第680話 2014/03/17

織田信長の石山本願寺攻め

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」は、織田信長の摂津石山本願寺攻めが舞台となって展開中です。ご存じの通り、摂津石山本願寺の石山とは今の大阪城がある場所で、難波宮の北側です。大阪歴史博物館の窓からは大阪城と難波宮址の両方が展望できますので、お勧め観光スポットです。
 石山本願寺と織田信長の戦いは「石山合戦」と呼ばれ、10年の長きにわたり続きましたが、この歴史事実は石山がいかに要衝の地であり難攻不落であったかを物語っています。といいますのも、前期難波宮九州王朝副都説への批判として、太宰府のように神籠石山城に囲まれているのが九州王朝の都の特徴であり、前期難波宮にはそのような防衛施設がないことをもって、九州王朝とは無関係とする意見があるのですが、そうした批判への一つの回答が「石山合戦」なのです。
 先日の関西例会においても同様の疑問が寄せられましたので、神籠石山城の存在は「十分条件」ではあるが、「必要条件」ではないとする論理性の点からの反論をわたしは行ったのですが、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から、「難波宮は難攻不落の要害の地にあり、信長でも石山本願寺攻めに何年もかかり、秀吉はその地に大阪城を築いたほど」という指摘がなされました。その意見を聞いて、わたしは「なるほど、これはわかりやすい説明だ」と感じました。わたしがなかなかうまく説明できなかったことを、見事な例で言い当てられたのです。まさに「我が意を得たり」です。
 関西の人はよくご存じのことと思いますが、当時の難波は天王寺方面から北へ伸びている「半島」となっており、三方は海に囲まれています。現在も「上町台地」としてその痕跡をとどめています。その先端付近に難波宮があり、後にその北側に石山本願寺や大阪城が造られています。
 7世紀中頃、唐や新羅の脅威にさらされた九州王朝の首都太宰府は水城と大野城などの山城で周囲を防衛しています。その点、難波であれば朝鮮半島から遠く離れており、攻める方は関門海峡を突破し、多島海の瀬戸内海を航行し、更に明石海峡も突破し、その後に上町台地に上陸しなればなりません。特に瀬戸内海は夜間航行は不可能であり、夜間は各地に停泊しながら東侵することになります。その間、各地で倭国軍から夜襲を受けるでしょうし、瀬戸内海の海流も地形も知り尽くした倭国水軍(「河野水軍」など)と不利な海戦を続けなければなりません。したがって、古代において唐や新羅の水軍が自力で難波まで侵入するのは不可能ではないでしょうか。
 同様に日本海側からの侵入も困難です。仮に敦賀や舞鶴から上陸でき、琵琶湖の東岸で陸戦を続けながら、大坂峠を越え河内湾北岸まで到達できたとしても、既に船は敦賀や舞鶴に乗り捨てていますから、上町台地に上陸するための船がありません。このように、難波宮は難攻不落という表現は決して大げさではないのです。だからこそ近畿天皇家の聖武天皇も難波を都(後期難波宮)としたのです。
 同様の視点から、愛媛県西条市で発見された字地名「紫宸殿」も防衛上の問題があります。考古学的調査はなされていませんが、もし九州王朝のある時代の「首都・王宮」であったとすれば、ここも周囲に防衛施設の痕跡はありません。北方に永納山神籠石はありますが、離れていますから王宮防衛の役割は期待できそうにありません(せいぜい「逃げ城」か)。しかし、ここでも唐・新羅の水軍は関門海峡の突破と瀬戸内海の航行を経なければ到達できません。難波に至っては、その距離は倍になりますから、更に侵入困難であることは言うまでもありません。
 難波宮が防衛上からも、評制による全国支配のための「地理的中心地」という点からも、やはり九州王朝(倭国)の副都とするにふさわしいのです。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で信長軍が石山本願寺攻めに苦慮しているシーンを見るにつけ、こうした確信が深まっています。


第679話 2014/03/15

討論「言素論」

 本日の関西例会では古田先生が提唱されている「言素論」をテーマに討議などが行われました。これは古田学派の研究者間で行われていたメールでの意見交換・討議を、せっかくだから関西例会で論争していただき、他の会員にも聞いていただいてはどうかという、わたしからの提案を受けて行われたものです。思いのほか、多くの参加者から意見が出され、関西例会らしく活発で学問的な討論となりました。
 不二井さんからは語学から見た「言素論」の画期性を評価する報告がなされ、西村さんからは「言素論」には賛成だが、他の仮説の論証に使用する場合は注意(論理的な限界に対する留意)が必要という見解が示されました。わたしも、古代史研究において方法論上の可能性を有した仮説とする意見を述べました。
 この他には、服部さんから発表された「雷山千如寺法系霊簿」に関する考察は、わたしが20年ほど前に発表した論文「倭国に仏教を伝えたのは誰か」(『古代に真実を求めて』1集所収)への批判も含まれたもので、とても懐かしく思いました。20年前の研究が再検証されることは、研究者冥利につきます。3月例会の報告は次の通りでした。

〔3月度関西例会の内容〕
①雲南の少数民族(木津川市・竹村順弘)
②雷山千如寺法系霊簿(八尾市・服部静尚)
③劉仁軌伝から白村江の戦いを推測する(八尾市・服部静尚)

【「言素論」の討議】
④語構成の研究(明石市・不二井伸平)
⑤「言素論」の使い方(高松市・西村秀己)

⑥三国志での「推量の可」の用法(姫路市・野田利郎)
⑦『倭人伝』の里程記事は正しかった
 ー「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算ー(川西市・正木裕)
⑧『古事記』真福寺本の「八千弟」と「ヤチホコ」(川西市・正木裕)
⑨「ニギハヤヒ」を追う(東大阪市・萩野秀公)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・古田先生福岡講演の報告・大和舞と筑紫舞は親類関係・言語は国家より古い(古田武彦)・宮地嶽神社への書籍献呈・神宮文庫『太神宮諸雑事記』古写本の閲覧・葛継勇「祢軍の倭国出使と高宗の泰山封禅」(『日本歴史』2014年3月号)・その他

参考

「古田史学」の理論的考察 (「論理的考察」 は誤植) 古田武彦(会報116号)
「いじめ」の法則 — 続、「古田史学」の理論的考察 古田武彦(会報117号)
古田史学の真実 — 西村論稿批判(古田武彦会報118号)
続・古田史学の真実 — 切言 古田武彦(古田史学会報119号)


第678話 2014/03/14

ホームページへのカウント100万件突破!

 古田史学の会・インターネット担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人、東大阪市)から、ホームページ「新古代学の扉」へのアクセスカウントが本年3月13日に100万件を突破したと連絡がありました。わたしたちのホームページは合計4000ページほどで、古田史学関連では質・量とも最大規模と自負しています。
 そのホームページの作成・管理を1996年10月の開設以来担当されてきたのが横田さんです。横田さんは「古田史学の会」草創の同志で、創立以来、献身的に会を支えていただいています。本当に感謝にたえません。同時に、これまで閲覧していただいた読者の皆様に心より御礼申し上げます。なお、開設以来の累計カウント数は500万件を越えているとのことです(PC対応バージョンと携帯対応バージョン)。
 「新古代学の扉」は現在のところ日本語と英語に対応していますが、今年中には中国語版も開設したいと計画しています。ご期待ください。


第677話 2014/03/13

『松前史談』第36号を読む

 『松前史談』第36号(平成26年3月)が合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、松山市)から送られてきました。「松前」と書いて「まさき」と読みます。郷土史の研究会誌らしく、地元の義農・作兵衛など郷土の偉人をテーマとした論稿に混じって、合田さんの講演録「天武天皇の謎 『万世一系』系図作成の真相」が掲載されていました。
 その内容は、古田説に依拠して、天武天皇(大皇弟)は九州王朝の天子(斉明)の弟であるとする仮説で、近年、合田さんが取り組んでこられた研究テーマです。なお、松前史談会副会長の大政就平さんは「古田史学の会」会員で、先日のアクロス福岡での古田先生講演会のおり、九州国立博物館でもお会いしました。『古田史学会報』の内容が難しすぎるので、もっとわかりやすい論文や記事を掲載してほしいと、ご要望もいただきました。ありがとうございます。
 「古田史学の会」会員や古田学派の研究者が各地の郷土史会などで古田説の紹介や研究発表をされることは、古田史学を世に広める上でとても良いことです。わたしも、5月4日(日)に熊本県玉名郡和水町で講演することになりました。地元の菊水史談会の主催です。同地からは「納音(なっちん)付き九州年号」史料が最近発見されましたが、それら発見された古文書(石原家文書)調査も兼ねて同地を訪問します。詳細が決まりましたら改めて御報告いたします。


第676話 2014/03/11

『古事記』道果本の「天沼矛」

 『古事記』真福寺本を、開かれていたページだけでしたが、名古屋市博物館と九州国立博物館で実見することができましたが、もう一つ見たい写本があります。天理図書館にある『古事記』道果本です。天理図書館の岸本眞実さんの解説によれば、道果本とは次のような古写本です。

 「平安時代初期まで遡れるほど、『日本書紀』には多くの古写本が残るが、『古事記』は1371・2年に写された「真福寺本」(国宝)を最古とする。この「道果本」は1381年、真言僧とみられる道果の書写。「日本紀の家」といわれた京都の神官・吉田家に伝来した。伝えるところは、わずか巻上の前半のみだが、「真福寺本」に次ぐ貴重な古写本である。その伝存の意味は大きい。」(『陽気』2007年6月号)

 道果本の最初の22頁ほどをインターネットで閲覧できましたので、現在の関心事である「治」と「沼」を探してみました。問題となっている「天沼矛」の部分もありましたので確認したところ、真福寺本では「天治弟」となっている字体が、道果本では通説通りの「天沼矛」となっていました。「沼」の字の右側には「ヌ」とルビがふってありました。字形は「刀」の部分が「ソ」に近く、真福寺本の「詔」の字のつくりと同じ字形です。なお、道果本の「詔」は「刀」の部分が「ア」のような字形で、「沼」の字の「ソ」とは異なってることが注目されました。これらの点は、道果本全体の調査と実見したうえで、更に確認したいと思います。
 真福寺本と道果本の成立年差は9年ほどですから、ほぼ同時期の写本といえます。通常の史料批判の基準で考えれば、原本成立時代に書写時代が近いという理由でより古い写本が重視されるのですが、今回の場合は書写時期が近く、その内容で優劣を判断せざるを得ません。どちらが『古事記』原本に近いのかは、今のところわたしには判断できませんが、道果本の全体像と史料性格の把握と、「治」と「沼」、「弟」と「矛」の全字調査をしたいと思っています。何よりも天理図書館にあるという道果本を実見したいと願っています。
 インターネットに掲載されている道果本を見たところ、真福寺本には見られない朱墨の句読点やフリガナ、そして書写者の「説明書き」が書き加えられています。『古事記』成立の712年から約670〜680年の長い時間を隔てて成立した写本ですから、おそらく真福寺本も道果本も数次の再写を経た姿と思われます。両古写本の比較や書誌学的研究論文は少なからず出されているようですで、機会があれば先行説の勉強もしたいと思います。


第675話 2014/03/09

前期難波宮の「シュリーマンの法則」

 古田先生の「学問の方法」で最も有名なものの一つに「シュリーマンの法則」と いうものがあります。古田学派の研究者や読者であればよくご存じのことと思います。文字史料や伝承などの記録と考古学的事実が一致する場合、それは歴史的事実である可能性が高いと判断するというものです。ギリシア神話の「トロイ木馬」伝承を歴史事実の反映と考えたシュリーマンがヒッサリクの丘からトロイ遺跡を発見し、その神話伝承が歴史事実であったことを証明したことに由来する 「学問の方法」です。具体的には『真実の東北王朝』(ミネルヴァ書房。20132年3月刊行、古代史コレクション10)の「第五章 東日流外三郡誌との出会い」で次のように古田先生は記されています。

 「記・紀の表記の厳密な理解と考古学的出土分布とは一致する。これを『シュリーマンの法則』と呼ぶ。」(同書、152頁)
 「人々は、従来の慣例やゆきがかり上、冷淡や無視や反発をくりかえしつつ、結局、「シュリーマンの法則」をうけ入れさるをえなくなるであろう。 ーー『神話・伝承と考古学的出土分布との一致』がこれである。」(同書、153頁)

 今回は、この「シュリーマンの法則」で前期難波宮を考察してみることにします。まず考古学的事実の要点は次のようでしょう。

1.7世紀中頃の宮殿遺構であり、当時としては日本列島内最大規模である。
2.日本列島初の朝堂院様式の大規模宮殿遺構である。
3.朝堂の数は14堂で、後の藤原宮や平城宮の12堂よりも多い。
4.その周囲(東西)に大規模な官衙遺構を持つ。
5.火災による消失跡がある。
6.その遺構の上層には聖武天皇による「難波宮」(後期難波宮)遺構がある。

 以上の考古学的事実に対応する文献史料には次のようなものがあります。

1.『日本書紀』孝徳紀白雉三年条(652年、九州年号では白雉元年に相当)に、「秋九月に、宮造ることすでに終わりぬ。その宮殿の状(かたち)ことごとくに論(い)うべからず。」(たとえようのない見事な宮殿が完成した)という記事があります。
2.『日本書紀』には上記の記事の他、天武11年九月条「勅したまはく『今より以後、跪(ひざまづく)礼・匍匐礼、並びに止(や)めよ。更に難波朝廷の立礼を用いよ。』とのたまう。」のように「難波朝廷」という記事もあり、「朝堂院様式」の宮殿を表す「朝廷」という記載が対応しています。
 『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)にも「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、七世紀中頃に「難波朝廷」が天下に評制を施行したことが記されています。この「朝廷」という表記も、7世紀中頃の朝堂院様式の前期難波宮遺構に対応した表現です。
3.上記の1と2が対応します。
4.7世紀中頃に全国に「評」が創設されたとする多くの記録(先の「天下立評」など)があり、それら評制を施行し、管理するのに必要な「朝廷」の官衙群に対応します。
5.『日本書紀』天武紀朱鳥元年条(684年)に難波の宮殿が火災で焼失したという記事に対応しています。
6.『続日本紀』の聖武紀に見える「難波宮」に対応します。

 以上のようですが、こうして見ると『日本書紀』の記述と前期難波宮遺構がよく対応していることがわかります。すなわち、前期難波宮には「シュリーマンの法則」が成立しており、その結果、この大規模な宮殿を誰の宮殿とするのかが問われるのですが、九州王朝説論者の皆さん、どのようにこの問いに答えますか。わたしの「前期難波宮九州王朝副都」説以外に、九州王朝説を支持する誰もが納得できる仮説はあるでしょうか。ちなみに、近畿天皇家一元史観からの答えは簡単です。「『日本書紀』の記述通り、孝徳天皇が全国に評制を施行した宮殿である」と答えられるのです。古田学派の皆さん、 「シュリーマンの法則」が指し示す仮説を是非考えてみてください。


第674話 2014/03/08

前期難波宮の

  考古学的「実証」と「論証」

 「洛中洛外日記」667話で紹介しました、難波宮跡出土の木柱が7世紀前半(最も外側の年輪が612年、583年)のものとした「年輪セルロース酸素同位体比法」の結果が何を意味するのか、どのような展開を見せるのかを考えてきました。その結果、前期難波宮の考古学的「実証」により、次のような「論証」が成立することを改めて確信しました。

 大阪市中央区法円坂から出土した巨大宮殿遺構は主に前期と後期の二層からなっており、下層の前期難波宮は一元史観の通説では孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」とされています。少数意見として、天武朝の宮殿とする論者もありますが、今回の出土木柱の年代が酸素同位体比法により、7世紀前半のものとされたことから、前期難波宮造営を7世紀中頃(孝徳期)とする説が更に有力になったと思われます。

 これまでも紹介してきたことですが、前期難波宮の造営年代の考古学的根拠とされてきたものに、今回の木柱を含めて次の出土物があります。

1.「戊申」年木簡(648年)
2.水利施設木枠の年輪年代測定(634年伐採)
3.木柱の酸素同位体比法年代測定(612年、583年)
4,前期難波宮整地層出土主要須恵器(杯H・G)が藤原宮整地層出土主要須恵器(杯B)よりも1~2様式古く、天武期に造営開始された藤原宮よりも前期難波宮の方が古い様相を示している。

 以上のように少なくともこれら4件の考古学的事実からなる「実証」が、いずれも前期難波宮造営を7世紀中頃とする説が有力であることを指示しています。それでも天武期造営説を唱える人は、

(1)「戊申」年木簡は偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(2)木枠の年輪年代も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(3)木柱の酸素同位体比法年代も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(4)整地層須恵器も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。

 というように4回も「偶然」や「間違い(無関係)」を無理矢理想定し、「信用しない」という「論法」を用いざるを得ないのですが、およそ4回の「偶然」や「間違い(無関係)」の「同時発生」を自説の根拠とするような方法は学問的判断とは言い難いものです。

 このようにどちらの説が有力かを比較論証する「学問の方法」を、わたしは古田先生から学びました。たとえば古田先生との共著『「君が代」うずまく源流』(新泉社、1991年)で、「君が代」が糸島・博多湾岸の地名・神名を読み込んでこの地で成立したとするのは「偶然の一致」にすぎないとする批判に対して、次のような反証を古田先生はなされています。

 第一に、博多湾岸(福岡市)の「千代」が「君が代」の「千代」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

第二に、糸島郡の「細石」神社が、「君が代」の「細石」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

第三に、糸島郡の「井原(岩羅)」が、「君が代」の「岩を」(或は「岩秀〈ほ〉」)の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

第四に、糸島郡の桜谷神社の祭神、「苔牟須売神」が、「君が代」の「こけのむすまで」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
右のように、四種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「『君が代』を『糸島・博多湾岸の地名』と結び付けるのは、学問的論証力を欠く」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」なのである。

しかし、自説の立脚点を「四種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができようか。わたしには、それを決して肯定することができぬ。
右によって、反論者の立場が、論理的に極めて脆弱であることが知れよう。(同書、97ページ)

 この『「君が代」うずまく源流』は、わたしにとって初めての著作であり、尊敬する古田先生との共著でもあり(古田先生、灰塚照明さん、藤田友治さんとの共著)、この論証方法は今でも印象深く記憶に残っています。この論証方法が前期難波宮の研究に役だったことは感慨深いものです。そして結論として、前期難波宮の造営を7世紀中頃とする説は不動のものになったと思われるのです。(つづく)


第673話 2014/03/07

朝日新聞(福岡地方版)に
「筑紫舞と九州王朝」記事

3月2日、アクロス福岡で開催された筑紫舞再興三十周年記念「宮地嶽黄金伝説」の記事が、翌3日の朝日新聞福岡地方版に掲載されたことが、「古田史学の会」会員のブログ「棟上寅七の古代史本批評」に紹介されていました。
棟上さんのブログに添付されている同記事には、「筑紫舞について研究する古代史研究家の古田武彦氏が『筑紫舞と九州王朝』と題し、筑紫舞のルーツなどについて講演。」とありました。全国紙ではほとんどの新聞が古田説を「なかった」かのように取り扱うのが通例なのですが、九州王朝の地元だけに、地方版とは いえ写真入りで大きく扱われていたのはさすがです。棟上さんの調査によれば、地元紙の西日本新聞は記事にしていないとのこと。新聞社の見識の差なのでしょうか。
このように古田史学・九州王朝説はじわじわと国民の間に浸透しています。なお、棟上さんのブログはわたしも楽しみに拝見しています。みなさんも是非ご覧になられてはいかがでしょうか。
「古田史学の会」では宮地嶽神社に敬意を表し、ミネルヴァ書房のご協力を得て、古田先生の『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』と「古田史学の会」編 『「九州年号」の研究』を献呈することにいたしました。これをご縁に、宮地嶽神社との交流を深め、全国の会員のみなさんが九州旅行の際には宮地嶽神社を訪問されるようになれば幸いです。


第672話 2014/03/05

酸素同位体比測定法の検討

 西井健一郎さん(「古田史学の会」全国世話人、大阪市)からお知らせいただいた「読売新聞」(2014.02.25)掲載の『難波宮跡の柱「7世紀前半」…新手法で年代特定』に紹介された「年輪セルロース酸素同位体比法」という、 樹木の年代を測定する新技術について、何人かの方にご意見を求めたところ、西村秀己さん(「古田史学の会」全国世話人、高松市)からは懐疑的な意見が出されました。そこで、四国出張のおりに高松市で西村さんと夕食をご一緒し、「年輪セルロース酸素同位体比法」について意見交換しました。
 西村さんが懸念されていたのは、地方によって同じ年でも降雨量が異なり、その結果、酸素同位体比に地域差が生じ、地域ごとの基礎データと、測定対象樹木の産地が確定できなければ、正確な年代測定は困難ではないかという問題でした。なるほどもっともなご意見でした。それに対して、わたしは次のような理由を あげて、信頼してもよい技術ではないかと返答しました。

1.木材の年輪中に固定されたセルロース分子内の酸素を分析対象としているため、外部からの不純物混入のリスクが少ないと思われる。
2.樹種を問わないので、基礎データとなる対象木材サンプル(年代が明確なもの)数が多く、安定したデータベース作成が可能できる。
3.古代においては、それほど遠隔地から木材が搬入使用されるとは考えにくいので、基本的に出土地近辺の木材データベースとの比較により、年代確定しても信頼性は高いと思われる。
4.前期難波宮の水利施設出土の木枠が年輪年代測定により7世紀前半(634年)の伐採が確定されており、その木枠の年輪セルロース酸素同位体比との比較、クロスチェックが可能であり、既に実施した上で発表したのであれば、今回の発表は信頼性が高い。

 概ね以上のような意見を述べ、4で述べましたように、前期難波宮水利施設出土の木枠の酸素同位体比測定が行われたうえでの結果であれば、クロスチェックを経たことになり信頼性が高いということで、西村さんと意見の一致をみました。3月15日午後1時半から、大阪府河南町の府立近つ飛鳥博物館で行われる成果報告会に参加される方がおられましたら、是非、この点を質問していただければ幸いです。


第671話 2014/03/02

筑紫舞再興三十周年記念「宮地嶽黄金伝説」

 京都に帰る新幹線の車中で書いています。京都に着くのは午後11時頃ですが、明日から仕事ですから何としても帰らなければなりません。「宮仕え」のつらいところです。
 本日の古田先生の講演や宮地嶽神社神主さんたちによる筑紫舞は見事でした。とりわけ、浄見宮司の「神無月の舞」は感動的でした。九州王朝宮廷雅楽そのものでした。講演や演目は次の通りでした。(文責:古賀達也)

日時 2014年3月2日(日)15:00~19:00
場所 アクロス福岡

第一部 講演
 講師 赤司善彦(九州国立博物館展示課長)
 演題 よみがえった宮地嶽古墳黄金の太刀
   ※内容は『古田史学会報』に掲載予定。

宮地嶽神社 浄見宮司からのご挨拶(要旨)

 わたしは宮地嶽神社宮司の次男だったので、奈良の春日大社で十何年間「大和舞」を毎日舞わされて、それがいやになって渡米しました。跡継ぎだった 兄が亡くなりましたので、宮地嶽神社に戻りましたら、父から筑紫舞を舞えといわれ、筑紫舞の練習をしました。その結果、大和舞は筑紫舞の後の形だったことがわかり、大和舞の経験が役に立ちました。
 わたしがいうのもなんですが、本当に神様はいらっしゃると思いました。神様がわたしに筑紫舞を舞えといわれたのだと思います。そして、古田先生の『失われた九州王朝』を読むことになったのだと思います。この度、宮地嶽神社がイベントをやるのであれば講演すると古田先生から言っていただきました。本当に今日はありがとうございます。

第二部 講演(要旨)
 講師 古田武彦
 演題 筑紫舞と九州王朝

 古田武彦でございます。やっと皆様にお会いできることになりました。今年、88歳になります。古田が何を考えているのかをお聞きいただき、一人でも御理解賛同していただくことができればよいと思い、本日まで生きていたいと思ってまいりました。
 現在の日本の歴史学は間違っている。このことをお話しいたします。最大のピンポイントをゆっくりとお話ししたいと思います。
 わたしの立場は、邪馬台国というのは間違っている。『三国志』には邪馬壹国(やまいちこく)と書いてあります。いずれも古い版本ではそうなっています。 それを何故邪馬台国と言い直したのか、言い直してもよいのかというのが私の研究の始まりです。最初に言い直したのが江戸時代のお医者さんだった松下見林でした。彼は、日本には『日本書紀』があり、大和に天皇がおられた、だから日本の代表者は大和におられた天皇家である、だからヤマトと読めるよう邪馬壹国を 邪馬台国に直したらよいとしたのです。しかし結論を先に決めて、それにあうように原文を変えて採用するという方法は学問的に何の証明にもなっていない。
 わたしの方法はそれとは違い、原文に邪馬壹国とあるのだから、邪馬壹国とするという立場です。『三国志』倭人伝には中国から倭国への詔勅が出され、それに対する返答である上表文(国書)を出されています。国書には国名が書かれるのが当たり前で、そこに邪馬壹国とあったことになります。倭王の名前も書かれていたはずで「卑弥呼(ひみか)」という名前もそこに書かれていたはずです。ところが『日本書紀』神功紀には卑弥呼という名前は記されていない。すなわ ち、天皇家には卑弥呼と呼ばれる女王はいなかった証拠です。
 古賀市歴史資料館の説明版には「邪馬壹国」と表記されているそうです。これが正しい歴史表記です。わたしも見に行きたいと思っています。
 「日出ずるところの天子、日没するところの天子に書をいたす」という有名な名文句があります。これは『日本書紀』にはなく、中国の史書『隋書』に書かれています。それには王様の名前「多利思北孤」、奥さんの名前は「キミ」、国名は「イ妥国(たいこく)」と書かれています。ところが、『古事記』や『日本書紀』には多利思北孤という名前もイ妥国という国名もありません。『古事記』『日本書紀』では、7世紀初頭の天皇は推古であり女性です。従って、女性の推古天皇に奥さんがいるはずがない。すなわち、7世紀初頭に隋と交流した国は大和の天皇家ではなかったのです。
 現在の歴史学者はこの矛盾に誰も答えることができない。その矛盾を無視するというのは国民をバカにしているやり方です。こういうやり方では教育はできな い。こういうやり方に終わりが来た。みんなその矛盾に気づいてきた。古賀市歴史資料館でも九州王朝説に基づいた解説表記(原文通り「邪馬壹国」と表記)をしている時代です。これこそ「開かれた博物館」で、それをやらないのは国民をバカにした「閉じられた博物館」です。昨年あたりからとどめることのできない新しい時代が来た。たとえば中国人の女性研究者(張莉さん)が古田説が正しいという論文を発表しました。そういう時代に入りました。
 昭和55年5月にわたしに電話が入りました。西山村光寿斉さんという姫路の女性で、戦前、神戸で菊邑検校とケイさんという人に出会い、筑紫舞を伝授された方です。菊邑検校は太宰府のお寺で庭掃除していた男の所作が見事だったので、そのことをたずねると、その男は「わたしは死んだら必ず地獄に落ちると思い ます。師匠から習った舞を誰かに伝授しなければ地獄に落ちます。」とのことだったので、菊邑検校はその男から筑紫舞を習い、その筑紫舞をまだ子供だった西山村光寿斉さんに猛特訓して教えました。神戸の西山村さんの実家(やまじゅう)にお世話になっていた菊邑検校には筑紫のクグツが「太宰府よりの御使者」と口上を述べてよく挨拶にきたそうです。このようにして筑紫舞は現代まで奇跡的に伝わったのです。事実は小説よりも奇なりです。
 西山村さんの記憶では、戦前、宮地嶽神社の古墳の石室で筑紫舞が奉納されたとのことで、宮地嶽神社とは不思議な御縁があります。西山村さんや筑紫舞を受け継がれたお子さん、お弟子さんは「人間国宝」にふさわしい方々です。その筑紫舞の奉納の前座として今日話をさせていただいています。
 菊邑検校の「検校」を辞書で調べたところ、「盲目の人に与えられた最高の官」とありました。ということは、その官職を与える権力は「王朝」です。それは 太宰府を中心とした、官職を与えることができた「権力」「制度」があったということです。これこそ、九州王朝という概念があってこその「菊邑検校」という名前だったのです。菊邑検校が筑紫舞を習った太宰府近辺のお寺を探してみたらよいと思う。「太宰府からの御使者」の人物の名前もわかっており、筑紫斉太郎 (ちくしときたろう)というそうです。ぜひ探していただきたい。
 みなさんが学校で習った歴史は残念ながら本当の歴史とは言えません。わたしが京都の洛陽高校で教鞭をとっていたとき、同僚の教師から聞いた話で、その先生の隣家のおじさんが「天皇はんも偉くなりはったなあ。わたしのところには天皇はんの借金証文があります。東京であんじょうやってはるのでしょうなあ。」 と言っておられたとのことで、大変驚きました。これこそ江戸時代の天皇家の実体だったのです。明治時代に薩長政権が自らの政治的目的で「万世一系」という概念を作り上げたのです。
 今、わたしは本当の歴史を再建する時代に入っていると思う。どの国家も自分たちの権力を正当化するための「教育」を行い、宗教も自分たちを正当化するための「教義」を作り上げている。だから、戦争が絶えないのです。国家も宗教も人間が人間のために造ったものです。その国家や宗教が人間を苦しめるのは 「逆」である。国家や宗教のご都合主義の「教育」をキャンセルし、そこから抜け出して、人類のための国家、人類のための宗教はこうであると、言う時代がきたのです。そう言いたい。
 最後に、わたしは87歳ですからもうすぐ間違いなく死ぬと思いますが、死んだらわたしは地獄に行きたい。地獄は苦しんでいる人や犯罪者や自殺者が行くと ころとされています。地獄に行ったら、自殺者からなぜ自殺したのかを聞いてみたい。なぜ犯罪を行ったかを聞いてみたい。わたしは幸せな人生でした。そのおかえしに、死んだらまっしぐらに地獄に行きたい。わたしが死んだと聞かれたら、古田は希望通り地獄に行って忙しくしていると思ってください。

第三部 筑紫舞
 演目 笹の露 
 舞人 宮地嶽神社権禰宜 野中芳治・渋江公誉・渋田雄史・植木貴房・竹田裕城
   
 演目 神無月の舞 
 舞人 宮地嶽神社宮司 浄見 譲

 

旅の記憶 — 史跡探訪と講演会参加  (1,梅花香る邪馬壱国の旅) へ

よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』 (ミネルヴァ書房)

筑紫舞聞書(神事芸能研究会)より


第670話 2014/03/02

九州国立博物館「国宝大神社展」を見学

 昨日は久しぶりに太宰府天満宮を参詣したあと、同宝物館と九州国立博物館を見学しました。九州国立博物館は初めての訪問で、古田先生や合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)をはじめ「古田史学の会・四国」の方々とお会いすることができました。
 九州国立博物館で開催されている「国宝大神社展」を見学したのですが、よくもまあこれだけ「国宝」「重文」を集められたなあ、というような素晴らしい展示内容でした。たとえば「隅田八幡人物画像鏡」や「海の正倉院」と呼ばれている「沖の島」の豪華出土品の数々、宮地嶽古墳出土の金銅製品(馬具・他)など いずれも絶品です。文献史料関係では、先月、名古屋市博物館で見た『古事記』真福寺本を筆頭に、『延喜式神名帳』『周防国正税帳』『八幡宇佐宮御託宣集』 『大善寺玉垂宮絵巻』など超有名な史料を実見できました。
 中でも、わたしが最も時間をかけて観察したのが、『古事記』真福寺本でした。名古屋市博物館での展示のときとは別のページが開かれていましたので、現在の関心事である「治」と「沼」、そしてつくりが「台」と「召」の字がないか、大勢の見物客にもみくちゃにされながらも、ガラス越しに何度も観察しました。 その結果、「建沼河命」の記事を見つけ、その「沼」の字体を観察しました。この部分は既に古谷弘美さん(古田史学の会・全国世話人)の研究でも調査されて いた部分で、結果は古谷さんの指摘通り「沼」ではなく、「治」でした。すなわち「建治河命」と真福寺本には記されていました。念のため合田さんにも見てい ただいたところ、やはり「治」でした。
 こうした真福寺本の史料状況は、恐らく真福寺本書写者が依拠した元本の字体に影響された結果ではないかと推測していますが、他の字体の研究も含めて検討が必要です。まずは、古谷さんの論文をなんとかして発表できるようにしたいと知恵を絞っているところです(真福寺本写真版の掲載料が高額のため、写真を多数用いた古谷論文を発表できずにいます)。


第669話 2014/03/01

前期難波宮「難波長柄豊碕」説の問題点

 今朝は博多に向かう新幹線の車中で書いています。午後は九州国立博物館で古田先生や合田洋一さん(古田史学の会・四国)らと合流し、「国宝大神社展」を見学します。明日はアクロス福岡で古田先生の講演と筑紫舞を拝観します。納音(なっちん)付き九州年号史料をご紹介いただいた菊水史談会の前垣さん ともお会いする予定です。

 さて、第668話で紹介しました直木孝次郎さんの次の説ですが、

 「前期難波宮が首都として造営されたとすると、難波長柄豊碕宮と考えるのがもっとも妥当であろう。孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれないが、すでに説いたように長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたの であろうから、新政施行に見合うような大きな構想をもって企画・設計されたことは十分に考えられる。」

 とされたように、直木さんは白雉改元の宮殿を小郡宮とされ、『日本書紀』白雉元年条(650)に記されたその改元の儀式が可能な規模の宮殿であったとされています。従って、その小郡宮の造営などを背景にして更に大規模な前期難波宮が造営されたとし、「大和朝廷」の宮殿発展史の矛盾を解消されようとしたのです。
 直木さんをはじめ、通説派の論者が前期難波宮を難波長柄豊碕宮に比定したのは、『日本書紀』白雉三年条(652)に見える「たとえようのないほどの立派な宮殿が完成した」という記事にふさわしい大規模な宮殿が、法円坂から出土した前期難波宮しか難波にはなかったことによります。そうすると、今度は『日本 書紀』白雉元年条(650)の白雉改元の儀式を行った宮殿を前期難波宮以外(以前)に求めざるを得なくなったのです。そのため、直木さんはまだ発見もされ ていない「小郡宮」を白雉改元の宮殿と見なし、それは『日本書紀』に記されたような白雉改元の儀式が可能な規模の宮殿であったはずと、考古学的根拠もない まま主張されたのです。この点、他の通説派の論者も似たり寄ったりの立場です。
 この通説派の矛盾と限界の原因は、『日本書紀』の白雉年号が九州年号の白雉を二年ずらして盗用したことよります。『二中歴』などの九州年号「白雉」の元年は652年で、『日本書紀』の白雉元年は650年です。従って、本来は九州年号の白雉元年(652)に行われた大規模な白雉改元の儀式はその年に完成した「たとえようのないほど立派な宮殿」すなわち前期難波宮で行われていたとすればよかったのですが、白雉改元記事がその二年前に『日本書紀』に盗用挿入さ れたため、その記事(内容と年次)を信用する一元史観の通説派は白雉改元の宮殿を未完成の前期難波宮とするわけにはいかなくなったのです。かといって、九 州年号の白雉元年(652)に改元儀式が行われたことを認めれば、とりもなおさず九州年号と九州王朝を認めることになり、これもまた一元史観の通説派には 到底できないことなのです。ここに、通説派による無理・矛盾の根本原因があるのです。