第2820話 2022/08/29

「二倍年暦」研究の思い出 (8)

―周代史料、二倍年暦の論証《ケースA》―

 『論語』の二倍年暦説の論証的手法の一つとして、前話で紹介した《ケースA》の検討結果を詳述します。

《ケースA》『論語』が成立した周代の史料に二倍年暦が採用されており、その中で『論語』だけが一倍年暦とは言いがたい史料状況が確認できた場合。その場合でも『論語』だけは一倍年暦であると主張するのであれば、なぜ『論語』だけは別なのかという証明責任がそう主張する側に発生する。

 初期の二倍年暦研究「仏陀の二倍年暦」(注①)を発表した後、わたしは中国古典の本格的調査に入りました。既に古代中国の伝説の聖帝、堯・舜・禹の長寿記事が二倍年暦(二倍年齢)とする古田先生の指摘がありましたので、わたしは周代史料を中心に調査しました。そうして発表したのが「孔子の二倍年暦」(注②)でした。そこでは次の史料事実と論理展開を紹介しました。

(1) 春秋時代、管仲の作とされる『管子』は、次の長寿記事から二倍年暦で記されていると判断できる。
 「召忽曰く『百歳の後、わが君、世を卜る。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺を奪うや、天下を得といえども、われ生きざるなり』。」大匡編

(2) 『列子』の次の長寿記事も二倍年暦を採用していると判断できる。
 「人生れて日月を見ざる有り、襁褓を免れざる者あり。吾既に已に行年九十なり。是れ三楽なり。」天瑞第一第七章
 「林類年且に百歳ならんとす。」天瑞第一第八章
 「穆王幾に神人ならんや。能く當身の楽しみを窮むるも、猶ほ百年にして乃ち徂けり。世以て登假と為す。」周穆王第三第一章
 「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」周穆王第三第八章
 「太形(行)・王屋の二山は、方七百里、高さ萬仞。本冀州の南、河陽の北に在り。北山愚公といふ者あり。年且に九十ならんとす。」湯問第五第二章
 「百年にして死し、夭せず病まず。」湯問第五第五章
 「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」楊朱第七第二章
 「百年も猶ほ其の多きを厭ふ。況んや久しく生くることの苦しきをや、と。」楊朱第七第十章

(3) これらの結果、時代的に『管子』と『列子』の間に位置する『論語』も二倍年暦が採用されていると推察できる。

(4) また、『論語』爲政第二の孔子の生涯と類似する表現が『礼記』に見える。
 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」『礼記』曲礼上篇
 この記事は、人(官吏か)の生涯の一般論を述べたもので、たまたま超長生きした人の具体例ではない。この「人の生涯の一般論」か「たまたま超長生きした人の具体例」なのかは、史料に見える長寿年齢表記が二倍年暦の根拠として使用できるか否かの実証的方法論上の重要な視点だ。「たまたま超長生きした人の例ではないのか」という批判に対抗するために、わたしが二倍年暦表記であると論証する際に強く意識した問題であった。

(5) 周王朝の歴代天子の在位年数にもその痕跡がうかがわれ、「たまたま超長生きで在位年の長い天子がいた」とは考えにくい状況が見える。特に『穆天子伝』で有名な穆王は百歳を越えたと伝えられており(『史記』では、五十歳で即位し五五年間在位)、これは二倍年暦によると考えざるを得ない。たとえ一人でも二倍年暦と理解せざるを得ない周王がいる以上、その王朝では二倍年暦が採用されていたとするのが、史料理解の基本である(穆王だけが二倍年暦で記されていた、としたいのであれば、そう主張する側に論証責任が発生する。注③)。在位年数の長い王たちがこれだけいる以上、この史料事実を「誤記誤伝」や「学者によって異論が存在する」という解釈で否定するのは、学問の方法として不適切である。
 『東方年表』(平楽寺書店、藤島達朗・野上俊静編)によれば次の長期在位年数の周王がいる。
○成王(前1115~1079)在位37年
○昭王(前1052~1002)在位51年
○穆王(前1001~947)在位55年
○厲王(前878~828)在位51年
○宣王(前827~782)在位46年
○平王(前770~720)在位51年
○敬王(前519~476)在位44年
○顯王(前368~321)在位48年
○赧王(前314~256)在位59年

 以上のように、周代史料に百歳という長寿記事が頻出する史料状況から、周代では二倍年暦が採用され、その時代の寿命や年齢を記した史料は、後代の一倍年暦による換算を受けていない限り、基本的に二倍年暦で記述されていると見なさざるを得ません。従って、周代史料の『論語』も同列に捉えるのが無理のない解釈、すなわち論理的理解ではないでしょうか(注④)。(つづく)

(注)
①古賀達也「仏陀の二倍年暦」『古田史学会報』51、52号。2002年。
②古賀達也「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号。2002年。
③中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」では古代王朝の〝年代断定〟がなされ、穆王の没年齢を75歳と〝認定〟したとのことだが、「夏商周断代工程」には異論が出されている。このことについては「洛中洛外日記」2260話(2020/10/13)〝古田武彦先生の遺訓(4) プロジェクト「夏商周断代工程」への批判〟で指摘してきたところだが、別途詳述したい。
④古賀達也「『論語』二倍年暦の史料根拠」(『古田史学会報』150号、2019年)にて詳述した。


第2819話 2022/08/28

「二倍年暦」研究の思い出 (7)

―『論語』二倍年暦説の論証方法―

 『論語』の二倍年暦研究において、年齢記事の解釈を中心とした実証的手法から、ある史料事実が論理的に二倍年暦説でしか説明できないとする論証的手法へと進むために、どのような方法論があるのかをわたしは考えてきました。その結果、次のようなケースで二倍年暦存在の論証が成立するのではないかと考えました。

《ケースA》『論語』が成立した周代の史料に二倍年暦が採用されており、その中で『論語』だけが一倍年暦とは言いがたい史料状況が確認できた場合。その場合でも『論語』だけは一倍年暦であると主張するのであれば、なぜ『論語』だけは別なのかという証明責任がそう主張する側に発生する。

《ケースB》更に時代と史料を絞り込み、孔子の弟子の史料に二倍年暦が確認できる場合。孔子とその弟子らは同じ暦法(年齢計算方法)に基づいて会話していたはず。そうでなければ、寿命や年齢に関する師と弟子の対話が成立しない。

《ケースC》二倍年暦で書かれた周代史料と、そのことについて後代に一倍年暦に換算された史料状況がある場合。

《ケースD》周代の二倍年暦(二倍年齢)記事と、漢代の一倍年暦(一倍年齢)時代の記事とで、ちょうど二倍の年齢差が発生した史料痕跡がある場合。寿命や年齢が半減するため、そのことによる影響が漢代史料に遺る可能性がある。

 以上の四つのケースにおいては〝水掛け論〟を超える論証が成立すると考え、史料調査を実施しました。その結果、これら全てのケースが存在し、論証が成立することを論文発表しました。それらを具体的に紹介することにします。(つづく)


第2818話 2022/08/27

「二倍年暦」研究の思い出 (6)

―〝解釈論〟を超えた論証の成立―

 仏典に散見する百歳や百二十歳などの長寿記事が、釈迦の時代に二倍年暦が採用されていたことの実証的根拠として有力だとわたしは考えますが、他方、史料事実を歴史事実と見なし、そうした高齢者群が釈迦の時代に少なからず実在したと考える「実証史学」に立つ論者もあるかもしれません。
 わたしが古田先生から学んだ文献史学やフィロロギー(文献学)では、史料事実が歴史事実かどうかをまず検証(史料批判)しますから、今回のケースでは仏典の長寿記事を、荒唐無稽なものか、史実の反映なのか、二倍年暦の痕跡なのかなどの考察や検証作業を最初に行います。その結果、釈迦は二倍年暦の世界・時代に生きたとわたしは判断したわけです。しかし、「実証史学」の論者を説得するためには〝水掛け論〟とならないような論証が必要と考え、その研究を続けました。その結果、南伝仏教と北伝仏教が伝える釈迦没後の年数差が二倍年暦と一倍年暦に基づく差であることに気づき、二倍年暦での伝承があったことの証明に成功しました。その概要は次の通りです(注①)。

〝仏教史研究において、仏陀の生没年は大別して有力な二説が存在している。一つは仏陀の生涯を西紀前五六三~四八三年とする説で、J.Fleet(1906,1909),W.Geiger(1912),T.W.Rhys(1922)などの諸学者が採用している。もう一つは西紀前四六三~三八三年とするもので、中村元氏による説だ。他にも若干異なる説もあるが、有力説としてはこの二説といっても大過あるまい(注②)。
 前者は南方セイロンの伝承にもとづくもので、アショーカ王の即位灌頂元年を西紀前二六六年と推定し、その年と仏滅の年との間を南方の伝説により二一八年とし、仏滅年次を前四八三年と定めたものだ(注③)。
 後者はギリシア研究により明らかにされたアショーカ王の即位灌頂の年を前二六八年とし、仏滅の一一六年後にアショーカ王が即位したという『十八部論』などに記された説に基づき、仏滅年次を三八三年としたものである(注④)。
 すなわち、仏滅の約二百年後にアショーカ王が即位したとする南方系所伝(セイロン)と約百年後とする北方系所伝(インド・中国)により、二つの説が発生しているのだ。この現象はセイロンなど南方系所伝が二倍年暦で伝えられ、北方系所伝が一倍年暦により伝えられたため生じたと理解する以外にない。このように、仏滅年次の二説存在もまた二倍年暦の痕跡を指し示しているのである。
 ちなみに、古代ローマの政治家・博物学者である大プリニウス(二三~七九年)は、最長寿の人間はセイロン島に住み、その平均寿命は百余歳だとしていることから、一世紀に於いてもセイロン島では二倍年暦による年齢表記がなされていたことがうかがえる。従って、セイロンでは仏滅やアショーカ王即位年などが二倍年暦で伝承されてきたこともうなづけるのである。
 結論として、仏滅の実年代は中村元氏による西紀前三八三年とするべきであるが、生年はそれから八十年を遡った前四六三年ではなく、四十年前の前四二三年となること、仏陀の没年齢も二倍年暦による八十歳であることから明らかであろう。この二倍年暦の史料批判による仏陀の生没年「西紀前四二三~三八三年」説をここに新たに提起したい。〟古賀達也「仏陀生没年の二説存在」(注①)

 この論証の成立により、二倍年暦説の証明には「実証史学」とは異なる「論証史学」がより有効であると自信を深めました。そして『論語』の二倍年暦の証明にもこの方法を採用することにしました。
 なお、学問における実証と論証の関係性については次の二稿をご参照ください。

○古賀達也「学問は実証よりも論証を重んじる」『古田史学会報』127号、2015年。『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集、古田史学の会編、明石書店、2016年)に転載。
○茂山憲史「『実証』と『論証』について」『古田史学会報』147号、2018年。

 今になって思うのですが、『論語』の二倍年暦研究において、年齢記事の抽出とその解釈を中心としたわたしの実証的手法に対して、用語の悉皆調査による論証へと向かうよう、古田先生は遺訓として言い渡されたのかもしれません。(つづく)

(注)
①古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集、新泉社、2004年。
②三枝充悳・他校注『長阿含経I 』解題による。大蔵出版、1993年。
③この二説の他にも西紀前六二四~五四四年とする説もあるが、これは十一世紀中葉を遡ることができない新しい伝承に基づくものであり、学問的には問題が多いとされる。
④中村元『釈尊伝ゴータマ・ブッダ』法蔵館、1994年。


第2817話 2022/08/26

「二倍年暦」研究の思い出 (5)

―〝解釈論〟を超えるための実証の試み―

 大越邦生さんや高田かつ子さんが指摘された『論語』陽貨第十七の次の年齢記事を二倍年暦(二倍年齢)とする見解にわたしも賛成です。

 「子曰く、年四十にして悪(にく)まるれば、其れ終らんのみと。」
 「子生まれて三年、然(しか)る後に父母の懐を免(まぬが)る。夫(そ)れ三年の喪は、天下の通葬なり。予(よ)や其の父母に三年の愛有るかと。」『論語』陽貨第十七

 しかし、通説支持者からの〝一倍年暦による解釈も可能であり、これらの記事を根拠に『論語』が二倍年暦で記されているとする論証は成立していない〟との批判を避けられません。すなわち、史料事実に基づく実証力が、こられのケースでは十分ではないと認めざるを得ないのです。たとえば『論語』に百歳とか百二十歳とかの年齢記事が少なからずあれば、その年齢を古代中国(周代)の一倍年暦による実年齢とはさすがに言いにくく、その場合は二倍年暦を証明する実証力を有していると見なせます。先に紹介した『礼記』曲礼上(注①)に見える次の「百歳」記事であれば、通説との比較において相対的実証力を有します。

 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」『礼記』曲礼上

 このような史料根拠に基づく実証による仮説は、ケースによっては互いが主張する相対的実証力による〝水掛け論〟になる学問上の危うさがあるため、わたしは史料根拠に基づく、より有力な実証に注力してきました。一例をあげれば、『論語』に先立って行った仏典の二倍年暦研究です(注②)。

 「我れ今、世に出づるに、人寿の百歳は、出でたるが少なく、減ずるが多し。」『長阿含経』巻第一、第一分初、大本経第一。
 「ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。」中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、1999年版。

 これらの仏典には、釈迦の時代における一般的な人の寿命についての釈迦の認識(百歳以上は少なく、それ以下が多い)が示されています。ここで重要なことは、特別に長生きした人についてではなく、当時の一般的な人の寿命についての釈迦の認識が語られていることです。次に、具体的な人物の長寿記事についての釈迦の言葉を紹介します。

 「是の時、拘尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋と曰う。年は百二十、耆旧(きぐ)にして多智なり。」『長阿含経』巻第四、第一分、遊行経第二。
 「昔、此の斯波醯(しばけい)の村に一の梵志有りき。耆旧・長宿にして年は百二十なり。」『長阿含経』巻第七、第二分、弊宿経第三。
 (師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥儀に達している。」中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、1999年版。

 初めの記事は仏弟子、須跋(すばつ スバッダ)の寿命(百二十歳)についてのものです。後の記事も百二十歳の老人(耆旧 きぐ)に関するもので、これらも二倍年暦で理解すべき年齢であることから(一倍年暦の六十歳に相当)、『長阿含経』や『スッタニパータ』などは二倍年暦で記述されていると判断せざるを得ません。これらは史料事実に基づく実証として、かなり有力なケースです。
 しかし、二倍年暦の概念を持たない、あるいは二倍年暦を否定する「実証史学」の論者は〝これらの史料事実から、釈迦の時代のインドには百二十歳の人がいたと考えてもよい。そのことが実証的に示されている。〟と主張するかもしれません。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2816話(2022/08/25)〝「二倍年暦」研究の思い出(4) ―大越邦生さんと高田かつ子さんの着眼点―〟
 古賀達也「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
 同「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集、新泉社、2004年。
②古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集、新泉社、2004年。


第2816話 2022/08/25

「二倍年暦」研究の思い出 (4)

―大越邦生さんと高田かつ子さんの着眼点―

 古田先生やわたしは、『論語』の二倍年暦説の根拠として「子罕第九」にある次の記事を指摘しました(注①)。

 「子曰く、後生畏る可(べ)し。いづくんぞ来者の今に如(し)かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯(こ)れ亦畏るるに足らざるのみ。」『論語』子罕第九

 他方、大越邦生さんの論文「中国古典・史書にみる長寿年齢」(注②)では、『論語』陽貨第十七の次の記事に着目されました。

 「子曰く、年四十にして悪(にく)まるれば、其れ終らんのみと。」『論語』陽貨第十七

 孔子が弟子たちに「四十歳くらいにしっかりしていないと、一生涯とんでもないことになる」と告げているわけですが、この言葉に対して、大越さんは、「孔子はこの教えを何歳の弟子に語りかけているのであろうかと」と問いかけ、次の理解に至ったと指摘しています。

 「孔子の言葉は常に時代を超えた普遍性を備えている。珠玉の言葉は弟子達を感動させ、それを弟子達が『論語』という形で後世に伝えたのだ。どのようにでも解釈できるという曖昧さは、孔子の教えになじまない。(中略)私には三十歳よりも、より若年層に対する孔子の教訓に思える。
 これが二倍年暦だったとしよう。孔子が二十歳以前の弟子に「二十歳になって一目おかれるようになっていなければ、一生涯うだつが上がらない」というならわかりやすい。私たちにとっても、二十歳は「成人」という人生の節目、一大転機となっている。そうした概念のなかった時代、透徹した目で「未成年が成人になる」時期を洞察した、孔子らしい教訓だったのではないだろうか。こうした年齢記述に、二倍年暦の可能性があることを指摘しておきたい。」257~528頁

 この指摘は教育に携わってきた大越さんらしい着眼点ではないでしょうか。この理解を指示する史料として『礼記』があります。同書「曲礼上」に、四十歳を「強」といい、世に出て仕え働く年齢とあります。この四十歳も『論語』と同様に周代における二倍年暦表記であり、現在の二十歳のことに他ならないと考えています(注③)。

 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」『礼記』曲礼上

 『論語』が二倍年暦で書かれているとする高田かつ子さん(注④)の見解も紹介します。わたしが『論語』の二倍年暦説を発表したとき、高田さんから陽貨第十七の次の記事も二倍年暦ではないかと教えていただきました。

 「子生まれて三年、然(しか)る後に父母の懐を免(まぬが)る。夫(そ)れ三年の喪は、天下の通葬なり。予(よ)や其の父母に三年の愛有るかと。」『論語』陽貨第十七

 この記事の「子生まれて三年、然る後に父母の懐を免る。」を、子供が両親の懐から離れる年齢を一倍年暦の三歳とするのでは遅すぎ、半分の一歳半なら妥当と高田さんは言われたのです。こうした視点は女性ならではと思いました。ちなみに、わたしの娘の場合、母子手帳に妻が書き留めた成長記録によれば、生後十一ヶ月でよちよちと歩き始め、一歳四ヶ月で童謡〝はとぽっぽ〟を歌い、二歳でひらがなの本を読み、三歳で簡単な足し算引き算ができるようになったとあります。個人差もあり、周代の中国と現代日本の赤ちゃんの成長を同列に扱うことはできませんが、それでも高田さんの見解は穏当と思われます。

 高田かつ子さんとは「市民の古代研究会」時代からのお付き合いで、ある意味で「古田史学の会」の〝生みの親〟でもありました。和田家文書偽作キャンペーンと軌を一にして、「市民の古代研究会」の中で〝古田離れ〟を画策する反古田の人々が理事会の多数派を占め、古田先生と古田史学を支持する事務局長のわたしを解任しようとしていたとき、一貫してわたしを支持してくれたのが高田かつ子さん(当時、「市民の古代研究会・関東支部」の代表)だったのです。1994年4月11日の夜、高田さんから送られてきた次のファックスにより、わたしは「古田史学の会」の創立を決意したのでした(注⑤)。

 「古賀さん、もう市民の古代研究会はだめですね。古賀さんがいくら頑張っても、あなたの提案したすべてに秦氏が合意したといっても、秦氏に牛耳られている現状を目にしてきてそう思いました。(中略)なまじ古賀さん達が残っていれば、先生も講演会に出かけられて、客寄せパンダの役割を果たさせられるのですから。古田史学の元に集まった会員に対しても詐欺行為です。ひどい言葉を使ってごめんなさい。先生の話しを聞こうともしない人達に利用されるだけの先生のことを考えると胸がつぶれる思いです。」(注⑥)

 この高田さんの言葉により、わたしは「市民の古代研究会」と決別する覚悟を決め、翌4月12日に「古田史学の会」は誕生しました。その日、行動を共にしてくれた会員は6名でした。(つづく)

(注)
①古田武彦「日本の生きた歴史(二十三)」『古代史をひらく 独創の13の扉』ミネルヴァ書房、2015年。
 古賀達也「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
 同「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集、新泉社、2004年。
②大越邦生「中国古典・史書にみる長寿年齢」『古代史をひらく 独創の13の扉』古田武彦著、ミネルヴァ書房、2015年。
③古賀達也「『論語』二倍年暦説の史料根拠」『古田史学会報』150号、2019年。
④多元的古代研究会前会長、故人、2005年5月7日没。高田さんが亡くなる二日前の言葉がある。「古田先生より先には死ねない。まだ死んでいる場合ではないんだ。きっと先生が亡くなった後はみんなが我が物顔に先生の説を横取りしてとなえ始める人が出できて大変だろうから、その時には私が証人にならなければ。」村本寿子さん談。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」651話(2014/01/26)〝「古田史学の会」誕生前夜〟
⑥高田かつ子「―個人的な感想(古賀事務局長への書簡)― 最後の理事会に出席して」『発足協議会より報告』市民の古代研究会・関東の会(仮称)、1994年5月10日。


第2815話 2022/08/24

「二倍年暦」研究の思い出 (3)

―古田先生の学問の方法「悉皆調査」―

 古田先生からは、学問の方法や倫理について特に厳しくご指導いただきました。学問の方法が間違っていれば、その結論も間違ってしまうため、「わたしの学問の方法とは違います」と厳しく叱責された門下生はわたし一人ではないはずです。『論語』の二倍年暦研究においても同様でした。先生が『三国志』倭人伝研究で「壹」と「臺」の悉皆調査を行ったように、『論語』でも同様の作業(注①)を行うように要請されました。
 当時、仕事で忙しかったこともあるのですが、『論語』の二倍年暦の証明には、そうした悉皆調査はあまり有効ではないのではないかと、わたしが感じていたことも取り組まなかった理由の一つでした。更に言えば、中国古典の用語の正確な意味や使われ方の調査など、理系(有機合成化学専攻)のわたしの学力が及ぶところではなく、その不得手な方法では先生の期待に応えることができないと感じてもいました。
 そもそも、『論語』には年齢や寿命記事は少なく、通説のように一倍年暦による解釈も不可能ではありません。実際、今日までそのように理解されてきました。従って、二倍年暦での解釈の方が合理的と説明しても、通説支持者から「どうとでも言える」という〝解釈論争〟や〝水掛け論〟に持ち込まれるのではないかと危惧していました。
 『論語』の二倍年暦説を提起した拙論では、その最大の根拠を「子罕第九」にある次の記事に求めました。この点、古田先生も同様の認識を示されています(注②)。

 「子曰く、後生畏る可(べ)し。いづくんぞ来者の今に如(し)かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯(こ)れ亦畏るるに足らざるのみ。」『論語』子罕第九

 「後生畏るべし」の出典として有名な孔子の言葉で、意味するところは、四十歳五十歳になっても有名になれなければ、たいした人間ではなく畏れることはない、というものです。しかし、これは当時(紀元前六~五世紀頃。通説による)としては大変奇妙な発言です。『三国志』の時代(三世紀)でも、『三国志』に記されている寿命の平均年齢は五十歳ほどで、多くは四十代頃で亡くなっています。それより七百年前の中国人の寿命が更に短かいことはあっても、長いとは考えにくく、従って、孔子のこの発言が一倍年暦であれば、多くの人が物故する年代(四十歳五十歳)で有名になっていなければ畏れるに足らないという主張はナンセンスです。それでは遅すぎます。しかし、これが二倍年暦であれば二十~二十五歳ということになり、「若者」が頭角を現し、世に知られ始める年齢として自然な主張となります。従って、孔子の時代は二倍年暦が使用されていたと考えざるを得ない根拠として、わたしはこの記事を取り上げました(注③)。
 古田先生の著書『古代史をひらく 独創の13の扉』(ミネルヴァ書房版、2015年)に収録された大越邦生さんの論文「中国古典・史書にみる長寿年齢」(注④)では別の記事も取り上げ、それが二倍年暦の可能性があると説明されています。(つづく)

(注)
①『論語』爲政第二に見える「「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。」の記事の用語の悉皆調査。たとえば「志学」や「立」「不惑」「知天命」「耳順」「矩」等の用語がどの実年齢に相応しいのか調査するよう要請された。
②古田武彦「日本の生きた歴史(二十三)」『古代史をひらく 独創の13の扉』ミネルヴァ書房、2015年。
③古賀達也「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
 同「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集、新泉社、2004年。
④大越邦生「中国古典・史書にみる長寿年齢」『古代史をひらく 独創の13の扉』古田武彦著、ミネルヴァ書房、2015年。


第2814話 2022/08/23

「二倍年暦」研究の思い出 (2)

―古田先生から託された仕事と遺訓―

 わたしが『論語』が二倍年暦で書かれているとする論稿(注①)を発表したとき、古田先生からも賛成していただいたのですが、『論語』の年齢記事に用いられている用語の悉皆調査を行い、より確実な論証とするようにとのアドバイスをいただきました。そして、そのことを一冊の本にするようにと何度となくいわれました(注②)。たとえば、平成二二年(2010)「八王子セミナー」で古田先生は次のように発言されています。

〝二倍年暦の問題は残されたテーマです。古賀達也さんに依頼しているのですが、(中略)それで『論語』について解釈すれば、三十でよいか、他のものはどうか、それを一語一語、確認を取っていく。その本を一冊作ってくださいと、五、六年前から古賀さんに会えば言っているのですが、彼も会社の方が忙しくて、あれだけの能力があると使い勝手がよいのでしょう、組合の委員長をしたり、忙しくてしようがないわけです。〟(注③)

 わたしに先生の期待に応えられるだけの能力があったとは思っていませんが、最晩年にあたる2014年6月にも次のように著書で述べられています。

〝このテーマは、すでに古賀達也さんが書かれましたが、重大なテーマなので、関連の事例を、論語以外の、他の中国古典の各個所において確認してほしい、と古賀さんにお願いしていたのですが、繁忙のため果せず、今日に至っていたのです。このテーマに改めて取り組まれたのが、今回の大越論文(注④)だったのです。
 この大越論文では、最初には「二倍年暦」の概念を、論語理解にもちこむことに“慎重な姿勢”を採りながら、史記や五経等の「年齢記述」を列挙してゆく中で、やはりこの「二倍年暦」の存在を“認めざるをえない”という帰結を明らかにしています。穏当な到着点です。この立場から見れば、先述の「古賀提言」のテーマがやはり「再浮上」してこざるをえないのではないでしょうか。〟(注⑤)

 古田先生が述べられているように、二倍年暦で『論語』が書かれていることの証明のため、用語の悉皆調査をするようお電話で度々要請を受けました。しかし、当時は円高とリーマンショックによる不況の真っ只中にあり、わたしの勤務先も危機的な状況に置かれていました。わたしは担当事業部門の販売計画・開発・マーケティングを任されていたため、体力的にも精神的にも極限状態が何年も続き、古代史研究に多くの時間を割くことができませんでした。そのため、先生からの要請に対しても明確な返答をできずにいたところ、業を煮やした先生は、ある日、拙宅まで『十三経索引』全巻を持参され、これを貸すから調査するようにと言われました。そこで、わたしは会社の状況と、今はできないことを説明しました。31歳で古田史学に入門して以来、古田先生からのご指示は絶対と思ってきただけに、お断りするのはとても辛いことでした。
 その後、しばらくしてこの悉皆調査を大越邦生さんに依頼されたと古田先生からお聞きしましたが、大越さんが海外赴任(メキシコの在留日本人の小学校校長)となり、この件が宙に浮いてしまいました。そうしたこともあり、心苦しく思っていたのですが、大越さんが赴任中にその調査を進められ、その論文が先生の著書に収録されました。そのことを知り、わたしは少しだけ救われたような気持ちになりました。(つづく)

(注)
①古賀達也「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
 同「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集、新泉社、2004年。
②古賀達也「洛中洛外日記」389話(2012/02/26)〝パソコンがクラッシュ〟に次のように記している。
 「ミネルヴァ書房より(中略)発行予定の二倍年暦の本ですが、古田先生と相談の結果、私の論文と大越邦生さんが現在書かれている論文とで構成することになっています。まだ具体的な書名や発刊時期は決まっていませんが、古典に記された古代人の長寿の謎に、二倍年暦という視点で解明したものとなるでしょう。こちらも『「九州年号」の研究』同様に後世に残る一冊になればと願っています。」
③『古田武彦が語る多元史観』66~67頁(ミネルヴァ書房、2014年)
④大越邦生「中国古典・史書にみる長寿年齢」『古代史をひらく 独創の13の扉』古田武彦著、ミネルヴァ書房、2015年。
⑤古田武彦「日本の生きた歴史(二十三)」『古代史をひらく 独創の13の扉』ミネルヴァ書房、2015年。


第2813話 2022/08/22

「二倍年暦」研究の思い出 (1)

―「二倍年暦」研究の発端と展開―

 わたしが二倍年暦の研究に本格的に取り組んだのは2001年頃からでした。その発端は、仏典中に超高齢者が少なからず見えることに気づいたことです。そして研究対象は中国や西洋の古典に広がりました(注)。その研究成果を「古田史学の会」関西例会で発表し、2002年からは『古田史学会報』での論文発表へと続きました。そして、「古田史学の会」では会員による「二倍年暦」の研究発表も活発となり、2002年から2004年だけでも管見では次の論稿が発表されました。

○和田高明「『三国史記』の二倍年暦を探る」『新・古代学』第6集、2002年、新泉社。
○古賀達也「仏陀の二倍年暦(前編)」『古田史学会報』51号、2002年。
○西村秀己「盤古の二倍年暦」『古田史学会報』51号、2002年。
○古賀達也「仏陀の二倍年暦(後編)」『古田史学会報』52号、2002年。
○古賀達也「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
○冨川ケイ子「エジプト年暦と兄ウカシ弟ウカシ」『古田史学会報』53号、2002年。
○森 茂夫「浦島太郎の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
○古賀達也「ソクラテスの二倍年暦」『古田史学会報』54号、2003年。
○安藤哲朗「『高僧伝』における寿命記事」『古田史学会報』56号、2003年。
○古賀達也「荘子の二倍年暦」『古田史学会報』58号、2003年。
○古賀達也「『曾子』『荀子』の二倍年暦」『古田史学会報』59号、2003年。
○古賀達也「アイヌの二倍年暦」『古田史学会報』60号、2004年。
○澤井良介「『二倍年暦』に関する一考察」『古田史学会報』60号、2004年。
○肥沼孝治「古代戸籍の二倍年暦」『古田史学会報』60号、2004年。

 この当時の「二倍年暦」研究は、史料に見える高齢記事や、一年を2シーズンに分ける暦表記の探索が中心でした。(つづく)

(注)当時、わたしが研究対象とした古典は次のようなものであった。『長阿含経』『妙法蓮華経』『スッタニパータ』、ホメロス『オデュッセイア』、ヘロドトス『歴史』、『旧約聖書』、プラトン『国家』、アリストテレス『弁術論』、セネカ『人生の短さについて』、キケロー『老年について』、ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』、アリストテレス『弁術論』、マネトー『エジプト史』、『論語』、『孟子』、『列子』、『管子』、『荘子』、『曾子』、『荀子』、『春秋左氏伝』、菅江真澄『えぞのてぶり』、新井白石『蝦夷志』など。


第2812話 2022/08/21

九州年号「白鳳十二(三カ)年 輝月妙鏡律尼」石碑

 おそらくは後代成立と思われる「白鳳十二(三カ)年」の九州年号を持つ石碑を紹介します。「洛中洛外日記」816話(2014/11/02)〝後代「九州年号」金石文の紹介〟で触れましたが、愛媛県越智郡朝倉村(現、今治市)にある「樹の本古墳」(円墳か)の墳頂に江戸時代作製と見られる石碑があり、これが白鳳時代開基とされる浄禄寺の輝月妙鏡律尼の没年を記した石碑で、九州年号「白鳳」が記されています。
 十年ほど前に合田洋一さんのご案内で現地を訪問し、この石碑を実見したところ、「白鳳十二年七月十五日」と没年月日が彫られていました。年号だけで干支はなく、その風化状態から判断して、後代成立と思います。当地の『朝倉村誌』(注①)には輝月妙鏡律尼の没年を「白鳳十三年七月十五日」と紹介していますので、わたしの見間違いかもしれず、再確認の必要があります。輝月妙鏡律尼のことは白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)が「斉明天皇と『狂心の渠』」(注②)で紹介していますので、ご参照ください。後代成立とはいえ、「九州年号」金石文は希少です。

(注)
①『朝倉村誌』1986年。
②白石恭子「斉明天皇と『狂心の渠』」『古田史学会報』164号、2021年。『朝倉村誌』から次の記事を引用している。
 「人皇三十八代斉明天皇、当国の当所御下向の時(西暦六六一年)浅地に車無寺を建立し、その末寺尼坊として、朝倉下村原見の下より岡の保田の下通りの水無之所に、小千玉興の助力によって建立し、樹之本山浄禄寺といい、本尊は阿弥陀如来、後には薬師如来を生木に彫刻し、併せて本尊とする。この浄禄寺尼坊の住持が、車無寺の無量上人の弟子である輝月妙鏡律尼であった。この尼は原見の下に井出二筋を掘り、水を渡して、この水で山口村下まで、田地を開き、作物よくみのり、二筋の井手の間へ家多く立って、在家の者が栄えた。それでこの所を尼ヶ井手と言い伝えた。また浄禄寺本尊である、生木の薬師如来の仏徳によって、祭礼や祝儀の時は、前日に家具を、この本尊に頼みおくと、入用の品物を必要な数だけそろえてくださるので、附近の村人は大変ありがたく、その恩恵に浴していた。(中略)この生木の薬師如来は六八四年(天武天皇白鳳十三年)の大地震によって枯れ、白鳳十三年七月十五日をもって尼僧輝月妙鏡律尼も遷化した。」


第2811話 2022/08/18

九州年号金石文「朱鳥三年 鬼室王女」石碑

 将来の九州王朝や九州年号研究者のための資料作成を続けてきました。一応、知見の範囲の資料が完成しましたので、過日の多元的古代研究会リモート勉強会や、わたしが主宰している「古田史学リモート勉強会」で紹介させていただきました。しかし、未検討の九州年号金石文が残っていることに気づきましたので、逐次追加しています。
 その追加資料の一つが、「朱鳥三年 鬼室王女」石碑です。数少ない同時代九州年号金石文である「朱鳥三年 鬼室集斯」墓碑はこれまでも度々紹介してきましたが(注①)、百済人官人として近江朝に仕えた鬼室集斯の娘の石碑が滋賀県蒲生郡の山中にあるという記事や伝承が平野雅曠さん(古田史学の会・会員、故人、熊本市)から報告されています。それは「市民の古代研究会」の研究紙(隔月刊)『市民の古代研究』21号に発表された論稿「鬼室集斯の墓」(注②)です。それによれば、次の銘文を持つ石碑が蒲生郡の山中にあるという記事を紹介されています。

 「朱鳥三年戊子三月十七日
  鬼室王女 施主国房敬白」

 平野稿より関係部分を転載します。

【以下、転載】
 今は廃刊になっているが、『日本のなかの朝鮮文化』一九七〇年第八号に、「日野の小野」と題する鄭貴文氏の随筆が出ている。
 (抜粋)
 ……ところで綿向山であるが、その境の山深くに鬼室集斯の娘の石碑があった。「墳墓考」に、「蒲生郡日野より東の方三里ばかりの山中に、古びた石碑あり、正面に鬼室王女、その下に施主国房敬白、右の傍に朱鳥三年戊子三月十七日と彫りたるがあり。」とある。
 続いて、(要旨)………
「集斯が近江に来た頃、娘は十七才位だったらしい。四十才に近かった集斯は大学寮の長官になり、娘を秘書役として補佐させた。
 二年余りの頃、役所の少壮学士と恋愛問題が噂され、父の耳に入った。父は娘を厳しく戒めると共に解雇した。
 鬼室集斯は、白村江敗戦の百済王族の出身であり、娘の相手は、敵に当たる新羅の出でもあったからであろう。
 鬼室王女のことは、それからの消息がと切れている。そして忽然としてあるとき、日野川上流の熊野に現れる。ある日百姓の若者が吊り橋を渡ろうとしたところ、その吊り橋が真中から切れていた。その垂れ下がった片方に、えもいわれぬ美しい女が、ぶら下がったまま眠り込んでいるのを見た。若者は助ける。その若者が実は都で噂のあったあの少壮学士だったという。
 二人は百姓をしながら幸せに暮らしたが、やがて父の鬼室集斯の追手に知られてしまう。王女は逃れて竜王山に深く入り、五大の滝に立った。現在石碑の建っているところは、この滝からさらに登った台地にあった。すると飛瀑の中の王女は、三日三晩目に黒髪が白髪となっていた。それを見定めた追手は引揚げた。ところが、おさまらないのは若者の夫で、妻をもとの姿にかえそうとして禁を破ってしまった。若者はそれが祟って悶絶して死んだ。王女はしかし、白髪をそりおとすと、若い尼僧になっていた。死んだ夫の供養のため仏門に入り、後年蒲生郡の平林で入寂した。平林から近いあの石塔寺は、王女を慕った百済系の氏族が、王女の菩提寺として建てたものだろう、という。
 竜王山にある鬼室王女の石碑には、『朱鳥三年戊子三月十七日』と彫ってあるから、父の鬼室集斯が死ぬ七ヶ月前である。四十七、八才くらいで亡くなったらしい。」(後略)

 この印象に残る秘話がどのように伝承されてきたのか、鬼室王女の石碑がどこにあるのか、わたしはこれまで三回ほど現地調査に赴きましたが、未発見のままです。もし実見できれば、同時代九州年号金石文かどうかの調査を行いたいと願っています。

(注)
①古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『古代に真実を求めて』第二集(明石書店、1998年)。後に『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)収録。
 同「洛中洛外日記」2090~2105話(2020/02/25~03/07)〝三十年ぶりの鬼室神社訪問(1)~(10)〟
 同「九州年号『朱鳥』金石文の真偽論―三十年ぶりの鬼室神社訪問―」『九州倭国通信』199号、2020年。
②平野雅曠「鬼室集斯の墓」『市民の古代研究』21号、1987年。


第2810話 2022/08/17

『古田史学会報』171号の紹介

 『古田史学会報』171号が発行されました。一面には正木裕さんの〝「室見川の銘版」と倭王の陵墓・祭殿〟が掲載されました。古田先生が『ここに古代王朝ありき』(注)で初めて学界にその重要性を提起した「室見川の銘版」ですが、古田先生に次いで本格的な銘文の史料批判を試みたのがこの正木稿です。倭国(九州王朝)の墓誌(棟札)研究の起点にもなり得る優れた研究ではないでしょうか。
拙稿〝初めての鬼ノ城探訪 ―多元的「鬼ノ城」研究序論―〟を掲載していただきました。これは本年五月に初めて訪れた鬼ノ城の調査報告書を九州王朝説の視点から検討したものです。まだ、初歩的な研究ですので、これからも鬼ノ城を注視していきたいと思います。

 服部さんの論稿〝二倍年暦・二倍年齢の一考察〟は、『論語』など周代史料が二倍年暦(二倍年齢)で書かれているとするわたしの研究への疑問点を提示されたものです。この論争は関西例会などで数年前から行われてきました。〝学問は批判を歓迎する〟とわたしは考えていますので、こうした批判論文はありがたいものです。学問的な反論とは別に、二倍年暦研究の経緯や古田先生との「共同作業」などについて、詳しくご存じない会員や読者のために整理記録しておく必要を感じました。関係者やわたしの記憶が確かなうちにその作業を進めたいと思います。

 171号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』171号の内容】
○「室見川の銘版」と倭王の陵墓・祭殿 川西市 正木 裕
○二倍年暦・二倍年齢の一考察 八尾市 服部静尚
○若狭ちょい巡り紀行 年縞博物館と丹後王国 東大阪市 萩野秀公
○初めての鬼ノ城探訪 ―多元的「鬼ノ城」研究序論― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・三十七
「利歌彌多弗利」の事績 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○古田史学の会 第二十八回会員総会の報告
○古田史学の会・関西例会のご案内

(注)古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』朝日新聞社、昭和五四年(一九七九)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2809話 2022/08/16

「ポアンカレとモデル」 茂山さんの見解

 「洛中洛外日記」2807話(2022/08/11)〝ポアンカレ予想と古田先生からの宿題〟で、古田先生から厳しく叱責されたことを紹介しました。九州年号原型論研究に使用した「丸山モデル」(注①)という名称に対して、「モデル」という用語の使い方が間違っているという叱責でした。そのことについて、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)よりメールが届き、古田先生の「モデル」の理解についての見解(推察)が記されていました。
 茂山さんは大学で哲学や論理学を専攻されておられ、その分野に疎いわたしは何かと教えを請うてきました。なかでも「古田史学の会」関西例会で連続講義されたアウグスト・ベークのフィロロギーの解説(注②)は圧巻でした。今もその講義レジュメを大切に持っています。今回は、これもわたしが苦手な数学と論理学の分野のポアンカレについて、メールで古田先生の考え方についての見解を説明していただきました。特に重要な部分を紹介します。

【以下、転載】
仮説とモデルについて(古田武彦先生に代わって)

 ポアンカレのことを書かれていましたが、それを読んで、古田先生のクレームがどういうものだったか、十分説明していなかったかな、と気になりました。(中略)
 モデルの語源は、modus物差し と-ulus小さい を合わせたラテン語「modulus小さい物差し」に由来します。「尺度」「基準」などの意味も持ち、「測定すること」と深く関わった言葉です。分かり易い例でいえば、自動車のミニチュアモデル、絵画や彫刻のモデルなど。本物を作る前に粘土やデッサンなどで成形しますから、「手本」「模型」「鋳型」などの意味に派生して広がります。応用された結果「規範」「模範」「基本」などの抽象言語にまで広がりました。
 これで分かるように、もともと物作りや測定など、自然科学系の言語です。論理学に応用されても、数学的な性格をもちます。その特徴を定義すれば、モデルは仮説ではありません。また究極の解答でもありません。しかし、反復繰り返しに耐える必要があります。自動車のモデルから現実の自動車を何万台も同じように作る必要がある、という意味合いの「反復」です。それがモデルの本質です。つまり、沢山モデルがあっては困る訳で、モデルはひとつの作業にひとつ、です。しかし、ふたつの作業にはふたつのモデルがあっても構いません。
 さて、古田先生のクレームを代弁してみれば、いくつかの言説がありえます。
 まず「仮説に過ぎないものをモデルと言ってくれるな。一体だれが、そんな権威を保証したのか」というクレームでしょう。「何も論証されていない」という評価です。
 もう一つ、実学の物作りではない歴史の学問では、求める答えは(古典的哲学では)ひとつ、真実はひとつと考えられているので、「文献学(フィロロギー)では、「仮説」と「論証が完了した理論」の間には、モデルなどという中間的な存在は許されない」というクレームでしょうか。
 自然科学では、実験や測定が幾らでも(技術が可能な限り)繰り返し出来ますし、反復することに絶対的な安定性があります。「『もの』のふるまい」を研究しているからです。そのため、仮説と理論の間に(中途半端な)モデルの介在が許されています。研究の便宜のためです。しかしこの場合も、モデルと広く認知されるためには、相当の実験、測定、論証が要求され、それこそ「権威」が求められます。
 一方、実験や測定という数学的方法を駆使する社会学や心理学、経済学などを別にすれば、「『ひと』のふるまい」を研究する「古代史学」では、反復も出来ませんし、測定もできません。つまり、反復・測定を本質とする「モデル」という方法論は、馴染まないのです。
 古田先生が、ポアンカレの本を貴方に渡し、九州年号の古代史学的な議論の問題とされなかったのは、「モデル」という思想が自然科学や実学のものだ、と考えられていたからではないでしょうか。「モデル」とは、観測・測定が可能な問題で、どこでもいつでも、繰り返し使える汎用性のある規範、そう考えられていたのなら、九州年号の復元作業に「モデル」という設定はありえません。
【転載、終わり】

 この丁寧な長文の説明を読み、わたしには思い当たる節がありました。末尾に記された〝「モデル」とは、観測・測定が可能な問題で、どこでもいつでも、繰り返し使える汎用性のある規範、そう考えられていたのなら、九州年号の復元作業に「モデル」という設定はありえません。〟という指摘は、古田先生の考えに近いように思います。この件、引き続き勉強します。

(注)
①「市民の古代研究会」時代に丸山晋司氏が提案した九州年号の原型論(朱鳥を九州年号と見なさない説)が「丸山モデル」と呼ばれた。当時、『二中歴』の「年代歴」を原型とする古田先生と丸山氏とで論争が行われていた。その後、研究が進展し、『二中歴』原型説が最有力となり、今日に至っている。
②「古田史学の会」関西例会にて、「フィロロギーと古田史学」というテーマで2017年5月から一年間にわたり行われた。テキストはベークの『エンチクロペディーと文献学的諸学問の方法』(安酸敏眞訳『解釈学と批判』知泉書館)を用いた。