第1267話 2016/09/05

「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(2)

 古田先生の最新刊『鏡が映す真実の古代』によれば、三角縁神獣鏡の成立時期を古田先生は「景初三年(239)・正始元年(240)」前後とされました(「序章」2014年執筆)。当初は4世紀以降の古墳から出土する三角縁神獣鏡は古墳期の成立とされていたのですが、この古田説の変化についてわたしには心当たりがありました。それは1986年11月24日、大阪国労会館で行なわれた「市民の古代研究会」主催の古代史講演会のときで、テーマは「古代王朝と近世の文書 ーそして景初四年鏡をめぐってー」でした。
 この講演録は『市民の古代』九集(1987年)に講演録「景初四年鏡をめぐって」として収録されており、「古田史学の会」ホームページにも掲載しています。当該部分を略載します。なお、この講演録が『鏡が映す真実の古代』に収録されなかった理由は不明です。平松さんにお聞きしようと思います。

〔以下、転載〕
 今、仮に「夷蛮」、この言葉を使わせてもらいます。(中略)いわゆる中国の周辺の国々に、いちいち早馬だか、早船を派遣して全部知らせてまわる人などということはちょっと聞いたことがないわけです。そうするとその場合、どうなるかというと、周辺の国が中国に使いをもたらしていた。それを中国では「朝貢」という上下関係、それでなければ受けつけない。現在で言えば「民族差別」「国家差別」でしょうが、そういう「朝貢」をもっていった時に、年号の改定が伝えられるというのが、正式な伝え方であろうと思うのです。
(中略)そういう時にその布告、「年号が変わった」ということが伝えられることになるわけです。そうしますとそういう国々で金石文をつくりました場合はどうなりますか。要するに中国本土内では存在しない「景初四年何月」という、そういう年号があらわれる可能性がでてくるわけでございます。事実、ここにちゃんとでてきているわけです。そうするとこの鏡は実は中国製ではない。「夷蛮鏡」という言葉を、私のいわんとする概念をはっきりさせるために、使ってみたんです。この年号は「夷蛮鏡」である証拠ではあっても、中国製である証拠とはならない、私は自分なりに確認したわけでございます。
〔転載終わり〕

 この講演を聴いたとき、わたしは驚きました。「景初四年鏡」を景初四年に国内で作られたとされたので、従来の三角縁神獣鏡伝世理論を批判されてきた理由との整合性はどうなるのだろうかとの疑問をいだいたのですが、わたしは「市民の古代研究会」に入会したばかりの初心者の頃でしたから、恐れ多くてとても質問などできないでいました。今、考えると、この頃から古田先生は三角縁神獣鏡の成立時期について見解を新たにされていたのではないかと思います。このことを、わたしよりも古くから先生とおつき合いされていた谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)にお聞きしたところ、わたしと同見解でした。谷本さんも「景初四年鏡」の出現により古田先生は見解を変えられたと思うとのことでした。(つづく)


第1266話 2016/09/04

狭山池博物館訪問と西川寿勝さん講演

 昨日は、中国洛陽から発見された三角縁神獣鏡を現地で実見調査された狭山池博物館の西川寿勝さんから詳しい調査の報告をしていただきました。
 「古田史学の会・関西」の遺跡巡りハイキングの一環として、狭山池博物館を訪問し、西川さんに同館をご案内いただいた後に、洛陽発見の三角縁神獣鏡についてご説明いただきました。ハイキングの一行だけではなく、遠く関東から冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)や『鏡が映す真実の古代』を編集された平松健さん(東京古田会)も見えられ、総勢30名ほどでお聞きしました。
 西川さんは国内トップクラスの鏡の専門家で、その説明は説得力のあるものでした。同鏡が贋作ではなく、日本出土の三角縁神獣鏡と同じ技術で製造されていることなど、詳細に説明されました。現地での「裏話」も含めてとても有意義な講演でした。洛陽発見の三角縁神獣鏡の「立体拓本」も見せていただきました。同鏡の所蔵者から贈呈されたものだそうです。この写真はわたしのfacebookに掲載していますので、ご覧ください。
 西川さんには同博物館や狭山池の案内もしていただきました。特に土器編年についても詳しく教えていただき、勉強になりました。その後、なかもず駅近くの白木屋で歓談。翌朝は青森県三内丸山遺跡に行かなければならないというハードスケジュールにもかかわらず、遅くまでお付き合いいただきました。「古田史学の会」の講演会にも来ていただけるとのことで、また楽しみが一つ増えました。
 なお、今年は狭山池造営(616年)からちょうど1400年で、その幟が博物館や市内に立てられているとのこと。同館には文化財級の遺物の本物が多数展示されており、おすすめです。


第1265話 2016/09/01

「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(1)

 平松健さん(東京古田会)が編集された古田先生の最新刊『鏡が映す真実の古代』(ミネルヴァ書房)を読んでいますが、三角縁神獣鏡に対する古田先生の見解の進展や変化が読みとれて、あらためてよい本だなあとの思いを強くしています。
 特に驚いたのが、同書冒頭の書き下ろし論文「序章 毎日が新しい発見 -三角縁神獣鏡の真実-」に記された次の一文でした。

 次に、わたしのかつての「立論」のあやまりを明白に記したい。三角縁神獣鏡に対して「四〜六世紀の古墳から出土する」ことから、「三世紀から四世紀末」の間の「出現」と考えた。魏朝と西晋朝の間である。
 いいかえれば、魏朝(二二〇〜二六五)と西晋朝(二六五〜三一六)の間をその「成立の可能性」と見なしていたのだ。だがこれは「あやまり」だった。「景初三年・正始元年頃」の成立なのである。この三十年間、「正始二年以降」の年号鏡(紀年鏡)は出現していない。すなわち、三角縁神獣鏡はこの時間帯前後の「成立」なのである。 (同書10ページ、2014年執筆)

 古田先生は三角縁神獣鏡の成立時期を「景初三年(二三九)・正始元年(二四〇)」前後とされているのです。すなわち、「景初三年鏡」や「正始元年鏡」という三角縁神獣鏡(金石文)を根拠に弥生時代の成立とされたのです。古くからの古田ファンや古田学派研究者はよくご存じのことですが、古田先生は三角縁神獣鏡は国産鏡であり、俾弥呼が魏からもらった鏡ではないとされ、次のように繰り返し主張されてきました。

 以上、古鏡の問題は、従来、「邪馬台国」近畿大和説のバックボーンをなすものと思われてきた。しかし、意外にも、それらの鏡群(三角縁神獣鏡。古賀注)は、三世紀とは別の時代の太陽を反射して、この世に生まれたようである。 (同書37ページ、初出『失われた九州王朝』1973年刊)

 最後に問題の三角縁神獣鏡の史的性格について、二・三の問題点をのべておこう。
(一)当鏡が四〜六世紀の古墳から出土している以上、その時代(古墳期)の文明の所産と見るべきであること。  (同書313ページ、初出『多元的古代の成立(下)』1983年刊)

 やはりすべてが古墳から出土する出土物は、これを古墳期の産物と考えるほかはない。これが縦軸の論理だ。
 以上の横と縦の「両軸の論理」からすれば、“三角縁神獣鏡は、古墳期における、日本列島内の産物である”--わたしにはこのように理解するほかなかったのである。  (同書327ページ、初出『よみがえる九州王朝』1987年刊)

 以上のように少なくとも1987年頃までは、古田先生は一貫して三角縁神獣鏡古墳期成立の立場をとっておられました。その理由も単純明瞭で、弥生時代の遺跡からは一面も出土せず、古墳期の遺跡から出土するのであるから、その成立を古墳期と見なさざるを得ないというものでした。これは三角縁神獣鏡を俾弥呼がもらった鏡だが、弥生時代には埋納されず、全面伝世し、古墳時代になって埋納されたという従来説(伝世理論)への批判として主張されたものです。(つづく)


第1264話 2016/08/31

8月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 8月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 8月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/08/04 姫路市を訪問
2016/08/06 誕生日翌日の「三者面談」
2016/08/07 好論満載『東京古田会ニュース』No.169
2016/08/10 多元的「信州」研究の進展
2016/08/16 古田先生の初盆に誓う
2016/08/19 『二中歴』の思い出
2016/08/22 陸上400mリレーの銀メダルに思う
2016/08/27 今日の読書『人工知能と21世紀の資本主義』『映画で読み解く現代アメリカ』(明石書店刊)
2016/08/30 古田先生からの宿題 ポアンカレの二著


第1263話 2016/08/28

古田武彦著『鏡が映す真実の古代』発刊

 今日、ミネルヴァ書房から古田先生の『鏡が映す真実の古代 三角縁神獣鏡をめぐって』が送られてきました。これまでの古田先生の著作等から三角縁神獣鏡に関する論稿を一冊にまとめたものです。平松健さん(東京古田会)による編集で、とてもよくまとめられています。平松さんご自身も三角縁神獣鏡についての造詣が深く、その実力がいかんなく発揮されています。
 冒頭の「はしがき」は古田先生による書き下ろしで、2015年2月17日の日付がありますので、亡くなられる半年前に書かれたものです。「序章」も新たに書き下ろされており、三角縁神獣鏡に関する最新の古田先生の見解や研究テーマに触れられています。特に三角縁神獣鏡の銘文を古代日本思想史の一次史料として捉え、古代人の思想に迫るという問題を提起されています。このテーマはわたしたち古田学派の日本思想史研究者に残された課題です。
 そして、「序章」末尾の次の一文に目が止まりました。

 わたしの年来の主張は「三角縁神獣鏡そのものは、やがて中国本土から出土する。」という立場である。

 この「序章」執筆の日付は2014年8月7日とありますから、最近話題となった中国洛陽から発見された三角縁神獣のことを見事に予見(学問的推論)されていたのです。奇しくも9月3日には同鏡を中国で実見された西川寿勝さんの講演(大阪府立狭山池博物館にて。14〜16:30)をお聞きするのですが、絶妙のタイミングでの発刊と言わざるを得ません。冥界の古田先生からのプレゼントともいうべき一冊です。


第1262話 2016/08/24

「阿志岐城跡」調査報告書を読む

 今朝は東京に向かう新幹線車中で『阿志岐城跡』確認調査報告書(筑紫野市教育委員会、2008年)を読みました。小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)からいただいたものです。小林さんは考古学に詳しく、全国の主要遺跡や有名古墳はほとんど実見されており、「古田史学の会・関西」では「古墳の小林」と呼ばれています。わたしも古墳についてわからないことがあれば、小林さんから教えていただいています。
 「阿志岐城跡」調査報告書はカラー写真や地図が収録されており、同遺跡の全体像や太宰府・大野城・水城・基肄城との位置関係がよくわかります。説明では「阿志岐城」山頂から、北は太宰府や水城・大野城、南は基肄城・高良山神籠石山城が見えるとのこと。防衛に適した位置にあることもよくわかります。
 神籠石山城には城内に谷などの水源を有しており、多くの人の長期に及ぶ「籠城戦」を想定して造営されています。唐や新羅の軍隊に水城を突破され、太宰府が陥落した場合、大野城や神籠石山城に住民も含めて籠城し、眼下の敵陣に「夜討ち朝駆け」を続け、延びきった兵站を寸断し、侵略軍を殲滅するという持久戦を想定したものと思われます。隋や唐による侵略の恐怖にさらされた倭国では、首都の住民も守るという設計思想の山城を築城したのですから、住民の協力も得やすかったのではないでしょうか。
 ここの神籠石列石は高良山神籠石のような直方体の一段列石ではなく、四角に整形された積石による列石のようです。しかも耐震強度を高めるために「切り欠き加工」が施されています(わたしのfacebookに写真を掲載していますので、ご参照ください)。素人判断では高良山神籠石よりも技術的に高度であり、時代も新しいように思われました。
 この「阿志岐山城」について、「洛中洛外日記」で触れたことがあります。以下、再録します。

古賀達也の洛中洛外日記
第815話 2014/11/01
三山鎮護の都、太宰府

 大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、全国に「○○三山」というセットが多数ありますが、古代史では都を鎮護する「三山鎮護」の思想が知られています。たとえば平城遷都に向けての元明天皇の詔勅でも次のように記されています。

 「まさに今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しづめ)を作(な)し、亀筮(きぜい)並びに従ふ。」『続日本紀』和銅元年二月条

 平城京の三山とは東の春日山、北の奈良山、西の生駒山とされていますが、軍事的防衛施設というよりも、古代思想上の精神文化や信仰に基づく「三山鎮護」のようです。藤原京の三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、まず防衛の役には立ちそうにありません。しかし、大和朝廷にとって、「三山」に囲まれた地に都を造営したいという意志は元明天皇の詔勅からも明白です。
 この三山鎮護という首都鎮護の思想は現実的な防衛上の観点ではなく、風水思想からきたものと理解されているようですが、他方、百済や新羅には首都防衛の三つの山城が知られており、まさに「三山鎮護」が実用的な意味において使用されています。日本列島においても実用的な意味での「三山鎮護」の都が一つだけあります。それが九州王朝の首都、太宰府なのです。
 実はわたしはこのことに今日気づきました。赤司さんの論文「筑紫の古代山城と大宰府の成立について -朝倉橘廣庭宮の記憶-」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)に、平成11年に発見された太宰府の東側(筑紫野市)に位置する神籠石山城の阿志岐城の地図が掲載されており、太宰府条坊都市が三山に鎮護されていることに気づいたのです。その三山とは東の阿志岐城(宮地岳、339m)、北の大野城(四王寺山、410m)、南の基肄城(基山、404m)です。
 九州王朝の首都、太宰府にとって「三山鎮護」とは精神的な鎮護にとどまらず、現実的な防衛施設と機能を有す文字通りの「三山(山城)で首都を鎮護」なのです。当時の九州王朝にとって強力な外敵(隋・唐・新羅)の存在が現実的な脅威としてあったため、「三山鎮護」も現実的な防衛思想・施設であったのも当然のことだったのです。逆の視点から見れば、大和朝廷には現実的な脅威が存在しなかったため(唐・新羅と敵対しなかった)、九州王朝の「三山鎮護」を精神的なものとしてのみ受け継いだのではないでしょうか。なお付言すれば、九州王朝の首都、太宰府を防衛したのは「三山(山城)」と複数の「水城」でした。
 これだけの巨大防衛施設で守られた太宰府条坊都市を赤司さんが「核心的存在に相応しい権力の発現」と表現されたのも、現地の考古学者としては当然の認識なのです。あとはそれを大和朝廷の「王都」とするか、九州王朝の首都とするかの一線を越えられるかどうかなのですが、この一線を最初に越えた大和朝廷一元史観の学者は研究史に名前を残すことでしょう。その最初の一人になる勇気ある学者の出現をわたしたちは待ち望み、熱烈に支持したいと思います。


第1261話 2016/08/23

『二中歴』明治17年写本の調査

 「洛中洛外日記」で紹介してきました『二中歴』国会図書館本(小杉氏写本、明治10年)は、「古田史学の会」関西例会でカラーコピーを杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査)からいただき、その存在を知りました。このことが契機となり、『二中歴』の他の写本についても調査したところ、国立公文書館に明治17年書写の『二中歴』があることをつきとめました。同写本はネットでは公開されていないため、いつも史料調査にご協力いただいている斎藤政利さん(古田史学の会・会員、多摩市)にご相談したところ、早速、国立公文書館の『二中歴』の「年代歴」部分などの写真を撮影され、送っていただきました。
 現在、精査中ですので最終結論ではありませんが、同写本は前田家尊経閣文庫所蔵「新写本(実暁本)」、すなわち興福寺の実暁が弘治3年(1557)に「古写本」を書写したものを江戸時代の元禄14年(1701)に清書した「新写本」を明治17年に書写したもののようです。この国立公文書館本には次の奥書があり、明治17年に前田家所蔵『二中歴』を書写したことがわかります。

 「明治十七年二月一日華族前田利嗣蔵書ヲ寫ス
            三級寫字生松本寛茂
  明治十七年四月 五等掌記樹下茂国校 印」

 また別のページにも次のようにあります。

 「明治十七年十二月十日校〔前田利嗣 蔵書ニ拠ル〕
             御用掛前田利鬯 印」

 ※一部、旧字を新字体に改めました。〔〕内は二行の朱書き細注。(古賀)

 これらの内容から前田家蔵書の『二中歴』を書写したことは疑えませんが、前田家にある「古写本」と「新写本(実暁本)」のどちらを書写したのかを更に調べてみたところ、次の理由から国立公文書館本は「新写本(実暁本)」の写本と考えられます。

1.「弘治三年十二月六七両日」に書写したとする実暁による「奥書」が書写されている。
2.「古写本」では虫食いで読めない部分(「不記年号」「明要十二年」の一部分)も、虫食前の字が書写されており、これは「新写本(実暁本)」からの書写でなければ不可能。
3.国立公文書館本を実見された斎藤政利さんの報告によれば、第一巻が「上」「下」の二巻に分けられている。第一巻を「上」「下」で分けているのは「新写本(実暁本)」であり、「古写本」は第一巻としてまとめられている。

 これらの点から、明治17年書写の国立公文書館本は尊経閣文庫の「新写本(実暁本)」を書写したものと考えられます。同写本の全体を精査したわけではありませんから、現時点での所見として報告しておきます。
 国立公文書館本の「年代歴」部分を見て、次のような感想を持ちました。

1.「古写本」では虫食いにより現在では読めない字があるが、実暁が弘治3年(1557)に「古写本」を書写したときはあまり虫食いが進んでいなかったようで、そのためその「新写本」を書写した国立公文書館本の「年代歴」もほとんどの文字が書写されている。
2,従来、論点となっていた「年代歴」末尾の「不記年号」の文字もはっきりと書写されており、「古写本」の虫食い前の文字をそのまま書写したと思われる。

 以上のようなことが、国立公文書館本の史料事実から推定されます。こうなると、是非とも尊経閣文庫の「新写本(実暁本)」も見てみたいと思います。尊経閣文庫に閲覧を申し入れるか、「新写本(実暁本)」の一部を影印本に収録した八木書店にその版元となった「新写本(実暁本)」の写真を見せていただけないか、頼んでみることにします。
 調査にご協力いただきました斎藤さんに改めて感謝申し上げます。


第1260話 2016/08/21

神稲(くましろ)と高良神社

 多元的「信州」研究の全国的な研究者ネットワークの形成を進めていますが、久留米市の研究者、犬塚幹夫さんから貴重な調査報告メールをいただきました。淡路島にも高良神社があったというもので、信州以外にもこうした分布があったことを、わたしは初めて知りました。犬塚さんのご了解を得て、転載します。

〔犬塚さんからのメール〕

古賀様
 
 洛洛メール便第438号で長野県下伊那郡豊丘村の「神稲(くましろ)」という地名が紹介されていました。
 わが久留米市でも「神代(くましろ)」の地名は「山川神代(やまかわくましろ)」や「神代橋(くましろばし)」として残っています。そこで久留米の「神代(くましろ)」について、「大日本地名辞書」と「太宰管内志」で調べてみたところ次のことがわかりました。

1.和名抄に御井郡「神氏」とあるのは「神代」の誤りである。
2.「神代」は「神稲」であり、高良神へ稲を供える里の意味である。
3.神代は久麻志呂(くましろ)と読む。
4.淡路国三原郡の「神稲」は久萬之呂(くましろ)と読む。
 
 淡路国にも「神稲」があることがわかりましたので、「大日本地名辞書」で「淡路国三原郡神稲郷」を見ると次のことがわかりました。

1.「神稲」は久萬之呂(くましろ)と読む。
2.「神稲」は久萬之禰(くましね)と読むべきであるが久萬之呂に転じたものであろう。
3.神稲は、神に供える稲を作る田の意味である。

 淡路国三原郡神稲郷は、現在南あわじ市となり神代社家、神代地頭方、神代国衙などの地名として残っているようですが、神代の読みは(じんだい)に変わっています。
 神稲が神に供える田であれば、神社が周囲にあるはずです。ネットで調べたところ南あわじ市に次のような高良系神社が見つかりました。

高良神社(南あわじ市八木国分)
高良神社(南あわじ市広田広田)
高良神社(南あわじ市賀集八幡南)
上田八幡神社境内社高良神社(南あわじ市神代社家)
神代八幡神社境内社高良神社(南あわじ市神代地頭方)
亀岡八幡神社境内社松浦高良神社(南あわじ市阿万上町)

 この神稲郷という地域の周辺になぜ高良神社が集中しているのか、神代国衙にあったと推測される淡路国府は関連があるのか、なかなか興味があるところです。
 南あわじ市の「神稲」の周辺に高良系神社があるということは、長野県下伊那郡豊丘村の「神稲」の周辺にも高良系神社がある可能性があります。洛中洛外日記第1246話で明らかにされた下伊那郡泰阜村の筑紫神社以外にも高良系神社が存在するかもしれません。これらのことも九州とどのように関係するのか興味あるところです。

久留米市 犬塚幹夫


第1259話 2016/08/20

『続日本紀』の中の多元史観
    (もう一つのONライン)

 本日の「古田史学の会」関西例会では、学問の方法論に関する茂山さんの発表など重要な報告が続きました。中でも、西村さんと正木さんからの『続日本紀』に見える「もう一つのONライン」とでもいうべき痕跡についての報告は興味深いものでした。古代官道の南海道が四国内の阿波国府から土佐国府のルートが変更されており、その変更が九州王朝から大和朝廷への王朝交代によるものという、西村さんの発見は画期的でした。
 南海道旧道は阿波国府・讃岐国府・伊予国府・土佐国府(333km)でした。新道は阿波国府・土佐国府(148km)へと短縮されたのですが(『続日本紀』養老2年5月条〔718年〕)、この変更は中心王朝から出発して土佐国府への最短ルートとしたもので、その中心王朝が九州から大和へ変更になったためとされたのです。素晴らしい発見です。なお、古代南海道のルートが変更されているという指摘は今井久さん(古田史学の会・会員、西条市)からなされており、今回の西村さんの発見の契機になったとのことです。

 わたしからは「評」系図の史料批判として系図を史料根拠に使用する難しさについて報告し、「異本阿蘇氏系図」などを根拠に評制の開始時期を7世紀初頭以前にまで引き上げることはできないとしました。また、以前から問題となっていた『二中歴』「年代歴」の虫喰部分を「不記年号」とする明治10年書写の国会図書館デジタルコレクションの『二中歴』小杉写本を紹介しました。
 この他にも、茂山さんからの最新の論理学による「実証」と「論証」の解説など、普段はなかなか聞くことができない貴重な報告がありました。
 8月例会の発表は次の通りでした。

〔8月度関西例会の内容〕
①土左への交通路(南海道)の変更(高松市・西村秀己)
②巨大古墳は大和朝廷の政治的統一を表すものなのか(八尾市・服部静尚)
③定策禁中(その3)(京都市・岡下英男)
④記紀の真実3 神武東征は無った(大阪市・西井健一郎)
⑤岩波日本書紀の注に一つの疑問(相模原市・冨川ケイ子)
⑥前期難波宮造営の年代について(川西市・正木裕)
⑦古田先生の肉筆草稿新発見報告(奈良市・水野孝夫)
⑧「学問の方法」を整理して今後の「古田史学」を考える 〜パースの論理学をめぐって〜
 ※添付資料:『議論パターン』について(吹田市・茂山憲史)
⑨『二中歴』の「不記年号」問題の新史料(京都市・古賀達也)
⑩「評」系図の史料批判(京都市・古賀達也)
⑪『続日本紀』もう一つのONライン(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 7/23『邪馬壹国の歴史学』出版記念東京講演会の報告・9/03 狭山池博物館 西川寿勝さん講演の案内・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の案内・その他


第1258話 2016/08/19

『二中歴』尊経閣文庫の「古写本」と「新写本」

 現存「九州年号群史料」として最も古く、九州年号の原型をよく留めているのが有名な『二中歴』(鎌倉時代成立)です。ただ残念ながら前田家の尊経閣文庫蔵「古写本」(室町時代の写本と見られています)のみが残っており、その他の写本はその「古写本」を再写したものですから、「天下の稀覯本」と称されています。尊経閣文庫には「古写本」と、その「古写本」を興福寺の実暁が弘治3年(1557)に書写したものを江戸時代の元禄14年(1701)に清書した、いわゆる「新写本(実暁本)」が蔵されています。
 最近、わたしが注目した国会図書館デジタルコレクションの『二中歴』(「国会図書館本」という)は明治10年(1877)に小杉榲邨氏が「影写」したものですが、その底本は尊経閣文庫の「古写本」でした。ただし、「古写本」には一部に欠失があり、その失われた箇所は「新写本(実暁本)」から「影写」されています。
 問題の九州年号が記された「年代歴」は「古写本」に残っており、小杉氏も「古写本」から「影写」されています。たとえば「古写本」に欠失している「侍中歴」の一部分は「新写本」から「影写」されているのですが、その部分は字体やレイアウト(段組)が「新写本」のものに変化しています。これは「影写」(底本の上に薄い紙を置き、底本の字をなぞってそっくりに模写する)ですから当然です。
 この小杉氏の「影写」による「古写本」から「新写本」への字体の変化は、国会図書館本の「侍中歴」部分にも現れており、ネットで閲覧可能です。それは「国会図書館デジタルコレクション」の『二中歴』第1冊のコマ番号72です。その右ページが「古写本」からの「影写」で、左のページは「新写本(実暁本)」からの「影写」です。全く字体もレイアウトも異なっていることがわかるでしょう。左ページ冒頭に、朱筆で「新写本」から写したことを小杉氏は注記しています。
 この国会図書館本の「侍中歴」部分が書き分けられていることは、八木書房『二中歴』からも判明します。というのも、八木書房の『二中歴』も底本は尊経閣文庫の「古写本」で、同じく欠失部分を「新写本」から収録しています。従って、「古写本」と「新写本」の両方の字体を八木書房版により確認することができます。先の国会図書館本の「侍中歴」の当該ページに対応するページも収録されていますので、比較しますと、小杉氏はそれぞれを「影写」しており、そのため字体もレイアウトもあえて統一せず、異なったまま国会図書館本を作成したことがわかります。
 上記の当該ページの写真をわたしのFacebookに掲載していますので、ご覧ください。小杉氏の丁寧な「影写」により、「古写本」と「新写本」の字体の違いなどがよく見て取れます。「新写本」の方が清端な字体とされています。


第1257話 2016/08/17

続・「系図」の史料批判の難しさ

 「洛中洛外日記」635話「『系図』の史料批判の難しさ」で、7世紀中頃よりも早い時代の「評」が記された「系図」があり、評制施行を7世紀中頃とするのは問題ではないかとするご意見に対して、わたしは次のように反論しました。

 「わたしは7世紀中頃より以前の『評』が記された『系図』の存在は知っていたのですが、とても『評制』開始の時期を特定できるような史料とは考えにくく、少なくともそれら『系図』を史料根拠に評制の時期を論じるのは学問的に危険と判断していました。『系図』はその史料性格から、後世にわたり代々書き継がれ、書写されますので、誤写・誤伝以外にも、書き継ぎにあたり、その時点の認識で書き改めたり、書き加えたりされる可能性を多分に含んでいます。」

 そのため、「系図」を史料根拠に使う際の史料批判がとても難しいとして、次の例を示しました。

 「『日本書紀』には700年以前から『郡』表記がありますが、それを根拠に『郡制』が7世紀以前から施行されていたという論者は現在ではいません。また、初代の神武天皇からずっと『天皇』と表記されているからという理由で、『天皇』号は弥生時代から近畿天皇家で使用されていたという論者もまたいません。」

 そして、ある「系図」の7世紀中頃より以前の人物に「○○評督」や「××評」という注記があるという理由だけで、その時代から「評督」や行政単位の「評」が実在したとするのは、あまりに危険なので、それら「系図」がどの程度歴史の真実を反映しているかを確認する「史料批判」が不可欠であると指摘しました。
 この指摘から3年が過ぎましたので、改めて「系図」の史料批判の難しさと、「評」系図の史料批判について、8月20日の「古田史学の会」関西例会にて報告することにしました。「洛中洛外日記」でも、その要点を紹介していきたいと思います。
 私事ではありますが、わたしの実家には畳二畳ほどの大きな「星野氏系図」があります。古賀家の先祖は星野氏で、「天小屋根命」に始まり、初代星野氏からわたしの曾祖父(古賀半助昌氏)までが記されています。その「星野氏系図」の途中から枝分かれした他家の部分を省いた「古賀家系図」を亡くなったわたしの父が三部作り、わたしたち兄弟三人に残してくれました。
 その「古賀家系図」を作成するにあたり、父は江戸時代の浮羽郡西溝尻村庄屋だった先祖の没年を古賀家墓地の墓石から読みとり、傍注として系図に付記しました。ところが、その注記に誤りがあることにわたしは気づきました。その原因は不明ですが、系図作成に於いて、こうした誤記誤伝が発生することを身を以て知ったものでした。
 古代に比べれば史料も豊富な江戸時代のことを平成になって誤り伝えるということが、系図のような「書き継ぎ文書」では発生してしまうのです。ましてや古代の部分に誤記誤伝が発生するのは避けられません。更に言えば、誤記誤伝ではなく大義名分による意図的な改訂、善意による改訂(原本の内容が誤っていると思い、その時代の認識で「訂正」する)さえも起こり得るのです。
 このような誤記誤伝、善意による原文改訂などを、わたしはこれまで何度も見てきました。ですから、「史料批判」抜きで、評価が定まっていない史料を自説の根拠にすることなどは恐くてとてもできないのです。(つづく)


第1256話 2016/08/16

難波朝廷の官僚7000人

 難波宮址からは次々と考古学的発見が続いています。正木裕さんの説明によると、前期難波宮の宮域北西の谷から7世紀代の漆容器が3000点以上出土しているとのこと。しかも驚いたことに、平安京では宮域の北西地区に大蔵省があり、その管轄である「漆室」が隣接していました。前期難波宮においても宮域北西地区に「大蔵」と推定される遺構が出土しており、その北側の谷に大量の漆容器が廃棄されていたのです。この出土事実によれば、前期難波宮と平安京において律令官制に基づいた宮域内の同じ位置に同じ役所(大蔵省・漆室)が存在していたこととなります。
 こうした説明を聞き、わたしは驚愕しました。もし前期難波宮の時代の「九州王朝律令」と大和朝廷の『養老律令』(その基となった『大宝律令』)が類似していたとすれば、前期難波宮の宮域で勤務する律令官僚は7000人(服部静尚さんの調査による)ほどとなるからです。これほどの官僚群が勤務し、その家族も含めて居住できる宮殿・官衙と都市は、7世紀において大和朝廷の藤原宮(藤原京)と前期難波宮(難波京)しかなく、飛鳥清御原宮や大宰府政庁では規模が小さく、大官僚群とその家族を収容できません。
 論理と考古学事実から、こうした理解へと進まざるを得なくなるのですが、そうすると前期難波宮は九州王朝の副都ではなく首都と考えなければなりません。この問題は重要ですので、引き続き慎重に検討したいと思います。なお、前期難波宮出土の木柱や漆容器について、8月20日の「古田史学の会」関西例会で正木裕さんから詳細な報告がなされる予定です。