第3018話 2023/05/17

神籠石山城分布域の不思議

先週の12日に開催された多元的古代研究会のリモート研究会で、古代山城や神籠石山城の築造時期について問われました。そこで、古代山城研究の第一人者である向井一雄さんの著書『よみがえる古代山城 — 国際戦争と防衛ライン』(注①)を紹介し、出土土器などを根拠に七世紀後半頃とするのが有力説だと答えました。そのうえで、近年の調査報告書の出土土器を見る限り、採用されている飛鳥編年の誤差や編年幅はあるとしても、鞠智城以外は七世紀頃の築造と見なして問題はなく、穏当な見解と述べました(注②)。
神籠石山城などの築造年代を七世紀後半頃とする説へと収斂しつつありますが、他方、未解決の問題も少なくありません。その一つに、なぜ神籠石山城の分布が北部九州と瀬戸内海沿岸諸国の範囲にとどまっているのかというテーマがあります。大和朝廷発祥の地となった近畿地方、出雲や越国など神話に登場する日本海側諸国、そして広大な濃尾平野と関東平野、更には南九州や四国の太平洋側にはなぜ故神籠石山城がないのかという疑問です。
理屈の上では、神籠石山城で防衛しなければならないような地域ではなかった、あるいは脅威となる外敵はいなかったなどの説明が可能ですが、それもよくよく考えると抽象的であり、今ひとつ説得力に欠けそうです。たとえば、近畿天皇家も王朝交代前に防衛施設として大和に山城群を築城してもよさそうですが、史料に現れるのは高安城くらいで、神籠石山城は皆無です。出雲国も伝統ある大国で、海からの侵入の脅威にさらされていますが、古代山城発見の報告を知りません。
このように、神籠石山城などには多元史観・九州王朝説でも解明できていない問題があるのです。この現象(神籠石山城分布域)をうまく説明できるよいアイデアや視点があれば、ご教示下さい。

(注)
①向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
②古賀達也「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」『東京古田会ニュース』202号、2022年。


第3017話 2023/05/16

桐原・古田対談テープなどを

  CD、DVDにダビング

 東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書への偽作キャンペーンが猖獗を極めていたとき、こともあろうに古田先生が200万円を支払って、ある人物に偽書作成を依頼した疑惑があるとする悪意に満ちた記事が週刊誌(アサヒ芸能)や『季刊邪馬台国』(注①)などに掲載されたことがありました。その人物は桐原さんという広島市の方で、古田先生と親交がありました。

 そこで、平成9年4月9日、古田先生と水野さん(当時、古田史学の会・代表)、古賀の三人で、京都タワーホテルの会議室にて桐原氏と対談し、そうした報道が事実無根であるとの証言をしていただきました。この度、その録音テープを専門業者に依頼してCDにダビングしました。ことの真相(注②)や詳細な経緯が桐原さんより語られています。今は亡き古田先生の名誉を守るためにも、「古田史学の会」ではその内容の公開も含めて、今後の取り扱いについて検討したいと考えています。

 また、三十年前に古田先生と実施した津軽での聞き取り調査など、東日流外三郡誌に関わる当時の重要証言ビデオも専門業者に依頼してDVDにダビングしました。当時の証言者(注③)がほとんど物故されていますので、いずれも貴重な証言録画です。これらの編集を行い、関係団体にも提供できればと思います。ネットでの動画配信も有効かもしれません。このことも「古田史学の会」で検討を進めたいと考えています。編集作業や配信など、皆さんのご協力をお願いいたします。

(注)
①『季刊邪馬台国』56号、1994年。同誌冒頭に「古田武彦昭和薬科大学教授に衝撃の疑惑!! 二百万円支払って、古文書作成偽造を依頼」の見出しとともに、『アサヒ芸能』記事を転載している。
②古田先生から江戸期の紙の調査とサンプル収集依頼を受けたこと、桐原氏の娘さんの学費支援が古田先生からあったことなどが証言されている。別の日に、京都駅前の新阪急ホテルラウンジで古田先生、桐原さんと娘さん、古賀の四人でお会いしたこともある。終始なごやかな歓談が続いた。
③永田富智氏(北海道史、松前町史編纂委員)、松橋徳夫氏(市浦村、山王日吉神社宮司)、佐藤堅瑞氏(柏村、浄円寺住職。青森県仏教会々長)。地名・肩書きは当時のもの。


第3016話 2023/05/15

九州年号「大化」「大長」の原型論 (5)

 当初、わたしは丸山モデルを支持していたのですが、古田先生による『二中歴』原型説の提唱があり、再検討を行いました(注①)。その結果、丸山モデルは成立し難いという結論に至りました。理由は次の通りです。

 丸山モデルの特徴は、元年を692年壬辰とする大長を最後の九州年号とすることの他に、『日本書紀』や『二中歴』に見える朱鳥がないということでした。その部分だけを見ると、『二中歴』の朱鳥年間(686~694年の9年間)が消えて、その位置(686~691年)に『二中歴』の大化の6年間(695~700年)がずれ上がり、大化の後に大長の9年間(692~700年)が割り込んでいます。このように、朱鳥が消えて大長が大宝の直前に割り込むというのが丸山モデルの特徴です(注②)。ところが、現存する二つの同時代九州年号金石文が丸山モデルの特徴を否定するのです。

 二つの同時代九州年号金石文とは、「朱鳥三年戊子(688年)」銘を持つ鬼室集斯墓碑(注③)と「大化五子(700年)」年土器(注④)のことです。検討の結果、両金石文は同時代金石文であり、『二中歴』の朱鳥と元年が同じ686年である「朱鳥三年戊子」銘により、九州年号に朱鳥が存在していたことを疑えませんし、七世紀末に大化年号が使用されていたことを示す「大化五子(700年)」年土器により、丸山モデルの大長(692~700年)は否定されることになります。また、丸山さんが自説の根拠とされた大長の実用例も子細に見ると、『運歩色葉集』の「大長四季丁未(707)」と『伊予三島縁起』の「天武天王御宇大長九年壬子(712)」は丸山モデルの大長元年692年壬辰とは異なり、704年甲辰を元年としており、決して丸山モデルを支持していたわけではないのです。従って、丸山モデルに代わって、古田先生が提唱した『二中歴』原型説が有力視されるに至りました。(つづく)

(注)
①古賀達也「二つの試金石 — 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。
②丸山モデルと『二中歴』の比較(七世紀後半部分)
【丸山モデル】 【二中歴】
西暦 干支 年号   年号
652 壬子 白雉   白雉 ※『日本書紀』では白雉元年は650年庚戌。
661 辛酉 白鳳   白鳳
684 甲申 朱雀   朱雀
686 丙戌 大化   朱鳥 ※『日本書紀』では朱鳥元年の1年のみ。
692 壬辰 大長
695 乙未      大化 ※『日本書紀』では大化元年は645年乙巳。
700 庚子 同九年  同六年
701 辛丑 (大宝)  (大宝) ※大和朝廷の年号へと続く。
③滋賀県蒲生郡日野町、鬼室集斯神社蔵。
④茨城県坂東市(旧岩井市)出土。冨山家蔵。


第3015話 2023/05/14

九州年号「大化」「大長」の原型論 (4)

 九州年号研究の初期の頃、最後の九州年号を大長とするのか、大化とするのかが大きなテーマとなりました。『二中歴』には「大長」がなく、最後の九州年号は「大化」(695~700)で、その後は近畿天皇家の年号「大宝」へと続きますが、『二中歴』以外のほとんどの九州年号群史料では「大長」が最後の九州年号で、その後に「大宝」が続きます。この大長があるタイプ(元年を692年壬辰とする)が丸山モデルと呼ばれ、当時は最有力説と見なされていました。両者は次のような年号立てです(七世紀後半部分を提示。700年以外はいずれも元年を示す)。

【丸山モデル】 【二中歴】
西暦 干支 年号   年号
652 壬子 白雉   白雉 ※『日本書紀』では白雉元年は650年庚戌。
661 辛酉 白鳳   白鳳
684 甲申 朱雀   朱雀
686 丙戌 大化   朱鳥 ※『日本書紀』では朱鳥元年の1年のみ。
692 壬辰 大長
695 乙未      大化 ※『日本書紀』では大化元年は645年乙巳。
700 庚子 同九年  同六年
701 辛丑 (大宝)  (大宝) ※大和朝廷の年号へと続く。

 丸山モデルの根拠は、丸山氏が収集した九州年号群史料(年代記類)25史料(注①)の内、大長をもたないものは『二中歴』と『興福寺年代記』のみであり、他は全て大長を持っており、その多くは大長元年を692年壬辰としていたことによります(注②)。更に丸山氏は、藤原貞幹が「延暦中の解文」に「大長」を見たと記していることや(注③)、次の史料に大長の実用例が見えることも、自説の根拠とされました(注④)。

○『運歩色葉集』(1537年成立)「大長四季丁未(707)」
○『八宗伝来集』(1647年成立)「大長元年壬辰(692)」
○『伊予三島縁起』(1536年成立)「天武天王御宇天(ママ)長九年壬子(712)」※内閣文庫本には「天武天王御宇大長九年壬子(712)」とする写本がある(注⑤)。
○『白山由来長瀧社寺記録』(『白山史料集』下巻所収)「大長元年壬辰(692)」
○『杵築大社旧記御遷宮次第』「大長七年戊戌(698)」

 こうした豊富な史料根拠に基づいて、大長を持つ丸山モデルは成立しており、当初はわたしも支持していました。(つづく)

(注)
①丸山晋司『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』(株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年)所収「古代逸年号史料異同対比表」252~253頁。
②一部に、大長元年を695年乙未(『王代年代記』1449年成立)や698年戊戌(『海東諸国紀』1471年成立、他)とする史料がある。この点、後述する。
③藤原貞幹『衝口発』に「金光ハ平家物語、大長延暦中ノ解文ニ出。」とある。
④上記①の83~84頁。
⑤古賀達也「学問は実証よりも論証を重んじる」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。


第3014話 2023/05/13

豊島勝蔵氏の証言、

   「墳館(ふんだて)」の発見

 この度の和田家文書調査では数々の成果に恵まれたのですが、その一つに弘前市の古書店で「東日流外三郡誌」関連の古書を購入できたことがあります。恐らく地元でなければ入手できないような資料もあり、望外のことでした。それはガリ版刷りでホッチキスどめの「津軽の安東について」の表題をもつ冊子です。表紙には次のように記されています。

「津軽の安東について
郷土史研究家
豊島勝蔵

昭和57年4月25日
於 五所川原市民図書館
昭和57年度北奥文化研究会総会 記念講演会」

 市浦村史版『東日流外三郡誌』を編纂された豊島勝蔵さんの講演録、本文39頁の手作り冊子です。東日流外三郡誌に触れた部分が多く、偽作説が現れた当時の雰囲気が豊島氏の口吻から感じられます。この中で次のような貴重な証言が記されています。市浦村(当時)の遺跡〝墳館〟発見の経緯が紹介された次の部分です。

〝(墳館)
それから、ずうっと市浦に入ってきてしまったんですけども、磯松の所に、これは外三郡誌馬鹿にならないなあと思った一つなんですけれども、市浦の方で今まで墳館発見していながったわけです。福島城、唐川城ね、太田の鏡城とかいうのはわかっていたのですけれども、墳館があったのはわからなかったんです。
外三郡誌によって初めて出て来たもんで、一体どこら辺だろうと言うので、磯松の人達の通りがかりの婆様をつかまえて聞いたわけです。「ん、あすことばフンダデってしたんだ…」というわけです。最初古舘かなと思っていたわけです。行って見ました。熊野宮のある傍なんです。行って見ましたら完全に城跡なんです。空堀が三つ位あるんでねんですか。残っている所は個人持ちで、上は畑にしています。けれども、完全な城跡だということわかったわけです。それで外三郡誌に書いてあるところを見ますと、そこは安東一族の霊を祀る所ですね。安東の墓所です。神護寺という名前も出て来ますけどね。完全な城跡だとわかったんです。
(五輪の塔)
ふしぎにも、そこから完全な五輪の塔が出るんです。あすこに墓地があ〈ママ〉ますけど、その墓地の所に二基完全なのがあるんです。三がい位になっていますけど同じものが二つ。これは一体どっから来たんだ聞きますと「墳館の所です。まだまだ五輪の部分品はたくさん出る。」というのです。ちょっとこう墳館の沢になっている所、五輪の沢という名前で呼んでいます。私達が古館だなあと思っていた所、墓場であったわけですね。墳墓の墳なんです。それが外三郡誌ではじめて上巻の中に名前を出すようになったわけです。〈後略〉〟

 東日流外三郡誌には「墳館」と記された地図などが見えますが、その遺構が現地の婆様たちからは「フンダデ」「墳館」と呼ばれており、実在していたことがわかったという内容です。それまでは、地元の研究者は「古舘」と理解していたようです。この豊島勝蔵さんの証言は東日流外三郡誌に記された「墳館」の存在が事実であり、それは安東氏の墓所(墳)であったことが五輪の塔の出土から明らかになったというものです。これは東日流外三郡誌真作説を指示するものです。

 この他にも同冊子には豊島さんによる貴重な情報が載せられており、別の機会に紹介したいと思います。


第3013話 2023/05/12

「東日流外三郡誌」の〝福島城の鬼門〟

 東北地方北部最大の城館遺跡とされている福島城跡(旧・市浦村)は東日流外三郡誌にも繰り返し現れます。東京大学による調査(注①)により、福島城は14~15世紀の中世の城址と見なされてきましたが、他方、東日流外三郡誌には福島城の築城を承保元年(1074)とされていました。

 「福島城 別称視浦館
城領半里四方 城棟五十七(中略)
承保甲寅元年築城」『東日流外三郡誌』(注②)

 ところが、その後行われた発掘調査(注③)により、福島城は古代に遡ることがわかり、出土土器の編年により10~11世紀の築城とされ、東日流外三郡誌に記された「承保元年(1074)築城」が正しかったことがわかりました。このように、福島城の考古学的事実が東日流外三郡誌真作説を支持するものとして、わたしは注目していました(注④)。
この度の和田家文書調査に先立ち、改めて東日流外三郡誌を精査したところ、次の記事に着目しました。

 「(前略)
山王社殿建立 選地福島城 以鬼門封 定現在霊地 (以下略)」(注⑤)
〈読み下し文〉山王社殿建立の選地には、福島城の鬼門封じを以て現在の霊地を定めた。

 福島城の真北に位置する山王坊(日吉神社)が、同城の鬼門封じのため、その地に建てられたとする記事です。鬼門といえば王都の北東、艮(うしとら)方向にあるとされており、たとえば京都であれば比叡山(延暦寺)であり、九州王朝の大宰府であれば宝満山(竈門神社)です。ところが、東日流外三郡誌によれば福島城の真北の山王坊を鬼門としており、もしかすると古代の蝦夷国の時代から鬼門は北東ではなく、真北だったのではないでしょうか。
九州王朝(倭国)や大和朝廷(日本国)にとっては北東の大国「蝦夷国」が脅威であり、そのため北東を鬼門とする思想が成立したものと思われ、比べて、蝦夷国の場合は北東ではなく北方向の大国「粛慎」「靺鞨」を脅威として、その方位を鬼門としたのではないでしょうか。その思想が中世に至っても採用されたと考えれば、福島城と山王坊との位置関係がその伝統を受け継いだものと捉えることができます。他方、北辰信仰の反映とする理解も可能ですので、この点、留意が必要です(注⑥)。いずれにしても、古代日本思想史上の興味深いテーマと思われます。

(注)
①昭和30年(1955)に行われた東京大学東洋文化研究所(江上波夫氏)による発掘調査。
②『東日流外三郡誌』北方新社版第三巻、119頁、「四城之覚書」。
③1991年より三ヶ年計画で富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館により同城跡の発掘調査がなされ、福島城遺跡は平安後期十一世紀まで遡ることが明らかとなった(小島道祐氏「十三湊と福島城について」『地方史研究二四四号』1993年)。
④古賀達也「和田家文書と考古学的事実の一致 ―『東日流外三郡誌』の真作性―」『古田史学会報』4号、1994年。
⑤『東日流外三郡誌4』八幡書店版、651頁。「東日流外三郡誌」八十六巻ロ本、第一章〔山王十三日記〕。
⑥『山王坊遺跡 ―平成18~21年度 発掘調査報告書―』五所川原市教育委員会、2010年。当報告書には福島城と山王坊の位置関係について、北斗信仰・北極星信仰の反映とする見方が示されている。また、「秋田孝季集史研究会」の増田氏からも同様のご指摘を得た(2023年5月8日の研究会にて)。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

参考 2023年5月20日 古田史学会 関西例会

東日流外三郡誌の考古学
— 「和田家文書」令和の再調査 古賀達也


第3012話 2023/05/10

和田家(和田長作)と

  秋田家(秋田重季)の交流

 今回の津軽調査(5/06~09)では、秋田孝季集史研究会のご協力をを得て、期待を上回る数々の成果に恵まれました。特筆すべきものとして、和田家(和田長作)と秋田家(旧三春藩主・秋田重季子爵)の交流を示すと思われる写真の〝発見〟がありました(注①)。藤本光幸さんの遺品のなかにあった一枚の写真(女性5名と男性6名)です。その裏には次の氏名が書かれています。

 「天内」、「森」、「和田長三〈郎〉」(注②)、「秋田重季」、「綾小路」です。男性1名と日本髪の女性たち(芸者さんか)の名前は記されていません。そのくつろいだ様子から、宴席後の記念写真と思われました。撮影年次や場所は記されていませんが、「和田長三〈郎〉」のふくよかな顔立ちから、和田喜八郎氏の祖父、長作さんの若い頃(20~30歳か)の写真のようです。藤崎町の旧家「天内(あまない)」さんと一緒であることから、津軽での写真ではないでしょうか。
秋田孝季集史研究会の会長、竹田侑子さんのお父上(藤本光一氏)は天内家から藤本家へ養子に入られたとのことで、写真の「天内」さんは〝父親とよく似た顔だち〟とのことです。残念ながら下の名前は未詳です。

 秋田重季(あきた しげすえ、1886~1958年、子爵議員)さんは秋田家(旧三春藩主、明治以降は子爵)の第十四代当主です。ネットで調査したところ写真が遺っており、秋田重季氏ご本人で間違いなさそうです。その他の男性、「森」「綾小路」の両氏は調査中です。秋田子爵と同席できるほどの人物ですから、いずれ明らかにできるでしょう(注③)。

 そして、肝心の和田長作さんとされる人物の確認です。全くの偶然ですが、和田喜八郎氏宅の屋根裏調査時に、同家仏壇の上に飾ってあった遺影(女性2名と男性1名)をわたしは撮影していました。その写真をスマホに保存していたので、持参したノートパソコンに移し、秋田重季さんとの記念写真の「和田長三〈郎〉」とを拡大・比較したところ、同一人物のように思われました。遺影の人物は晩年の長作さんのようで、ふくよかな頃の写真とは年齢差があると思われるものの、顔の輪郭、特徴的な右耳の形、坊主頭の形、切れ長の目、まっすぐな鼻筋、顎の形などが一致しています。

 これは和田家と秋田家の交流が明治・大正時代からあったことを示す貴重な証拠写真かもしれず、藤本光幸氏の遺品中にあったことから、おそらく和田喜八郎氏から光幸氏にわたったものと思われます。偽作キャンペーンでは和田家と秋田家との古くからの交流を否定しており、同キャンペーンの主張が虚偽であったことを証明する証拠とできそうです。しかしながら、〝似ている〟だけではエビデンスとして不十分ですので、更に調査を重ね、人物の同定が確実となれば、改めて発表したいと考えています。

 東京へ向かう東北新幹線はやぶさ16号の車窓から冠雪した岩手山が見えてきました。もうすぐ盛岡駅です。

(注)
①竹田元春氏より見せて頂いた。同氏は、藤本光幸氏の妹の竹田侑子氏(「秋田孝季集史研究会」会長)のご子息。
②長作か。「長三郎」を和田家当主は襲名する。写真下部が切り取られており、〈郎〉の字は見えない。和田長作は喜八郎氏の祖父で、明治期に「東日流外三郡誌」を書写した和田末吉の長男。末吉の書写作業を引き継いでいる。
③「綾小路」とある人物は貴族院議員の綾小路護氏(1892~1973年、子爵議員)ではあるまいか。ウィキペディアに掲載されている同氏の写真とよく似ている。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也


第3011話 2023/05/09

雨の津軽路、藤本光幸さんの墓前に誓う

 昨日は、「秋田孝季集史研究会」(会長、竹田侑子さん)の皆さんと、藤崎町摂取院を訪れ、藤本光幸さんのお墓に参りました。わたしは、和田家文書〝偽作キャンペーン〟と戦うことを墓前に誓い、「われらに加護あれ」と祈りました。一行は雨の津軽路、板柳に向かい、沢の杜遺跡などを見学しました。

 その後、弘前市に戻り、玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長)ご紹介のお店「こころ」の和室をお借りして、パワーポイントで「東日流外三郡誌」真作説の根拠と、これからの研究テーマとその方法について説明させて頂きました。この日は玉川さんと夜遅くまで杯を傾けました。

 調査最終日の今日は、朝から和田家文書調査です。竹田元春さん(竹田侑子さんのご子息)のご協力を得て、『北鏡』の紙(多くは大福帳の裏を利用)の調査を実施。大福帳の使用年次を丹念に調べたところ、明治30年代後半から大正2年の印字が見えました。時間が足らず、『北鏡』全巻を調査できませんでしたので、残りは次の機会としました。調査終了後、弘前城址にて夕日に照らされた霊峰岩木山(1625m、青森県の最高峰)を拝し、「津軽の民と東日流外三郡誌に加護あれ」と祈りました。明日は京都に帰ります。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也

参考 2023年5月20日 古田史学会 関西例会

東日流外三郡誌の考古学
— 「和田家文書」令和の再調査 古賀達也


第3010話 2023/05/07

津軽での一夕、三十年ぶりの邂逅

 昨日、弘前市に到着。三十年ぶりの津軽です。「秋田孝季集史研究会」会長、竹田侑子さんらの歓待を受けました。今回の調査日程の説明を受けた後、夜九時過ぎまで和田家文書についての質問攻めと、地酒・郷土料理による接待攻勢が続きました。なかでも、市会議員選挙(4月23日投開票)を終えたばかりの同会副会長・石岡ちづこさん(弘前市議・無所属)からの本質を突いた質問により、一気に場が盛り上がりました。東日流外三郡誌の重要性を理解し、支持される地元有力者が少なからずおられることに、わたしも気を強くしました。

 今日は朝から和田家文書調査を行いました。竹田さん親子のご協力を得て、主に未見の「東日流外三郡誌」の筆跡と紙の精査を行い、下記の分別(基礎的史料批判)を実施しました。その他の多くは三十年ぶりに目にした文書群で、懐かしさを覚えました。引き続き、調査を実施します。

【和田家文書群の分類(試案)】
(α群)和田末吉書写を中心とする明治写本群。主に「東日流外三郡誌」が相当する。紙は明治の末頃に流行した機械梳き和紙が主流。

(β群)主に末吉の長男、長作による大正・昭和(戦前)写本群。大福帳などの裏紙再利用が多い。

(γ群)戦後作成の模写本(戦後レプリカ)。筆跡調査の結果、書写者は複数。紙は戦後のもの。厚めの紙が多く使用されており、古色処理が施されているものもある。展示会用として外部に流出したものによく見られる。

 

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也

参考 2023年5月20日 古田史学会 関西例会

東日流外三郡誌の考古学
— 「和田家文書」令和の再調査 古賀達也


第3009話 2023/05/06

九州年号「大化」「大長」の原型論 (3)

本稿を新青森駅に向かう東北新幹線(はやぶさ17号)車中で書いています。
『二中歴』には「大長」がなく、最後の九州年号は「大化」(695~700)で、その後は近畿天皇家の年号「大宝」へと続きます。ところが、『二中歴』以外の九州年号群史料では「大長」が最後の九州年号で、その後に「大宝」が続きます。そして、「大長」が700年以前に「入り込む」形となったため、その年数分だけ、たとえば「朱鳥」(686~694)などの他の九州年号が消えたり、短縮されたりしています。

このように最後の九州年号を「大化」とする『二中歴』と、「大長」とするその他の九州年号史料という二種類が後代に併存するのですが、この状況を説明するため、「大長」は704~712年に存在した最後の九州年号とする下記の仮説(3)に至りました(注①)。それ以外の仮説が成立し得ないことから、基本的に論証は完了したと、わたしは考えました(注②)。

【古賀説】(3) 大和朝廷への王朝交代後(701年)も九州年号は、「大化」(695~703年)を経て「大長」(704~712年)まで続く。

 他方、『二中歴』以外の九州年号群史料には様々な年号立てが見えることから、古賀説は論証不十分とする疑義も寄せられました。その説明を「洛中洛外日記」〝九州年号「大化」の原型論〟(注③)で始めたのですが、多忙のため途中で連載が止まったままとなっていました。そこで、今回の新連載〝九州年号「大化」「大長」の原型論〟を始めました。まず、自説の論理構造を詳述します。自説成立の大前提となる命題と解釈はつぎの通りです。

(A) 後代における九州年号群史料編纂者の認識は、次の二つの立場のいずれかに立つ。
《1》九州年号は実在した。
《2》年号を公布できるのは大和朝廷だけであるから、九州年号は偽作であり実在しない。偽年号・私年号の類いとして紹介する。江戸期の貝原益軒(注④)や戦後の一元史観の学者(注⑤)がこの立場に立つ。

(B)〝《1》九州年号は実在した〟との立場に立つ人は、更に次の二つに分かれる。
《1-1》九州年号は大和朝廷の正史には見えないので、それ以外の勢力(南九州の豪族、筑紫の権力者)による年号とする。鶴峯戊申、卜部兼従など(注⑥)。
《1-2》正史から漏れた大和朝廷の年号とする。新井白石など(注⑦)。

(C)《1-1》の立場に立つ編者は、九州年号を大和朝廷の年号と整合(大宝元年への接続など)させる必要がなく、原本を改変する動機がない。従って、九州年号をそのまま書写・転記したであろう。
その例として鶴峯戊申『襲国偽僣考』がある。同書に見える最後の九州年号は「大長」だが、「文武天皇大寶二年。かれが大長五年。」(702年)とあり、大和朝廷の年号「大宝」と九州年号「大長」が、701年以後も併存したとする鶴峯の認識がうかがえる(注⑨)。ただし「大長元年」の位置は698年とされ、古賀説(3)の704年とは異なる。

(D)《1-2》の場合、『続日本紀』に見える「大宝」(701~704年)建元以前の年号と理解するはずであり、もし九州年号が「大宝年間」と重なっていれば、重ならないように九州年号の末期部分を改訂する可能性が大きい。

以上のように編纂者の認識を分類しました。従って、自説が正しければ(D)による改訂の痕跡があるはずで、本来の九州年号から改訂形に至る認識をたどることができると考えました。そこで、数ある九州年号群史料を採録した丸山晋司さんの労作『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』(注⑧)に掲載された諸史料の年号立てを精査し、それら全てが自説(3)から改訂された姿と見なしうることを確認しました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3006話(2023/05/05)〝九州年号「大化」「大長」の原型論 (1)〟
②九州年号に関する日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)とのある日の対話で、「古賀説〝701年以後も九州年号は継続した〟の提起により、九州年号研究は基本的に完結したと思った」という日野氏の発言が印象深く、忘れ難い。この仮説が王朝交代期の実態に迫る上で、重要な視点を有すことを、氏は深く理解されていたようである。
③古賀達也「洛中洛外日記」1516~1518話(2017/10/13~16)〝九州年号「大化」の原型論(1)~(3)〟
④貝原益軒『続和漢名数』元禄五年(1692)成立。
⑤久保常晴『日本私年号の研究』吉川弘文館、1967年。
所功『年号の歴史〔増補版〕』雄山閣、平成二年(1990)。
⑥卜部兼従(宇佐八幡宮神祇)『八幡宇佐宮繋三』1617年成立。同書には九州年号を「筑紫の年号」とする認識が示されている。
鶴峯戊申『襲国偽僣考』文政三年(1820)成立。「やまと叢誌 第壹号」(養徳會、明治二一年、1888年)所収。
同『臼杵小鑑』文化三年(1806)成立。
⑦新井白石「安積澹泊宛書簡」『新井白石全集』第五巻
⑧丸山晋司『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年。
⑨古賀達也「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。


第3008話 2023/05/06

九州年号「大化」「大長」の原型論 (2)

 前話では九州年号研究のエポックとして次の4点を紹介しました。

(1) 九州王朝(倭国)により公布された九州年号(倭国年号)実在説の提起。
(2) 『二中歴』「年代歴」の九州年号が最も原型に近いとする。
(3) 大和朝廷への王朝交代後(701年)も九州年号は、「大化」(695~703年)を経て「大長」(704~712年)まで続く。
(4) 九州年号「白雉元年」(652年)を示す、「元壬子年」木簡の発見。

 このなかの(1)(2)(3)は主に論証に属し、(4)が出土木簡の解釈であり、どちらかというと実証に属するテーマでした。なかでも(3)は論証(701年以後の九州年号「大長」の存在)が先行し、後に実証(「大長」年号史料と写本の発見)が後追いしたという研究で、わたしにとっては古田先生の学問の方法を理解する上でも思い出深い経験でした。そのことを「学問は実証よりも論証を重んじる」(注①)で次のように紹介しました。長くなりますが、当該部分を転載します。

〝九州年号「大長」の論証

 九州年号研究の結果、『二中歴』に見える「年代歴」の九州年号が最も原型に近いとする結論に達していたのですが、わたしには解決しなければならない残された問題がありました。それは『二中歴』以外の九州年号群史料にある「大長」という年号の存在でした。

 『二中歴』には「大長」はなく、最後の九州年号は「大化」(六九五~七〇〇)で、その後は近畿天皇家の年号「大宝」へと続きます。ところが、『二中歴』以外の九州年号群史料では「大長」が最後の九州年号で、その後に「大宝」が続きます。そして、「大長」が七〇〇年以前に「入り込む」形となったため、その年数分だけ、たとえば「朱鳥」(六八六~六九四)などの他の九州年号が消えたり、短縮されていたりしているのです。

 こうした九州年号史料群の状況から、『二中歴』が原型に最も近いとしながらも、「大長」が後代に偽作されたとも考えにくく、二種類の対立する九州年号群史料が後代史料に現れている状況をうまく説明できる仮説を、わたしは何年も考え続けました。その結果、「大長」は七〇一年以後に実在した最後の九州年号とする仮説に至りました。その詳細については「最後の九州年号」「続・最後の九州年号」(『「九州年号」の研究』所収)をご覧ください(注②)。具体的には「大長」が七〇四~七一二年の九年間続いていたことを、後代成立の九州年号史料の分析から論証したのですが、この論証に成功したときは、まだ「実証(史料根拠)」の「発見」には至ってなく、まさに「論証」のみが先行したのでした。そこで、わたしは「論証」による仮説をより決定的なものとするために、史料(実証)探索を行いました。

九州年号「大長」の実証

 最後の九州年号を「大化」とする『二中歴』と、「大長」とするその他の九州年号群史料の二種類の九州年号史料が存在することを説明できる唯一の仮説として、「大長」が七〇四~七一二年に存在した最後の九州年号とする仮説を発見したとき、それ以外の仮説が成立し得ないことから、基本的に論証が完了したと、わたしは考えました。「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉通りに、九州年号史料の状況を論証できたので、次に九州年号史料を精査して、この「論証」を支持する「実証」作業へと進みました。

 その結果、『運歩色葉集』の「柿本人丸」の項に「大長四年丁未(七〇七)」、『伊予三島縁起』に「天長九年壬子(七一二)」の二例を見い出したのです。ただ、『伊予三島縁起』活字本には「大長」ではなく「天長」(注③)とあったため、「天」は「大」の誤写か活字本の誤植ではないかと考えていました。そこで何とか原本を確認したいと思っていたところ、齊藤政利さん(「古田史学の会」会員、多摩市)が内閣文庫に赴き、『伊予三島縁起』写本二冊を写真撮影して提供していただいたのです。その写本『伊予三島縁起』(番号 和34769)には「大長九年壬子」とあり、「天長」ではなく九州年号の「大長」と記されていたのです。
「論証」が先行して成立し、それを支持する「実証」が「後追い」して明らかとなり、更に「大長」と記された新たな写本までが発見されるという、得難い学問的経験ができたのです。こうして村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」を深く理解でき、学問の方法というものがようやく身についてきたのかなと感慨深く思えたのでした。
〟「学問は実証よりも論証を重んじる」『古田武彦は死なず』

 本稿を津軽に向かう新幹線車中で書いています。車窓からは富士山が見えてきました。残念ながら山頂は雲に隠れています。(つづく)

(注)
①古賀達也「学問は実証よりも論証を重んじる」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。
②同「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2006年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
③近畿天皇家の年号に「天長」(824~834年)があり、そのため、後代に於いて「大長」が「天長」に改変書写されたものと思われる。内閣文庫本には、「大長」とした『伊予三島縁起』写本(番号 和34769)と「天長」に改変された異本(番号 和42287)がある。齊藤政利氏のご教示による。
同「洛中洛外日記」599話(2013/09/22)〝『伊予三島縁起』にあった「大長」年号〟を参照されたい。


第3007話 2023/05/05

『多元』No.175の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.175が届きました。同号には拙稿「古代貨幣の多元史観 ―和同開珎・富夲銭・無文銀銭―」を掲載していただきました。同稿は、本年一月の「多元の会」主催リモート研究会で清水淹さんが発表された「謎の銀銭」に啓発されて、投稿したものです。そのなかで、藤原宮から出土した地鎮具に9本の水晶と9枚の富夲銭が使用されていたのは、九州王朝(9本の水晶)を同じく9枚の富夲銭で封印するという、新王朝(日本国)の国家意思を表現したものとする仮説を発表しました。
当号冒頭に掲載された黒澤正延さん(日立市)の「推古朝における遣唐使(一) ―小野妹子と裴世清―」は、推古紀に見える遣唐使の小野妹子は九州王朝が派遣したとする研究です。意表を突く仮説であり、その当否はまだ判断できませんが、わたしは注目しています。今後の検証と論争が期待されます。