、わたしは驚愕しました。もし前期難波宮の時代の「九州王朝律令」と大和朝廷の『養老律令』(その基となった『大宝律令』)が類似していたとすれば、前期難波宮の宮域で勤務する律令官僚は7000人(服部静尚さんの調査による)ほどとなるからです。これほどの官僚群が勤務し、その家族も含めて居住できる宮殿・官衙と都市は、7世紀において大和朝廷の藤原宮(藤原京)と前期難波宮(難波京)しかなく、飛鳥清御原宮や大宰府政庁では規模が小さく、大官僚群とその家族を収容できません。
 論理と考古学事実から、こうした理解へと進まざるを得なくなるのですが、そうすると前期難波宮は九州王朝の副都ではなく首都と考えなければなりません。この問題は重要ですので、引き続き慎重に検討したいと思います。なお、前期難波宮出土の木柱や漆容器について、8月20日の「古田史学の会」関西例会で正木裕さんから詳細な報告がなされる予定です。


第1255話 2016/08/15

前期難波宮出土木柱は羅城跡か

 最近、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が精力的に取り組まれている「難波京の羅城」調査ですが、『日本書紀』天武8年条(679)に見える「難波の羅城」造営記事は考古学的には未発見であったことから、記事の信憑性が疑われてきました。ところが「難波京羅城」が存在していた可能性が高まりつつあるようなのです。
 服部さんは「難波京羅城」の存在を、これまで地名や文献からその痕跡を関西例会で報告されてきたのですが、過日のミーティングでは、大阪府文化財センターの江浦洋さんから聞かれた前期難波宮出土木柱の出土状況について、次のような興味深い考古学的事実について、正木裕さんから説明がありました。

1.同木柱は年輪セルロース酸素同位体比年代測定により、7世紀前半のものであり、前期難波宮の北側の東西柵列から出土したものである。
2.直径は約30cmと太く、単なる柵ではなく、土塀の柱と考えられる。
3.柵列は高低差のある地表に沿って並んでいる。言わば万里の長城のよう。

 以上のような考古学出土事実から、この東西柵列こそ羅城の跡ではないかと正木さんは考えられるとのことなのです。しかも、柵列の外側(北側)は谷となっており、前期難波宮を防衛する羅城にふさわしい位置にあります。なお、服部さんは宮域を区画する柵の可能性もあるとされています。
 服部さんが調査された「羅城」地名といい、今回の考古学的痕跡といい、難波京に羅城があったとする有力な証拠が着々と発見されています。なお、正木説によれば、天武8年条(679)の羅城造営記事は34年遡り、実際は645年のこととなり、まさに前期難波宮完成(652年)の前となります。服部さんの研究の進展が期待されます。


第1254話 2016/08/14

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(15)

 冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の「河内戦争」(古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収。明石書店、2015年)は、「古田史学の会」関西例会で発表されてきた研究を論文としてまとめられたものですが、当初わたしはこの論文の持つ重要性を正しく認識できていませんでした。ところが論文が掲載された『盗まれた「聖徳太子」伝承』が発行されると、何人かの読者の方から冨川稿を高く評価する声が聞こえてきたのです。そこで、わたしも改めて再読三読したところ、当初理解できていなかった同論文の持つ重要性を認識することができました。
 冨川稿の画期は、『日本書紀』崇峻紀に見える捕鳥部萬(よろず)が河内など八国を支配していた近畿地方の有力者であったことを発見されたことにあります。詳細は同論文を読んでいただきたいのですが、大和の近畿天皇家と拮抗する、あるいはそれ以上の権力者が近畿地方に割拠しており、その勢力を6世紀末に九州王朝は攻め滅ぼしていたのです。その戦争を冨川さんは「河内戦争」と名付けられました。そこで活躍したのは『日本書紀』によれば近畿天皇家と蘇我氏ですが、九州王朝の主力軍がどのような勢力だったのかは今後の研究課題です。
 こうして6世紀末の河内や難波での戦争に勝利した九州王朝が、後にその地に天王寺や前期難波宮を造営したと考えられ、冨川さんの「河内戦争」という論文は、前期難波宮九州王朝副都説を成立させうる歴史的背景を明らかにしたものといえるのです。しかし、冨川論文の画期はそこにとどまりません。河内の巨大古墳は近畿天皇家のものではなく、この地域を支配していた捕鳥部萬の祖先の墓ではないかとする服部静尚さんが提起されている新たな仮説へと論理的に繋がっていくのです。
 このように冨川論文は「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《三の矢》(巨大な前期難波宮)の歴史的背景を明らかにしただけではなく、《一の矢》(近畿の巨大古墳)をも解決できる可能性を示したのです。《二の矢》(近畿の古代寺院群)の問題についても、正木裕さんにより、難波から斑鳩に存在した古代寺院を九州王朝によるものとする仮説が検討されています。直ちに賛成できる段階ではないと、わたしとしては考えていますが、「九州王朝説に刺さった三本の矢」問題の解決が前期難波宮九州王朝副都説の展開と冨川さんの「河内戦争」という論文により、ようやく解決の糸口が見えてきたのです。
 最後にもう一度述べますが、それでもわたしの前期難波宮九州王朝副都説に反対される方は、「九州王朝説に刺さった三本の矢」の解決方法を明示してください。それが九州王朝説に立つ論者の学問的責任というものです。(了)


第1253話 2016/08/12

『古田史学会報』135号のご案内

 『古田史学会報』135号が発行されましたので、ご紹介します。本号は九州王朝研究の最新課題などの重要論文が掲載されています。

 正木さんからは、龍田神社の風の祭りは本来は九州王朝における阿蘇地方のものであったとする新説が発表されました。

 わたしからは九州王朝説にとって不利な三つの考古学的事実を「九州王朝説に刺さった三本の矢」として紹介、解説しました。また、熊本県の鞠智城創建年代を通説よりも早い6世紀末から7世紀初頭の多利思北孤の時代とする新説を報告しました。

 西村さんからは『別冊宝島 「邪馬台国」とは何か』に収録された渡邉義浩氏の『三国志』に関する論稿への批判論文が発表されました。

135号に掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』135号の内容
○盗まれた風の神の祭り 川西市 正木裕
○九州王朝説に刺さった三本の矢(前編) 京都市 古賀達也
○古田先生が坂本太郎氏に与えた影響について 福岡市 中村通敏
○『別冊宝島 古代史再検証「邪馬台国とは何か」』の検証 高松市 西村秀己
○古田史学の会 第22回会員総会の報告
○鞠智城創建年代の再検討-六世紀末〜七世紀初頭、多利思北孤造営説- 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅵ 倭国通史私案①
黎明の九州王朝 古田史学の会・事務局長 正木裕
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○「邪馬壹国の歴史学」出版記念講演会の報告 八尾市 服部静尚
○古田史学の会・関西例会のご案内
○大阪府立狭山池博物館見学と講演のお知らせ
○編集後記 西村秀己


第1252話 2016/08/12

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(14)

わたしが、九州王朝と摂津難波とは歴史的に関係が深いのではないかと気づいたのには、前期難波宮九州王朝副都説(「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年4月)とは無関係に、次のような研究経緯があったからです。
2008年6月15日の「古田史学の会」関西例会で、わたしは「近江朝廷の正体 -壬申の乱の『符』-」という研究を発表しました。その目的は、2004年に『古田史学会報』61号で「九州王朝の近江遷都 -『海東諸国記』の史料批判-」という論文で、九州王朝が白鳳元年(661)に近江に遷都したとする仮説を発表したのですが、その仮説を傍証することでした。
『日本書紀』の「壬申の乱」の記事中に、近江朝廷側から「符(おしてふみ)」という上位者から下位者へ出す「命令書」が吉備や筑紫に発行されていることから、近江朝廷には筑紫や吉備よりも上位者がいたことになり、九州王朝説の立場からすれば、近江朝廷に九州王朝の有力者(筑紫や吉備よりも上位者)がいたことになり、この「符」という史料事実は九州王朝の近江遷都の傍証となり得るという研究発表でした。
その史料調査のとき、『日本書紀』中には「壬申の乱」以外には崇峻紀のみに「符」が現れることを知ったのです。それは「蘇我・物部戦争」の後に、河内で抵抗した捕鳥部萬(よろず)の遺骸を八つに斬れという何とも残酷な命令を「朝廷」が河内国司に出すという一連の記事中に「符」が現れます。先の近江朝廷の「符」が九州王朝からのものとすれば、この崇峻紀に見える「符」も九州王朝からのものとするのが、論理的一貫性と考えられ、いわゆる「蘇我・物部」戦争は九州王朝の命令により行われたのではないかと考えていました。
こうした研究経緯により、6世紀末頃に九州王朝は難波を制圧し、後に自らの直轄支配領域として天王寺を造営(倭京2年、619年)するに至ったと理解しました。そうした歴史的背景のもとに前期難波宮が副都として白雉元年(652)に造営されたものと思われます。このわたしの理解を強力に裏付ける衝撃的な論文が発表されました。冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の「河内戦争」(古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収。明石書店、2015年)です。(つづく)


第1251話 2016/08/12

『二中歴』国会図書館本の旧蔵者

 『二中歴』国会図書館本(小杉榲邨氏影写本)の旧蔵者が著名な蒐集家の大島雅太郎氏だったことがわかりました。昭和12年の尊経閣文庫『二中歴』出版の解説によると「大島雅太郎氏蔵小杉榲邨博士自筆本」と紹介されています。その頃までは大島氏が所蔵しており、戦後の財閥解体により散逸したようです。国会図書館本に押されている丸印が大島氏と関係するものかどうかは、まだ不明です。知られている大島氏の蔵書印とは異なるようです。
 下記はウィキペディアの「大島雅太郎」の解説です(一部修正しました)。

 大島 雅太郎【おおしま まさたろう、新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年/明治元年1月1日) – 1948年(昭和23年)6月9日】は、戦前の三井合名会社理事、蒐書家、慶應義塾評議員、日本書誌学会同人。
 源氏物語の写本の収集家で知られるが、鎌倉時代からの古写本の収集に努め、その膨大なコレクションは青谿書屋(せいけいしょおく)と称した。戦後の財閥解体で公職追放となり、旧蔵書は散逸した。雅号は景雅。角田文衛は大島の人となりを、「恭謙温良」と評した。


第1250話 2016/08/11

NHK文化センター神戸で谷本さんが講演

  古代中国の算術書『周髀算経』に短里が使用されていたことを明らかにされた谷本茂さん(古田史学の会・会員)が、NHK文化センター神戸教室(078-360-6198)の夏の特別講座で、次の講演をされます。
 古事記の「国生み」「天孫降臨」「神武東征」神話などを、兵庫県の古代遺物の出土状況を踏まえて、新たな視点で見直されるとのことですので、ご案内します。

【テーマ】「兵庫県からみた古事記の世界〜銅剣・銅鐸文化と神話の謎をさぐる〜」
【日時】8月31日(水)10:30〜12:00
【会場】NHK文化センター神戸教室(JR神戸駅南口出てすぐ。高速神戸駅徒歩4分)


第1249話 2016/08/10

大阪府立狭山池博物館見学と講演のご案内済み

 大阪府立狭山池博物館見学と講演のご案内です。中国から出土した三角縁神獣鏡を実地調査された西川寿勝さんから、詳細な調査報告をしていただきます。とても貴重な内容ですので、わたしも楽しみにしています。

○日時 9月3日(土) 14時〜16時30分
  ①14時〜15時 博物館展示解説
 ②15時〜16時30分 講演
  演題 「洛陽発見の三角縁神獣鏡について」
  講師 西川寿勝氏(大阪府立狭山池博物館学芸員)
  (於:博物館会議室)

○場所 大阪府立狭山池博物館
    大阪狭山市池尻中2丁目(南海高野線大阪狭山市駅、西に徒歩5分)

※人数限定のため希望者は事前に正木事務局長まで申し込んでください。メール Babdc106@jttk.zaq.ne.jp
「古田史学の会・関西」ハイキング参加者はコースに入っているので申し込み不要です。


第1248話 2016/08/08

信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」

 信州に多数分布する「高良社」や、熊本県天草市と長野県岡谷市に分布する「十五社神社」など、信州と九州に密接な関係があることに強い関心を持ってきました。たとえば「十五社神社」に関しては「洛中洛外日記」でも取り上げてきました。下記の通りです。

第422話 2012/06/10 「十五社神社」と「十六天神社」

第483話 2012/10/16 岡谷市の「十五社神社」

第484話 2012/10/17 「十五社神社」の分布

 この両地方の関係について、その淵源が古代にまで遡るのか、九州王朝によるものかなどわからないことばかりでしたが、「評」系図としても有名な「異本阿蘇氏系図」を精査再検討していたところ、両者の関係が古代に遡るとする痕跡を見いだしましたので、概要のみご紹介します。
 『田中卓著作集』に収録されている「異本阿蘇氏系図」によると、「神武天皇」から始まる同系図は、その子孫の阿蘇氏(阿蘇国造・阿蘇評督など)の系譜を中心にして、途中から枝分かれした「金刺氏」(科野国造・諏訪評督など)や「多氏」などの系譜が付記(途中で接ぎ木)された様相を示しています。従って、阿蘇氏内に伝来した阿蘇氏系譜部分は比較的「精緻」と思われることに対して、「金刺氏」系譜部分は遠く離れた「信州の分家」からもたらされた系図を、後世になって阿蘇氏自らの系図に付記したものと考えられ、史料的な信頼性は劣ると考えざるを得ません。この点については、「系図の史料批判の方法」として別の機会に詳述する予定です。
 阿蘇氏や金刺氏・諏訪氏の系図は各種あるようで、どれが最も古代の真実を伝えているのかは慎重に検討しなればなりませんが、「異本阿蘇氏系図」の編者にとっては、信州の金刺氏(後の諏訪氏)は継躰天皇の時代以前に阿蘇氏から分かれて信州に至ったと主張、あるいは理解していることとなります。もちろんこうした「理解」が真実かどうかは他の史料や考古学的事実を検討しなければなりませんが、信州と九州の関係が古代に遡ることの傍証になるかもしれません。
 「異本阿蘇氏系図」の「金刺氏系譜」部分でもう一つ注目されたのが、「諏訪評督」の注を持つ「倉足」の兄弟とされる「乙穎」の細注に見える次の記事です。

「一名神子、又云、熊古」

 「神子」の別称を「熊古」(「くまこ」か)とするものですが、「神」を「くま」と訓むことは筑後地方に見られます。たとえば「神代」と書いて「くましろ」と当地では読みます。ちなみに「神代家」は高良玉垂命の後裔氏族の一つです。この「神(くま)」という訓みは九州王朝の地(筑後地方・他)に淵源を持っているようですので、「異本阿蘇氏系図」に見えるこの「熊古」記事は諏訪氏と九州との関係をうかがわせるのです。
 この信州と九州とを繋ぐ「異本阿蘇氏系図」の史料批判や研究はこれからの課題ですが、多元史観・九州王朝説により新たな展開が期待されます。

〔後注〕信州と九州の関係について研究されている長野県上田市の吉村八洲男さんと、最近、知り合いになりました。共同研究により、更に研究が進展するものと楽しみにしています。


第1247話 2016/08/06

『二中歴』国会図書館本の書写者と「影写」

 『二中歴』国会図書館本が明治時代の国文学者・日本史学者の小杉榲邨(こすぎおんそん、こすぎすぎむら。1835-1910年)氏の蔵書であったらしいことをつきとめたのですが、その書写も小杉榲邨氏によるものであることがわかりました。
 「洛中洛外日記」第1242話「『二中歴』年代歴の虫喰部分の新史料」を読まれた齋藤政利さん(古田史学の会・会員、多摩市)から、「国会図書館本の書写は収蔵している古典籍資料室に尋ねたところ、第1冊の最後に書かれている明治10年に東京の小杉さんが書写したと思うと言っていました」とのご連絡をいただきました。わたしは問題の「年代歴」が収録されている第2冊ばかりを集中して読んでいましたので、第1冊末尾に書かれた小杉氏自らによる書写の経緯を記した「奥書」を、迂闊にも見落としていました。
 その「奥書」の冒頭には次のように、小杉氏が前田尊経閣本を書写したことが明記されていました。

 「二中歴十三帖 従四位菅原利嗣君〔舊加賀候前田家〕曽ノ秘蔵シ給フ所ノ古寫本ナリ 今茲明治十年六七月間タマタマ被閲スルコトヲ得テ頓ニ筆ヲ起シテ影寫神速ニ功成了」(後略)
 ※〔〕内は二行細注。一部現代字に改めました。

 そして最後に「九月廿?五日」「於東京駿臺僑居小杉榲邨 識」と、日付と所在地が記されています(?の部分の字は「又」のようにも見えます)。「僑居」とは「仮住まい」のことですので、明治10年に東京の駿河台に小杉氏は住んでいたことがわかります。
 以上から、国会図書館本の書写者が小杉榲邨氏であることが判明したのですが、わたしはこの「奥書」に見える「影寫」という表記に注目しました。「影写」とは、書写するときに底本の上に薄く丈夫な紙を置き、下の字を透かし写す書写方法のことで、「透写」とも呼ばれています。国会図書館本は「影写」技法を用いて前田尊経閣本を書写していたのです。
 このことを知り、わたしはずっと疑問に思っていた謎がようやく解けました。というのも、国会図書館本を初めて見たとき、わたしは前田尊経閣本と思ったのです。特に「年代歴」部分は幾度となく精査しましたから、その筆跡や文字の配置が前田尊経閣本にそっくりだったからです。しかし、全体の雰囲気や細部が異なり、やはり別物だと気づいたのですが、それにしてもなぜこんなにそっくりなのだろうかと不思議に思っていたのです。
 通常、写本は原本の内容を写すのですから、筆跡は書写者のものであり、原本とは異なるのが当然と考えていましたし、実際、これまでの古文書研究に於いて、原本と写本とでは筆跡や文字配置が異なるものばかり目にしてきたからです。
 小杉氏による「奥書」の「影寫」の二字を見て、この疑問が氷解しました。文献史学の醍醐味の一つは原本や写本調査にあります。活字本による研究とは異なり、その時代の筆者の息づかいまでが感じられるのですから。「奥書」の存在を教えていただいた齋藤さんに心より御礼申し上げます。なお、わたしのFacebookに同「奥書」を掲載していますので、ご覧ください。


第1246話 2016/08/05

長野県南部の「筑紫神社」

 「洛中洛外日記」第1240話「長野県内の「高良社」の考察(2)」を読まれた読者の方から、長野県南部の下伊那郡泰阜(やすおか)村に筑紫神社が鎮座しており、御祭神が高良玉垂命であることを教えていただきました。次のようです。

信濃国 伊那郷里に、「筑紫神社」が存在します。御祭神は、高良玉垂命 です。
長野県下伊那郡泰阜村字宮ノ後3199番
地図 https://goo.gl/maps/v7u5HuvdqcU2
因みに発見したときのブログです。
「伊那谷に 筑紫神社 があった!」
http://utukusinom.exblog.jp/12466291/

 地図を見ますと、かなり山奥のようです。しかも、現地では同神社に関する伝承が伝わっていないようで、「高良社」ではなく「筑紫神社」と称されていることも気になります。
 九州の高良信仰は在地性の強い信仰圏を有し、その神社は筑後地方に濃密分布しています。ですから、「筑後神社」というのならよくわかりますが、「筑紫神社」ではちょっと違和感があるのです。九州(筑紫)から勧請された神様を祀るので筑紫神社と銘々されたのか、あるいは九州が筑前と筑後の分国前(6世紀末以前)に信州にもたらされたため筑紫神社とされたのか、興味があるところです。
 こうした現地の情報が集まるのも、インターネットの利点です。ご連絡いただき、ありがとうございました。


第1245話 2016/08/05

「論証と実証」論の古田論文

 7月の「古田史学の会」関西例会での大下隆司さんからの「学問は実証よりも論証を重んじる」に関する発表を受けて、茂山憲史さん(古田史学の会・編集委員)も8月の関西例会で同問題について報告されることになりました。
 わたしはこの「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉は学問の金言と理解していますが、古田先生から直接詳しい説明をお聞きしたことはありませんでした。ところが、「古田史学の会」会員で多元的「国分寺」研究サークルの肥沼さんが同サークルのホームページに、古田先生による解説文を転載されました。古田先生の「学問的遺言」とも言うべきものですので、ここに転載させていただき、ご紹介いたします(転載にあたり、若干の編集を行いました)。

多元的「国分寺」研究ホームページより転載

2016年7月29日 (金)
「論証と実証」論(古田論文を収録!)

 もしかしたら,「学問は実証より論証を重んじる」について,以下のところに書いていないでしょうか?「新古代学の扉」サイトを眺めていて,そう思いました。筑紫舞のことが載っている『よみがえる九州王朝』の復刻版で,ミネルヴァ書房のものです。
 以下,古田武彦著『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房)より

日本の生きた歴史(十八)
 第一 「論証と実証」論

          一

 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
「実証より論証の方が重要です。」と。
 けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 「広島滞在」の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで「亡師孤独」の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
 助手の梅沢伊勢三さんも、「そう言っておられましたよ。」と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その「真意」については、「判りません。」とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。

          二

 今のわたしから見ると、これは「大切な言葉」です。ここで先生が「実証」と呼んでおられたのは、「これこれの文献に、こう書いてあるから」という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して「論証」の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき、“必然の帰結”です。わたしが旧制広島高校時代に、岡田甫先生から「ソクラテスの言葉」として教えられた、
「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(趣意)こそ、本当の「論証」です。
 一例をあげましょう。
 三国志の魏志倭人伝には,直接「南米」そのものをしめす文面はありません。その点、狭い意味での「実証」では、「南米問題」は出てこないのです。
 しかし、倭人伝には次の文面があります。

①「(侏儒国)その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里」
②「(裸国・黒歯国)あり。またその南東にあり。船行一年にして至るべし」

 わたしが『「邪馬台国」はなかった』で論証したように、倭人伝は、「短里」(七十五〜九十メートル。七十五メートルに近い)で記されているという立場からすれば、

(その一)「侏儒国」は足摺岬(高知県)近辺である。
(その二)「裸国・黒歯国」は南米のエクアドル近辺である。

 という、二つの命題に至らざるをえません。右の(その一)は「黒潮と日本列島の接点」であり、(その二)は「黒潮とフンボルト大寒流の接点」と対応しているのです。

 幸いに、わたしの「論証」は、“裏付け”られました。

(α)マラウージョ(一九八〇年)・フェレイラ(一九八三、八八年)の論文によって、化石ならびにミイラを通して日本列島側との交流が報告された(『「邪馬台国」はなかった』「補章 二十余年の応答」。ミネルヴァ書房版では三六六ページ)。

 さらに、

(β)南米の「インディオ」のウィルスと遺伝子が日本列島(太平洋側)の住民と「同一型」であることが証明された(田島和雄氏)。
(γ)南米の地名中の「スペイン語・ポルトガル語以外の地名」に「原初日本語」の存在が「発見」された(「トリ」「ハタ」「マナビ」等)。さらに有名な南米最大の湖「チチカカ湖」は、「チ(神の古名)」と「カ(神聖な水)」のダブリ言語(日本語では、チチブ山脈など)であり、「太陽の神の作りたもうた神聖な湖」(「アイマラ語」インカ語以前の諸言語)の意義であることが判明した(藤沢徹氏の報告による)。

 ここでも、日本語と南米の「原初語(地名)」がまさに“共通”していたのです。
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは、「論証」、この二文字だったようです。