第841話 2014/12/21

2014年の回顧

   「関西例会」

 2014年における「古田史学の会」での優れた研究は『古田史学会報』に掲載されたもの以外にも、「関西例会」で発表された研究にも少なくありません。わたしの記憶に残っている特に優れた例会発表についても解説したいと思います。
 まず発表件数ですが、毎回、古田先生近況や会務報告とご自身の研究を報告されている水野代表は別格としても、服部静尚さん(八尾市)の22件が際だっています。次いで正木裕さん(川西市)の14件で、両者の発表件数が群を抜いていますし、研究水準も高いものでした。以下、岡下英男さん(京都市)の7件、萩野秀公さん(東大阪市)・西村秀己さん(高松市)・出野正さん(奈良市)・古賀(京都市)の6件と続いています。最も遠方からの発表者は中国曲阜市の青木英利さんでした。
 皆さん研究熱心で、「古田史学の会」や古田学派の研究活動を牽引されています。いずれも甲乙つけ難い研究内容ですが、最も印象強く残っているのが安随俊昌さん(芦屋市)が7月に発表された「『唐軍進駐』への素朴な疑問」でした。「洛中洛外日記」748話で紹介しましたが、『日本書紀』天智10年条(671)に見える唐軍2000人による倭国進駐記事について、安随さんによれば、この2000人のうち1400人は倭国と同盟関係にあった百済人であり、600人の唐使「本体」を倭国に送るための「送使」だったとされたのです。すなわち、百済人1400人は戦闘部隊(倭国破壊部隊)ではないとされたのです。
 この安随説は論証が成立しており、もし正しければ白村江敗戦以降の倭国(九州王朝)と唐との関係の見直しが迫られます。すなわち、数次にわたり筑紫に進駐した数千人規模の唐軍が倭国を「軍事制圧」していたという認識に基づいた諸仮説が成立困難となるかもしれないからです。
 このように、従来の研究の見直しをも迫る安随説は、2014年の関西例会で最も気になる研究発表だったのです。『古田史学会報』での発表が待たれる所以です。
 最後に、例会後の懇親会の幹事を担当していただいている西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)のご尽力にも触れなければなりません。どんなに激しい論争があっても、懇親会で酌み交わすお酒のおかげで関西例会は長く続けられています。こうしたことも「古田史学の会」の大切な目的です。


第840話 2014/12/20

新羅の法興王・真興王と「法興」「聖徳」

 昨日は大阪で代理店との商談、ランチをとりながらの新規開発品の価格交渉、午後は繊維応用技術研究会(事務局:大阪府産業技術総合研究所)にて「機能性色素の概要と展開」というテーマで講演しました。その講演を聞かれた出版社の社長さんから原稿執筆依頼を受けたのですが、会社の許可が必要と即答を避けました。このへんが学術研究と企業研究との違いで、学術研究では発見・発明を無償で公知にするのですが、企業研究の場合は企業戦略に沿ったプレスリリースや公開(特許出願など)が原則です。この点、歴史研究は無償で公知にする学会発表・論文発表が基本で、やはりこちらの方が楽しいものです。
 さて、本日の関西例会では、西村さんから『先代旧事本紀』の編纂者について、その記述内容が四国の四カ国の位置が90度ずれていることや熊襲(熊曽)国の場所を知らないことなどから、四国や九州の土地勘が全くない人物であるとされました。
 服部さんからは、「四天王寺」は外敵から国を守る護国の寺で、「天王寺」は天子の万寿を祈る寺であり両者の意味は異なるとされ、摂津四天王寺の当初の名称は天王寺であるとされました。また、先月に報告された「竜田山・大坂山の関」「畿内」を九州王朝が創設したとする自説の検証を深められました。大化二年改新詔の「関」「畿内」については、646年なのか九州年号の大化二年(696)なのかについては意見が分かれ、検討継続となりました。
 出野さんからは「文」という字の字源についての研究が報告されました。通説では文身(いれずみ)を字源とされているが貫頭衣でもあるとされました。古くは「文」の中に「×」が入っており、文身であることを示しているが、出野さんはこの「×」と神庭荒神谷遺跡から出土した銅剣の取っ手部分に刻まれていた「×」印と関連したものではないかとする説を紹介され、「×」を持つ他の字「凶」「兇」「胸」などについても論じられました。なおこの説を奥様の張莉さんが11月に韓国で開催された国際文字学会で発表されたところ、高い評価を得られたとのことでした。
 岡下さんは最近熱心に研究されている銅鏡について報告されました。古代の鏡の分類(国産か中国製か)の研究史をまとめ、やはり文字の有無(文字があれば中国製、あるいは渡来工人製とする)が決め手になるとの見解を、中村潤子氏(同志社大学)の説に依拠して発表されました。「倭鏡」と「中国鏡」の定義を含めて批判が出されましたが、研究途上のテーマとのことでした。
 正木さんからは先月に報告された推古紀などに見える朝鮮半島・任那関連記事は九州王朝史料から60年遅らせて盗用されたとする仮説を補強すべく、写本間(岩崎本、天理本等)の異同に着目され実証的に検証されました。
 次に『二中歴』には見えない九州年号「聖徳」を利歌彌多弗利の法号(仏門に帰依した名称)とする説の史料根拠発見について報告されました。『三国史記』によれば、新羅の法興王(514〜540)は仏教を公認振興し、その次代の真興王は「徳を継ぎ聖を重ね(真興乃継「徳」重「聖」)」諸寺を建立、仏像を鋳造、多数の仏典を受容しており、まさに「聖徳」と称されるにふさわしいとされました。すなわち、父が「法興」で息子が「聖徳」となり、九州王朝の天子・多利思北孤の法号が「法興」、次代の利歌彌多弗利の法号が「聖徳」と、見事に対応していることを明らかにされました。大変説得力のある説明でした。
 最後に萩野さんからは『日本書紀』に見えるホホデミとホアカリについて論じられ、各「一書」の比較分析により、それぞれ二名が系図的には「存在」するとされました。
 遠く埼玉県や神奈川県からも参加いただき、本年最後の関西例会も盛況でした。発表テーマは次の通りで、ハイレベルの研究発表が続き、とても濃密な一日でした。終了後の忘年会も夜遅くまで続きました。

〔12月度関西例会の内容〕
1). 先代旧事本紀の編纂者(高松市・西村秀己)
2). 四天王寺と天王寺(八尾市・服部静尚)
3).「関から見た九州王朝」の検証(八尾市・服部静尚)
4).「畿内を定めたのは九州王朝か」の検証(八尾市・服部静尚)
5).「文」字の民俗学的考察(奈良市・出野正)
6).倭鏡と文字(京都市・岡下英男)
7).『書紀』推古三十年記事の「一運(六十年)」ズレについて(川西市・正木裕)
8).利歌彌多弗利の法号「聖徳」の意味と由来(川西市・正木裕)
9).『日本書紀』に登場する二人のホホデミと二人のホアカリ(東大阪市・萩野秀公)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(千葉県我孫子市の病院に検査入院・12/18退院される、坂本太郎氏との思い出、『古代に真実を求めて』18集「家永氏との聖徳太子論争をふりかえる」古田先生インタビュー12/19、神功皇后生誕地・米原市、宮崎県串間市出土の玉璧、新年賀詞交換会 2015/1/10、ギリシア旅行 2015/4/1〜4/8)・古田先生依頼図書(角川地名大辞典「青森県」)購入・奈良県立美術館「大古事記展」見学・その他


第839話 2014/12/17

平成27年、賀詞交換会のご案内済み

 来る平成27年も古田先生をお迎えして、新年賀詞交換会を開催します。4月に はギリシア旅行を古田先生は予定されていますので、その抱負などもお聞かせいただけることと思います。皆様のご参加をお待ちしております。会員以外の方も参加可能です。終了後は希望者による懇親会も行いますので、当日、会場にてお申し込みください。

古田史学の会・新年賀詞交換会(古田先生を囲んで)
○日時 平成27年1月10日(土)午後1時30分
○会場 大阪府立大学 i-siteなんば 2階
    地下鉄御堂筋線・大国町駅下車7分
    (ZEPPナンバ大阪の東隣)
○参加費 1000円  終了後懇親会(有料)

大阪府立大学I-siteなんばまちライブラリーの交通アクセスはここから。

 


第838話 2014/12/14

2014年の回顧

 『古田史学会報』

 「古田史学の会」では2014年も優れた研究が数多く報告されました。その回顧として『古田史学会報』(120〜125号)に掲載された論文を改めて解説したいと思います。
 まず印象的なこととして、6回の会報中、122〜125号で1面冒頭を飾ったのが正木裕さんの次の論文でした。いずれも1面掲載にふさわしい内容の好論です。
○亡国の天子薩夜麻 (122号)
○海幸・山幸と「吠ゆる狗・俳優の伎」(123号)
○前期難波宮の築造準備について (124号)
○盗用された任那救援の戦い
 -敏達・崇峻・推古紀の真実-(上)(125号)
 この他にも次の論文を正木さんは発表されました。
○「末廬国・奴国・邪馬壹国」と「倭奴国」
 -何故『倭人伝』に末廬国の官名が無いのか- (120号)
○万葉歌「水鳥のすだく水沼」の真相 (120号)
○『倭人伝』の里程記事は正しかった
 -「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算- (121号)

 これほどのハイペースで論文を発表すると、普通はレベルが落ちるのですが、正木さんは高い研究水準を維持されており、素晴らしいことと思います。
 古田先生の講演録(要旨)も次のものを収録できました。いずれもわたしがモバイルワープロにより、講演同時入力したものです。講演を聞きながらのワープロ同時入力はかなり疲れるのですが、タイムリーな会報掲載のためにはこの方法が最も合理的です。
○「古田史学の会」新年賀詞交換会
 古田武彦講演会・要旨 (120号)
○筑紫舞再興30周年記念「宮地嶽 黄金伝説」のご報告
 古田武彦講演要旨・他 (121号)
○八王子セミナー報告(実況同時記録)(125号)
 今年、めきめきと頭角を現されたのが服部静尚さんでした。次の論文を発表されました。内容も様々で興味深く、かつ論証も成立しており、特に「鉄の歴史と九州王朝」は考古学的資料としても貴重で秀逸でした。これからの活躍が期待されます。
○日本書紀の中の遣隋使と遣唐使 (123号)
○鉄の歴史と九州王朝 (124号)
○石原家文書の納音は古い形か (125号)

 わたしからは次の論文を発表しました。いずれも「洛中洛外日記」に掲載したものを編集転載したものです。自ら云うことでもありませんが、忙しい仕事の合間をぬって、よく書けたと自分では納得しています。
○九州年号「大長」の考察 (120号)
○「ウィキペディア」の史料批判 (120号)
○一元史観からの太宰府「王都」説
 -井上信正説と赤司善彦説の運命- (121号)
○納音(なっちん)付き九州年号史料の出現
 -熊本県玉名郡和水町「石原家文書」の紹介-(121号)
○前期難波宮の論理(122号)
○条坊都市「難波京」の論理(123号)
○「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(124号)
○九州王朝説と瓦の考古学 -森郁夫著『一瓦一説』を読む-(125号)
○「五十戸」から「里」へ(125号)

 以上の他、常連組からは次の論文が発表されました。札幌市の阿部さんも健闘されました。
○「天朝」と「本朝」
 「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析 下  札幌市 阿部周一(120号)
○神代と人代の相似形Ⅱ
 もうひとつの海幸・山幸  高松市 西村秀己(121号)
○『三国志』の「尺」 姫路市 野田利郎(121号)
○「高御産巣日神」対馬漂着伝承の一考察  松山市 合田洋一(123号)
○「魏年号銘」鏡はいつ、何のために作られたか
  -薮田嘉一郎氏の考えに従う解釈-  京都市 岡下英男(124号)
○「春耕秋収」と「貸食」
 -「一年」の期間の意味について- 札幌市 阿部周一(125号)

 論文ではありませんが、旅行や遺跡見学報告も掲載され、会報に華を添えました。このような投稿を期待しています。
○筑紫舞見学ツアーの報告
 -筑紫舞三〇周年記念講演と大神社展= 今治市 白石恭子(122号)
○トラベルレポート出雲への史跡チョイ巡り行  東大阪市 萩野秀公(124号)

 最後に他の研究誌から次の転載を行いました。これからも優れた論文の転載を行いたいと思います。
○【転載】「九州年号」を記す一覧表を発見
 -和水町前原の石原家文書-
 熊本県玉名郡和水町 前垣芳郎(122号)

 以上、2014年の『古田史学会報』も、古田学派らしい論文を多数掲載することができました。投稿者や会員の皆様に感謝いたします。来年もふるってご投稿ください。


第837話 2014/12/14

『古田史学会報』

  125号の紹介

 本年最後の『古田史学会報』125号が発行されましたのでご紹介します。正木さん服部さん阿部さん常連組は快調です。わたしからは11月に開催された古田先生の八王子セミナーの報告、九州王朝説から考察した古代瓦について、そして「五十戸制」を九州王朝説の立場から考察した論稿を発表しました。
 正木稿は『日本書紀』推古紀などに見える朝鮮半島(任那)関連記事が九州王朝史書からの盗用であることを論証されました。服部稿は熊本県和水町で発見された納音付き九州年号史料の納音が現在伝わっている納音よりも古い形式であるとされました。阿部稿では「倭人伝」に見える「春耕秋収」について論究されました。全体として、やや難しい論稿がそろいましたが、九州王朝・多元史観研究において重要なテーマです。
 掲載テーマは次の通りです。会員の皆さんの投稿をお待ちしています。ページ数や編集の都合から、短い原稿の方が採用の可能性は高くなりますので、ご留意ください。

〔『古田史学会報』125号の内容〕
○盗用された任那救援の戦い
 -敏達・崇峻・推古紀の真実-(上) 川西市 正木裕
○八王子セミナー報告(実況同時記録) 京都市 古賀達也
○石原家文書の納音は古い形か  八尾市 服部静尚
○九州王朝説と瓦の考古学
 -森郁夫著『一瓦一説』を読む- 京都市 古賀達也
○「春耕秋収」と「貸食」
 -「一年」の期間の意味について- 札幌市 阿部周一
○「五十戸」から「里」へ  京都市 古賀達也
○賀詞交換会(古田先生を囲んで)のお知らせ
 日時 2015年1月10日(土)午後1時30分
 会場 大阪府立大学 i-siteなんば 2階
 参加費 1000円  終了後懇親会(有料)
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記  西村秀己


第836話 2014/12/13

2014年の回顧

「前期難波宮」

 今年も12月半ばとなりました。2014年も「古田史学の会」では多くの研究がなされ、数々の学問的成果があがりました。そこで、本年を振り返り、特に印象に残ったことを記してみたいと思います。
 2005年10月の関西例会で、わたしが前期難波宮九州王朝副都説を発表してから、早いもので9年がたちました。今年もその前期難波宮遺構に関して重要な考古学的発見が発表されました。
 本年2月の新聞発表によれば、前期難波宮から出土した木柱の伐採年が「年輪セルロース酸素同位体比法」により、600年代前半であることが判明しました(「洛中洛外日記」667話にて紹介)。この発見により、前期難波宮遺構が7世紀中頃のものとする説が正しかったことが新たに証明されました。わたしは白雉改元(652年)の宮殿を前期難波宮としていましたから、この科学的測定結果と年代が一致しています。
 同じく2月に発行された『葦火』168号に、難波京の条坊跡(方格地割)の3例目となる遺跡(四天王寺南方)の発見が掲載されました(「洛中洛外日記」683話で紹介)。この発見などにより、前期難波宮が条坊都市であったことが、ほぼ確実と見なされるようになりました(条坊の全体像は不明)。
 今日までわたしは前期難波宮九州王朝副都説を論証する論文をいくつも発表してきましたし、考古学的出土事実もこの仮説に対応していました。実は、古田先生からは前期難波宮九州王朝副都説に対して、正面切っての批判などはありませんでしたが、講演会などでの質問に対して、否定的な見解を述べられてきました。
 ところが本年11月の八王子セミナーにおいて、わたしの知る限り、初めて古田先生は「検討しなければならない」と前期難波宮九州王朝副都説が検討に値する仮説であることを認められたのです。わたしが同セミナーでの古田先生のこの発言をお聞きして、どれほど嬉しく思ったかはご理解いただけることと思います。「前期難波宮九州王朝副都説は古田説とは大きく異なり、そのような研究を発表する古賀は古田史学の会の役員を辞めろ」という心ない非難もあびていましたので、なおさらでした。この先生の一言は、わたしにとっては2014年における最も貴重な学問的「成果」だったのです。
 わたしは30代の若い頃より、「師の説にな、なづみそ。本居宣長のこの言葉は学問の神髄です。」と古田先生から繰り返し教えられてきました。そしてその教えを実践してきました。それが間違いではなかったことを改めて確信できたのでした。


第835話 2014/12/10

「聖徳」は九州年号か、法号か

 昨晩は名古屋で仕事でしたので、「古田史学の会・東海」の林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人、瀬戸市)や石田敬一さん(名古屋市)とSKE48で有名な栄で夕食をご一緒しました。
 会食での話題として、明石書店(秋葉原のAKB48劇場のやや近くにあります)から出版していただいている『古代に真実を求めて』の別冊構想について相談しました。というのも、毎年発行している『古代に真実を求めて』とは別にテーマ毎の論文や資料による別冊の発刊企画を検討しているのですが、私案として「九州年号」資料集も別冊として出版したいと考えてきました。そこで永く九州年号史料の収集を手がけられてきた林さんにその編集を引き受けていただけないかとお願いしました。
 そうしたこともあり、九州年号についての意見交換を林さんと交わしたのですが、『二中歴』には「聖徳」は無いが、「聖徳」が九州年号かどうかとのご質問が出されました。基本的には九州年号群史料として『二中歴』が最も優れていると考えていますが、『二中歴』には無く、他の九州年号群史料に見える「聖徳」(629〜634、『二中歴』では「仁王」7〜12年に相当)を九州年号とするのかという問題は、研究途上のテーマでもあり難しい問題です。
 ホテルに戻ってからもこの問題について考え、何とか史料根拠に基づいた論証ができないものかと思案したところ、次のような論証が可能ではないかと気づきました。

1.九州年号原型論研究において、『二中歴』が最も優れた、かつ成立が古い九州年号群史料であることが判明している。
2.その『二中歴』に見えない「聖徳」は本来の九州年号ではない可能性が高いと考えるべきである。
3.しかし、それではなぜ他の九州年号群史料等に「聖徳」が九州年号として記されているのか。記された理由があるはず。
4.その理由として正木裕さんは、多利思北孤が出家してからの法号の「法興」が年号のように使用されていることから、「聖徳」も利歌彌多弗利(リ、カミトウのリ)の出家後の法号ではないかとされた。
5.この正木説を支持する史料根拠として、『二中歴』の九州年号「倭京」の細注に「二年、難波天王寺を聖徳が造る」という記事があり、倭京2年(619年)は多利思北孤の治世であり、その太子の利歌彌多弗利が活躍した時代でもある。従って、難波天王寺を建立するほどの九州王朝内の有力者「聖徳」を利歌彌多弗利とすることは穏当な理解である。
6.『日本書紀』に、四天王寺を大和の「聖徳太子」が建立したとする記事が採用されたのは、九州王朝の太子「聖徳」(利歌彌多弗利)が天王寺を建立したとする事績を近畿天皇家が盗用したものと考えることが可能。しかも、考古学的事実(四天王寺の創建年が『日本書紀』に記された6世紀末ではなく、620年頃とする見解が有力)も『二中歴』の細注を支持している。
7.以上の史料根拠に基づく論理性から、九州王朝の天子(多利思北孤が没した翌年の仁王元年・623年に天子に即位したと考えられる)「聖徳」(利歌彌多弗利)の「名称」を政治的年号に採用するとは考えられない。
8.従って、利歌彌多弗利が即位の6年後に出家し、その法号を「聖徳」としたとする正木説が今のところ唯一の有力説である。それが後世に、「法興」と同様に年号のように使用された。その結果、多くの年代記などに他の九州年号と同列に「聖徳」が記載された。ちなみに、多利思北孤も天子即位(端政元年・589年)の2年後が「法興元年(591)」とされていることから、即位後に出家したことになる。利歌彌多弗利も父の前例に倣ったか。
9.付言すれば、利歌彌多弗利「聖徳」の活躍がめざましく、その事績が近畿天皇家の「聖徳太子」(厩戸皇子)の事績として盗用されたと考えられる。
10.同様に九州王朝内史書にも「聖徳」としてその活躍が伝えられた。『二中歴』倭京2年の難波天王寺聖徳建立記事も、利歌彌多弗利出家後の法号「聖徳」の名称で記載されたことになる。

 以上のような論理展開が可能ではないでしょうか。引き続き検証を行いますが、今のところ論証として成立しているような気がしますが、いかがでしょうか。なお、正木さんも「聖徳」法号説の論証を更に深められており、関西例会で発表予定です。

(補注)上記の論理展開において、7が最も重要な論理性です。


第834話 2014/12/09

鬼前太后と「キサキ」

 図書館で遠山美都男著『古代日本の女帝とキサキ』(平成17年、角川書店)が目に留まり、流し読みしたのですが、実は日本語の「キサキ」(お妃・お后)について以前から気になっていたことがありました。それは「キサキ」の語源についてでした。「キサキ」の意味について同書では「古代においては、キサキというのは天皇の正式な配偶者ただ一人を指して呼んだ」(10頁)とされており、それはよくわかるのですが、なぜ天皇の正式な配偶者「大后」(皇后とも記される)を「キサキ」と訓むのかについては説明が見あたりませんでした(わたしの見落としかもしれませんが)。
 九州王朝の天子、多利思北孤のために造られた法隆寺の釈迦三尊像の後背銘冒頭に次の記述があります。

 「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩」

 この鬼前太后は「上宮法皇」(多利思北孤)の母親のことですが、この「鬼前」の訓みがはっきりしませんでした。とりあえず古田学派内では「きぜん」とか「おにのまえ」と訓まれてきたようなのですが、この鬼前が「キサキ」の語源ではないかとわたしはかねてから考えていました。すなわち、「鬼前」の訓みを「きさき」ではないかと考えているのです。もちろん、絶対にそうだというような根拠や自信はありません。
 このアイデア(思いつき)の良いところは、その語原がはっきりしない「キサキ」について、とりあえず九州王朝中枢で成立した古代金石文(後背銘)が根拠であるということと、王朝に関する用語の訓みを九州王朝で先行して成立したとすることは、九州王朝説論者にとっては納得しやすい点です。弱点としては、鬼は「き」と音読みし、前は「さき」と訓読みするという「重箱読み」であることです。
 これは仮説というより単なる思いつきにすぎませんので、皆さんに披露し、ご批判を待ちたいと思います。あるいは「キサキ」の語源をご存じの方があれば、ご教示ください。


第833話 2014/12/08

九州年号史料と

  九州年号付加史料

 関西例会に姫路市から参加されている熱心な会員の野田利郎さんから、最近の「洛中洛外日記」の更新頻度が増えている理由についてご質問いただきました。確かに意識的に「洛中洛外日記」の更新ペースを上げているのですが、その理由の一つに、情報の共有化により古田史学・多元史観の研究速度を加速させるという目的がありました。
 たとえ「洛中洛外日記」のようなコラム的な小文とはいえ、新知見や新仮説、あるいは論証的にも妥当な内容をできる限り記すように心がけてきました。しかし、自分一人で研究するのではなく、多くの古田学派の研究者やホームページ読者にも一緒に考えていただいたほうが、学問的にも有益ですし、より真実に近づきやすいと思い、論証が成立していなくても、あるいは単なるアイデア・思いつきレベルのテーマでも、「洛中洛外日記」で紹介することにしたのです。ですから結果的に思い違いや誤ったことを書いてしまうかもしれませんが、そのことが読者のご指摘により明確になれば、それはそれで学問的に有益で前進でもあります。
 さらには自分では公知であると思い、とりたてて解説していないことが、結構知られていなかったり、理解の深さに差があることに気づかされることも少なくなく、そうした経験をするたびに、やはり繰り返して説明することも大切だと思うようになりました。
 たとえば、今年初めて参加した八王子セミナーのとき、たまたま夜にラウンジでお会いした皆さんと懇談する機会があったのですが、九州年号についてのご質問があり、九州年号史料と九州年号付加史料の差異やそれらの優劣についての説明をさせていただいたところ、そうしたことを初めて聞かれた方もあり、自分では常識でありわざわざ説明するまでもないと思っていることでも、丁寧な説明が必要であることに気づかされました。
 具体例を上げますと、九州年号が記されている国東長安寺蔵(大分県豊後高田市)『屋山関係年代記』(『九州歴史資料館研究論集13』所収、1998年)には「善記」を始め約30の九州年号が見えます。しかし、子細に観察しますと、誤字や異伝のものが散見され、九州年号の時代に成立した年代記の写本ではなく、後世において年代記編纂時に別の九州年号史料を参考にして、それら九州年号を付加したと見られます。従って、『屋山関係年代記』は「九州年号付加史料」であり、九州年号の時代に編纂された本来の「九州年号史料」の写本とは言い難いものです。ですから、九州年号史料としての価値は『二中歴』などに比べれば、はるかに劣ります。
 初期の頃の九州年号研究においては、このような「九州年号付加史料」をも本来の「九州年号史料」と同列に扱い、その原型論研究において、史料の「多数決」の一つとして使われたこともありました。史料の優劣を「多数決」で決めるという方法は誤っており、古田史学の方法とは異なるのですが、なかなか理解していただけないこともありました。
 この「多数決」という方法は、「邪馬台国」説の方が「邪馬壹国」説よりも多いから「正しい」とすることと同次元の「方法」であり、古田史学とは全く異なるもので、学問的に間違っています。こうした古田学派にとって当然のことでも、形やテーマが変わると誤って使用されることもあります。このような問題を「洛中洛外日記」でも丁寧に説明していきたいと思います。


第832話 2014/12/07

高良大社の留守殿

 『日本書紀』斉明四年十月条(658年)に「留守官」(蘇我赤兄臣)という官職名が記されています。岩波古典文学大系の頭注には「天皇の行幸に際して皇居に留まり守る官。」と説明されています。この「留守官」について、九州王朝の難波遷都(前期難波宮)にともない、太宰府の留守を預かる官職とする説を正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)は関西例会で発表されていました。
 この正木説に対応するかもしれないような痕跡を「発見」しました。筑後国一宮の高良大社(久留米市)の本殿の裏に「留守殿」という摂社があったという報告が高良大社の研究者として著名な古賀壽さんからなされていたのです。『高良山の文化と歴史』第6号(高良山の文化と歴史を語る会編、平成6年5月)に収録されている古賀壽さんの論稿「高良山の史跡と伝説」に「留守殿のこと」として、この「留守殿」が紹介されています。
 大正時代前半のものと認められる境内図に、本殿の真後ろに「留守殿」の小祠が描かれているとのこと。中世末期成立とされる『高良記』にも「留守七社」という記事が見えますから、現在ではなくなっていますが、「留守殿」は古くからあったことがわかります。古賀壽稿に引用されている太田亮『高良山史』の見解によれば「又本社には、もと留守殿七社あり、(中略)蓋し国衙庁の留守職と関係あろう。」とされています。古賀壽さんも「『留守社』また『留守殿』という特異な名称と、本殿背後の中軸線上というその位置は、この小祠のただならぬ由緒を暗示していよう。」と指摘されています。
 わたしは高良大社の祭神の玉垂命は「倭の五王」時代の九州王朝の王のこととする説(九州王朝の筑後遷宮)を発表していますが、このことから考えると高良大社本殿真後ろにあった「留守殿」は筑後国国庁レベルではなく、九州王朝の天子にとっての「留守殿」と考えるべきと思われます。
 この九州王朝の「留守殿」と先の斉明紀の「留守官」が無関係ではない可能性を感じています。高良大社の「留守殿」がどの時代の「留守官」に関係するのかはまだ不明ですが、九州王朝の遷都・遷宮に関わる官職ですから、筑後から筑前太宰府への遷宮に関係するのか、太宰府から前期難波宮への「遷都」に関係するのか、あるいはそれ以外の遷都・遷宮に関係するのか、今後の研究課題です。


第831話 2014/12/06

来年は高野山開創1200年

 来年は高野山開創1200年を迎えます。高野山は空海が開基した金剛峯寺をはじめ多くの寺院や旧跡があり、世界遺産とされています。わたしはまだ行ったことがありませんが、いつかは訪れたいものです。
 空海は『旧唐書』日本国伝にもその名が記された高名な僧侶ですが、わたしは空海について論文を一つだけ書いたことがあります。『市民の古代』13集(1991年、新泉社)に掲載された「空海は九州王朝を知っていた 多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ」という論文で、35歳の頃に書いたものです。全文が本HPに掲載されていますので、ご一読いただければ幸いです。
 「洛中洛外日記」323話でも触れましたが、空海の遺言に記された空海の唐からの帰国年(大同2年・807)の一年のずれの原因を解明し、その結果、空海が九州王朝の存在を知っていたとする結論に到達したものです。若い頃の未熟な論文ですが、論証や結論は今でも妥当なものと思っています。発表当時、仏教大学の講師の方から、同論文を講義に使用したいとの申し入れがあり、光栄なことと了解した思い出があります。
 同論文執筆に当たり、膨大な空海全集などを京都府立総合資料館で何日もかけて読破したことを今でも懐かしく思い出します。あの難解で膨大な空海の文章を読み通す気力も体力も今のわたしにはありませんが、そのときの体験が古代史研究に役立っています。若い頃の訓練や試練が今のわたしを支えてくれています。 そんなわたしも、来年は還暦を迎えます。できることなら、もう一つぐらい空海に関する論文を書いてみたいものです。


第830話 2014/11/30

『太平記』の天王寺

 「洛中洛外日記」でも度々取り上げましたが、『日本書紀』では「聖徳太子」による「四天王寺」の造営と記され、『二中歴』「年代歴」には倭京2年(619)に「難波天王寺」の建立が記録されています。現在では四天王寺という名称ですが、地名は天王寺(大阪市天王寺区)です。明治時代の地図にも天王寺村とされています。こうした状況から、本来の寺名は天王寺であり、『日本書紀』成立以後のある時期にその影響を受けて四天王寺という名称に変更され、他方、地名としての「天王寺」は本来の名称のまま残ったとする説を述べました。
 このわたしの見解は高名な落語家桂米團治さんのブログに取り上げられたり、最近では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)により、天王寺の移築問題などの研究が進められています。四天王寺から出土した瓦にも「天王寺」銘と「四天王寺」銘を持つものがあり、時代によって天王寺を名乗ったり四天王寺になったりしているようです。
 水野代表からお借りしている『太平記』には「天王寺」と記されていますから、『太平記』成立時の14世紀後半には天王寺と名乗っていたようです。現在は 四天王寺を名乗っていますから、14世紀末以降のどこかの時点で天王寺から四天王寺に改められたことになります。もう少し正確に言えば、『太平記』の時代以前にも、『日本書紀』成立後に四天王寺を名乗っていた時期があったとも思われますが、各時代の史料を調査すれば、寺名称の変遷が明らかになるものと思われます。