第2751話 2022/05/31

多元的古代研究会で研究発表します

 友好団体の多元的古代研究会の月例会などにリモート参加させていただき、勉強していますが、同会の和田事務局長から研究発表のご依頼をいただきました。日時とテーマは次の通りです。ご批判やご質問をよろしくお願いします。

○6月3日(金) 午前10時~11時30分 《リモート勉強会》
 【テーマ】筑紫なる倭京「太宰府」 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―
○7月10日(日) 午後1時~4時 《多元の会月例会》
 【テーマ】考古学はなぜ「邪馬台国」を見失ったのか


第2750話 2022/05/30

「宇曽利(ウソリ)」地名の古さについて

 和田家文書に見える「宇曽利」地名が沿海州のウスリー川(中国語表記は「烏蘇里江」)と語源が共通するのではないかと、「洛中洛外日記」(注①)で推測しました。WEB辞書などにはウソリをアイヌ語とする説(注②)が紹介されていますが、わたしはもっと古く、縄文語かそれ以前の言葉に由来するのではないかと考えています。
 古田先生が提唱された言素論で「ウソリ」を分析すると、語幹の「ウ」+古い神名の「ソ」、そして一定領域を示す「リ」から成っているように思われます。語幹の「ウ」の意味については未詳ですが、「ソ」が古層の神名であることについて「洛中洛外日記」などで論じてきました(注③)。「リ」は現代でも「里」という字で使用されています。弥生の環濠集落で有名な「吉野ヶ里」はもとより、「石狩」「香取」「白鳥」「光」などの地名末尾の「リ」もたぶんそうでしょう。
 これらのことから、神様を「ソ」と呼んだ古い時代にウソリという地名が成立したと考えられます。他方、宇曽利の類似地名「加曽利(カソリ)」が現存しています(千葉県千葉市)。縄文貝塚で有名な加曽利貝塚があるところです。現時点の考察では断定できませんが、初歩的な仮説としては成立しているように思いますが、いかがでしょうか。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2738話(2022/05/09)〝ウスリー川と和田家文書の宇曽利〟
 同「洛中洛外日記」2748話(2022/05/28)〝菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)から「ウスリー湾」の紹介〟
②ウソリはアイヌ語ウショロ(窪地・入り江・湾)に由来するとする。
③古賀達也「洛中洛外日記」40~45話(2005/10/29~11/09)〝古層の神名〟
 同「『言素論』研究のすすめ」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。


第2749話 2022/05/29

源平合戦の地、屋島を訪問

 先週、三年ぶりに四国方面をドライブしました。在職中は年に二~三度は出張で訪れていましたが、それ以来のことです。明石大橋から淡路島経由で高松市まで行き、お昼過ぎには屋島山頂に到着しました。十年ほど前にも来たことがあるのですが、当時の山上はお土産物店や水族館もあり賑わっていました。今では全て閉店して寂れていました。仕方がないので屋島寺(四国八十四番札所)を参詣し、山上から源平合戦の地とされる入り江を遠望しました。NHK大河ドラマの〝鎌倉殿の13人〟ではなぜか屋島合戦の名場面がスルーされており、高松市民にとっては残念なことだったと思います。
 夜は西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)と会い、久しぶりに二人で痛飲しました。話題は多岐にわたりましたが、二十年来の付き合いということもあり、「古田史学の会」の将来構想や後継者の育成について話し合いました。西村さんはコロナ騒動で関西例会にはリモート参加(司会進行担当)されているのですが、たまには大阪まで来て欲しいとお願いしました。
 翌日は瀬戸中央大橋から岡山県に渡り、総社市の鬼ノ城遺跡を初訪問しました。(つづく)


第2748話 2022/05/28

菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)から

  「ウスリー湾」の紹介

 多元的古代研究会の5月例会にリモート参加させていただいたとき、沿海州のウスリー川と和田家文書に見える地名の宇曽利(下北半島)との関係について質問したことを「洛中洛外日記」2738話(2022/05/09)〝ウスリー川と和田家文書の宇曽利〟で紹介しました。
 同様の質問を東京古田会主催の和田家文書研究会でもリモートで質問したのですが、菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)からメールが届き、ウラジオストクがある湾がウスリー湾と呼ばれているとのことでした。メールの一部を転載し、紹介させていただきます。菊地さんのご教示に感謝します。

【菊地栄吾さんからのメール】
 (前略)先日の和田家文書研究会で、「宇曽利」と「ウスリー」について話題・疑問を出されておられましたが、その時には発言しませんでしたので改めてお話します。
 アイヌ語では「ウソリ」は「ふところ」「湾」「入り江」を意味します。「湾」とは陸奥湾のことで、下北半島全体を「宇曽利郷」と言ったようです。
 一方、ウラジオストクの在る所の湾は現在は「ピョートル大帝湾」となつていますが元々は「ウスリー湾」でした。そしてこの辺一帯を古くから「ウスリー」と呼んでおり近くには「ウスリースク」という都市があります。ーウスリー川」はウスリー地域から流れ出る川であることから名付けられた様です。(中略)
 コロナでは、家に籠りがちとなりますが、歴史の勉強が唯一の老後の楽しみになります。今後とも、楽しく勉強できる古田史学をご指導くださるようお願いします。
 古田史学の会・仙台 菊地栄吾

 菊地さんのメールを読んで、わたしもウィキペディアで調べたところ、ピョートル大帝湾の東部分がウスリー湾と説明されていました。次の通りです。

【ウィキペディアから一部転載】
 ピョートル大帝湾(ピョートルたいていわん;ロシア語:Залив Петра Великого ザリーフ・ピトラー・ヴィリーカヴァ)は、日本海最大の湾。日本海の北西部、ロシア沿海地方の南部に位置する。湾の奥行きは80km、入口の幅は200kmほどで、中央のムラヴィヨフ半島とルースキー島などの島々が湾を東西(東のウスリー湾および西のアムール湾)に分けている。極東ロシアの港湾都市ウラジオストクはムラヴィヨフ半島の先端のアムール湾側(西側)にある。湾に注ぐ最大の河川は、中華人民共和国の黒竜江省から流れる綏芬河で、アムール湾の奥に河口と三角州がある。


第2747話 2022/05/27

6月19日、古代史講演会・会員総会のお知らせ

 先にご案内しましたように、「古田史学の会」会員総会・古代史講演会を6月19日(日)にアネックスパル法円坂(大阪市中央区法円坂1-1-35)で開催します。当初、18日(土)に開催予定でしたが、コロナ対策のための広い会場を確保するために日程を19日(日)に変更しました。それに伴い、「古田史学の会」関西例会も19日の午前中に変更します。午後は2時から講演会、4時30分から総会とします。コロナの問題もあり、総会は短時間に終えますので、ご意見等は予めメールでHP記載の「古田史学の会」のアドレスまで寄せていただきますようご協力下さい。
 なお、講演会の講師は正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と服部静尚さん(古田史学の会・会員)です。最新の研究テーマが発表されます。会員以外の皆さんも無料ですので、ご参加をお願いいたします。

《日時》6月19日(日) 14時~16時
    ※講演会終了後は会員総会を開催します。

《講師と演題》
服部静尚さん 「俾弥呼の鏡」
正木 裕さん  「邪馬壹(台)国の官名 ~俾弥呼は漢字を用いていた~」

《会場》アネックスパル法円坂(大阪市中央区法円坂1-1-35)

《参加費》無料

《主催》古田史学の会


第2746話 2022/05/26

上京区で「化学者が語る古代史」開催

 上京区千本五辻の喫茶店〝うらのつき〟さんで、「化学者が語る古代史」と銘打ってミニ講演会を行いました。数年前からお店のオーナーに要請されていたのですが、コロナ騒動が収まってきましたので、お引き受けしたものです。今春3月から毎月一回開催しています。
 今日のテーマは「教科書に書けない本当の古代史 『邪馬台国』の真実」です。古田先生の邪馬壹国博多湾岸説を紹介しました。後半は「業界の秘密 白色LED」と「CD開発の舞台裏」を話させていただきました。毎回、古代史(古田史学)と化学(お役立ち情報)をテーマにしています。
 おかげさまで毎回好評で、皆さん熱心にメモをとっておられました。なかには5月1日の『古代史の争点』出版記念講演会(「市民古代史の会・京都」主催)に行かれた熱心なリピーターもおられます。6月は今回の続編として「太平洋を渡った倭人」を予定しています。


第2745話 2022/04/21

多利思北孤の東征(東進)論と都城論

 本日はドーンセンターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月の関西例会は6月19日(日)に変更し、アネックスパル法円坂(大阪市中央区法円坂1-1-35)で開催します(参加費1,000円)。例会は午前中だけとなり、午後は『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)出版記念講演会(参加費無料)と「古田史学の会」会員総会を開催します。

 今回の例会では、大原さんや服部さんの発表を受けて、リモート参加された谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)も交え、『隋書』俀国伝の行程記事について活発な論争が続きました。これは九州王朝の太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)の複都制前史にも関わるテーマです。難波を多利思北孤の都とする野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の仮説を皮切りに、隋使(裴世清)が多利思北孤と難波で対面したという服部説、正木さんやわたしが発表してきた多利思北孤の東征(東進)説などの諸仮説が〝火花を散らしている〟状況です。実に関西例会らしい素晴らしい学問論争であり、この諸仮説群がどのように収斂していくのかを楽しみにしています。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化発展させますから。
 5月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔5月度関西例会の内容〕
①「オホゴホリ」は大宰府の旧名〈先回に頂いたご指摘について〉(東大阪市・萩野秀公)
②縄文語で解く神々 第一話 初めて生まれた神々(大阪市・西井健一郎)
③作られた乙巳の変と鎌足なる人物(大山崎町・大原重雄)
④日本書紀と扶桑略記の法興寺記事の核心部分は史実である(茨木市・満田正賢)
⑤石井公成氏の「古代史の争点」批判について(川西市・正木 裕)
⑥白村江戦前後の九州王朝(川西市・正木 裕)
⑦国書の紛失はなかった 小野妹子と難波で裴世清と会った多利思北孤(大山崎町・大原重雄)
⑧【速報】石井公成氏より反論をいただけました(八尾市・服部静尚)
⑨裴世清は難波で倭王と対面した(八尾市・服部静尚)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 06/19(日) 10:00~12:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市中央区法円坂1-1-35) ※午後は出版記念講演会と「古田史学の会」会員総会


第2744話 2022/05/19

久留米大学公開講座(6月26日)のレジュメ完成

 6月26日(日)の久留米大学公開講座のレジュメがようやく完成し、本日、大学事務局に提出しました。演題は〝筑紫なる倭京「太宰府」 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―〟です。この九州王朝(倭国)の両京制というテーマは近年ようやく到達できた仮説で、その最新研究を発表させていただきます。レジュメの冒頭と末尾を転載します。

【レジュメから一部転載】
筑紫なる倭京「太宰府」
 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―
      古賀達也(古田史学の会・代表)

1.はじめに

 九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代を『旧唐書』倭国伝・日本国伝では次のように記しており、その時期が八世紀初頭(701年・大宝元年)であることが古田武彦氏の研究により判明している。

 「日本国は倭国の別種なり。(略)或いは云う、日本は舊(もと)小国、倭国の地を併す。」
 「長安三年(703年)、その大臣、(粟田)朝臣真人が来りて方物を貢ず。」『旧唐書』日本国伝

 倭国は建国(天孫降臨)以来、北部九州(筑紫)を拠点として、五世紀(倭の五王時代)には関東までその領域を拡大したが、その都は一貫して筑紫(筑前・筑後)に置かれたと考えられてきた。七世紀前半には日本列島初の条坊都市(太宰府=倭京)を造営し、その地を都とした。そして、七世紀中頃には律令制による全国統治を開始し、新たな行政単位「評制」を施行したことが出土木簡や古代文献から判明している。
 評制による全国統治は、列島の中心部にあり、交運の要衝でもある難波京(前期難波宮)で始まったとされているが、そうであれば難波京は評制を採用した九州王朝の都ということになる。他方、前期難波宮を孝徳天皇の宮殿とする従来説(大和朝廷一元史観)においても、前期難波宮の規模と様式は近畿天皇家の王宮の発展史から逸脱したものとされ、創建年代は天武期ではないかと疑問視する論者もあった。

2.倭京(太宰府)と難波京(前期難波宮)
 〔略〕

3.権威の都(倭京)と権力の都(難波京)
 〔略〕

4.『万葉集』『養老律令』に見える両京制の痕跡

 九州王朝の両京制の痕跡は、大和朝廷への王朝交代後も、万葉歌に筑紫大宰府が「遠の朝廷」と歌われたり、『養老律令』に大和朝廷の神祇官に相当する「大宰の主神」という、他に見えない官職として遺されている。こうした史料状況は九州王朝の両京制という概念により説明可能である。今回の講演ではこうした両京制の痕跡について詳述し、九州王朝の都としての太宰府と難波京の姿をクローズアップする。


第2743話 2022/05/18

京都地名研究会誌『地名探究』20号の紹介

 本年1月に入会させていただいた京都地名研究会の会誌『地名探究』20号が届きましたので紹介します。同研究会の講演会については「洛中洛外日記」(注①)で紹介しましたが、『地名探究』20号は同会創立20周年記念特別号とのことで、A4版246頁の立派な装丁です。もちろん掲載論文も多種多様で、興味深く拝読しました。
 なかでも糸井通浩さんの論稿「『福知山』地名考 ―『国阿上人絵伝』の『福知山』をどうみる―」と「地名研究と枕詞 ―あるいは、地名『宇治』『木幡』考」は古田先生の言素論と共通するテーマも扱っており、すぐれた研究です。たとえば、糸井さんは「ち」について次のように解説されています。

〝「ちはやぶる(千早振る)」は、「ち」が霊力の意の語で「霊力のある、勢いの強い、勇猛な」を意味して、神や神に関わる言葉に掛かる枕詞としてよく知られているが(後略)〟「地名研究と枕詞 ―あるいは、地名『宇治』『木幡』考」、157頁

 「ち」が神を表す古い言葉であることは古田先生から教えていただいたことですが、それと共通する見解で、わたしも「古層の神名」などで論じたことがあります(注②)。
 言素論研究では文献史料の他に地名も有益な史料となりますので、地名研究は古代史研究とも密接に関わっています。この分野の知見を広めることができ、同研究会に入会してよかったと思います。なお、同会には他府県からも多くの方が入会されており、皆さんにもお勧めの研究会です。年会費は3,000円で、会誌(年刊)の他に会報『都藝泥布』(つぎふね。季刊)が発行されています。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2670話(2022/01/30)〝格助詞に着目した言素論の新展開〟
 同「洛中洛外日記」2673話(2022/02/02)〝言素論による富士山名考〟
②同「洛中洛外日記」40話(2005/10/29)〝古層の神名「ち」〟
 同「古層の神名」『古田史学会報』71号、2005年。
 同「洛中洛外日記」139話(2007/08/19)〝須知・和知・福知山〟
 同「『言素論』研究のすすめ」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。


第2742話 2022/05/17

高良大社研究の想い出 (3)

―玉垂媛神と倭王旨―

 『筑後国神名帳』に見える玉垂媛神を倭王旨ではないかと考えたことがありました。倭王旨とは、天理市の石上神社所蔵の七支刀銘文に見える倭王の名前(中国風一字名称)ですが、筑後(三潴)に君臨したこの倭王旨を女性ではないかとする仮説を初期の論文「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」などで発表しました(注①)。当該部分を要約して紹介します。

〝残された問題として、倭王旨は女性ではなかったかというテーマがある。その理由の一つは七支刀記事が『日本書紀』では神功皇后紀(神功五二年)に入れられていることだ。これは『日本書紀』編纂時に百済系史書にあった七支刀記事を単純に干支二巡繰り上げた結果とも考えられるが、七支刀贈呈時の倭王が女性であったため、神功皇后紀に入れられたのではないか。
 「高良の神は玉垂姫」という現地伝承の存在も無視できない。『筑後国神名帳』の「玉垂媛神」以外にも、『太宰管内志』に紹介された「袖下抄」に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」という記事もあるからだ。〟

 この論文は1999年に発表したものですが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は同趣旨の仮説を更に深化させた論を詳述されています(注②)。倭王旨女王説は有力ですが、他の可能性もあるのではないかと、わたしは考えています。というのも、筑後地方に色濃く遺る玉垂命信仰の淵源は縄文時代にまで遡るとする古田先生の考察があったからです。(つづく)

(注)
①古賀達也「高良玉垂命と七支刀」『古田史学会報』25号、1998年。
 同「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②正木裕「九州王朝の女王たち ―神功皇后一人にまとめられた卑弥呼・壱与・玉垂命―」『古田史学会報』112号、2012年。


第2741話 2022/05/16

高良大社研究の想い出 (2)

―『筑後国神名帳』の玉垂媛神―

 高良玉垂命関連ファイルを整理していたら、古賀壽(たもつ)先生(注①)からいただいた『筑後国神名帳』(注②)のコピーが出てきました。とても懐かしい史料で、高良大社で実物を見せていただいた記憶があります。そのとき古賀壽先生と議論になったことを思い出しました。それは玉垂命が男か女かを巡っての問答です。
 わたしは玉垂命を四世紀から六世紀にかけての九州王朝(倭国)の王の別名(襲名)と考えていましたので(注③)、男性と理解していました。ところがわたしの父(正敏)が、生前に「大善寺(玉垂命)の神様は女子(おなご)の神様と聞いちょるけどな」と話していたことが気になっていましたので、古賀壽先生にたずねたところ、『筑後国神名帳』に「玉垂媛」とあるとのことで、同高良大社本のコピーをいただきました。それによると、三潴郡の「正六位上四十四前」の段に「玉垂媛神」とあるのですが、「媛」の字が不鮮明で、見方によっては「髟」にも見えました。そこで、本当に「媛」なのでしょうかと確認したところ、古賀壽先生は「媛」の字に間違いないと断言されました。しかし、わたしは半信半疑のままで今日に至ったのでした。
 同コピーが見つかったのも何かの御縁と思い、改めて他の写本を調査しました。国会図書館本がデジタルアーカイブで閲覧できたので精査したところ、古賀壽先生のご意見通り「玉垂媛神」とありました。しかも、国会図書館本と高良大社本を比較したところ、「玉垂媛神」の次の行から高良大社本に欠落があることがわかりました。国会図書館本の三頁分ほどが欠帳していたのです。この史料状況から、国会図書館本と高良大社本は異系統の写本であることがわかり、国会図書館本には明確に「玉垂媛神」とあることから、高良大社本のやや不鮮明な「媛」の字も、「媛」としてよいようです。
 こうして、永年の疑問が氷解したのですが、それではこの「玉垂媛神」とは何者かという、新たな疑問が生じたのでした。(つづく)

(注)
①高良大社文化研究所元所長。
②『筑後国神名帳』高良大社所蔵本。10世紀に成立した『延喜式』に収録されている。
③古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。http://furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai4/tikugoko.html


第2740話 2022/05/14

高良大社研究の想い出 (1)

―古賀壽先生からの手紙―

 45年勤めた化学会社を定年退職し、二年が過ぎようとしています。なぜか定年後も会社時代の夢をみます。なかでも、化学プラントの合成反応が暴走し、制御に苦しむ夢をよく見ます。三十代のとき、深夜に停電が発生した記憶がトラウマになっているようです。
 その夜のことは今でもよく覚えています。仮眠をとっていたわたしは、「古賀さん大変です。停電です」の大声にたたき起こされました。事務管理棟の灯りはついているものの、工場用高圧電源が止まっており、緊急事態の発生でした。夜勤メンバーに対応を指示すると、わたしは懐中電灯を手に真っ暗闇の工場に飛び込みました。エレベーターが動かないので、最上階(4F)まで階段を駆け上り、作業者の安否を確認すると、停止した装置の分電盤を片っ端から開けて元スイッチを切り、加熱用蒸気バルブを手動で閉めました。そうしないと、電源が回復したとき一斉に反応器が動き出し、最悪の場合、化学反応が暴走するからです。
 過去に異常反応で有毒ガスが発生し、逃げ遅れた同期入社の社員が重体になったこともありましたので、化学知識はもとより、非常時での対応力が要求されました。とりわけ深夜勤務は作業員も少なく、責任者ともなれば片時も気を抜けませんでした。このような夢を見ることは、これからは減ることと思います。
 定年後の生活リズムになれてきましたので、古い資料を整理しています。先日、高良玉垂命関連ファイルを整理していたら、古賀壽(たもつ)先生(注①)からのお手紙や貴重な資料が出てきました。古賀壽先生は高良大社研究の碩学で、古田先生とも懇意にされていました。わたしが久留米出身で同姓ということもあってか、何かと親身になってご教示いただきました。高良大社所蔵の貴重な史料を見せていただいたり、コピーをいただくこともありました(注②)。最初にいただいたお手紙を紹介します。氏のお人柄がうかがえます。

〝拝復
 このたびは『古田史学会報』24~32号並びに『古代に真実を求めて』第一集を御恵与賜り、また御丁寧な御便りに接し、誠に有難く厚く御礼申し上げます。
 会報所載の御高論「玉垂命と九州王朝の都」「高良玉垂命と七支刀」「稲員家と三種の神宝」、いずれも興味深く拝読しました。
 私ごとを申し上げますと、私は大川市(旧三潴郡田口村)の出身で、作曲家古賀政男は従祖父に当たります。
 小学生の頃、社会科の授業で教わった大善寺(現久留米市)の御塚・権現塚古墳を一人で見学に行き、そのことを担任の先生から激賞されたことがきっかけで、この道に入りました。だから三潴町の御廟塚・烏帽子塚、大川市の酒見貝塚などは日参する勢いで歩き廻り、リンゴ箱五六個分の土器や石器を集めたものです。それから五十年、現在は二度目になりますが高良大社に奉職し、高良の神=高良玉垂命とは一体何者かを、真剣に考える毎日となり、早や十年を経ました。その私の見解は、社報「たまたれ」第13号に述べたとおりです。
 私の考古学・古代史学研究は、水沼君にはじまり、水沼君に終わるような気がしています。
 白状すれば、私は古田先生や皆様とは、対極にある者ですが、歴史の真実を見極めるためには、さまざまな異なる角度からの研究こそが必要と考えております。
 地元に在って皆様の御研究を拝見しますと、この件ならもっとよい資料があるのに、と思うことが再々です。特に高良山関係の資料は活字化が遅れています。幸い今なら(残り少ないのですが)高良大社に私が居りますので、御研究の便宜を図ることは、微力なりに出来ようかと思います。当社の資料で必要なものがあれば、極力貴意に添いたいと考えています。
 先ずは右、取急ぎ御礼傍々、
 2伸 八月の久留米シンポジウムには、事情が許せば是非参加したいと存じております。その折り拝眉できればと楽しみです。
 同封の小冊子御笑覧下さい。 拝具
 六月七日(注③)
         高良大社 古賀 壽
 古賀達也様
     硯机〟

 古賀壽先生は、学問的見解が〝対極〟にある古田先生やわたしたちに対しても、資料紹介の労を惜しまれなかった真の歴史学者であり、郷土の偉人でした。

(注)
①高良大社文化研究所元所長。高良玉垂命研究の第一人者で関連著書や論文は多数。
②古田武彦「高良山の『古系図』 ―「九州王朝の天子」との関連をめぐって―」(『古田史学会報』35号、1999年)に次の記事がある。
〝今年の九州研究旅行は、多大の収穫をもたらした。わたしの「倭国」(「俀〈たい〉国」、九州王朝)研究は、従来の認識を一段と深化し、大きく発展させられることとなったのである。まことに望外ともいうべき成果に恵まれたのだった。
 その一をなすもの、それが本稿で報告する、「明暦・文久本、古系図」に関する分析である。今回の研究調査中、高良大社の“生き字引き”ともいうべき碩学、古賀壽(たもつ)氏から、本会の古賀達也氏を通じて、当本はわたしのもとに托されたものである。〟
③平成七年(1995)。