第740話 2014/07/08

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(3)

 今朝は新幹線で東京に向かっています。午後、さいたま市で仕事をした後、夜は新潟県長岡市に入ります。週末まで出張が続きますので、帰りに大型の台風8号と遭遇しそうです。
 先日の四国講演では、能島(のしま)上陸・クルージングを楽しんだり、阿部誠一さん(古田史学の会・四国の新会長、今治市)の彫刻アトリエを見せていただいたりと貴重な体験をさせていただきました。瀬戸内海の海流の速さや、小島・岩礁の多さも瀬戸内海の特徴ですが、自分の目で見ることにより瀬戸内海航行が難しいことを実感しました。
 阿部さんのアトリエには多数のブロンズ像や塑像が所狭しと並べられており、芸術家の情熱とその作品の迫力に圧倒されました。少女像や裸婦像を得意とされておられ、高松市の公園にも阿部さんの作品が立てられているほどの著名な彫刻家です。今まで造った作品は500点以上とのことで、近年は古田史学の勉強や活動に時間がとられ、作品製作のペースが落ちたそうです。古田先生の銅像も造りたいので、先生の写真をたくさん撮っておいてほしいと頼まれました。

 「邪馬台国」畿内説論者が『三国志』倭人伝の原文(基礎データ)の文字を「南」から「東」に改竄(研究不正)していることを指摘しましたが、彼らはもう一つの改竄(研究不正)にも手を染めています。それはより悪質で本質的な改竄で、こともあろうに倭国の中心 である女王国の名称を原文の邪馬壹国から邪馬台国(邪馬臺国)にするというもので、理系の人間には信じられないような大胆な改竄(研究不正)です。今回は この研究不正の動機について解説します。
 既に述べましたように、邪馬壹国の位置を博多湾岸の東方向とするために、「南」を「東」に改竄しただけでは畿内説「成立」には不十分なので、畿内説論者は女王国の国名をヤマトにしたかったのです。実は改竄(研究不正)はこの国名改竄の方が先になされました。畿内説論者の研究不正の順序はおおよそ次のよう なものでした。

(1)倭国の中心国は古代より天皇家がいたヤマトでなければならない。(皇国史観という「信仰」による)
(2)ところが倭人伝には邪馬壹国とあり、ヤマトとは読めない。(「信仰」と史料事実が異なる)
(3)「壹」とあるのは誤りであり、「壹」の字に似た「臺(台)」が正しく、中国人が間違ったことにする。(証拠もなく古代中国人に責任転嫁する。「歴史冤罪」発生)
(4)「邪馬臺国」を正しいと、皆で決める。(集団による改竄容認・研究不正容認)
(5)しかしそれでも「邪馬臺国」ではヤマトとは読めない。(改竄・研究不正してもまだ畿内説は成立しない)
(6)「臺」は「タイ」と発音するが、同じタ行の「ト」と発音してもよいと、論証抜きで決める。
(7)「臺」を「ト」と読むことにするが、同じタ行の「タ」「チ」「ツ」「テ」とは、この場合読まないことにする。(これも論証抜きの断定)
(8)こうしてようやく「邪馬臺国」を「ヤマト国」と読むことに「成功」する。
(9)この「ヤマト国」は奈良県のヤマトのことと、論証抜きで決める。(自らの「信仰」に合うように断定する)

 これだけの非学問的な改竄や論証抜きの断定を繰り返した結果、「邪馬台国」畿内説という研究不正が「完成」したのです。ですから、畿内説は学説ではありません。学問的手続きを経たものではなく、研究不正の所産なのです。
 ここまでやったら、「毒を食らわば皿まで」で、先の「南」を「東」に改竄することぐらい平気です。しかも集団(古代史学界)でやっていますから、恐いものなしでした。ところが、「信仰」よりも歴史の真実を大切にする古田武彦という歴史学者の登場により、彼らの研究不正が白日の下にさらされたのです。(つづく)


第739話 2014/07/06

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(2)

 一昨日は愛知県一宮市で開催された繊維機械学会記念講演会で「機能性色素」を テーマに講演し、昨日は「古田史学の会・四国」主催の講演を行いました。テーマは「九州年号史料の出現と展望」で、その後の懇親会も含めて活発な質疑応答がなされました。「古田史学の会・四国」での講演はこれまで何回もさせていただきましたが、質問内容などが年毎に深く鋭いものになっており、「古田史学の 会・四国」が発展している様子を感じとれました。
 今日は合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、四国の会・事務局長)のご案内で能島(のしま)上陸・潮流クルージングに参加します。能島は村上水軍の拠点で、「海城」として唯一国の史跡に指定されています。今回、特別に能島上陸・潮流クルージングが企画されたとのことで、合田さんのおすすめもあり参加することにしました。

 さて、「邪馬台国」畿内説が「研究不正」の上で成り立っていることを「洛中洛外日記」738話で指摘しましたが、畿内説 論者が何故『三国志』倭人伝の「南、至る邪馬壹国。女王の都する所」という記事の「南」を「東」に、「壹」を「台(臺)」に改竄(研究不正)したのか、そ の「動機」について解説したいと思います。
 倭人伝には邪馬壹国の位置情報としていくつかの記述がありますが、行程記事の概要は朝鮮半島から対馬・壱岐・松浦半島・糸島平野・博多湾岸と進み、その南、邪馬壹国に至るとあります。したがって、どのように考えても邪馬壹国(女王国)は博多湾岸の南方向にあることは明確ですから、「南」を「東」に改竄しなければ、方角的に奈良県に邪馬壹国を比定することは不可能です。そこで、「南」を「東」とする改竄(研究不正)に走ったのです。
 しかし、それだけでは畿内説にとっては不十分です。というのも、改竄(研究不正)により、邪馬壹国を博多湾岸よりも「東」方向にできても、それだけでは 四国や本州島全域が対象地域となってしまい、「畿内」(奈良県)に限定することはできないからです。そこで、畿内説論者はもう一つの改竄(研究不正)を強 行しました。(つづく)


第738話 2014/07/05

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(1)

 今日は早朝の新幹線と特急を乗り継いでで松山市へ向かっています。「古田史学の会・四国」主催の講演会で講演するためです。移動時間を利用して、前々から書きたかったテーマ、「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」の執筆を始めたいと思います。

 世にいう「邪馬台国」論争は、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説の登場により、学問的には決着がついているはずですが、マスコミや一元史観の学者・研究者では、あいもかわらず「邪馬台国」論争が続けられています。中でも困ったものが「邪馬台国」畿内説という非学問的な「臆説」「珍説」です。そもそも畿内説というものが学問的仮説、すなわち「学説」と言うに値するでしょうか。わたしは畿内説は学説ではないと考えていますが、なぜ学説ではないかということを「洛中洛外日記」で数回に分けて説明することにします。
 たとえば理系の新発見や研究について、新たな仮説を発表する場合、実験データや観測データ、測定データ等の提示が不可欠です。さらにそれらの再現性を担保するために、実験方法や測定・分析方法も開示します。
 企業研究の場合は、それらデータも含めて「発見・発明」そのものを隠します。そもそも企業が自らの経営資源(ヒト・モノ・カネ)を投入して得た新知見を発表(無償で教える)して公知にすることは普通しません(特許出願は例外)。
 しかし、学者や研究者は人類の幸福や社会の発展のために自らの発見や仮説・アイデアを公知(論文発表など)にします。そしてその仮説が他の研究者による追試や利用(コピペもOKです。理系論文には著作権が発生しません)されながら、広く公知となり、真理であればやがて安定した学説として認められます。
 その際、各種データの改竄や捏造は「研究不正」としてやがては明らかとなり、そのような学者・研究者は省みられなくなり学界から淘汰されます。意図的な改竄や捏造ではなく、単純ミスやデータの取り違えは、残念ながら完全には無くなりませんので、その場合は訂正するか、訂正により仮説そのものが成立しなくなった場合は仮説が撤回されます。悪意のないミスであれば、信頼感は揺らぎますが、学界はそのこと自体をそれほど神経質にとがめることはありませんでし た。それよりも、少々不完全・未熟であっても様々な仮説やアイデアを自由に発表しあえる環境のほうが科学の発展にプラスと受け止められてきたものです。で すから、学生や若い研究者の不慣れで未熟な発表でも、温かい目で許容し、ほめたり、励ましたり、助言を与えたりしたものです。こうした研究環境の中で、若 い研究者は成長し、荒削りだけども若さゆえの既成概念にとらわれない画期的な仮説が発表され、そうした青年からの刺激を受けて科学は発展してきたのです。ノーベル賞受賞研究の多くが20代30代の頃の研究成果であることも、このこと裏付けています。
 ところが、近年では学者や研究者が「お金」や自らの「出世」「地位」のために研究するという変な時代になってしまいましたので、「お金」「出世」「地位」に目がくらんで、研究不正(悪意のある意図的なデータ改竄・捏造)を行うケースが発生するようになりました。その結果、科学や研究は大きく傷つきまし た。それに追い打ちをかけたのがマスコミによる無分別なバッシング報道です。悪意のない単純ミスまでもを「研究不正」としてバッシングし始めたのです。小保方さんはその犠牲者だと、わたしは思います。先日も、ある化学系学会の集まりでご年輩の化学者(その分野では日本を代表する方。わたしは若い頃、その方が書いた本や論文で有機合成化学を学びました)が、「あんなにマスコミや理研がバッシングしたら、若い研究者が育たない。才能を潰してしまう」と嘆いておられました。わたしも同感です。
 それでは「邪馬台国」論争のような文献史学ではどうでしょうか。『三国志』倭人伝を基礎史料(データ)として仮説や論理を組み立て、その優劣を競うわけですが、その場合でも学問としては理系と同様ですから、必要にして十分な調査・証明なしでの史料(データ)の意図的な改竄・捏造は許されません。結論その ものに影響する改竄などもってのほかです。このことは容易にご理解いただけることでしょう。
 ところが、「邪馬台国」畿内説はこのデータの改竄を平然と行い、しかも結論(女王国の所在地)そのものに影響をあたえる改竄を行っています。たとえば、 倭人伝には「南、邪馬壹国に至る」とあるのを「東、邪馬台国に至る」というように、「南」を「東」に、「壹」を「台(臺)」に改竄し、「邪馬台国」なるものをでっち上げ、方向を南ではなく東として、むりやりに「邪馬台国」畿内説を提起しているのです。もし、これと同じことを理系の研究論文で行ったら、即アウト、レッドカード(退場)です。それ以前に、論文掲載を拒否されるでしょう。ところが、一元史観の日本古代史学界は「集団」でこの研究不正を行い、「集団」でこの研究不正を容認しているのです。この一点だけでも、「邪馬台国」畿内説は研究不正の所産であり、学説(学問的仮説・学問的態度)に値しないことは明白です。マスコミがなぜこの研究不正をバッシングしないのか「不思議」ですね。(つづく)


第737話 2014/06/29

好太王碑文の罫線

 「洛中洛外日記」735話の「『広開土王碑』改竄論争の終焉」において、古典研究会編『汲古』第65号掲載の武田幸男氏「広開土王碑『多胡碑記念館本』の調査報告」を紹介しましたが、同論稿はとても勉強になりました。
 たとえば、同碑文の行間や天地に罫線があることを初めて知りました。好太王碑文の拓本はほぼ全面が石灰塗布により字形を「復元」したものが多く、その石 灰塗布により罫線が埋められたため、拓本には罫線が消えているので、わたしは同碑文に罫線があることを知りませんでした。金石文研究においては「実物を見 る」という作業が重要であることを改めて認識させられました。
 もう一つ勉強になったことに、好太王碑文拓本の種類についての現在の研究状況についてでした。わたしは石灰塗布による拓本ぐらいしか知らなかったのです が、武田稿によれば「石灰拓本」以外にも石灰塗布以前の「原石拓本」(水谷悌二郎本)、そしてその「原石拓本」によって釈文し、全て手で書き上げた「墨水 廓填本」(酒勾景信本)があるとのことです。「石灰拓本」は何種類もあるようで、塗布した石灰の一部が剥離し、その程度により各「石灰拓本」の文字に異同 が発生します。その違いに着目して、各拓本の成立時期の先後関係を考察したのが武田稿です。
 特にわたしが驚いたのは酒勾景信本が手書きの「墨水廓填本」とされていることでした。酒勾大尉が持ち帰った好太王碑文は「石灰拓本」(「双鈎」本:ふちどり文字。石碑の面に紙をあて、字の輪郭を墨でふちどって字形を作るやり方。)と聞いていましたので、「墨水廓填」の定義も含めて再勉強の必要を感じてい ます。
 今回この「洛中洛外日記」を書くにあたり、古田先生の『失われた九州王朝』を始め、藤田友治さんの『好太王碑論争の解明』(1986年、新泉社)などを 再読しました。わたしが古田史学に出会った頃の書籍ですので、とても懐かしく思いました。1985年に中国の集安まで行き、好太王碑を現地調査されている 古田先生や藤田友治さん(故人)高田かつ子さん(故人)の写真などもあり、感慨深いものがありました。


第736話 2014/06/28

若き親鸞を失ったであろう

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の呼びかけで高松市在住の古田史学の会・会員による月例会が企画されているとのことで、先日、四国出張のおり当地の会員さんにお会いし、夕食をご一緒させていただきました。
 そのときに「古田史学の会」や古田学派からの一元史観への厳しい批判や態度などが話題にのぼりました。わたしは、古田史学を学ぶ覚悟として、次のエピ ソードを紹介しました。昭和薬科大学諏訪校舎で開催された「邪馬台国」徹底論争シンポジウムでのことで、司会をされていた山田宗睦さんから次のような発言がありました。

 「古田さんが孤立している一つの原因は、論争的言辞の過剰にある。私はそう見ています。」

 山田さんは古田先生のことを思っての発言でしたが、それに対して古田先生は次のように答えられたのです。

 「山田さんの前では面はゆいんですが、ソクラテスが周辺から注目されるわけですね。『あなたは露骨に刺激的なことを言い過ぎる』と。だから憎まれて死刑になりそうになったのだと。もっとうまくやりなさい、と。ソクラテスは、いや、私はもう老人だと。こんな死を前にした老人が、なんで死を恐れる必要があろうか、と言って拒絶するわけですね。そして見事に死刑になって死んでいくわけです。(中略)
 同じ例は日本でもあります。法然が晩年に、門弟の中の長老から諫められるわけです。『あなたは専修念仏ということを言って、朝廷や貴族から憎まれる。露骨に言い過ぎる。もっと表面は旧仏教なみの穏やかな、模糊としたやり方にしておいて、内々で専修念仏を我々だけでやるようにしましょう。そうしてほしい』と。法然のためを思って言うんです。すると、いつもは穏やかな法然が断乎、その時はノウ、と拒絶するわけです。それはできないと。たとえ首を斬られても、 専修念仏をみんなの前で今まで通り言い続けます、と言うんですね。おそらくあの時、長老はじめ弟子たちは辟易したと思うんです。せっかく法然先生のことを思って私たち言ったのに、しょうもない、やっぱり性格というものは直らないなあと。
 しかし、私は思うんですが、あそこで、もし法然が長老の意見を取り入れて、穏健、ほのめかしの法然になっていたら、親鸞を失ったと思います。若き親鸞は去って行ったと思います。私はあの法然が正しかったと思っているわけです。」(『「邪馬台国」徹底論争』第2巻(東方史学会/古田武彦編。新泉社、 1992年)104頁「ソクラテスと法然の場合」に収録)

 このときの古田先生の発言を、わたしは運営協力者の一人(市民の古代研究会・事務局長)として、感動に震えながら聞いていました。古田先生の発言は表面的には山田さんへの返答だったのですが、その実、会場に来ていた多くの古田学派への強烈なメッセージだったのです。「若き『親鸞』よ、出よ」というわたしたちへの呼びかけだったと私は受け止めたのです。このとき30歳代半ばだったわたしは、古田先生を支持し古田史学に半生を捧げる覚悟を決めました。 しかし、ちようどその頃勃発した和田家文書偽作キャンペーンと古田バッシングの嵐により、会場に来ていた「兄弟子」たちの少なくない人々は、その後、古田先生のもとを去りました。
 「若き親鸞を失ったであろう」という先生の言葉は、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。あのときから四半世紀がたちましたが、この「古田史学を学ぶ覚悟」は、わたしたち「古田史学の会」に今も脈打っているのです。


第735話 2014/06/27

「広開土王碑」改竄論争の終焉

 ときおり、汲古書院から古典研究会編『汲古』が送られてくるのですが、先日いただいた第65号に掲載されていた武田幸男氏「広開土王碑『多胡碑記念館本』の調査報告」を拝読しました。
 同論稿は広開土王碑(高句麗の好太王碑)の各種拓本間の差異から、石灰塗布により拓本の字形がどのように変遷や誤りが発生したのかについて論究されたもので、同碑の実体を知る上でも大変興味深いものでした。しかし、わたしが感慨深く思ったのは、石灰塗布を紹介されながら、それを根拠とした同碑「改竄説」 について全く触れられていないことでした。
 同碑拓本に記された「倭」の字を日本陸軍の酒勾大尉による改竄とする李進煕氏の「改竄説」が1972年の発表以来、学界を席巻したのですが、そのことについて武田氏の論稿では全く触れられていないことに、とうとう好太王碑改竄説や改竄論争は終焉したのだなと、改めて思いました。詳しくは古田先生の『失わ れた九州王朝』を読んでいただきたいのですが、李さんの改竄説に真っ向から反対したのが古田先生だったのです。今ではとても考えられないのですが、古田先 生は東京大学の史学会の要請により、改竄説が学問的に成立しないことを講演されのです。この古田先生の研究により、改竄論争は終止符を打たれ、「改竄」は なかったとする古田説は一元史観の学界においても高く評価されているのです。
 たとえば、昭和薬科大学諏訪校舎で開催された「邪馬台国」徹底論争のシンポジウムにおいて、田中卓さんから次のような発言がありましたのでご紹介します。

 「それからこの機会に、私の感心したことをご披露しておきます。それはもうだいぶ前の東大の史学会で古田さんが発表された時のことです。内容は高句麗好太王の碑についてでした。
 その当時、朝鮮の学者が、あれは偽物だ、日本側の塗布作戦で文字を塗り変えてしまったんだということを盛んに宣伝していたんです。その当時、私はまだその実物も見てないし、それに反論するだけの力がなかったんでだまっていましたが、その頃の学会においては、朝鮮の学者の気色ばんだと言いますか、反対でもしたらいっぺんに噛みつかれるような、そういう空気だったんです。そこでみんな、朝鮮の学者が変なことを言うなと思ってもだまってた、それが一般の空気だった。その時に古田さんが、東大の史学会の席上で、あれが偽物だというのはまちがっていると言って、それこそ大音声で批判され、それは非常な迫力でし た。それがあってから後、朝鮮の学者もあんまり悪口を言わなくなった。これは、私は古田さんの功績として高く評価しております。そのことをご紹介して終わ ります。」

 この田中卓氏の発言は『「邪馬台国」徹底論争』第2巻(東方史学会/古田武彦編。新泉社、1992年)241頁「好太王碑論争と古田氏」に収録されています。
 やがては邪馬壹国説や九州王朝説も同様に高く評価される日が来ることをわたしは疑うことができません。その日が一日でも早く来るよう、わたしたち「古田史学の会」の使命は重要です。


第734話 2014/06/22

邪馬壹国の「やま」

 これは古田学派内でも意外と思い違いされていることですが、『三国志』倭人伝の女王国の名称は邪馬壹国と記されていますが、これは大領域国名の「壹」と小領域国名の「邪馬」の合成国名です。大領域国名の「壹」(it)は倭国の「倭」(wi)の別字表記で、「二心」がないという忠義を表す「壹」の 字を選んだものと古田先生は分析されています。したがって、女王卑弥呼が住んでいる「国」は「壹(倭)」国の中の「邪馬」国なのです。
 このような視点から邪馬壹国の所在地である博多湾岸や福岡県の地名を見たとき、筑後の山門は「邪馬」国の南からの入り口「戸」がついた「邪馬・戸」の可能性があります。北側の入り口「戸」の候補地名としては下大和(福岡市西区)があります。そう考えますと、北の下大和と南の山門の間に、女王国の「邪馬」国の中枢領域があるはずです。古田先生はその有力候補地として、春日市須玖岡本の小字地名「山」を指摘されています。近くには有名な弥生時代の須玖岡本遺跡があります。今後の調査が期待されます。
 同様に、奈良県の大和も「やま」国の入り口「戸」という意味と思うのですが、その「やま」はどこでしょうか。この問題をかなり以前から考えてきたのです が、京都府の旧国名は山城ですから、これは「やま」の「うしろ」の国と考えられますから、山城が「やま」国の一部ではないでしょうか。
 この「山」の「後ろ」と対応するように、淀川の西側に大山崎などの地名があり、これは「やま」の「前(さき)」と考えられます。たとえば筑前と筑後は古 くは「筑紫の前(さき)の国」と「筑紫の後(しり)の国」とされていましたから、近畿の「やま」も「やまの前(さき)の国」と「やまの後(うしろ)の国」 からなっていたのではないかと考えられます。その痕跡が現存地名の山城と大山崎です。
 次にこの近畿の「やま」国の中心はどこでしょうか。上記の理解からすると、山城と大山崎の間にあるはずですから、その候補地として石清水八幡宮が鎮座する「男山」を指摘したいと思います。京都における有名で歴史的にも古いこの神社の地こそ、近畿の「やま」国の中心にふさわしいと思いますし、九州王朝と関係が深い高良神社もあります。
 この近畿の「やま」国の存在を認めると、大和(やま・戸)は「やま」国を中心国として、その入り口(戸)という位置づけになり、とても古代における中心国とは言えなくなってしまうのです。もちろん、地名からの類推ですから、どの程度、歴史の真実を反映しているのかは他の視点や学問領域からの証明が必要ですが、近畿地方における古代の真実を明らかにする上で、ひとつのヒントになるように思われます。



第733話 2014/06/21

「亀卜」「骨卜」

本日の関西例会では、服部さんから『三国志』倭人伝に見える「令亀の法」を根拠に、倭国では日付干支が使用されていたとする発表をされました。亀甲を用いた占いを亀卜(きぼく)といいますが、それよりも古い時代は獣骨を用いた骨卜(こつぼく)が広く世界的に行われていたようです。質疑応答のおり、 出野さんから急遽、古代中国における「亀卜」や「骨卜」について解説していただきました。
それによると、亀の甲羅に穴をあけて、そこに焼け火箸のようなもので熱を加え、それでできた「ひび」により占うのですが、その「ひび」ができるときに 「ボク」という音がするそうで、その「ひび」の形の「卜」が字形となり、その音(おん)が「ボク」になったとのことでした。漢字の成立も面白いものですね。
次回の関西例会では、出野さんから本格的な「亀卜」について発表していただけるとのこと。中国で購入した「亀卜」のレプリカも持参されるとのことで、楽しみです。
関西例会での発表テーマは次の通りでした。時間が余りましたので、正木さんから、百舌鳥・古市古墳群を世界文化遺産にするための大阪府の取り組みなどがビデオで上映され、いつも以上に楽しく有意義な例会でした。

〔6月度関西例会の内容〕
1). 〔討論会〕倭国に対する唐の影響について(高松市・西村秀己)
2). 推古天皇の二倍年暦の百歳・続編(八尾市・服部静尚)
3). 令亀の法(八尾市・服部静尚)
4). 「亀卜」「骨卜」の解説(奈良市・出野正)
5). 「景初」鏡の銘文の流れ ー「魏年号銘」鏡(その2)ー(京都市・岡下英男)
6). 『日本書紀』と『海東諸国記』に見る「常色の改革」(川西市・正木裕)
7). 〔ビデオ上映〕百舌鳥・古市古墳群を世界文化遺産に(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況(モンテーニュ『エセー』の読み直し。A.ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』安酸敏眞訳の贈呈を受ける)・大越邦生氏による中国古典文献中の二倍年暦例悉皆調査・木村賢司氏 大下隆司氏による少年向け古代史『多利思北孤』発刊(注) ・ 会務報告(会計監査、会員論集編集状況、他)・「古田史学の会」総会と記念講演会開催・高槻市しろあと歴史館訪問、高山右近像・大山誠一著『天孫降臨の 夢』を読む・テレビ視聴「江戸の瓦」「長屋王と観音寺」・明治37年、第一回東京小豆島会の写真に水野氏の祖父、邦次郎氏・その他

お詫び

(木村賢司氏 大下隆司氏による少年向け古代史『多利思北孤』発刊)(注)
木村賢司様よりのご指摘によれば、同書籍はまだ発刊されておらず、書名等の説明も不正確・不適切とのことでした。
木村様大下様をはじめ関係者の皆様にお詫び申し上げ、当該記事部分(下線部分)を撤回いたします。(古賀達也)


第732話 2014/06/20

現代と古代の幹線道路

 今朝は山形新幹線で東京に向かっています。午後、東京で仕事をした後に京都に帰ります。早朝の山形駅新幹線ホームで、山形出張の度に気になっていたある疑問を若い車掌さんにお聞きしました。
 それは、山形新幹線は在来線に乗り入れていますが、線路の幅はどちらに合わせたのですか、という質問でした。若い車掌さんの返答は「新幹線が在来線に乗り入れたのではなく、在来線が新幹線に乗り入れたのです」とのこと。従って、レールの幅は新幹線用の広い幅で、在来線車両の台車を改良して、新幹線用レー ルの幅にしたとのことでした。
 しかし、わたしはこの回答に納得できませんでした。それならなぜ山形新幹線の車幅は在来線並に狭い(4列シート)のかという疑問を解決できないからで す。やはり、狭い在来線に新幹線を乗り入れるために、線路の幅と在来線列車の車輪幅は新幹線仕様に広げ、新幹線車両の幅は在来線乗り入れに支障をきたさな いよう、通常の新幹線(5列シート)よりも狭くしたのではないでしょうか。そうしないと、在来線の線路だけではなく、トンネルや駅のホームの幅も全て新幹 線仕様に拡張しなければなりません。それでは大工事となるので、在来線の駅やトンネルをそのまま利用するために、線路の幅と在来線車両の車軸幅のみを広げ ることにしたと思われます。その結果、山形新幹線の車両は他の新幹線よりも狭くなったのでしょう。おそらく地元の人や鉄道マニアにはご承知のことと思いま すが。
 若い車掌さんとの会話は面白い問題に発展しました。その車掌さんいわく、「お客様から同様の質問をよくされるのですが、わたしたちからすれば線路の幅など何故気にされるのか不思議です」とのこと。そこでわたしは次のように説明しました。
 わたしの年代は子供の頃に東海道新幹線が開業した世代なので、「夢の超特急ひかり号」はとても鮮烈な思い出なのです。その頃、小学校で新幹線の線路の幅 は高速走行のために欧米並の広い幅にしたと習いました。ですから、在来線と同じ線路を新幹線が走るということに違和感が強く、線路の幅はどうなっているの だろうか。それとも線路にレールが3本あり、どちらの車両も走れるような工夫がされているのだろうか。あるいは山形新幹線車両だけは車輪が4列あり、どち らの線路でも脱線せずに走れる構造か、車軸幅が自動制御で広がったり狭めたりできるのだろうかと、ずっと気になっていたのです。
 と説明したところ、若い車掌さんは「なるほどよくわかりました。ありがとうございます。」と深く納得されたようでした。本当に世代間の差は、意識や知識、認識の差を生むものだと、今更ながら感じた一幕でした(単なるわたしの不勉強だけなのかも知れませんが)。ちなみに、応答していただいた若い車掌さんは終始丁寧な物腰で、とても好感が持てました。
 新幹線は現代日本の幹線道路ですが、古代においても九州王朝による幹線道路(官道)があったことが知られています。たとえば、九州王朝の首都太宰府から 佐賀県吉野ヶ里を結ぶ幹線道路(軍事用か)の痕跡が遺存していますし、関東や関西にも同様の幹線道路があり、それらは九州王朝が建造したとする仮説が肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)から発表されています。『古田史学会報』108号に、肥沼さんの論稿「古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した 軍用道路か?」が掲載されていますのでご参照ください。
 こうした研究テーマは関西の古田学派ではなされていませんので、「古田史学の会」役員会でも肥沼さんを「古田史学の会」記念講演会の講師として招聘してはどうかと何度か検討されているのですが、日程の都合などでまだ実現できていません。面白そうなテーマですので、関西の会員にもお聞かせいただきたいと願っています。

 車窓から東京スカイツリーが見えてきました。もうすぐ列車は東京駅に到着します。雨はふっていないようですので、助かります。


第731話 2014/06/19

「月」の酒と歌

昨日から山形市で宿泊しています。今日は仕事がはやく終わりましたので、山形駅の近くのお店(花膳)で夕食をとり、地酒をいただきました。わたし は「月」が好きなので、名前に「月」の字を持つ銘酒「月山の雪」(寒河江市、月山酒造)と「雅山流 極月」(米沢市、新藤酒造店)を注文しました。中でも 「雅山流 極月」は絶品でした。今までわたしが飲んだ日本酒の五指に入る美味しさでした。ちなみに、一番おいしかった日本酒は月桂冠の幻の銘酒「春光 (しゅんこう)」です。酒屋さんでも手に入らないほどの銘酒です。
「月」が好きなわたしですが、お気に入りの漢詩や和歌もやはり「月」がテーマの次のものです。

静夜思  李白
牀前(しょうぜん) 月光を看る
疑うらくは 是れ地上の霜かと
頭を挙げて 山月を望み
頭を低(た)れて 故郷を思う

この李白の詩は「望郷の詩」の最高傑作とも言われています。次の和歌は李白の友人の阿倍仲麻呂(698~770)の、これもまた有名な和歌です(『古今和歌集』巻九)。

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山をいでし月かも

日本を出て唐に向かうときに詠んだ歌とされていますが(諸説あり)、皆さんもご存じと思いますが、ちょっと違うところがあることにお気づきでしょうか。『古今和歌集』に収録されたこの名歌は、通常、次のように詠われています。

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山にいでし月かも

普通(流布本)は「三笠の山にいでし月かも」とされていますが、『古今和歌集』の古い写本では「三笠の山をいでし月かも」となっています。『古今 和歌集』には、この歌を「に」とする流布本と、「を」とする古写本の二種類の写本があるのです。どちらも同じようなものと思われるかもしれませんが、これ が大違いなのです。
一元史観の通説では、この「春日なる三笠の山」を奈良県の御蓋山(山焼きで有名な「若草山」ではなく、近くにある別のもっと低い「御蓋山・みかさやま」 のこと。283m)から出た月を思って詠まれたと説明されていますが、御蓋山では低すぎて、すぐ後ろの春日山連峰や高円山(500~700m級)から月は 出ます。昔、古田先生たちと平城宮跡に行って、月が本当に御蓋山から出るのか観測したこともありましたが、御蓋山では低すぎて、そこからは絶対に月は出な いのです。それを実証するために、平城宮跡での「観月会」となったわけです。詳細は『古田史学会報』98号の拙論「『三笠山』新考  和歌に見える九州王朝の残映」をご参照ください。
そして結論として、「春日なる三笠の山」とは福岡県の三笠山(宝満山、869m)のことであり、仲麻呂は太宰府でその月を見たことがあり、その「観測事 実」に基づいて詠まれたのがこの歌だと、古田先生やわたしたちは考えたのです。なお太宰府からだと、月は三笠山(宝満山)から出ます。
すなわち、仲麻呂は九州王朝の故地太宰府でこの歌を詠み、三笠の山から出た月と表現したのですが、近畿天皇家の時代になると、奈良の御蓋山では低すぎ て、「三笠の山をいでし月かも」では不自然すぎるため、「三笠の山にいでし月かも」と原文改訂(改竄)し、後方の春日山連峰から出た、低い三笠の山のずっ とずっと上にある月を詠んだとも理解できるように「三笠の山にいでし月かも」として流布されたのです。
どちらが本来の仲麻呂の歌でしょうか。学問的判断としては、より古い写本を重視することと、更に原文改訂されるとすれば、「を」から「に」であり、その 逆は近畿では発生し得ない(古写本は近畿で成立)という論理性の二点から、「三笠の山をいでし月かも」が原型であると解すべきなのです。
このように阿倍仲麻呂の有名な和歌も、多元史観による理解が有効であることをご理解いただけるものと思います。仲麻呂問題は他にも面白い研究テーマがありますが、それはまた後日ご紹介いたします。


第730話 2014/06/18

シルクの国、邪馬壹国

 今日は新幹線「つばめ」で東京から山形市に向かっています。車中においてある無料の雑誌「トランヴェール」6月号の特集記事は「山形発! Japanese Silk 新時代」というもので、山形県各地の養蚕業や絹織物の歴史や新商品について解説されていました。

 「江戸中期、藩の財政再建策として始めた置賜地方。
  紅花を京へ送り、紅花染の絹織物を得ていた村山地方。
  廃藩置県で失業した旧藩士の救済から出発した庄内地方。
  山形の絹産業の歴史を地域の特徴と共にひもとく。」

 というリード文で始まる解説は、とても勉強になりました。わたしも色素・染料メーカーのケミストですので、シルクの古代染色技法の復元研究など思い出深い経験があります。機会があれば紹介していきたいと思います。
 いわゆる「邪馬台国」論争で畿内説というものがありますが、実は畿内説は学問的仮説、すなわち「学説」としての体をなしていません。せいぜい珍説か臆説に過ぎないのです。何故なら、文献史学における学説や仮説として成立する上での必須条件である史料根拠が畿内説にはないからです。『三国志』倭人伝のどこをどう読んでも畿内説の史料根拠といえる記事はありません。あるのなら指摘してみてください。
 もし原文にある邪馬壹国と畿内「大和」の最初の二音が「やま」で共通するということが史料根拠と言うのなら、山形市の「やま」を「根拠」にした「邪馬台国」山形説のほうがよっぽど畿内説よりも合理的です。このことは別の機会に詳論しますが、倭人伝には邪馬壹国を畿内と特定できる根拠、たとえば位置(方角や距離による地域特定)、たとえば文物(考古学的出土物による地域特定)など皆無です。ですから畿内説論者は倭人伝の原文を都合のいいように改訂しまくって(文献史学の「禁じ手」である史料改竄を行って「史料根拠」にするという)、珍論・奇論をくりかえしているのです。
 倭人伝に見える倭国や邪馬壹国の象徴的文物にシルク(絹)があります。倭人伝には「蚕桑絹績」という記事があり、「倭錦」「異文雑錦」など「錦」と記されているのがシルクの織物ですが、弥生時代の遺跡からシルクが出土するのは博多湾岸を中心に吉野ヶ里遺跡を含む北部九州で、畿内の弥生時代の遺跡からは出土が知られていません。この一点だけでも、「邪馬台国」畿内説など成立しようがないのです。
 考古学が学問であり、倭人伝研究の文献史学が学問であるのならば、倭国の中心地、邪馬壹国の候補地は博多湾岸しかありえません。畿内説など仮説としてさえも成立しません。従って、「邪馬台国」畿内説などをまじめに唱えている論者は、いくら「学問の自由」とは言え、全く学問的でなければ、「学者」とよぶことさえもはばかれると言わざるを得ません。この問題、「畿内説は学説ではない」ということについて、これからも引き続き論じます。


第729話 2014/06/17

7月5日(土)、
松山市で講演します済み

 今朝は新幹線で東京に向かっています。今週は週末まで東京と山形で仕事です。

 往復の車中の読書用に京都駅構内の本屋さんで『イシューからはじめよ 知的生産の「シンプルな本質」』(安宅和人著)を買い、読んでいます。最新 のビジネス理論などを勉強するのに、東京行き新幹線は時間的にピッタリです。名古屋出張では京都から36分で到着しますので、読書には短すぎて不適です。 うっかりして名古屋で下車せずに、新横浜駅まで行ってしまいそうですから。
 著者の安宅和人さんはマッキンゼーで消費者マーケティングを担当されたコンサルタントであると同時に、脳神経科学の学位も持つという、珍しい経歴の持ち 主です。ですから、同書には脳神経科学の知見も紹介しながら「問題解決力」について記されており、読者を飽きさせない工夫をこらした、なかなかの好著で す。
 本書は「イシュー」の定義として、

(A)2つ以上の集団の間で決着のついていない問題
(B)根本に関わる、もしくは白黒がはっきりしていない問題

 この両方の条件を満たすものと定義付け、まず最初にこのイシューを見つけることがビジネス速度(知的生産性)をあげるための要点であることが繰り返し強調されています。
 わたしもこの意見に共感できます。ビジネスでもそうですが、古代史研究においても研究テーマを設定する際に、わたしは上記のABを意識してきました。た とえば、前期難波宮遺構について一元史観内でも決着が付いていませんし、九州王朝説の立場からも解決できない問題(なぜ大宰府政庁よりもはるかに大規模な のか)を含んでいました。しかも枝葉末節ではなく、九州王朝の宮殿か孝徳天皇の宮殿かという根本的な対立点となるテーマでした。
 九州年号の「大長」についても同様で、『二中歴』のように「大長」がなく「大化」を最後の九州年号とする史料と、「大長」を最後の九州年号とする史料が対立しており、古田学派内でも決着がついていませんでした。
 二倍年暦もそうです。釈迦や弟子等の超高齢、ギリシア哲学者の超高齢、エジプトのファラオの超高齢、周王朝の天子の超高齢など、古代人は長生きだったとか、古代文献の年齢は信用できないという安直な「判断」で済まされ、本質的な解決に至っていないテーマでした。
 このように、わたしは「より本質的な選択肢=カギとなる疑問」を研究テーマにしたいと願ってきましたし、現実にそうしました。ですから、著者の安宅さんのご意見には共感するところが多いのです。
 ということで、7月5日(土)に松山市で行う講演(「古田史学の会・四国」主催)では、こうした本質的テーマを中心に、わかりやすく九州年号史料についてお話しする予定です。演題は「九州年号史料の出現と展望」です。ぜひ、お越しください。

 ようやく東京駅に着きました。これから八重洲のブリジストン美術館に併設されているティールーム・ジョルジェットでランチにします。