第692話 2014/04/11

近畿天皇家の律令

 第691話で、 藤原宮で700年以前の律令官制の官名と思われる木簡「舎人官」「陶官」が出土していることを紹介しましたが、実はこのことは重大な問題へと進展する可能性を示しています。すなわち、藤原宮の権力者は「律令」を有していたという問題です。一元史観の通説では、これを「飛鳥浄御原令」ではないかとするのですが、九州王朝説の立場からは「九州王朝律令」と考えざるを得ないのです。
 たとえば、威奈大村骨蔵器銘文には「以大宝元年、律令初定」とあり、近畿天皇家にとっての最初の律令は『大宝律令』と記されています。この金石文の記事を信用するならば、700年以前の藤原宮で採用された律令は近畿天皇家の律令ではなく、「九州王朝律令」となります。そうすると、当時の日本列島では最大規模の朝堂院様式の宮殿である藤原宮で「九州王朝」律令が採用され、全国統治する官僚組織(「舎人官」「陶官」など)が存在していたことになります。ということは、藤原宮は「九州王朝の宮殿」あるいは「九州王朝になり代わって全国統治する宮殿」ということになります。「藤原宮には九州王朝の天子がいた」と する西村秀己説の検討も必要となりそうです。
 九州王朝の実像を解明るためにも、藤原宮出土木簡の研究が重要です。わたしは「多元的木簡研究会」の創設を提起していますが、全国の古田学派研究者の参画をお待ちしています。


第691話 2014/04/08

近畿天皇家の宮殿

 このところ特許出願や講演依頼(繊維機械学会記念講演会)を受け、その準備などで時間的にも気持ち的にも多忙な日々が続いています。若い頃よりもモチベーション維持に努力が必要となっており、こんなことではいけないと自らに言い聞かせている毎日です。

 さて、701年を画期点とする九州王朝から近畿天皇家への王朝交代の実体について、多元史観・古田学派内でも諸説が出され、白熱した論議検討が続けられています。「古田史学の会」関西例会においても「禅譲・放伐」論争をはじめ、様々な討議が行われてきました。
 そこで、701年以前の近畿天皇家の実体や実勢を考える上で、その宮殿について実証的に史料事実に基づいて改めて検討してみます。もちろん『日本書紀』 の記事は、近畿天皇家の利害に基づいて編纂されており、そのまま信用してよいのかどうか、記事ごとに個別に検討が必要であること、言うまでもありません。 従って、金石文・木簡・考古学的遺構を中心にして考えてみます。
 『日本書紀』の記事との関連で、700年以前の近畿天皇家の宮殿遺構とされているものには、「伝承飛鳥板葺宮跡」(斉明紀・天武紀)、「前期難波宮遺 構」(孝徳紀)、「近江大津宮遺構(錦織遺跡)」(天智紀)、「藤原宮遺構」(持統紀)などがよく知られています。「前期難波宮」と「近江大津宮」については、九州王朝の宮殿ではないかとわたしは考えていますので、近畿天皇家の宮殿とすることについて大きな異論のない「伝承飛鳥板葺宮跡」と「藤原宮遺構」 について今回は検討してみます(西村秀己さんは、「藤原宮」には九州王朝の天子がいたとする仮説を発表されています)。
 幸いにも両宮殿遺構からは多量の木簡が出土しており、両宮殿にいた権力者の実像が比較的判明しています。たとえば「伝承飛鳥板葺宮跡」の近隣にある飛鳥池遺跡から出土した木簡には「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」などと共に、「詔」の字が記されたものも出土していることから、その地の権力者 は「天皇」を名乗り、「詔勅」を発していたことが推測されます。
 「藤原宮遺構」からは700年以前の行政単位である「評」木簡が多数出土しており、その「評」地名から、関東や東海、中国、四国の各地方から藤原宮へ荷物(租税か)が集められていたことがわかります。これらの史料事実から、700年以前の7世紀末に藤原宮にいた権力者は日本列島の大半を自らの影響下にお いていたことが想定できます。
 その藤原宮(大極殿北方の大溝下層遺構)からは700年以前であることを示す「評」木簡(「宍粟評」播磨国、「海評佐々理」隠岐国)や干支木簡(「壬午年」「癸未年」「甲申年」、682年・683年・684年)とともに、大宝律令以前の官制によると考えられる官名木簡「舎人官」「陶官」が出土しており、 これらの史料事実から藤原宮には全国的行政を司る官僚組織があったことがわかります。7世紀末頃としては国内最大級の礎石造りの朝堂院や大極殿を持つ藤原宮の規模や様式から見れば、そこに全国的行政官僚組織があったと考えるのは当然ともいえます。
 こうした考古学的事実や木簡などの史料事実を直視する限り、701年以前に近畿天皇家の宮殿(「伝承飛鳥板葺宮跡」「藤原宮遺構」)では、「詔勅」を出したり、おそらくは「律令」に基づく全国的行政組織(官僚)があったと考えざるを得ないのです。九州王朝から近畿天皇家への王朝交代について論じる際は、 こうした史料事実に基づく視点が必要です。


第690話 2014/04/06

朝来市「赤淵神社」へのドライブ

 昨日はお花見を兼ねて、兵庫県朝来市までドライブしました。高速道路を使って京都から3時間ほどの行程で、途中、有名な山城の竹田城を車窓から見ることもできました。今回のドライブの一番の目的は、九州年号史料(常色元年〔647〕など)の『赤渕神社縁起』を持つ赤淵神社を訪問することでした。地図などでは「赤渕神社」と表記されることが多いのですが、同神社紹介のパンフレット(旧「和田山町教育委員会」発行)には「赤淵神社」とありましたので、今後は神社名は「赤淵神社」、史料名としては『赤渕神社縁起』と記すことにします。
 残念ながら宮司さん(国里愛明さん)はご不在でしたので朝来市和田山郷土歴史館に行き、『和田山町史』(平成16年発行・2004年)をコピーさせていただきました。赤淵神社のパンフレットも同館で入手したものです。入館料や駐車料金も無料で、とても親切な歴史館でした。そこでの展示パネルを見て驚いたのですが、同地の円龍寺には白鳳時代のものと思われる小型の金銅菩薩立像(32cm)があることでした。
 更にこんな山奥の狭い地域にもかかわらず多くの古墳があり、三角縁神獣鏡などが出土していることも注目されました。朝来市発行の観光パンフレットなどによれば、朝来市和田山筒江にある「茶すり山古墳」は近畿地方最大の円墳(直径約90m、高さ18m。5世紀前半代)とのことで、未盗掘だったため、長さ 8.7mの木棺からは多数の副葬品が出土しています。
 北近畿豊岡自動車道の山東パーキングエリアに隣接している朝来市埋蔵文化財センター「古代あさご館」には同地の古墳などからの出土品が展示されており、まだ真新しく、しかも入館料・駐車料ともに無料でした。一般道路からも入れますので、おすすめです。遺跡等を紹介したパンフレットも多数あり、それらも無料でしたのでいただいてきました。展示品には「茶すり山古墳」出土の「蛇行剣」とその複製品に目を引かれました。
 天長5年(828)成立の九州年号史料『赤渕神社縁起』や、『古事記』(和銅5年成立・712年)よりも成立が古い『粟鹿大神元記』(和銅元年成立・ 708年)で著名な「粟鹿神社」、そして近畿地方最大の円墳「茶すり山古墳」などが存在する朝来市は予想以上にすごいところでした。「粟鹿神社」を最後に訪問して京都に帰りましたが、朝来市の桜も京都鴨川の桜並木も満開で、快適なドライブでした。


第689話 2014/04/03

近畿天皇家の称号

 近畿天皇家が701年の王朝交代以降は「天皇」を称号としていたことは明確ですが、それ以前については古田学派内でも諸説あり、やや「混乱」しているようにも見えます。この問題について、実証的に史料事実に基づいて改めて考えてみました。
 まず、古田先生の著作では史料根拠を提示して、7世紀初頭頃には「天皇」号を称していたと論述されています。『古代は輝いていた・3』(朝日新聞社。 269頁)によれば、法隆寺薬師仏後背銘にある「天皇」「大王天皇」を7世紀初頭の同時代金石文とされ、それを根拠に推古ら近畿天皇家の主は「大王」や 「天皇」を称していたとされました。もちろん、九州王朝の「天子」をトップとしての、ナンバーツーとしての「天皇」号です。
 その後の近畿天皇家の称号を確認できる史料根拠としては、飛鳥池遺跡から出土した7世紀後期(天武の頃と編年されています)の「天皇」木簡や「皇子」木簡(舎人皇子、穂積皇子、大伯皇子)があります。これらの史料事実から、近畿天皇家は7世紀前期と後期において「天皇」号を用いていたことがわかります。 これもまた、九州王朝の「天子」の下でのナンバーツーとしての「天皇」です。
 その後、8世紀になると九州王朝に替わってナンバーワンとしての「天皇」号を近畿天皇家は名乗りますが、同時に「天子」や「皇帝」などの称号も併用しています。その史料根拠の一つは『養老律令』です。その「儀制令第十八」には次のように記されています。
 「天子。祭祀に称する所。」
 「天皇。詔書に称する所。」
 「皇帝。華夷に称する所。」
 「陛下。上表に称する所。」
 このように『養老律令』では複数の称号の使い分けを規定しているのです。おそらくこうした「儀制令」の規定は『大宝律令』にもあったと思われますが、その実用例として、和銅五年(712)成立の『古事記』序文(上表文)に、当時の元明天皇に対して「皇帝陛下」と記していますから、701年以後は近畿天皇家の称号として、「天皇」の他にも「天子」「皇帝」を併用していたことがうかがえるのです。おそらくは、九州王朝での呼称(「九州王朝律令」)を先例としたのではないでしょうか。


第688話 2014/04/02

『古田史学会報』121号の紹介

 『古田史学会報』121号が発行されましたので、ご紹介します。アクロス福岡での古田先生の講演要旨などを掲載しました。掲載稿は次の通りです。西村稿は3月の関西例会で発表されたテーマで、もっとも好評だったものです。

〔『古田史学会報』121号の内容〕
○筑紫舞再興30周年記念
「宮地嶽 黄金伝説」のご報告
 古田武彦講演要旨・他(文責:古賀達也)
○一元史観からの太宰府「王都」説
  — 井上信正説と赤司善彦説の運命 京都市 古賀達也
○神代と人代の相似形?
 もうひとつの海幸・山幸  高松市 西村秀己
○『三国志』の「尺」  姫路市 野田利郎
○納音(なっちん)付き九州年号史料の出現
 -熊本県玉名郡和水町「石原家文書」の紹介-  京都市 古賀達也
○『倭人伝』の里程記事は正しかった
  — 「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算 川西市 正木裕
○2014年度会費納入のお願い
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第687話 2014/04/01

和水(なごみ)町「石原家文書」

調査と講演案内

 納音(なっちん)付き九州年号史料が発見された熊本県玉名郡和水(なごみ)町を5月の連休に訪問することになりました。みかん箱二箱分にも及ぶという「石原家文書」を見せていただけるということで、とても楽しみにしています。40代の頃、青森県五所川原市の「和田家文書」調査以来の本格的な古文書調査となりますので、歴史研究者としての血が騒ぎます。調査結果は、6月15日(日)に開催予定の「古田史学の会」会員総会記念講演で報告させていただきます。

 5月3日に和水(なごみ)町に入り、「石原家文書」を見せていただき、翌4日(日)の午後に当地で講演させていただきます。和水町のみなさまにお会いできることも、楽しみにしています。おそらく『隋書』に記されたように、倭国を訪問した隋使の一行は、阿蘇山の噴火を見ていますから、和水町あたりまで訪れたのではないでしょうか。講演では当地のみなさんに古田先生の九州王朝説と九州年号についてご説明させていただきます。詳細は次の通りです。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

講師 古賀達也(古田史学の会・編集長)

演題 「九州年号」の古代王朝

   -阿蘇山あり、その石、火起り天に接す-『隋書』

日時 5月4日(日)13:30~

会場 和水町中央公民館

   熊本県玉名郡和水町江田3883-1

   電話 0968-86-2022

   ※九州縦貫自動車道菊水インターから車で5分

    和水町町役場南隣(駐車場無料)

主催 菊水史談会(問い合わせ先 090-3787-4460 前垣様)

参加費 100円(資料代等)

YouTubeに「納音菊水九州年号」古賀達也として掲載


第686話 2014/03/30

『古田史学会報』120号の紹介

 本年2月に発行された『古田史学会報』120号を遅くなりましたがご紹介します。新年賀詞交換会での古田先生の講演要旨を掲載しました。
 編集後記で西村秀己さんが書かれているように、投稿原稿が「帯に長く襷にも長いものばかり」となっています。また、「古田史学の会・四国」の阿部誠一副会長(今治市)からは、会報の内容が難しい、とのご批判もいただいています。是非、短くわかりやすく面白い原稿を送ってください。会報は皆さんの原稿で成り立っています。ご協力のほど、よろしくお願いします。長文の原稿は『古代に真実を求めて』へご投稿ください。

〔『古田史学会報』120号の内容〕
○「古田史学の会」新年賀詞交換会
 古田武彦講演会・要旨 2014年1月11日 i-site なんば
○「よみがえった筑紫舞30年記念イベント」
 古田武彦講演会のお知らせ
 2014年3月2日(日) アクロス福岡イベントホール
○九州年号「大長」の考察  京都市 古賀達也
○「末廬国・奴国・邪馬壹国」と「倭奴国」
 −何故『倭人伝』に末廬国の官名が無いのか−  川西市 正木裕
○「天朝」と「本朝」
 「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析 下  札幌市 阿部周一
○「ウィキペディア」の史料批判  京都市 古賀達也
○万葉歌「水鳥のすだく水沼」の真相  川西市 正木裕
○年頭のご挨拶  古田史学の会・代表 水野孝夫
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第685話 2014/03/29

『立正安国論』と『三教指帰』

 わたしは三十代の若き日より、古田先生のもとで日本古代史を学び、自ら研究も行ってきましたが、同時に古田先生の影響を受けて親鸞研究などの日本思想史についても初歩的ではありますが、勉強する機会を得ました。現在、わたしが日本思想史学会の会員であるのも古田先生の薫陶と推薦を受けてのことです。
 わたしは1991年に発表した論文「空海は九州王朝を知っていた」(『市民の古代』13集所収、新泉社)を執筆するにあたり、会社が休みの日は京都府立総合資料館に終日閉じこもり、空海の著作・書簡(全集など20冊以上はあったように思います)を片っ端から読みました。正確には「読む」というよりも「目を通し」ました。こんな無茶な「読書」は若かったからできたことで、今では体力的にも到底できるものではありません。この乱読により、何となく空海の生き様や思想の一端に触れることができ、この経験がわたしにとって初めての日本思想史研究に関わるものでした。
 その翌年には「日蓮の古代年号観」(『市民の古代』14集所収、新泉社。1992年)を発表したのですが、空海のときと同様に膨大な「日蓮遺文」を読み進めました。そして日蓮の代表作のひとつ『立正安国論』(1260年、北条時頼に提出)を読んだとき、その構成や文章に空海の『三教指帰(さんごうしいき)』(797年成立)に似た表現があることに気づきました。
 たとえば、『三教指帰』は仏教・道教・儒教のそれぞれの立場の人物による対話形式をとった構成で、いわば比較思想学の先駆けともいえる著作です。そして、結論として仏教が最も優れているということを主張しています。日蓮の『立正安国論』も主人と客との対話形式をとり、結論として法華経が最も優れた教えであり、国家や民衆を救うために法華経を採用すべきという結論へと導いた内容です。
 似ているのは対話形式という構成だけではなく、たとえば次のような類似点があります。
 空海『三教指帰』巻上
 「善いかな、昔、雀変じて蛤となる。(中略)鳩の心忽ちに化して鷹となる」
 日蓮『立正安国論』第九答
 「鳩化して鷹と為り、雀変じて蛤と為る。悦しいかな(後略)」
 この他にも『三教指帰』中に見える文章と類似したものがあり、日蓮は空海の『三教指帰』を読んでおり、その影響を受けているのではないかという仮説に、わたしは至ったのです。博覧強記の日蓮であれば、空海の著作を若い頃に修学していたことは、十分に考えられることです。
 この発見を論文として発表するために、本格的に先行説や関連研究について調査を始めたのですが、なんと、昭和41年に同様の指摘が発表されていたことがわかりました。それは岡田栄照さんによる「日蓮遺文にみられる空海の著作」(『印度学仏教学研究』第15巻 第1号所収、昭和41年。日本印度学仏教学会)という論文です。そこには「日蓮遺文」と空海の著作について次のように記されていました。
 「日蓮が修学時代に素読用として使用し、安国論の文体に影響を与えている三教指帰には法華経、法華経文句、摩訶止観が引用されている」
 この学問分野では「日蓮遺文」に空海の著作の影響があることは、既に知られていることだったのでした。この岡田論文に接したとき、わたしの「新発見」が「ぬか喜び」となった残念さと、危うく先人の研究業績を侵害し、自らの不明をさらすところだったと冷や汗をかきました。このときの経験以来、わたしは新説発表の際に先行説の有無に、より注意するようになりました。
 今でも『古田史学会報』編集責任者として投稿原稿の採否では、先行説の有無の確認にいつも悩まされています。30年前(「市民の古代研究会」時代)からの古田学派内の全ての研究論文を知っているわけでもありませんし、記憶しているわけでもありません。そのため、西村秀己さん、不二井伸平さんによるチェックも経てはいますが、どうしても不安な場合は水野代表や他の研究者に聞いたりしています。将来、「古田史学の会」ホームページなどが更に拡充され、全ての古田学派の研究がデジタル化されれば、この問題は大幅に解消されるでしょう。


第684話 2014/03/28

条坊都市「難波京」の論理

 「洛中洛外日記」683話などで繰り返し述べてきたことですが、これだけ考古学的根拠が発見されると、「難波京」は条坊都市であったと考えてよいと思います。しかし、わたしは前期難波宮九州王朝副都説を提唱する前から、前期難波宮には条坊が伴っていたと考えていました。それは次のような論理性からでした。

1.7世紀初頭(九州年号の倭京元年、618年)には九州王朝の首都・太宰府(倭京)が条坊都市として存在し、「条坊制」という王都にふさわしい都市形態の存在が倭国(九州王朝)内では知られていたことを疑えない。各地の豪族が首都である条坊都市太宰府を知らなかったとは考えにくいし、少なくとも伝聞情報としては入手していたと思われる。
2.従って7世紀中頃、難波に前期難波宮を造営した権力者も当然のこととして、太宰府や条坊制のことは知っていた。
3.上町台地法円坂に列島内最大規模で初めての左右対称の見事な朝堂院様式(14朝堂)の前期難波宮を造営した権力者が、宮殿の外部の都市計画(道路の位置や方向など)に無関心であったとは考えられない。
4,以上の論理的帰結として、前期難波宮には太宰府と同様に条坊が存在したと考えるのが、もっとも穏当な理解である。

 以上の理解は、その後の前期難波宮九州王朝副都説の発見により、一層の論理的必然性をわたしの中で高めたのですが、その当時は難波に条坊があったとする確実な考古学的発見はなされていませんでした。ところが、近年、立て続けに条坊の痕跡が発見され、わたしの論理的帰結(論証)が考古学的事実(実証)に一致するという局面を迎えることができたのです。この経験からも、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉を実感することができたのでした。


第683話 2014/03/26

難波京からまた条坊の痕跡発見

 今日は一日中、雨の中を兵庫・大阪へと出張しました。明日からは北陸(小松市・能美市・福井市)出張で、開発したばかりの近赤外線反射染料を代理店やお客様に紹介します。夏の太陽に照らされても、従来品よりも熱くならないウェアをつくれるという優れものです。何年もかけて新製品を開発できても、通常は売る方がもっと困難で、採用まで更に何年もかかります。おそらくこの新染料を使用した衣服が百貨店や量販店に並ぶのは、わたしの定年後かもしれません。
 古代史研究なども同様で、新説に至る研究期間よりも、その新説が世に受け入れられるにはその何倍もの時間が必要です。とりわけ、古田史学のように従来の一元史観を根底から覆す多元史観は、その画期性(インパクト)が大きいだけに余計に時間がかかるとも言えるでしょう。そのためにも、わたしたち「古田史学の会」は、古田先生への支持・支援をはじめ、長期に及ぶであろう試練に耐え、古田史学を世に広める体制作りと、多元史観による研究成果をあげ続けることを可能とする層の厚い古田学派研究陣の創出を目指したいと願っています。

 さて、「洛中洛外日記」第664話「難波京に7世紀中頃の条坊遺構(方格地割)出土」でも紹介しましたが、難波京からまた新たに条坊の痕跡が発見されました。大阪文化財研究所が発行している『葦火』168号(2014年2月)掲載の「四天王寺南方で見つかった難波京条坊跡」(平田洋司さん)によりますと、昨年夏に天王寺区大道2丁目で行われた発掘調査により、南北方向の道路側溝とみられる溝が発見されました。その位置や方位は、現在の敷地や自然地形の方位とも異なる正南北方向であり、この位置には難波京朱雀大路から西に2本目の南北道路(西二路)が推定されていることから、条坊道路の東側の側溝と考えられると説明されています。更に、その条坊道路の幅は14mと推定されています。溝の幅は1.1〜1.5mでもっとも深い部分で約60cmですが、上部が削られていますので、本来の規模はもう少し大きかったようです。
 溝からは瓦を主体とする遺物が見つかり、もっとも新しいものは9世紀代の土器で、そのほとんどは奈良時代以前のものとのこと。従って、溝の掘削は奈良時代以前に遡り、平安時代になって埋没したとされています。
 今回の発見により、難波京で発見された条坊の痕跡は管見では3件となります。次の通りです。

1.天王寺区小宮町出土の橋遺構(『葦火』No.147)
2.中央区上汐1丁目出土の道路側溝(『葦火』No.166)
3.天王寺区大道2丁目出土の道路側溝跡(『葦火』No.168)

 以上の3件ですが、いずれも難波宮や地図などから推定された難波京復元条坊ラインに対応した位置からの出土で、これらの遺構発見により難波京に条坊が存在したと考古学的にも考えられるに至っています。とりわけ、2の中央区上汐出土の遺構は上下二層の溝からなるもので、下層の溝は前期難波宮造営の頃のものと判断されていることから、7世紀中頃の前期難波宮の造営に伴って、条坊の造営も開始されたことがうかがえます。もちろん、上町台地の地形上の制限から、太宰府や藤原京などのような整然とした条坊完備には至っていないと思われます。今後の発掘調査により、条坊都市難波京の全容解明が更に進むものと期待されます。
 それでも難波京には条坊はなかったとする論者は、次のような批判を避けられないでしょう。古田先生の文章表現をお借りして記してみます。 
 第一に、天王寺区小宮町出土の橋遺構が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第二に、中央区上汐1丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第三に、天王寺区大道2丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 このように、三種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「難波京には条坊はなかった」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」なのです。
 しかし、自説の立脚点を「三種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができるのでしょうか。わたしには、それを決して肯定することができません。


第682話 2014/03/22

「日蓮遺文」の二倍年暦

 今から十数年前、わたしは二倍年暦(1年を2年とする暦法、1年で2歳と年齢を計算する「二倍年齢」)の研究に集中して取り組んでいました。その結果、東西の古典に二倍年暦による記述や痕跡が残されていることを発見し、『新・古代学』7集、8集に「新・古典批判 二倍年暦の世界」「新・古典批判 続・二倍年暦の世界」として発表しました(新泉社、2004年・2005年)。更に英文論文「A study on the long lives described in the classics」も国際人間観察学会の機関誌『Phoenix』(No,1 2007年)に発表しました。本ホームページから閲覧可能ですので、ご覧ください。
 これらの研究により、古代において世界各地で二倍年暦が存在していたことを基本的に論証し得たと考え、その後は別の研究テーマ(九州年号の研究など)に没頭しました。ただ、やり残した課題として、二倍年暦から一倍年暦への移行の時期や状況、暦法は一倍年暦になったあと年齢のみを「二倍年齢」とした可能性についてなどが残されていました。更には、古代史料に残された二倍年暦による記述を、二倍年暦が忘れ去られた後代において、一倍年暦表記と認識して「再記録」されたケースなども気になったままで放置していました。
 そのようなおり、最近、「日蓮遺文」の『崇峻天皇御所』に長寿の表現として「120歳」とする次の記事があることに気づきました。

「人身は受けがたし爪の上の土。人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名をくたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(『崇峻天皇御所』)

 日蓮は若い頃に比叡山延暦寺などで研鑽を積み、とても博学な人物ですが、この「120歳」という長寿の年齢表記も仏典から得たものと推測しています。たとえば「新・古典批判 二倍年暦の世界」で紹介しましたが、『長阿含経』には仏陀の最後の弟子、須跋(すばつ)のことが次のように記されています。

「是の時、狗尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋と曰う。年は百二十、耆旧にして多智なり。」(巻第四、第一分、遊行経第二)

 仏陀の最後の弟子で最長寿の須跋の年齢記事は『長阿含経』以外にもありますが、そうした仏典を日蓮は読んでいて、120歳という長寿表記を一倍年暦として認識し、『崇峻天皇御所』に記したのではないでしょう。ただ単に一般的な長寿年齢の表記であれば、きりの良い100歳でも、当時としては長寿であった還暦の60歳としてもよかったはずです。120歳と記したのは、やはり日蓮の認識や教養に仏典中の「120歳」という記事に基づいた可能性が高いと思われるのです。


第681話 2014/03/21

「古典的名作」を観る、読む。

 わたしは恥ずかしながら、どちらかというと古典的文学作品や名作を観たり読んだりするほうではありませんでした。さすがに還暦が近づいてきましたので、少しは人類史上の古典的名作に触れる機会をつくろうと、一念発起しました。とは言え、いきなり長編大作を読む自信もなかったので、昨年の春に公開された映画「アンナ・カレーニナ」を観ました。ロシア文学の最高傑作といわれているトルストイの恋愛小説を、舞台劇形式で見事に映画化された作品でした(ジョー・ライト監督、イギリス映画)。また、主演女優のキーラ・ナイトレイがとても美しく、悲しく映し出されており、最後まで見入ってしまいました。そして何よりも、登場人物の発する一言一言が深く胸に残り、原作の素晴らしさを感じさせられました。
 もう一つ挑戦した古典的名作は、マックス・ウェーバー著の『職業としての学問』です。こちらは学生時代に挑戦しましたが、難しすぎて全く歯が立たなかった記憶があります。あれから40年もたっていますので、少しは理解できるのではないかと、岩波文庫版を購入し読んでみましたが、やはりダメでした。その難解な表現のために、ウェーバーの真意をなかなか正確に深く読みとることができません。成長していない自分が少し悲しくなりましたが、それでも次のような部分には、その言わんとする本質とはおそらく無関係に共感を覚えました。

 「学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにこののちまで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる。(中略)ある写本のある箇所について『これが何千年も前から解かれないできた永遠の問題である』として、なにごとも忘れてその解釈を得ることに熱中するといった心構え--これのない人は学問に向いていない。そういう人はなにかほかのことをやったほうがいい。いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値だからである。」(岩波文庫『職業としての学問』22頁)

 この本は、今から約100年前の1919年にミュンヘンで学生たちに向けて行った講演の記録です。この部分を読んで、わたしが『古事記』写本の「治」や「沼」について「なにごとも忘れてその解釈を得ることに熱中」しているのは、学問に向いている証かもしれないとひとり喜んでいます。
 まだまだ不十分な理解にとどまっていますが、ウェーバーの『職業としての学問』から、多くの示唆を得ることができそうです。どなたか、この本についての解説を関西例会で講義していただければ、有り難いと思います。