第2405話 2021/03/10

『古事記』序文の「皇帝陛下」(2)

 古田先生との話題に上った『古事記』序文に見える「皇帝陛下」(注①)について、当初はSさんの仮説(唐の天子とする)を先生は支持しておられました。三度に亘り、意見を聞かれたのですが、わたしは三度とも〝『養老律令』儀制令で天皇の別称として「天子」「皇帝」「陛下」も規定(注②)されており、『古事記』序文の「皇帝」を元明天皇とする通説には根拠があります〟と返答しました。更に、序文の最後の方にも「大雀(おほさざき)皇帝」(仁徳天皇)という表記さえもあります。しかし、先生は納得されず、後日、ご自宅に呼ばれ、先生との意見交換(内実は論争)が続きました。二〇〇七年五月のことでした。
 その数日後、二百字詰め原稿用紙30枚に及ぶ論文のような「お便り」を古田先生が拙宅まで持参されました。わたしは仕事で留守でしたので、帰宅後に拝読しました。
 「初夏、お忙しい毎日と存じ上げます。先日は、お出でいただき、御苦労様でした。大変、有益でした。」で始まるその「お便り」には、わたしが先生宅で述べた見解や学問の方法に対するかなり厳しいご批判・叱責の言葉とともに、『古事記』序文の「皇帝」問題に関する新説(前日に発見したばかりとのこと)が綴られていました。そして最後は、「わたしは古賀さんを信じます」との温かい言葉で締めくくられていました。(つづく)

(注)
①『古事記』序文には、「伏して惟(おも)ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。」の一節がある。
②『養老律令』儀制令冒頭に次の「天子条」がある。
 「天子。祭祀に称する所。
  天皇。詔書に称する所。
  皇帝。華夷に称する所。
  陛下。上表に称する所。(後略)」


第2404話 2021/03/09

『古事記』序文の「皇帝陛下」(1)

 近畿天皇家が「天皇」を称したのは文武からとする古田新説は、二〇〇九年頃から各会の会報や講演会・著書で断続的に発表され、その史料根拠や論理構造を体系的に著した論文として発表されることはありませんでした。他方、古田先生とわたしはこの問題について意見交換を続けていました。古田旧説(七世紀には近畿天皇家がナンバーツーとしての「天皇」を名乗っていた)の方が良いとわたしは考えていましたので、その史料根拠として飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡の存在を重視すべきと、「洛中洛外日記」444話(2012/07/20)〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡〟などで指摘してきました。
 そうしたところ、数年ほど前から西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)より、七世紀の中国(唐)において、「天子」は概念であり、称号としての最高位は「天皇」なので、当時の飛鳥木簡や金石文の「天皇」は九州王朝のトップの称号とする古田新説を支持する見解が聞かれるようになりました。そこで、そのことを論文として発表してもらい、それを読んだ上で反論したいと申し入れたところ、『古田史学会報』162号で「『天皇』『皇子』称号について」を発表されました。
 この西村論文の要点は〝近畿天皇家が天皇号を称していたのであれば、九州王朝は何と称していたのか〟という指摘です。このことについては、調査検討の上、『古田史学会報』にてお答えしたいと考えていますが、同類の問題が二〇〇七年頃に古田先生との話題に上ったことがありました。それは『古事記』序文に見える「皇帝」についてでした。
 『古事記』序文には、「伏して惟(おも)ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。」で始まる一節があり、通説ではこの「皇帝陛下」を元明天皇とするのですが、これを唐の天子ではないかとするSさんの仮説について古賀はどう思うかと、短期間に三度にわたりたずねられたことがありました。ですから、古田先生としてはかなり評価されている仮説のようでした。(つづく)


第2403話 2021/03/08

『古代に真実を求めて』24集

                       の表紙は俾弥呼(ひみか)

 先日、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)より『古代に真実を求めて』24集の表紙(案)が送られてきました。同書のタイトル『俾弥呼と邪馬壹国』にふさわしく、女王俾弥呼が鏡を両手で高々と掲げた写真を採用しました(この写真は大阪府立弥生文化博物館からご提供いただいたものです)。全体的にピンク系の美しい表紙に仕上がっています。微修正の上、正式採用となります。
 裏表紙には特集企画として、下記の論文が掲示されていますが、一般論文の追加掲示を明石書店に申し入れることにしました。来月までには発行できると思いますが、2020年度賛助会員(年会費5000円)へはその後順次発送作業に入りますので、しばらくお待ちください。
 同書は書店やアマゾンでもご注文いただけます。定価は2,800円+税です。

【24集特集企画論文】
○魏志倭人伝の画期的解読の衝撃とその余波
○改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」
○周王朝から邪馬壹国そして現代へ
○女王国論
○東鯷人・投馬国・狗奴国の位置の再検討
○「女王国より以北」の論理
○メガーズ説と縄文土器―海を渡る人類
○裸国・黒歯国の伝承は失われたのか?
○二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学
○箸墓古墳の本当の姿

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第2402話 2021/03/07

『多元』No.162の紹介

 先日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.162が届きました。拙稿「『邪馬台国』畿内説の論理 ―戦後実証史学への挑戦―」を掲載していただきました。「邪馬台国」畿内説を支持する考古学者から直接聞いた同説の根拠と論理性について紹介し、そうした考古学者との誠実な対話と文献史学における古田説の紹介が必要との持論を述べたものです。
 一面には、吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)の「続・『景行紀』を読む」が掲載されています。景行紀の史料批判により、東征説話が盗作・転用された動機やその内実に迫られた論稿でした。
 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「元号の始まり」は中国における元号成立について説明され、別系統九州年号とされてきた「中元」「果安」についても触れられています。
 「事務局便り」では、多元的古代研究会ハイブリッド月例会のリモート参加費(資料代、視聴料など)について検討されている様子で、「古田史学の会」関西例会と似たような状況と問題意識を持っておられることがうかがえました。コロナ禍における目先の対応策にとどまらず、将来的な研究活動のスタイルについて真剣に考えるべき時代に入ったと思われます。


第2401話 2021/03/06

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(4)

 飛鳥宮・藤原宮(京)からの出土木簡(同時代文字史料)に記された内容から、評制下の飛鳥宮地区には〝中央省庁〟の出先(下部)機関はあったが、〝中央省庁〟そのものはなかったのではないか、そして王朝交代後の藤原宮(京)に至って、近畿天皇家は〝中央省庁〟を置くことができたのではないかとする見解をわたしは持っています。しかし、これは史料事実に対する数ある解釈の一つに過ぎず、これ自体は論証でも論証結果としての仮説でもありません。せいぜい、九州王朝説に立つ、わたしの作業仮説(〝思いつき〟〝可能性の一つ〟)の域を出ません。なぜなら、通説側からの史料事実に基づく次のような強力な批判・反論が容易に想定できるからです。

(1)飛鳥宮地区から出土した各国の荷札木簡や「仕丁」木簡の存在により、七世紀後半天武期の頃に、この地に全国統治した権力者がいたことを疑えない。その時代の他地域からは、そのような内容の大量の木簡は出土していない。

(2)飛鳥宮に近畿天皇家の天皇がいたとする『日本書紀』(720年成立)の記述と出土木簡(七世紀後半の同時代文字史料)の内容が整合・対応しており、『日本書紀』に記されたこの時代の記事の信頼性が実証的に証明されている。

(3)飛鳥宮地区からは、当時としては大型の宮殿・官衙遺構(飛鳥京)と天皇や皇子がいたことを示す次の木簡が七世紀後半天武期の層位から出土しており(注①②)、最高権力者とその家族が居住していたことを疑えない。

○「天皇」 木簡番号244、遺構番号SD1130、飛鳥池遺跡北地区
○「舎人皇子」 木簡番号92、遺構番号SX1222粗炭層、飛鳥池遺跡南地区
○「大伯皇子」 木簡番号64、遺構番号SX1222粗炭層、飛鳥池遺跡南地区
○「大来」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-25、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「太来」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-26、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「大友□」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-17、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「□大津皇」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-18、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「□□□(大津皇カ)」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-19、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「大□□(津皇カ)」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-20、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「□□□(津皇子カ)」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-21、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「津皇」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-22、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「皇子□」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-23、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「□□(皇カ)」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-24、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「穂積□□(皇子カ)」 木簡番号65、遺構番号SX1222粗炭層、飛鳥池遺跡南地区

(4)上記木簡に記された名前は、『日本書紀』に見える天智や天武の子供たちと同名であり、これだけの一致は偶然とは考えられず、天武とその家族が〝飛鳥宮〟(注③)に住んでいたことは確実である。

(5)従って、七世紀後半に「天皇」「皇子」を名乗った最高権力者(近畿天皇家)が「飛鳥京」で全国を統治したとする通説は、出土木簡と『日本書紀』の記事により真実であると実証された不動の学説であり、そこに九州王朝説が成立する余地は無い。

 以上のように、通説が七世紀後半においては実証的で強力な史料根拠により成立しており、これを実証的に否定できるような木簡も史料もありません。ところが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から〝律令制下の官僚と都の規模〟という視点での優れた論証と研究が発表され、通説の「飛鳥京」に一撃を加えられました。(つづく)

(注)
①奈良文化財研究所木簡データベース「木簡庫」による。
②『飛鳥宮跡出土木簡』橿原考古学研究所編、令和元年(2019)、吉川弘文館。
③当地が「飛鳥」と呼ばれていたことを示す「飛鳥寺」木簡が飛鳥池遺跡北地区から出土していることや、法隆寺の金石文「観音像造像記銅板(甲午年、694年)」に「飛鳥寺」が見えることを「洛中洛外日記」1956話(2019/08/04)〝7世紀「天皇」号の新・旧古田説(6)〟で紹介した。


第2400話 2021/03/05

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(3)

石神遺跡の性格が王宮を構成する官衙の一部とされている根拠は出土した遺構の形式と出土木簡の内容に基づいており、市大樹さんは次のように説明されています。

「石神遺跡では飛鳥時代の遺構が何層にもわたってみつかっている。大きくA~Cの三時期に分けられ、さらにそれぞれが細分化されるという複雑なものである。(中略)
このB・C期の新たな建物群は藤原宮(六九四~七一〇)の官衙域の状況と似ており、饗宴施設から官衙へと性格を一変させたとみられる。そして、この見方を確固たるものとしたのが、石神遺跡北方域から出土した三〇〇〇点以上の木簡である。」(『飛鳥の木簡 ―古代史の新たな解明』)89~90頁。(注①)

同遺跡出土木簡に次の二つの「仕丁」木簡があり、注目されています。

○方原戸仕丁米一斗

○委之取五十戸仕丁俥物□□
二斗三中神井弥[  ]□(三カ)斗

「方原(かたのはら)」は後の三河国宝飫郡形原郷、「委之取五十戸(わしとりのさと)」は三河国碧海郡鷲取郷のことで、そこから出仕した二人の「仕丁」、「俥物□□」と「神井弥□□」に支給した食料が記された木簡です。仕丁とは律令に規定された役務者のことで、全国の各里(五十戸)から二名の出仕が定められています。これは、飛鳥に全国から仕丁が集められたことを意味します。すなわち、飛鳥に〝中央行政府〟があったことをも意味しています。

更に七世紀(評制下)の官職名が記された次の木簡・土器が飛鳥宮(石神遺跡)・藤原宮地区から出土しています。

◎「大学官」「勢岐官」「道官」 石神遺跡(天武期)
○「舎人官」「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区(持統・文武期)
○「加之伎手官」(墨書土器) 藤原宮跡東方官衙北地区(持統・文武期)
○「薗職」 藤原宮北辺地区(持統・文武期)
○「蔵職」「文職」「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区(持統・文武期)
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区(持統・文武期)
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区(持統・文武期)
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区(持統・文武期)

これらの官職名により、石神遺跡が七世紀における王宮を構成する官衙の一部と理解されたわけですが、わたしには違和感がありました。それは、木簡などの官職名に「二官八省」(神祇官・太政官・中務省・式部省・民部省・治部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)のような〝中央省庁〟らしい名称が見えないことです(注②)。たまたま出土していないという可能性もあり、断定はできませんが違和感を禁じ得ません。

他方、大宝元年(701年)の王朝交代後の藤原宮(京)出土木簡には次の〝中央省庁〟名が見えます(注③)。

○「宮内省移 価糸四□」
「大宝二年八月五日少□□
中務省移[ ]□(勘カ)宣耳」
木簡番号1482 藤原京左京七条一坊西南坪

○「中務省□(移)カ」
木簡番号1747 藤原京左京七条一坊西南坪

○「中務省牒□(留カ)守省」
木簡番号0 藤原宮跡内裏東官衙地区

○「中務省移」
「□○  ○□□(和銅カ)」
木簡番号1093 藤原宮跡内裏北官衙地区

○「中務省使部」
木簡番号18 藤原宮跡北面中門地区

○「中務省 管内蔵三人」
木簡番号17 藤原宮跡北面中門地区

○「粟田申民部省…○寮二処衛士」
「検校定○十月廿九日」
木簡番号1079 藤原宮跡東方官衙北地区

上記の他にも、各省直属の官職名が記された木簡が藤原宮(京)跡から出土しています。このような七世紀(評制下)と八世紀(郡制下)における差異が王朝交替の影響によるものか、それとも偶然なのか、出土木簡の情報だけでは断定できません。

ここからはわたしの作業仮説(思いつき)ですが、評制下の飛鳥宮地区には〝中央省庁〟の出先(下部)機関はあったが、〝中央省庁〟そのものはなかったのではないか、そして王朝交代後の藤原宮(京)に至って、近畿天皇家は〝中央省庁〟を置くことができたのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①市 大樹『飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明』中公新書 2012年。
②『大宝律令』に先立つ浄御原令制下の官庁名は「○○官」と称されており、大宝令の名称とは異なると考えられている。しかし、それにしても〝中央官庁〟に匹敵する官職名を記した評制下木簡は知られていないようである。
③奈良文化財研究所木簡データベース「木簡庫」による。


第2399話 2021/03/04

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(2)

飛鳥宮の工房という性格を持つ飛鳥池遺跡に続き、今回は石神遺跡出土木簡を紹介します。先に紹介した評制下荷札木簡で年次(干支)記載のある石神遺跡出土木簡は次の通りです(注①)。

【石神遺跡出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡

次は石神遺跡と藤原宮(京)出土の献上国別荷札木簡数です(注①)。

【石神遺跡・藤原宮(京)出土の評制下荷札木簡】
国 名 石神遺跡 藤原宮(京)
山城国   1   1
大和国   0   1
河内国   0   4
摂津国   0   1
伊賀国   1   0
伊勢国   1   1
志摩国   0   1
尾張国   5   7
参河国   0   3
遠江国   0   2
駿河国   0   2
伊豆国   2   0
武蔵国   1   2
安房国   0   1
下総国   0   1
近江国   7   1
美濃国  13   4
信濃国   0   1
上野国   0   3
下野国   0   2
若狭国   0  18
越前国   1   0
越中国   0   0
丹波国   3   2
丹後国   0   8
但馬国   0   2
因幡国   1   0
伯耆国   0   1
出雲国   0   4
隠岐国   7  21
播磨国   6   6
備前国   0   2
備中国   2   6
備後国   2   0
周防国   0   2
紀伊国   0   0
阿波国   0   2
讃岐国   2   1
伊予国   1   2
土佐国   1   0
不 明  54   7
合 計 109 122

この出土状況から見えてくることは、石神遺跡からは美濃国や近江国から献上された荷札木簡が比較的多く、時期的には天武・持統期であり、694年の藤原京遷都よりも前であることです。このことは、各国から産物の献上を受けた飛鳥の権力者が藤原宮へ移動したとする『日本書紀』の記述(注②)と対応しており、このことは歴史事実と考えてよいと思います。こうした史料事実により、当時としては列島内最大規模の藤原宮・藤原京(新益京)で全国統治した大和朝廷は、『日本書紀』に記されているように、〝藤原遷都前は飛鳥宮で全国統治していた〟とする通説(近畿天皇家一元史観)が、出土木簡により実証的に証明されたと学界では考えられています。

この点について、九州王朝説を支持するわたしたち古田学派には、出土木簡(同時代文字史料)に基づく実証的な反論は困難です。なぜなら、太宰府など九州王朝系遺跡からの木簡出土は飛鳥・藤原と比較して圧倒的に少数で、その記載内容にも九州王朝が存在していたことを実証できるものはないからです。

それに比べて、石神遺跡は飛鳥寺の北西に位置し、〝日本最古の暦〟とされる具注暦木簡が出土したことでも有名です。同遺跡からは3421点の木簡が出土しており、ごく一部に七世紀中葉の木簡を含みますが、圧倒的大多数は天武・持統期のものとされています。そして、遺跡の性格は「王宮を構成する官衙の一部」と説明されています(注③)。(つづく)

(注)
①市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
②『日本書紀』持統八年(694年)十二月条に次の記事が見える。
「十二月の庚戌の朔乙卯(6日)に、藤原宮に遷り居(おは)します。」
③市 大樹『飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明』中公新書 2012年。


第2398話 2021/03/03

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(1)

 飛鳥宮と藤原宮(京)出土の評制下荷札木簡について、その献上国別と干支木簡の年次別データを「洛中洛外日記」で紹介しましたが、それら大量の木簡が同時代文字史料として戦後実証史学を支えています。すなわち、『日本書紀』の記述は少なくとも天武・持統紀からは信頼できるとする史料根拠として飛鳥・藤原出土木簡群があり、『日本書紀』の実証的な史料批判を可能にしました。
木簡は不要になった時点で土坑やゴミ捨て場に一括大量廃棄される例があり、干支などが記された紀年木簡(主に荷札木簡)と併出することにより、干支が記されていない他の木簡も一定の範囲内で年代が判断できるというメリットがあります。その結果、出土層位の年代判定においても、従来の土器編年とのクロスチェックが可能となり、より説得力のある絶対編年が可能となったため、木簡の記事と『日本書紀』の記事との比較による史料批判(『日本書紀』の記述がどの程度信頼できるかを判定する作業)が大きく進みました。

 具体例をあげれば、飛鳥宮の工房という性格を持つ飛鳥池遺跡からは、七世紀後半(主に670~680年代)の紀年木簡が出土しており、わずかではありますが八世紀初頭の「郡・里」(注①)木簡も出土しています。ところが一括大量出土しているおかげで、出土地点(土抗)毎の廃棄年代の編年が成立し、併出した木簡の年次幅が紀年木簡により判断可能となるケースが出てきました。

 たとえば奈良文化財研究所の木簡データベースによれば、飛鳥池遺跡北地区の遺跡番号SK1126と命名された土坑から、播磨国宍粟郡からの「郡・里」木簡6点(木簡番号1308 1309 1310 1311 1312 1313)が出土しています。同データベースにはSK1126出土の木簡123点が登録されていますが、その多くは削りくずで文字数が少ないものばかりで、年代の判断が可能なものは「郡・里」制木簡くらいでした。そのため、この土坑を含め飛鳥池遺跡北地区から一括出土した木簡群の年代について次の説明がなされています。

〝北地区の木簡の大半は、2条の溝と2基の土坑から各々一括して出土した。遺構ごとにその年代をみると、2条の溝から出土した木簡は、「庚午年(天智九年=660年)」「丙子年(天武五年=676年)」「丁丑年(天武六年=677年)」の干支木簡を含み、コホリとサトの表記が「評五十戸」に限られる。これは天武末年頃(680年代中頃)以前の表記法。これに対して、2基の土坑は、一つが「評里」という天武末年頃から大宝令施行(大宝元年=701年)以前の表記法で記された木簡を出土し、もう一つは「郡里」制段階(大宝令から霊亀3年以前)の木簡を含む。つまり、年代の違う三つの木簡群に分類できる。〟(注②)

 このように、大量に出土した木簡(同時代文字史料)と考古学者による精緻な編年により、それらの内容と時間帯が『日本書紀』の記述に整合しているとして、戦後実証史学では〝近畿天皇家一元史観が七世紀後半頃は実証できた〟と確信を抱いたものと思われます。しかし、出土木簡と『日本書紀』の記述を丁寧に比較すると、そこには大きな齟齬が横たわっています。(つづく)

(注)
①大宝令(701年)から霊亀三年(717年)以前に採用された「郡・里」制による行政区域表記。それ後、「郡・郷・里」制に改められた。
②花谷 浩「飛鳥池工房の発掘調査成果とその意義」『日本考古学』第8号、1999年。


第2387話 2021/03/02

「蝦夷国」を考究する(12)

 ―蝦夷国の仏教―

 郡山遺跡廃寺や多賀城廃寺についての考察を続け、その一応の結論として、両寺が蝦夷国の「鎮護国家」のための寺院とする仮説へと至りました。まだまだ初歩的な仮説ですので、先行研究との整合性、特に考古学的事実との整合性を精査しています。
 今回は視点を変えて、廃寺と関連する蝦夷国の仏教について考察します。実は以前から気になっていたことですが、『日本書紀』持統紀に蝦夷国の僧侶に関する次の記事があります。

○『日本書紀』持統三年(689年)正月条
 丙辰(三日)に、務大肆陸奥國の優嗜曇郡の城養(きこう)の蝦夷脂利古が男(こ)、麻呂と鐵折と、鬢(ひげ)髪剔(そ)りて沙門と爲(な)らむと請(もう)す。詔して曰はく、「麻呂等、少(わか)くとも閑雅(みやび)ありて欲(ものほりす)ること寡(すくな)し。遂に此(ここ)に至りて、蔬(くさびら)食ひて戒(いむこと)を持(たも)つ。所請(もう)すままに、出家し修道すべし」とのたまふ。……
 壬戌(九日)、……越の蝦夷沙門道信に、佛像一軀(はしら)、潅頂幡・鐘・鉢各一口、五色綵(しみのきぬ)各五尺、綿五屯(もち)、布一十端、鍬(すき)一十枚、鞍一具賜う。

 このように持統紀になると、蝦夷の僧侶・出家記事が現れます。この蝦夷と持統との関係が史実なのか、九州王朝と蝦夷との関係記事の転用なのかを検討しなければなりませんが、王朝交替(701年)直前の時期ですから、近畿天皇家と蝦夷国との関係性を現した可能性が大きいように思います。
 いずれにしても、この頃から八世紀初頭に至り、観世音寺式伽藍配置の郡山廃寺や多賀城廃寺などをはじめ東北地方の寺院創建がみられ、時期的に対応しているようです。ちなみに、「陸奥の蝦夷沙門自得」が観世音菩薩像をもらっていることも、多賀城廃寺が「観音寺(観世音寺)」(注①)と呼ばれていた可能性が高いことと関係しているかもしれません。
 更に時代が百年ほど下がると、東北地方(福島県会津)に徳一(注②)が現れ、東北仏教が花開きますが、これは蝦夷国の仏教文化の伝統が底流にあったからではないでしょうか。(つづく)

(注)
①多賀城廃寺西側の山王遺跡から「観音寺」と墨書された土器が出土しており、同寺は「観音寺」あるいは「観世音寺」と呼ばれていたと考えられている。
②徳一(749~824年、異説あり)は法相宗の僧侶で、藤原仲麻呂(恵美押勝)の子と伝えられている。都(平城京)での僧侶の奢侈を嫌い、奥州(会津恵日寺等)で布教した。最澄との論争(三一権実論争)は有名。


第2396話 2021/03/01

「蝦夷国」を考究する(11)

 ―多元史観でみる多賀城―

郡山遺跡(仙台市)を蝦夷国衙ではないかとする仮説を「洛中洛外日記」2393話(2021/02/27)〝「蝦夷国」を考究する(10) ―郡山遺跡(仙台市)、蝦夷国衙説―〟で提起しましたが、実は多賀城も同様の可能性を持っていることに気づきました。それは次の考古学的知見と考察によります。

(1)多賀城遺構はⅠ期からⅣ期が出土している。Ⅰ期が創建期の遺構で、通説では多賀城碑に見える神亀元年(724年)の大野東人によるものとされ、Ⅱ期は同じく多賀城碑に見える天平宝字六年(762年)藤原朝獦の「修造」によるものとされている。

(2)政庁とそれを囲む内郭、政庁南門から南へのびる大路は正方位にそって建造されているが、外郭は正方位をとらず、その南辺は時計回りに7度傾いている。更に外郭南門の南500mほどの位置で交差する東西の大路も、外郭南辺と同方向に傾いている。これは設計思想が異なる別勢力による造営の可能性を示唆している。あるいは、政庁などの正方位造営物に先だって、外郭やそれに伴う建築物が造営されていた可能性をうかがわせる(多賀城に先立つ「多賀柵」の成立か)。

(3)創建時のⅠ期に使用された瓦は、多賀城から30~40km程北の大崎地区の瓦窯から供給されている。いわば蝦夷国との〝最前線〟付近とされる瓦窯から供給されていることになる。他方、多賀城の南方にあり、多賀城よりも古い郡山遺跡(仙台市)の瓦はその近隣の瓦窯から供給されている。この状況について、「それにしても重貨である瓦を、わざわざ大崎地方から多賀城に大量に運ぶということは、まったく異例のことである。」「ほかの時期には例をみない刮目すべき事実である。」(注①)と見られていた。

(4)そのため、「大崎地区で生産された瓦が、そこから三〇~四〇キロほど南に位置する多賀城へ大量に運ばれているということは、この時期には大崎地方に大規模な瓦の生産組織が構築されて、その後方に位置する多賀城すらも、大崎地方を中心とする瓦の生産――供給体制に組み込まれた」(注①)と説明(解釈)されるようになった。なお、「その後方に位置する多賀城」とは、〝最前線〟の大崎地方から見た表現である。

(5)この大崎地方や牡鹿地方の多くの城柵・郡家などの官衙や官衙付属寺院の造営と多賀城Ⅰ期の造営は同時期に一体のものとして進められてきたとされ、「そのうち、名生舘遺跡・伏見廃寺跡・色麻町一の関遺跡・菜切谷廃寺などからは、多賀城創建期の瓦よりも古い七世紀末~八世紀初頭の時期の瓦が出土している。また赤井遺跡でも、七世紀後半に遡る土器が出土している。これらの事実は、少なくとも七世紀末ごろまでに、多賀城創建期と同様に大崎地方から牡鹿地方にかけての地域が中央政府の支配下に組み込まれていたことを示すものである。」(注①)とされるようになった。

(6)「七世紀末頃まで」という九州王朝の時代に、九州王朝軍であれ、後の〝大和朝廷〟の軍であれ、宮城県北部の大崎・牡鹿地方まで侵攻・支配したことをうかがわせる記事は、『日本書紀』にはみえない。また、白村江戦敗北後の九州王朝に東北地方まで侵攻できる軍事力が残っていたとは考えにくい。近畿天皇家も同様で、〝壬申の乱〟などの国内戦を戦い、国内最大規模の藤原京造営を行っている。そうした王朝交代前の時期に、宮城県北部まで侵攻・支配できていたとは考えにくく、七世紀における〝陸奥国〟からの荷札木簡も出土していない。

(7)多賀城の付属寺院とされる多賀城廃寺は観世音寺式伽藍配置であり、その2kmほど西側からは「観音寺」と墨書された土器が出土しており、同寺は「観音寺」あるいは「観世音寺」と呼ばれていたと考えられている。このことは多賀城・多賀城廃寺(観世音寺)と太宰府・観世音寺との関係をうかがわせる。ともに、蝦夷国と九州王朝(倭国)による「鎮護国家」のための寺院ではあるまいか(注②)。

(8)以上の所見と考察によれば、創建多賀城・多賀城廃寺と宮城県北部の柵・寺院跡の造営は蝦夷国によるものではなかったか。九州王朝の滅亡により、新たな列島の代表権力者となった大和朝廷の脅威にさらされた蝦夷国が、国衙であった郡山遺跡から、より安全な北部の丘陵地帯に多賀城を創建し、大崎・牡鹿地方にも防衛施設(柵)を造営、あるいは強化修築したのではないか。

以上のような仮説をわたしは検討中です。同地方の遺跡調査報告書の精査途中(注③)ですので、誤解や不十分な点があることと思います。引き続き調査検討を続けますので、皆さんからのご批判とご教導をお待ちしています。(つづく)

(注)
①熊谷公男「養老四年の蝦夷の反乱と多賀城の創建」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第84集、2000年3月)。この論文を正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からご紹介いただいた。
②貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号、2010年。
③『宮城県多賀城跡調査研究所年報』を中心に精査中。


第2395話 2021/02/28

飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年代

前話では、飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺跡・他)と藤原宮(京)地域から出土した350点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡を国別に分けて、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を概観しました。今回はその中から年次(干支)が記された荷札木簡(49点)を抽出し、時間的な分布傾向を見てみます。
前回紹介した「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」350点のうち、数は少ないのですが産品を献上した年次(干支)が記された木簡があります。年次順に並べてみました。次の通りです。元史料は前回と同じ市大樹さんの『飛鳥藤原木簡の研究』(注)です。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
676 丙子 天武5 丙子年六□□□□ 不明  苑池遺構
677 丁丑 天武6 丁丑年十□□□□ 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月次米 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月三野 美濃国 飛鳥池遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年十二月尾張 尾張国 苑池遺構
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年高井五□□ 不明  藤原宮跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
682 壬午 天武11 壬午年十月□□□ 下野国 藤原宮跡
683 癸未 天武12 癸未年十一月三野 美濃国 藤原宮跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
687 丁亥 持統1 丁亥年若佐国小丹 若狭国 飛鳥池遺跡
688 戊子 持統2 戊子年四月三野国 美濃国 苑池遺構
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡
693 癸巳 持統7 癸巳年□     不明  飛鳥京跡
694 甲午 持統8 甲午年九月十二日 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年尾□□□□ 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年御調寸松  参河国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年木□(津カ)里 若狭国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 丙申年九月廿五日 尾張国 藤原京跡
696 丙申 持統10 丙申□(年カ)□□ 下総国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 □□□(丙申年カ)  美濃国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年□月□□□ 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若狭国小丹 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年三野国厚見 美濃国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年□□□□□ 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年六月波伯吉 伯耆国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 □□(戊戌カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
699 己亥 文武3 己亥年十月上捄国 安房国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年九月三野国 美濃国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□(月カ)  若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□□国小 若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年十二月二方 但馬国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年三月十五日 河内国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年四月佐国小 若狭国 藤原宮跡

(注)市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。


第2394話 2021/02/27

飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々

 飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺跡・他)と藤原宮(京)地域からは約45,000点の木簡が出土しており、それにより七世紀後半から八世紀初頭の古代史研究は飛躍的に進みました。そのなかには350点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡があり、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができます。これら大量の木簡という同時代史料と『日本書紀』の記事とを比較検証することにより、戦後実証史学を支える史料批判が大きく進みました。もし、筑紫・太宰府からも大量の木簡が出土していたなら、九州王朝研究は格段に進歩していたことを疑えません。

 この九州王朝時代の七世紀後半、大和の〝近畿天皇家の宮殿〟に産物を献上した諸国・諸評がわかるという荷札木簡群の存在は、わたしたち古田学派にとってもありがたいことです。そこで、市大樹さんの名著『飛鳥藤原木簡の研究』(注)に収録されている「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」にある国別の木簡データを飛鳥宮地域と藤原宮(京)地域とに分けて点数を紹介します。皆さんの研究に役立てていただければ幸いです。

 わたしの恣意的な判断を一切入れず、市さんの分類をそのまま採用しました。なお、飛鳥宮地域とは飛鳥池遺跡・飛鳥京遺跡・石神遺跡・苑地遺構・他のことで、藤原宮(京)地域とは藤原宮跡と藤原京跡の遺跡のことです。その詳細は市さんの本をご参照下さい。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   7   1   8
志摩国   1   1   2
尾張国   9   7  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 224 126 350

(注)市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。