第1303話 2016/12/01

倭国と日本国の「尺」

 11月27日に福岡市で開催した「古田史学の会」主催の講演会では問題意識の高い質問が参加者から出され、講演会後の懇親会も含めて成功裏に終えることができました。ご協力いただいた久留米大学の福山先生、「九州古代史の会」の方々、「古田史学の会」会員の犬塚幹夫さん中村通敏さん、そして参加された皆様に御礼申し上げます。

 その質疑応答で、太宰府条坊地割(一辺約90m)の「尺」とその後に地割された北部(政庁・観世音寺)の「尺」の違いについての質問が出されました。井上信正さんは前者を「大尺」、後者を8世紀初頭の「小尺」とされたのですが、わたしは九州王朝(倭国)の「尺」制度の変遷について研究中でもあり、1尺は約30cm程度としか答えられませんでした。

 太宰府条坊の一辺90mという実測値から、約30cmの「尺」で300尺という整数が得られることから、七世紀初頭の九州王朝「尺」は約30cmと考えてよいかもしれませんし、あるいは36cmであれば250尺となります。この点、引き続き調査検討が必要です。

 先日、京都の染色工場の経営トップの方と懇談する機会があったのですが、そのとき正倉院宝物のカタログを見せていただきました。それには東大寺の「緑綾几帯(みどりあやのつくえのおび)」が掲載されており、それに墨で次のような長さと年代が記されていました。

「花机帯 長二丈三尺四寸 廣二寸五分 天平勝寶四年四月九日」「東大寺」

 解説には現在の実測値が「長六八二・〇 幅七・五」とあり、墨書の数値と実測値から計算すると、全長から1尺は29.145cm、幅からは30cmという数値が得られます。この計算値から、天平勝寶四年(752)時点の大和朝廷(日本国)の「尺」は1尺=29〜30cmだったことがわかります。ちなみに天平勝寶四年は東大寺の大仏開眼供養の年ですから、この帯はその儀式に用いられたものと思われます。

 この正倉院宝物カタログを見せていただいた方は草木染めの専門家で、愛子内親王が二十歳の宮廷儀式で着用される十二単(じゅうにひとえ)の天然染料を用いた染色を宮内庁から委託されているとのこと。その十二単に使用される生地は蓮糸(ハスの糸)で織られているそうで、それを天然染料(主に草木染)で復元することはかなり困難とのことでした。わたしも色素化学・染色化学のケミストの一人として、何かお手伝いできればと願っています。ちなみに、本日(12月1日)は愛子内親王15歳のお誕生日です。おめでとうございます。


第1302話 2016/12/01

11月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 今日は仕事で愛知県一宮市に来ています。夜の一宮駅のクリスマスイルミネーションがきれいでした。わたしのfacebookに写真を掲載しています。

 11月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 11月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/11/02 『多元』No.136のご紹介
2016/11/06 「黄葉」と「紅葉」
2016/11/19 文武天皇即位と大宝建元の年次差の謎
2016/11/26 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』の「巻頭言」執筆中
2016/11/29 『東京古田会ニュース』で『二中歴』論争


第1301話 2016/11/29

太宰府防衛の「羅城」跡が発見される

 今日は大阪市で開催の繊維応用技術研究会に出席しています。大阪府立産業技術総合研究所の山下怜子さんの講演「ニオイ可視化への検討:色素によるにおいのセンシングとその評価方法」の座長を仰せつかっています。色素の応用技術に関する研究報告ということもあって、楽しみな発表です。

 お昼休みに正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のfacebookを見ると、太宰府を防衛する巨大土塁が筑紫野市から発見されたという本日朝刊の記事が紹介されていました。これはすごい遺跡が発見されたとスマホで関連ニュースを検索しています。
 熊本県和水町と福岡市で、太宰府を「日本最古の条坊都市」とする講演をしたばかりですから、このタイミングに不思議な縁を感じました。
 WEBニュースによれば、発見されたのは大宰府政庁の南東約7kmに位置する前畑遺跡で、南北に走る約500mの土塁とのこと。地図で見ると、東からの侵入に対して太宰府を防衛する位置にあり、ニュースでは白村江戦(663年)の敗北後に防衛施設として造営されたと説明されていますが、北の唐や新羅からの防衛施設とするには位置が不自然です。やはり九州王朝の都、太宰府条坊都市を取り囲む羅城の一部と思われます。
 今日は夜遅くまで学会の懇親会が予定されていますが、なるべく早く帰宅して、今回の発見について情報収集したいと思います。


第1300話 2016/11/27

和水町講演会で古代寺院調査を要請

 昨日の熊本県和水町での講演会は70名近くの町民の皆さんにご参加をいただき、盛況でした(主催:菊水史談会、平田稔会長)。久留米地名研究会の荒川恒光会長も見えておられ、旧交を温めました。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は、最初に九州王朝説の概要を話され、邪馬壹国の所在地が博多湾岸であること、倭人伝に記された傍国に肥後にあった国々が含まれるという仮説を発表されました。
 わたしからは九州王朝における肥後の役割として、古代の鉄や馬の産地であったこと、隋使がわざわざ肥後(阿蘇山)まで訪問していることから、九州王朝の天子・多利思北孤に次ぐ有力者(肥後の君、弟か)がいたことを説明しました。その上で、太宰府が日本最古の条坊都市であること、7世紀中頃には難波に副都(前期難波宮)を造営するに至ったことなどを解説しました。
 最後に、肥後には6世紀末から7世紀初頭の古代寺院があったとする伝承が残されており、地元の皆様で調査していただきたいと協力要請しました。
 肥後の古代寺院・神社について、史料に次の記録がありますのでご紹介します。
○山鹿郡中村手永 久原村の一目神社
 「当社ハ継体帝善記四年十一月四日高天山ノ神主祭之」(善記四年:525年)
○山鹿の日輪寺
「俗説ニ当寺ハ敏達天皇ノ御宇、鏡常三年百済国日羅大士来朝ノ時、当国ニ七伽藍ヲ建立スル其一ニテ、初メ小峰山日羅寺ト称シ法相宗ナリ」(鏡常三年:583年。『二中歴』では「鏡當」)
○上益城郡鯰手永 小池村の項
 「常楽寺飯田山大聖院  ・・・。寺記ニ云。推古帝ノ御宇、吉貴年中、聖徳太子ノ建立ト云伝ヘ・・・」(吉貴年中:594〜600年。『二中歴』では「告貴」)
○下益城郡砥用手永 甲佐平村の項
 「福成寺亀甲山  ・・・。推古帝ノ御宇吉貴元年、湛西上人ノ開基。」(吉貴元年:594年。『二中歴』では「告貴」)


第1299話 2016/11/19

天武朝(天武14年)国分寺創建説

 本日の「古田史学の会」関西例会はいつも以上にエキサイティングな一日となりました。中でも正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の発表で、天武朝(天武14年)国分寺創建説なるものがあったことを初めて知りました。正木さんの見解では『日本書紀』天武14年条に見える「諸国の家ごとに仏舎を造営せよ」という記事は、34年遡った九州王朝の記事とのことでした。国分寺のなかには創建軒丸瓦が複弁蓮華紋のケースもあり、その場合は天武期の創建とすると瓦の編年ではうまく整合するので、天武期(白鳳時代)における九州王朝の国分寺創建の例もあるのではないかと思いました。なお、正木さんの発表を多元的「国分寺」研究サークルのホームページに投稿するよう要請しました。

 茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)の発表は、水城の軍事上の機能として、単に土塁と堀による受け身的な防衛施設にとどまらないとするものでした。このテーマについては茂山さんとのメールや直接の意見交換を交わしてきたこともあり、水城と交差する御笠川をせき止めることが、当時の土木技術で可能だったのか否かという質疑応答が続きました。来月も後編の発表を予定されているとのことで、わたしとは異なる見解ですが、刺激的で勉強になるものでした。

 なお、このテーマについて茂山説に賛成する服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)とわたしとで例会後の二次会・三次会で「場外乱闘」のような論争が続きました。知らない他人が見たら二人がケンカしているのではと心配されたかもしれませんが、関西例会ではよくあることですので、心配ご無用です。
11月例会の発表は次の通りでした。

〔11月度関西例会の内容〕
①「淡海」から「近江」そして「大津」は何時かわったのか(堺市・国沢)
②倭国・日本国考 八世紀初頭の造作(八尾市・服部静尚)
③「水城は水攻めの攻撃装置である」という作業仮説について(上)(吹田市・茂山憲史)
④藤原京下層瀬田遺跡の円形周溝暮(径30m)の調査報告について(川西市・正木裕)
⑤天武の「国分寺創建詔」はなかった -『書紀』天武十四年の「仏舎造営・礼拝供養」記事について-(川西市・正木裕)
⑥『二中歴』細注の「兵乱海賊始起又安居始行」と「阡陌町収始又方始」(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
大阪府立大学「古田史学コーナー」の移転(二階に)・パリ在住会員奥中清三さん寄贈の絵画(「壹」の字をデザイン)を「古田史学コーナー」に展示・千歳市の「まちライブラリー」(国内最大規模の「まちライブラリー」)で「古田史学コーナー」設置の協力・11/26和水町で古代史講演会の案内・11/27『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の案内(久留米大学福岡サテライト)・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・会費未納者への督促・『古代に真実を求めて』20集「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」の編集について・藤原京下層瀬田遺跡の円形周溝暮(径30m)の調査報告について・その他


第1298話 2016/11/16

権力者「出身地名」の広域化

 古代において、中国でも日本でも権力者の出身地(発生地)の地名が、その権力範囲の拡大に伴って広域化するという現象があります。
 たとえば近畿天皇家の場合は地方名称「大和(やまと)」が、そのまま日本国の別称となり。それから派生した「大和魂」とか「大和なでしこ」という言葉も作られました。もちろん「奈良県の魂」「奈良県の女性」という意味ではなく、「日本の魂」「日本の女性」を意味するわけです。
 それは九州王朝においても同様だったと思われます。九州内の地方権力者「生葉(浮羽)の臣」の場合でも、その出身地「うきは」は現在の福岡県うきは市ですが、「うきは」地名の淵源はうきは市の中の小領域「大字浮羽」です。このことを知ったのはわたしの本籍が以前は「浮羽郡浮羽町大字浮羽」だったからです。そこには古賀家墓地があり、父やご先祖様が眠っています。
 これが九州王朝の天子の場合はどうでしょうか。筑紫君磐井などに見られるように、九州王朝の天子・国王は「筑紫」という地名を冠しています。今の福岡県にほぼ相当する地域で、6世紀末頃には筑前と筑後に分国されています。これが『日本書紀』編纂の時代になると「九州島」を「筑紫」とする表記例が現れます。この傾向は中世にも引き継がれ、「筑紫」地名が広域化します。
 逆に「筑紫」地名の淵源をたどりますと、現在の筑紫野市に「大字筑紫」「字筑紫」がありますので、権力者「出身地名」が広域化するという現象からすれば、九州王朝の淵源の地がこの「字筑紫」だったということになります。当地の近隣には筑紫神社(筑紫野市原田)もありますから、まさに「筑紫の中の筑紫」という地域です。
 その観点からすれば、古田説では九州王朝は天国領域(壱岐・対馬など)から天孫降臨で糸島半島に侵攻した勢力ですから、その淵源は天国領域か、せめて九州島内では糸島博多湾岸の地こそ「出身地」と称すべきです。ところが「筑紫君」を自称していますから、糸島博多湾岸よりも内陸部に位置する「筑紫」を淵源とすることを主張しています。この不思議な現象について、その理由はまだよくわかりませんが、おそらくは九州王朝発展史にその理由があることでしょう。九州王朝はどうしても「筑紫」を名乗りたかった、そう考えるほかありません。近世でも尾張出身の秀吉が一時期「羽柴筑前守」を名乗ったように。この小領域「筑紫」の謎は今後の研究テーマです。


第1297話 2016/11/13

『九州倭国通信』に「条坊都市の多元史観」掲載

 今年から機関紙交流を始めた「九州古代史の会」から『九州倭国通信』No.183が送られてきました。5ページにわたり、拙稿「条坊都市の多元史観」を掲載していただきました。
 一元史観の文献史学研究者よりも、一元史観の考古学者の研究論文に九州王朝説を支持する考古学的事実が発表され始めたことを紹介し、中でも井上信正さんの太宰府条坊都市研究の論理性と画期性を解説したものです。
 今月26日(和水町)と27日(福岡市)で行う古代史講演会で、「日本最古の条坊都市 太宰府から難波京へ」というテーマでも詳しくお話ししたいと思います。特に九州の皆さんのご参加をお待ちしています。


第1296話 2016/11/12

パリの画家、奥中清三さんとの邂逅

 今日は四年ぶりに帰国されたパリの画家、奥中清三さん(古田史学の会・会員)と大阪でお会いしました。四年前は京都でお会いし、京都御所や相国寺、同志社大学をご案内したのですが、今回はI-siteなんばの図書館の古田武彦コーナーを正木裕さん(古田史学の会・事務局長)とご案内しました。
 奥中さんは44年前にパリに行かれ、モンマルトルでパリ市公認の画家として活躍されています。古くからの古田先生のファンで、邪馬壹国の「壹」の字をモチーフとした作品を数多く手がけられています。その中の一枚をお土産としていただきましたので、I-siteなんばの古田武彦コーナーに飾らせていただきました。わたしのfacebookにその写真などを掲載していますので、ぜひご覧ください。
 その後、大阪歴博や紅葉が美しい大阪城、難波宮址をご案内しました。古田先生没後の古田学派の状況や最新の研究動向についてもご説明し、長時間歓談しました。再会を約束し、固い握手を交わしてお別れしました。「朋あり、遠方より来る。また楽しからずや」の快晴に恵まれた秋の一日でした。


第1295話 2016/11/04

井上信正説と観世音寺創建年の齟齬

 今朝は新幹線で豊橋市方面に向かっています。今日は蒲郡地区の顧客訪問を行い、明日は豊橋技術科学大学で開催される中部地区の化学関連学会で招待講演を行います。講演テーマは機能性色素の概要と金属錯体化学の歴史と展望(用途開発)などについてです。化学系学会等の講演はこれが年内最後となり、その後は今月26〜27日の熊本県和水町と福岡市での古代史講演に向けて準備を始めます。一昨日も京都市産業技術研究所で講演したのですが、今年は講演回数がちょっと多すぎたように感じますので、来年はもう少し落ち着いたペースに戻したいと思っています。

 拙稿「多元的『信州』研究の新展開」を掲載していただいた『多元』136号(多元的古代研究会)を新幹線車内で精読していますが、大墨伸明さん(鎌倉市)の「大宰府の政治思想」に太宰府条坊に関する井上信正説が紹介され、自説に援用されていることに注目しました。わたしも以前から井上信正さんの太宰府条坊の編年研究に関心を寄せてきましたので、古田学派の研究者に井上説が注目されだしたことは喜ぶべきことです。
 井上説の核心は太宰府条坊の北側にある政庁や観世音寺の区画と条坊都市の規格(小尺と大尺)が異なっており(そのため観世音寺の南北中心軸は条坊道路と大きくずれている)、政庁・観世音寺よりも条坊都市の方が先に造営されていることを考古学的に明らかにされたことです。その上で、井上さんは政庁2期の成立時期を通説通り8世紀初頭(和銅年間頃)、条坊都市の成立はそれよりも早い7世紀末とされました。その結果、太宰府条坊都市と藤原京(新益京)とは同時期の造営とされました。
 この井上説は大和朝廷一元史観にとっては「致命傷」になりかねないもので、わが国初の大和朝廷による条坊都市とされている藤原京と地方都市に過ぎない太宰府条坊都市が同時期に造営された理由を説明しにくいのです。ですから井上説は多元史観・九州王朝説にとって刮目すべきものです。
 政庁や観世音寺よりも条坊都市の成立が早いとする井上説に賛成ですが、その年代については井上説では説明困難な問題があります。それは観世音寺の創建年についてです。『続日本紀』などにも観世音寺は天智天皇が亡くなった斉明天皇のために造営させたという記事があり、どんなに遅くても670年頃には大宰府政庁2期宮殿の位置と共に方格地割を決め、造営を開始していなければなりません。そうすると観世音寺以前に太宰府条坊都市が造営されたとする井上説により、条坊都市造営の年代は更に遡って、遅くても7世紀前半頃となります。その結果、太宰府条坊都市は藤原京よりも早く、わが国最古の条坊都市ということになるのです。この論理的帰結は九州王朝説にとっては当然のことですが、大和朝廷一元史観の学界にとって受け入れ難いものなのです。このような大和朝廷一元史観にとって「致命傷」となる論理性を持つ井上説は学界に受け入れられないのではと、わたしは危惧しています。
 他方、文献史学から観世音寺創建年を見ますと、九州年号の白鳳年間とする『二中歴』や、白鳳10年(670)とする『日本帝皇年代記』『勝山記』があります。観世音寺創建瓦の老司1式瓦の編年も藤原京に先行するとされてきましたから、文献史学と考古学の双方が観世音寺創建年を670年頃と、一致した結論を示しています。その上で井上説の登場により、太宰府条坊都市の造営は7世紀前半頃となり、わが国最古の条坊都市は九州王朝の都、太宰府ということになるのです。井上説が一元史観の学界に受けいれられることを願ってやみません。


第1294話 2016/10/31

10月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 10月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 10月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/10/02 古代史講演会2件のご案内
2016/10/08 湊哲夫『飛鳥の古代史』を読書中
2016/10/09 作業仮説「倭京論」の論理構造
2016/10/14 「邪馬壹国研究会・松本」が発足
2016/10/25 『季刊唯物論研究』誌からの執筆依頼


第1293話 2016/10/30

『続日本紀』の年号認識(3)

 『続日本紀』の中で最も注目されてきた年号記事が次の「聖武天皇の詔報」です。

 「詔し報へて曰く、『白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、仍て公験を給へ』とのたまふ」『続日本紀』神亀元年冬十月条(724)

 聖武天皇が治部省からの問い合わせに対して応えた詔勅に九州年号(倭国年号)の「白鳳」「朱雀」が現れており、古田先生はこの記事を九州年号実在の史料根拠の一つとされたことは有名です(古田武彦『失われた九州王朝』参照)。
 この詔報には二つの重要なテーマが含まれています。一つは、神亀元年(724)当時の聖武天皇の「発言」に前王朝の九州年号(倭国年号)がなぜ使用されているのかということ。二つ目は『続日本紀』編纂時(797年成立)において、『日本書紀』では存在を隠している前王朝(倭国)の年号が用いられている聖武天皇の詔報を、なぜ『続日本紀』に収録したのかというテーマです。
 一つ目の疑問については次のように考えることができます。すなわち大和朝廷の聖武天皇にとって、自らの王朝の最初の年号「大宝」以後の年次特定については自らの年号を用いて著すことが可能ですが、700年以前の九州王朝の時代の年次特定の方法は干支を用いるか、九州年号(倭国年号)を用いるか、『日本書紀』の紀年(○○天皇の即位何年)を用いるしかありません。
 本件のように白鳳時代(661〜685年)は神亀元年(724)よりも干支一巡以前の白鳳元年等も含まれており、干支で表記した場合、一巡前と同じ干支が神亀元年の直前にも存在することとなり、干支表記だとどちらの年かが判断できません。ですから干支表記は不都合となります。
 次に『日本書紀』紀年の使用も本件のような僧侶の「名簿」のような行政記録文書に関する場合は適切ではありません。というのも、700年以前の戸籍や「名簿」のような行政記録文書は九州王朝の時代ですから九州年号で記録されていたはずです。従って、本件の詔報のように行政記録の不備欠損に対する治部省の資料も700年以前は九州年号表記となっていたと考えられますから、聖武天皇の返答も九州年号を使用せざるを得ないのです。そもそも、治部省からの質問に「白鳳以来朱雀以前」の資料が不備欠損しているのでいかがしましょうかと、九州年号を使用して問い合わせていたと考えられます。そうでなければ、聖武天皇が「白鳳以来朱雀以前」とわざわざ九州年号により年代を限定して返答する必要がないからです。
 このように、聖武天皇の詔報に見える九州年号「白鳳」「朱雀」は、大和朝廷が700年以前の年次特定を行う際に九州年号を使用していたという理解が可能となるのです。なお、二つ目の疑問についてはまだよくわかりません。何が何でも『続日本紀』に収録しなければならないような重要な記事とも思われないからです。引き続き検討します。(つづく)


第1292話 2016/10/29

『続日本紀』の年号認識(2)

 「建元」は一つの王朝にとって最初の年号制定を意味しますから、1回だけです。それ以降は「改元」が繰り返されるのですが、大和朝廷(近畿天皇家)にとっての「建元」は『日本書紀』にはなく、『続日本紀』に記された次の「大宝建元」記事だけです。

 「甲午(21日)、対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大宝元年としたまう。」『続日本紀』文武天皇、大宝元年三月条(701)

 これ以後は現代の「平成」まで改元が繰り返されるのですが、『続日本紀』の「大宝建元」に続く、「慶雲」「和銅」「霊亀」「養老」の「改元」記事(詔勅)は次の通りです。

 「五月甲午(10日)、備前国、神馬を献る。西楼の上に慶雲を見る。詔して天下に大赦し、改元して慶雲元年としたまう。」『続日本紀』文武天皇、慶雲元年五月条(704)

 「和銅元年春正月乙巳(11日)、武蔵国秩父郡、和銅を献る。詔して曰く、(中略)故、慶雲五年を改元して和銅元年として、御世の年号と定め賜う。(後略)」『続日本紀』元明天皇、和銅元年正月条(708)

 「九月庚辰(2日)、禅を受けて、大極殿に即位す。詔して曰く、(中略)其れ和銅八年を改元して霊亀元年とす。」『続日本紀』元正天皇、霊亀元年九月条(714)

 「癸丑(17日)、天皇、軒に臨みて、詔して曰く(中略)天下に大赦して、霊亀三年を改元し養老元年とすべし、とのたまう。」『続日本紀』元正天皇、養老元年十一月条(716)

 この様に『続日本紀』において、「建元」と「改元」は明確に使い分けられています。この時代は大和朝廷が九州王朝に代わって列島の代表王朝になり、『古事記』や『日本書紀』編纂の時代ですから、当然、九州王朝の歴史的実在は自らも周囲の豪族たちも知悉していたはずです。この『続日本紀』における「建元」と「改元」の表記使い分けについて、大和朝廷一元史観の学者は全く説明できていませんし、特に古田先生の九州王朝説(九州年号説)が発表されてからは意識的に避けているようにも見えます。
 上記の「建元」「改元」記事で注目すべきは、「改元」記事は天皇の詔勅を記載しており、同時代の最高権力者による「発言」が『続日本紀』に採用されているのですが、大和朝廷にとって最も重要な「大宝建元」記事は「詔勅」の転載ではないことです。「大宝建元」の詔勅を文武天皇は出さなかったのでしょうか。それ以後は「改元」の詔勅を採用しているにもかかわらず、『続日本紀』では最も重要な「大宝建元」の詔勅がカットされているのです。『続日本紀』中では最初の年号制定である「大宝建元」の詔勅が出されなかったとは考えられません。
 それではなぜ『続日本紀』編者は「大宝建元」の詔勅をカットしたのでしょうか。恐らく文武天皇による「大宝建元」の詔勅には、九州王朝に代わって大和朝廷が列島の代表王朝になったことを高らかに宣言し、それまで国内で使用されていた九州年号(倭国年号)の無効と、自ら「建元」した「大宝」が正当な年号であることを国内配下の豪族たちに宣言した文言が「大宝建元」の詔勅にはあったはずです。ですから、その詔勅をそのまま『続日本紀』に転載したら、『日本書紀』が隠した九州王朝(倭国)の存在を認めてしまうことになるため、「大宝建元」の詔勅を転載できなかったと考えられるのです。
 ちなみに、701年に「大宝建元」したとき、九州年号の「大化・白雉・朱鳥」を盗用した『日本書紀』はまだ成立していません(成立は720年)。自らの史書に九州王朝や九州年号をどのように取り扱うかという編纂方針が確立する前に、「大宝建元」の詔勅が発布されたのではないでしょうか。
 『続日本紀』に「大宝建元」の詔勅が記されていないという史料事実について、古田先生の九州王朝説(九州年号説)ではこうした理解や説明が可能ですが、旧来の大和朝廷一元史観では、やはり説明不可能なのです。(つづく)