第2437話 2021/04/17

進展する7世紀の九州王朝研究

 本日、ドーンセンターにて「古田史学の会」関西例会が開催されました。5月もドーンセンター(参加費1,000円)開催です。今回はZoomシステムによるリモートテストとして、西村秀己さん(司会担当・高松市)、杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査、伊丹市)、松中祐二さん(九州古代史の会・北九州市)、萩野秀公さん(古田史学の会・会員、東大阪市)が参加されました。「古田史学の会」会員でもある松中さんは二十年来の友人で、「古田史学の会」と「九州古代史の会」との交流開始にあたっては両会の橋渡し役をしていただきました。お昼休みの役員会もリモートで実施しました。
 今回の発表はいずれも7世紀の九州王朝を対象としたもので、ハイレベルで新たな視点があり、『日本書紀』や『万葉集』を読み込んでいなければ深く理解できないようなテーマでした。特に刺激を受けたのが、服部さんと正木さんの研究でした。服部さんは、九州王朝(倭国)が受容した仏典(法華経、無量寿経)の差異に着目され、十七条憲法は女性の推古よりも、男性の多利思北孤が公布したとする方が妥当と説明されました。このような着眼点は今までにはなかったもので、新鮮でした。
 正木さんは、『日本書紀』に見える持統の伊勢行幸記事(692年)は、その34年前の九州王朝の伊勢王による糸島半島「伊勢」行幸と蝦夷国への軍事行動記事が改変転記されたものとする仮説を発表されました。持統6年の伊勢行幸記事は矛盾や誇張が大きく、言われてみればおかしな内容でした。正木説はそれらを解決できる一つの仮説と思われました。

 なお、発表者はレジュメを30部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔4月度関西例会の内容〕
①日本書紀の前から作られた太子伝説 (大山崎町・大原重雄)
②仏教と聖徳太子 ―法華経と無量寿経― (八尾市・服部静尚)
③蘇我氏の時代の近畿に関する考察 (茨木市・満田正賢)
④柿本人麻呂「近江荒都歌」の解釈について (たつの市・日野智貴)
⑤「伊勢王」の呼称と糸島なる伊勢 (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」回避に大部屋使用の場合)
05/15(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
06/19(土) 10:00~12:00 会場:福島区民センター
      ※午後は古代史講演会と会員総会を開催します。

◎古代史講演会 参加費:無料
 共催:古代大和史研究会、誰も知らなかった古代史の会、市民古代史の会・東大阪、市民古代史の会・京都、和泉史談会、古田史学の会
06/19(土) 13:00~16:00 会場:福島区民センター
「考古学から見た邪馬台国 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―」 講師:関川尚功さん
 「考古学から見た邪馬壹国 ―博多湾岸説―(仮題)」 講師:正木 裕さん
 ※講演会終了後に「古田史学の会」会員総会を開催します。会員の皆さんのご参加をお願いします。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新の情報をご確認下さい。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 「古代大和史研究会」特別講演会のご案内
◇日時 2021/04/24(土) 13:00~17:00
◇会場 奈良新聞本社西館3階
◇参加費 500円
◇テーマ 卑弥呼と邪馬壹国『「邪馬台国」はなかった』出版50周年記念講演会
◇講師・演題(予定)
 古賀達也(古田史学の会・代表) 九州王朝官道の終着点 ―筑紫の都(7世紀)から奈良の都(8世紀)へ―
 大原重雄(『古代に真実を求めて』編集部) メガーズ説と縄文土器
 満田正賢(古田史学の会・会員) 欽明紀の真実
 服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長) 日本書紀の述作者は中国人ではなかった
 正木 裕(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師) 多賀城碑の解釈~蝦夷は間宮海峡を知っていた

 04/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館 交流ホールBC室
 「伊勢王」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)
 05/17(月) 13:00~17:00 会場:壽光寺コンサートホール
 「聖徳太子と仏教」 講師:服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)
 「能楽の淵源と筑紫の舞楽」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)
 05/25(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館 交流ホールBC室
 「伊勢王③」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 05/21(金) 18:30~20:00 「『神武東征説話』の再検討② 盗まれ地降臨神話」 講師:正木 裕さん

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円
 05/08(土) 14:00~16:30 「天孫降臨と神武東征 ―神話と歴史―」 講師:服部静尚さん

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 04/29(火) 13:00~16:00開催中止
開催中止 「聖徳太子と仏教」 講師:服部静尚さん
開催中止「九州王朝官道の終着点」 講師:古賀達也

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室)
 《未定》


第2436話 2021/04/16

「倭王(松野連)系図」の史料批判(4)

 ―松野連(まつのむらじ)と松野郷―

 「松野連系図」と呼ばれている「倭王(松野連)系図」を初めて読んだとき、わたしは不思議に思ったことがありました。前話で述べたように、〝「長堤」は「筑紫前国夜須郡」の「松狭野」に住んでいたとあるが、松狭野(まつおの)あるいは「松野」という地名は管見では夜須郡やその付近には現存していないようである。江戸期の地誌にも見えない。〟のです。
 同系図にある「夜須評」「夜須郡」は福岡県朝倉郡筑前町の「夜須」地名に対応しますが、現代の地図や江戸期の古地図・地誌(注①)には、「松野」や「松狭野(まつおの)」(注②)という地名が見つかりません。似たような地名には「松延」(注③)がありますが、そのものずばりの「松野」地名が見つからないのです。このことをずっと不思議に思ってきました。ところが25年ほど前に「松野」という地名を記した本を目にしました。開米智鎧編『金光上人』(注④)という本で、次の記事が見えます。

 「上人は、筑後国松野郷、筑紫西海辺船関守、長安寺国平安直、其の室女平小路良子を父母として、松野城に御生まれになりました。時に寿永「久寿の誤り」二年(一一五五)一月一日。幼名を白龍丸と称しました「疑問状」。松野城「実は館」は地名に因み、弥生館は旧名、白雲城は、唐風に新築してからの名で、松野の地は秋風録に太刀洗郷だとあります。」(同書10頁)
 「略年表
 久寿二年 一一五五 当才
  一・一 筑後国松野郷「太刀洗、秋風録」、弥生館に生まる。父は長安寺国平、母は平小路良子「要」。」(278頁)

 金光上人の両親と誕生についての所伝を記したもので、ここに見える「疑問状」「秋風録」「要」とは「和田家文書」(注⑤)と思われます。同書によれば、松野郷は「筑後国太刀洗(たちあらい)」(注⑥)にあったとされ、そこは「夜須郡(評)」と隣接する筑後川北岸の地です。金光上人生誕伝承はその年次を平安末期(久寿二年、1155年)と伝えており、平安末期には当地に松野郷という地名が存在していたことをうかがわせます。現在、地元でも見つからない松野連の故地名「松野郷」が、平安末期頃の伝承として遺されている和田家文書の史料価値は高いのではないでしょうか。
 このように、松野連の名前の由来となった「松野郷」が平安末期に存在していたことを示す史料が見つかり、「倭王(松野連)系図」の地名に関する7世紀段階の傍注記事の信頼性が高まったことは、史料批判における一定の成果です。(つづく)

(注)
①杉山正仲・小川正格『筑後志』(1777年成立)、貝原益軒『筑前国続風土記』(1709年成立)、他。
②地名ではないようだが、筑前町栗田に「松狭(まつお)八幡宮」があり、注目される。天徳四年(960年)の創建と伝えられている。
③福岡県朝倉郡筑前町松延。当地には松延池もある。
④開米智鎧編『金光上人』1964年、藤本幸一発行、非売品。
⑤青森県五所川原市の和田家(和田喜八郎氏)に伝わった大量の史料群。江戸期成立の『東日流外三郡誌』を代表とする伝承史料集。
 『金光上人』巻末に収録された「新出史料」(和田家文書のこと)一覧に「建保四年(一二一六) 甲野 秋風録」が見える。
⑥現、福岡県三井郡大刀洗町。


第2435話 2021/04/15

「倭王(松野連)系図」の史料批判(3)

  — 庚午年籍と松野連(まつのむらじ)

 鈴木真年氏が収集した「倭王(松野連)系図」は、通常「松野連系図」と呼ばれています。今回は松野連について検討します。同系図では松野連の始祖を呉王夫差としますが、9世紀初頭に成立した『新撰姓氏録』(注①)の「右京諸藩上」には、松野連について次の様に記されており、自らを呉王夫差の末裔とする松野連が古代に於いて存在していたことは確かなようです。

 「松野連 出自呉王夫差也」(『新撰姓氏録の研究 本文篇』295頁)

 同系図(注②)によれば、「倭の五王」の「武」の後に「哲」(傍注「倭国王」)、次に「満」と〝中国風一字名称〟の人物が続き、その後に「牛慈」「長堤」「大野」「廣石」「津萬呂」へと続きます。ここで注目されるのが次の傍注です。

 「牛慈」《金刺宮御宇 服従 為夜須評督》
 「長堤」《小治田朝評督 筑紫前国夜須郡松狭野住》
 「津萬呂」《甲午籍負松野連姓》
  ※《》内が傍注。「大野」「廣石」には傍注なし。

 これらの傍注が系図原文にあったものか、鈴木真年氏による付記なのかという問題はありますが、「牛慈」が夜須評督になったこと、「長堤」が「筑紫前国夜須郡松狭野」に住んでいたこと、「津萬呂」が甲午籍により「松野連」姓になったことを示しています。この傍注から次のことが想定できます。

①夜須評督になった「牛慈」は評制が施行された7世紀中頃の人物と思われる。「金刺宮御宇」とは欽明期を意味するが、これは『日本書紀』の認識に基づき、後世になって付記されたものである。
②「長堤」は「筑紫前国夜須郡」の「松狭野」に住んでいたとあるが、松狭野(まつおの)あるい「松野という地名は管見では夜須郡やその付近には現存していないようである。江戸期の地誌にも見えない。
③筑前国を「筑紫前国」と古い表記が使用されており、この部分は系図原文にあったと考えられる。それとは逆に、「夜須郡」という表記は「評」が「郡」に書き換えられたもので、本来は「夜須評」だったと思われる。「小治田朝」も推古期を意味するが、これも『日本書紀』成立以降の後代に付記されたと考えられる。
④「津萬呂」が「甲午籍」により「松野連」姓をもらったとあるが、「甲午」は694年だが、この年に造籍があったとする史料痕跡はない。同音の「庚午」(670年)の年に造籍された庚午年籍があり、「甲午」は「庚午」の誤写と考えるのが妥当である。
⑤以上のことから、「牛慈」「長堤」「大野」「廣石」「津萬呂」は7世紀の人物であると推定できる。

 なお、『埋もれた古代氏族系図』2頁掲載の〝稿本〟(注③)には「大野」は見えず、7頁の別筆跡の〝稿本〟(注④)では、「大野」が割り込み加筆された跡があり、このことから「大野」は鈴木真年氏とは別人(注⑤)による加筆と思われます。従って、本来形では「牛慈」「長堤」「廣石」「津萬呂」の四代が7世紀の人物と考えられます。(つづく)

(注)
①佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』吉川弘文館、1962年。
②尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年。(64~65頁)
③「松野連倭王系図(静嘉堂文庫所蔵)」との表記がある。
④「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」との表記がある。
⑤『埋もれた古代氏族系図』(34頁)によれば、鈴木真年の協力者として親交のあった中田憲信(よしのぶ)の名前をあげており、『諸系譜稿』(国立国会図書館所蔵)に収録された「松野連倭王系図」は、中田が「鈴木の蒐集本をさらに筆写したもの」とする。


第2434話 2021/04/14

『古田史学会報』163号の紹介

 『古田史学会報』163号が発行されましたので紹介します。
一面の正木稿は、7世紀における九州王朝の天子の変遷について本格的に論じたもので、いずれ「九州王朝通史」として結実するものと期待しています。
日野稿は、前号掲載の西村秀己稿の問題提起「九州王朝(倭国)のナンバーワンの称号が天皇でなければ、それ以上の称号を提示すべき」に対しての一つの解答を示したもので、史料根拠を明示して、「法皇」「中皇命」とする仮説を提起されました。この日野稿に対して、西村稿では、再度批判がなされました。
服部稿では、野中寺彌勒菩薩像銘文に見える「中宮天皇」を九州王朝の女帝(倭姫王)とされました。

 わたしは、『古田史学会報』採用審査の難しさについて、特許審査の例をあげて解説しました。
163号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』163号の内容】
○九州王朝の天子の系列(上) 川西市 正木 裕
多利思北孤・利歌彌多弗利から、唐と礼を争った天子の即位
○九州王朝の「法皇」と「天皇」 たつの市 日野智貴
○野中寺彌勒菩薩像銘と女帝 八尾市 服部静尚
○「法皇」称号は九州王朝(倭国)のナンバーワン称号か? 高松市 西村秀己
○「壹」から始める古田史学・二十九
多利思北孤の時代Ⅵ ―多利思北孤の事績― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』採用審査の困難さ 編集部 古賀達也
○2021年度会費納入のお願い
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせ
○編集後記 西村秀己


第2433話 2021/04/13

「倭王(松野連)系図」の史料批判(2)

 ―鈴木真年氏の偉業、膨大な系図収集―

 「倭王(松野連)系図」の史料批判に入る前に、同系図を収集した鈴木真年(すずき・まとし)氏について紹介します。竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)からいただいた尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』(晩稲社、1984年)の「鈴木真年年譜」によれば、氏の経歴は次のようです。要事のみ抜粋します。

1831年(天保二年) 1歳 江戸神田鎌倉河岸に生まれる。幼名房太郎、のち今井源太また真年と改める。(古賀注:ウィキペディアによると、煙草商橘屋の主・鈴木甚右衛門(今井惟岳)の嫡子として生まれる。)
1849年(嘉永二年)19歳 紀州滞在中、古代来朝人考・御三卿系譜の草稿成る。
1861年(文久元年)31歳 栗原信充に入門の礼をとる。主に系譜の学を学ぶ。
1864年(元治元年)34歳 栗原信充薩州に赴く。師を送り専ら独学。
1865年(慶應元年)35歳 紀州藩の懇請を受け藩士となり系譜編集事業の任につく。熊野本宮に居を定める。熊野神社の関係事業にも参画する。
1866年(慶應二年)36歳 この頃織田家系草稿成る。
1867年(慶應三年)37歳 この頃諸系譜草稿成る。
1868年(明治元年)38歳 この頃諸家譜草稿成る。
1869年(明治二年)39歳 七月弾正台設立。紀州藩を去って弾正台に入る。
1870年(明治三年)40歳 この頃諸国百家系図草稿成る。
1871年(明治四年)41歳 百家系図六十四冊版本完成。九月弾正台廃止となり、司法省が設置される。十一月八日弾正台より宮内省に転ず。内舎人を奉仕。俳号を松柏と称う。
1872年(明治五年)42歳 四月五日雑掌に任ぜられる。この頃諸氏家牒・武家大系図(真年稿)成る。
1873年(明治六年)43歳 五月二十五日宮内省を辞す。七月三日司法省に入る。十一等出仕に補せられる。
1874年(明治七年)44歳 浅草蔵前の文部省所管の図書館員を兼務する。十一月五日名法中属に任ぜられる。
1875年(明治八年)45歳 この頃諸家系譜(二十六冊)成る。五月四日司法権中権に任ぜられる。
1876年(明治九年)46歳 十二月二十一日司法省を辞す。
1877年(明治十年)47歳 古家大系図(真年稿)草稿なる。
1878年(明治十一年)48歳 華族諸家伝草稿成る。明治新版姓氏録二冊完成。十月玉養堂より苗字盡解明二冊を出版。引続き名乗字盡略解、諸家系図取調所を出版。
1879年(明治十二年)49歳 史略名称訓義(版本)二冊出版。十一月十三日印刷局に入り巡回事務取調掛となる。
1880年(明治十三年)50歳 五月三十日華族諸家伝三巻出版。十月二十日印刷局を辞し十二月二十七日参謀本部編纂課に入り当省御用掛を申し付られ月俸五十円を受ける。住居は浅草区浅草小島町八番地。
1881年(明治十四年)51歳 この頃三才雑録成る。
1882年(明治十五年)52歳 九月十三日東京地学協会社員となる。
1883年(明治十六年)53歳 六月二十四日亜細亜協会賛成会員に推薦さる。古事記正義三冊草稿成る。
1884年(明治十七年)54歳 九月日本事物原始第一集を古香館より出版。十一月皇族明鑑(二冊)を博公書院より出版。十一月八日陸軍省御用掛を辞す。住居は牛込区簞笥町十六番地。
1885年(明治十八年)55歳 五月八日陸軍省総務局庶務課に転ずる。十月三十日陸軍省を辞す。
1886年(明治十九年)56歳 この頃系図叢・松柏遺書草稿成る。
1887年(明治二十年)57歳 山縣有朋・田中光顕邸にて古事記の講義を一週に二回行う。又交詢社に於ても講義をする。古事記正義(一巻)を出版。交詢社の名誉会員に推される。十二月二十六日修史局に入る。
1888年(明治二十一年)58歳 皇族明鑑(二冊)版本成る。十月十三日帝国大学における大日本編年史の編纂に従事し総裁重野安繹氏の下で働く。日本外史正誤成る。
1889年(明治二十二年)59歳 六月八日皇族明鑑増補再版。十月十一日爵位局戸籍課を兼務す。十一月八日辞す。
1890年(明治二十三年)60歳 十一月一日藤島神社の依頼により新田族譜を編集出版。住居は牛込区横寺町一〇番地。
1891年(明治二十四年)61歳 この春鴻池家その他知人の懇請により三月三十一日帝大を辞し単身大阪に赴く。大阪にて国学校の設立等を計画、熊野神社復興にも力を盡す。裾野狩衣を大阪朝日新聞に連載。
1892年(明治二十五年)62歳 大阪積善館より裾野狩衣を出版。住居を大阪市南区東清水町三百九十七番地に定めて東京より家族を呼ぶ。
1893年(明治二十六年)63歳 主として系譜の編集に従事し傍ら熊野神社を中心として国学校設立を運動する。専ら国教達成に努める。
1894年(明治二十七年)64歳 四月十五日胃弱にて大阪市南区東清水町三百九十七番地に逝去。葬儀は大阪の自宅にて仏式を以て行い、一年祭も同様大阪の地で行う。遺骸は後東京雑司ケ谷甲種四号地に葬る。戒名は松柏院頼誉天鏡真空居士。

 この「鈴木真年年譜」によれば、幕末に系図学を学んだ鈴木真年氏は明治新政府において国家的事業としての系図収集や編纂に携わっていたことがうかがえます。
 生涯をかけて収集・編纂した系図は膨大な数にのぼり、代表的な系図集として『百家系図稿』(21冊)、『百家系図』(63冊)、『諸氏家牒』(3冊)、『諸氏本系帳』(8冊)、『諸国百家系』(2冊)などがあり、今回、史料批判を試みようとする「倭王(松野連)系図」は『百家系図稿』(静嘉堂文庫所蔵)と『諸系譜稿』(国会図書館所蔵)に収録されているとのことです。
 わたしは鈴木真年氏はもとより、氏のこうした業績を全く知りませんでした。尾池誠さんも『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』において、次のように述べています。

 「言語に言いつくせないほどの業績を残しているにもかかわらず、鈴木真年らは不当な評価を受けたまま注目されることもなく現在に至ったというわけである。」(42頁)

 非力ではありますが、鈴木真年氏の業績の一部(「倭王(松野連)系図」)でも、多元史観・九州王朝説の視点から再評価できればとわたしは考えています。(つづく)


第2432話 2021/04/12

「倭王(松野連)系図」の史料批判(1)

 ようやくこの日がやってきました。今までその重要性を疑ったことはないものの、史料批判の方法がわからず、手をつけてこなかったテーマがありました。真偽不明、かつ魅惑的な史料、「倭王(松野連)系図」の研究です。
 今から16年前のことです。竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』(晩稲社、1984年)のコピーをいただきました。そのときのことを「洛中洛外日記」29話(2005/09/18)〝松野連系図と九州王朝系譜〟で次のように記しています。

 〝9月17日、古田史学の会関西例会が行われました。(中略)
 今回、興味深かった発表の一つが、飯田満麿さん(本会会計)の「九州王朝の系譜」でした。九州王朝、倭王の系譜復原の試みとして、高良玉垂命系図と松野連系図、それに『二中歴』の九州年号を重ね合わせた試案を提示されました。ベーシックな研究ですが、こうした基礎的で地道な研究も大切です。
 九州王朝系系図の中でも、以前から注目されていたものが「松野連系図」です。倭の五王の名前なども見え、他方、近畿天皇家の天皇は含まれないという系図ですが、そのまま全面的に信用できたものか、疑問点も少なくありません。いずれ、しっかりとした史料批判を行って、当系図の研究を進めたいと願っています。なお、例会当日、松野連系図のコピーを幸いにも竹村順弘さん(会員・京都府木津町)からいただくことができました。この場をおかりして御礼申し上げます。〟

 呉王夫差を始祖として、倭の五王(讃、珍、済、興、武)の名前が記されている同系図は古田学派の研究者に早くから注目されてきました。しかし、古田先生が本格的な研究対象とされることはありませんでした。わたしも、このような真偽不明の史料に手を出すのは危険と感じていましたし、何よりもどの程度信頼できるのかという史料批判の方法さえもわかりませんでした。もしかすると、『日本書紀』や『宋書』の記事を自家の系図に取り入れた、後代に造作された系図かもしれないからです。
 しかし、この系図のことが気になったまま何年も過ぎたのですが、永年勤めてきた化学会社を昨年定年退職し、ようやく研究時間がとれるようになり、この系図に真正面から向かい合うことにしました。どのような結論に至るのかはまだわかりませんが、しばらく思考実験にお付き合い下さい。(つづく)


第2431話 2021/04/11

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (4)

 正木さんからのメール、「字体の変遷」

 石田泉城さんの「『祢軍墓誌』を読む」(注①)に触発されてスタートした本シリーズですが、それを読んだ正木裕さん(古田史学の会・事務局長)よりメールが届き、貴重な情報をご教示いただきました。

 『大辞林』の「六書と書体の変遷表」によれば、六朝・北魏・隋唐では「本」の楷書は「夲」となっており、藤原宮木簡の「夲位進第壱・・」や井眞成墓誌が「・・公姓井字眞成國號日夲」とあるのは当然とのことなのです。つまり、「夲」が「本」の「代わり」に通用していたのではなく、「六朝・北魏・隋唐時代は『夲』の字体が正しかった」のであり、当然、当時の倭国でも「夲」が用いられていたということでした。

 わたしはこうした中国での字体の変遷を知りませんでしたので、正木さんからのメールを拝見し、「ああ、そうだったのか」と腑に落ちました。というのも、北魏から隋唐時代の字体調査を行ったとき(注②)、専門書に掲載された当時の金石文や拓本を少なからず見たのですが、それらには「夲」の字体が普通に使用されており、むしろ「本」を見た記憶がなかったからです。国内の木簡調査でも同様でした。そのため、慎重な表現ではありますが、「その当時の国名表記の用字としては、『日夲』が使用されていた可能性の方が高いとするのが、日中両国の史料事実に基づく妥当な理解ではないでしょうか。」(注③)としたわけです。

 この度の正木さんからのメールにより、拙稿での結論が漢字学における字体の変遷研究結果と同じであったことを知り、わたしの推定が的外れではなかったことに自信を得ました。そうすると、「夲」が「本」に戻った時代とその理由についても知りたくなりましたが、漢字学の世界では既に研究済みのことかもしれません。この点、何かわかりましたら報告します。最後に、ご教示いただいた正木さんに感謝いたします。(おわり)

(注)
①石田泉城「『祢軍墓誌』を読む」『東海の古代』№248、2021年4月。
②古賀達也「洛中洛外日記」2090~2105話(2020/02/25~03/07)〝三十年ぶりの鬼室神社訪問(1)~(10)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2099~2102話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2106(2020/03/11)〝七世紀の筆法と九州年号の論理〟
③古賀達也「洛中洛外日記」2428話(2021/04/10)〝百済人祢軍墓誌の「日夲」について (2)〟

百済人祢軍墓誌


第2430話 2021/04/11

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その5)

服部静尚
「太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する」

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の構成は「巻頭言」の後に「総括論文」「各論」「コラム」、そして特集以外の「一般論文」からなっています。「一般論文」は会員からの投稿、『古田史学会報』などに掲載された論稿を対象に、書籍の形で後世に残すべきと編集部で判断したものを採用します。今回、採用論文選考の編集会議でわたしが最も強く推薦したのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の「太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する」でした。
 同論稿は『古田史学会報』150号(2019年2月)に掲載されたもので、わずか五頁の小論ですが、シンプルで頑強な論理と根拠に基づいた秀論で、古代の真実(多元史観・九州王朝説)は万人の眼前にあり、かくも簡明で頑固であるということを示す好例でした。「太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する」という、この服部説について、わたしは「洛中洛外日記」1834話(2019/02/09)〝『古田史学会報』150号のご案内〟において、次のように評しました。

 〝服部さんは、太宰府条坊都市の規模が平城京などの律令官僚九千人以上とその家族が居住できる首都レベルであることを明らかにされ、太宰府が首都であった証拠とされました。この論理性は骨太でシンプルであり強固なものです。管見では古田学派による太宰府都城研究において五指に入る優れた論稿と思います。〟

 同論稿には服部さんご自身による先行論文「古代の都城 ―『宮域』に官僚約八〇〇〇人―」(注)がありますので、そちらも是非お読みいただければと思います。

(注)服部静尚「古代の都城 ―『宮域』に官僚約八〇〇〇人―」『発見された倭京―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集、明石書店、2018年)。初出は『古田史学会報』136号、2016年10月。


第2429話 2021/04/10

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (3)

 ―対句としての「日夲」と「風谷」―

 石田泉城さんの「『祢軍墓誌』を読む」(注①)では、百済人祢軍墓誌に見える「于時日夲餘噍」を「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)とする新読解を発表されました。「本」と「夲」は別字であり、墓誌の「日夲」を国名の「日本」とはできないとしたため、こうした読解に至ったものと思われます。漢文の訓みとしては可能なのかもしれませんが、この訓みを否定することになる見解を東野治之さんが発表していますので紹介します。

 百済人祢軍墓誌の当該部分は次の通りです。

「于時日本餘噍據扶桑以逋誅風谷遺氓負盤桃而阻固」

 これを東野さんは次のように訓まれ、正格漢文として対句になっているとされました。(注②)

「時に日本の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋(のが)れ、風谷の遺氓、盤桃を負いて阻み固む。」

 この「日本の餘噍」と「風谷の遺氓」が対句になっており、「正格の漢文体で書かれた文章は、厳格な対句表現を特徴とする。」と指摘されました。ただし東野さんは、この「日本」を国名とはされず、「日本餘噍」は百済の残党とされています(注③)。

 この東野さんの訓みは優れたものと思いますが、わたしは「日本餘噍」を前期難波宮か近江朝に落ち延びた九州王朝の残党と考えており、この点が大きく異なっています。言わば、一元史観と多元史観の相違です。なお、「于時日本餘噍」を「于時日、本餘噍」と区切る訓みは、ブログ「古代史の散歩道など」(注④)の主宰者が既に発表されていますので、ご参考までに当該部分を転載します。

【以下、部分転載】
私の本棚 東野治之 百済人祢軍墓誌の「日本」 2018/07/01
掲載誌『図書』2012年2月号(岩波書店)
(前略)
東野氏は、「于時」を先触れと見て、「日本余噍、拠扶桑以逋誅」とこれに続く「風谷遣甿、負盤桃而阻固」を四字句+六字句構成の対句と捉え、まことに、妥当な構文解析と思う。
ここに、当ブログ筆者は、「于時日本余噍、拠扶桑以逋誅」と六字句+六字句と読めるではないか、そして、それぞれの六字句は、三字句+三字句で揃っているのではないか、と、あえて異説を唱え、見解が異なる。
つまり、当碑文は、「于時日 本余噍 拠扶桑 以逋誅」と読み、国号にしろ、詩的字句にしろ「日本」とは書いてないとするのが、当異説の壺であり、無謀かも知れないが旗揚げしているのである。
ちなみに、「本余噍」とは、「本藩」、すなわち「百済」余噍、つまり、「百済」残党である。
従って、当碑文は「日本」国号の初出資料ではないと見るのである。これは、東野氏の説くところに整合していると思う。(後略)
【転載おわり】

 百済人祢軍墓誌については『古代に真実を求めて』16集(2013年、明石書店)で特集しており、ご参照いただければと思います。次の論稿が掲載されています。

阿部周一 「百済祢軍墓誌」について ―「劉徳高」らの来倭との関連において―
「百済禰軍墓誌」について — 「劉徳高」らの来倭との関連において 阿部周一(古田史学会報111号)

古賀達也 百済人祢軍墓誌の考察
百済人祢軍墓誌の考察 古賀達也(古田史学会報108号)

水野孝夫 百済人祢軍墓誌についての解説ないし体験
資料大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序

(注)
①石田泉城「『祢軍墓誌』を読む」『東海の古代』№248、2021年4月
②東野治之「百済人祢軍墓誌の『日本』」岩波書店『図書』756号、2012年2月。
③東野治之「日本国号の研究動向と課題」『史料学探訪』岩波書店、2015年。初出は『東方学』125輯、2013年。
④https://toyourday.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-337c.html

百済人祢軍墓誌


第2428話 2021/04/10

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (2)

 ―古田先生との冨本銭研究の想い出―

 「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248に掲載された石田泉城さん(名古屋市)の「『祢軍墓誌』を読む」の最大の論点と根拠は墓誌に記された「日夲」の文字で、「本」と「夲」は本来別字で、この部分は国名としての「日本(夲)」ではないとするものです。そして、次のように述べられています。

 「文字の精査は、「壹」と「臺」を明確に区別した先師古田武彦の教えの真髄です。」『東海の古代』№248

 わたしもこのことについて、全く同感です。古田ファンや古田学派の研究者であれば御異議はないことと思います。それではなぜ同墓誌の「日夲」を別字の「日本」のことと見なしたのかについて説明します。

 実はこの「本」と「夲」を別字・別義とするのか、別字だが同義として通用したものと見なすのかについて、「古田史学の会」内で検討した経緯がありました。それは飛鳥池遺跡から出土した冨本銭がわが国最古の貨幣とされたときのことです。当時、「古田史学の会」代表だった水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から、「フホン銭と呼ばれているが、銭文は『冨夲』(フトウ)であり、それをフホンと読んでもよいものか」という疑義が呈されました(注①)。

 その問題提起を受け、わたしも検討したのですが、通説通り「フホン」と読んで問題ないとの結論に至りました。古田先生も同見解だったと記憶しています。当時、古田先生とは信州で出土した冨本銭(注②)を一緒に見に行ったこともありましたが、先生も一貫して「フホン銭」と呼ばれていました。その後、わたしからの発議と古田先生のご協力により、「プロジェクト 貨幣研究」が立ち上がりしました。その成果の一端は『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』などに収録されました(注③)。

 古田先生やわたしが「冨夲」を「フホン」と呼んでもよいと判断した理由は、国内の古代史料には「夲」の字を「本」の別字として使用する例が普通にあったからです。たとえば古田先生が京都御所で実物を調査された『法華義疏』(御物、法隆寺旧蔵)の巻頭部分に記された次の文です。

 「此是 大委国上宮王私
集非海彼夲」

 この文は「此れは是れ、大委国上宮王の私集にして、海の彼(かなた)の夲(ほん)に非ず」と訓まれており、「夲」は「本」の同義(異体字)と認識されています。「大委国上宮王」とあることから、多利思北孤の自筆の可能性もあり、いわば九州王朝内での使用例です。

 更にこの十年に及ぶ木簡研究においても、7~8世紀の木簡に「夲」の字は散見されるのですが、むしろ「本」の字を目にした記憶がわたしにはありません。ですから当時の木簡においては、「夲」が「本」の代わりに通用していたと考えてもよいほどでの史料状況なのです。たとえば明確に「本」の異体字として「夲」を用いた8世紀初頭の木簡に次の例があります。

 「本位進第壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部/冠」(藤原宮跡出土)

 これは山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階(本位)「進第壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。この「本位」の「本」の字体が「夲」なのです。

 以上のような史料事実を知っていましたので、冨本銭の「夲」の字も「本」の別字(異体字)と、むしろ見なすべきと考えられるのです。

 『日本書紀』や中国史書における「日本」については、原本も同時代刊本も現存しないため、7~8世紀頃の字体は不明とせざるを得ませんが、後代版本では「日夲」の表記が散見され、その当時には「本」の異体字として「夲」が普通に使用されていたようです。具体的には『通典』(801年成立)の北宋版本(11世紀頃)には「倭一名日夲」とありますし、いつの時代の版本かは未調査ですが、岩波文庫『旧唐書倭国日本伝』に収録されている『新唐書』日本国伝の影印(163頁)にも「日夲国」の使用例が見えます。

 他方、中国の金石文によれば、百済人祢軍墓誌(678年没)よりも60年ほど後れますが、井真成墓誌(734年没)には明確に国号としての日本が見え(注④)、この字体も「日夲」です。

 「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
公姓井字眞成國號日本」(後略)

 従って、百済人祢軍墓誌の「日夲」も「日本」のことと理解して問題ありません。むしろ、その当時の国名表記の用字としては、「日夲」が使用されていた可能性の方が高いとするのが、日中両国の史料事実に基づく妥当な理解ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①水野孝夫「『富本銭』の公開展示見学」『古田史学会報』31号、1999年4月。当稿においても、〝「本」字の問題(「本」の字は「木プラス横棒」ではなくて、「大プラス十」と刻字されている。ここにも意味があるかも知れない)。〟と述べている。
②長野県の高森町歴史民俗資料館に展示されている富本銭を見学した。同富本銭は高森町の武陵地1号古墳から明治時代に出土したもの。同資料館を訪問したとき、同館の方のご所望により、来訪者名簿に大きな字で、「富本銭良品 古田武彦」と先生は署名された。
③古田武彦「プロジェクト 貨幣研究 第一回」『古田史学会報』31号、1999年4月。
古田武彦「プロジェクト貨幣研究 第二回(第二信)」『古田史学会報』33号、1999年8月。
古田武彦「プロジェクト貨幣研究 第三回」『古田史学会報』34号、1999年10月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第一報 古代貨幣異聞」(下にあり)
『古田史学会報』31号、1999年4月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第二報 『秘庫器録』の史料批判(1)」
『古田史学会報』33号、1999年8月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第三報 『秘庫器録』の史料批判(2)」
『古田史学会報』34号、1999年10月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第四報 『秘庫器録』の史料批判(3)」
『古田史学会報』36号、2000年2月。
『古代に真実を求めて』第三集(2000年11月、明石書店)に「古代貨幣研究・報告集」として、次の論稿が掲載された。
古賀達也 プロジェクト貨幣研究 規約
古田武彦 プロジェクト貨幣研究 第一回、第二回、第三回
山崎仁礼男 古代貨幣研究方針
木村由紀雄 古代貨幣研究方針
浅野雄二 第一回報告
古賀達也 古代貨幣異聞
古賀達也 続日本紀と和銅開珎の謎
古賀達也 古代貨幣「無文銀銭」の謎
古賀達也 古代貨幣「賈行銀銭」の謎
古賀達也 『秘庫器録』の史料批判(1)(2)(3)
④井真成墓誌には次のように、「國號日夲」と記されている。
「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
■公姓井字眞成國號日夲才稱天縱故能
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六皇上
■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
■卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水
■原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
■兮頽暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶
歸于故鄕」
※■は判読できない欠字。

百済人祢軍墓誌


第2427話 2021/04/09

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (1)

 昨日、「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248が届きました。同紙には、「日本」という国名が記されているとして注目された「百済人祢軍墓誌」に関する論稿二編が掲載されており、興味深く拝読しました。それは、畑田寿一さん(一宮市)の「祢軍墓誌からみる白村江の戦い以後の日本」と石田泉城さん(名古屋市)の「『祢軍墓誌』を読む」です。いずれも「古田史学の会・東海」にふさわしい多元史観・九州王朝説による論稿で、新たな視点と仮説が提起されており、とても触発されました。

 畑田稿は〝祢軍墓誌の記述からは、白村江戦以降の日本列島に東西二つの国があったことが読み取れる〟というもので、西の九州王朝と東のヤマト朝廷の併存という仮説へと展開されています。

 石田稿は、祢軍墓誌に記されている文字は「日夲」であり、「本」と「夲」は本来別字で、この部分は国名としての「日本(夲)」ではないとするものです。そして、通説のように「于時、日夲餘噍」(この時、日本の餘噍は)と訓むのではなく、「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)と訓むべきとする新読解を提起されました。そして、この「夲餘噍」を百済の残党と解されました(注①)。
わたしとしては当墓誌についてまだ研究段階でもあり、いずれの説にも賛成できるわけではありませんが、学問研究には異なる説が自由に発表でき、批判を歓迎し、互いにリスペクトしながら真摯に論争・検証することが大切と考えており、両仮説の発表を歓迎したいと思います。特に石田稿では、わたしが『古田史学会報』108号で発表した「百済人祢軍墓誌の『僭帝』」(注②)への批判もなされていましたので、精読させていただきました。

 ご批判いただいた拙稿は、「百済人祢軍墓誌」の存在を知った当初の論稿でもあり、不十分かつ不安定な内容でした。そこで、良い機会でもありますので、石田稿で指摘された論点について、わたしの理解を説明したいと思います。(つづく)

(注)
①餘噍とは残党の意味。
②古賀達也「百済人祢軍墓誌の『僭帝』」『古田史学会報』108号、2012年2月。これに先だって、次の「洛中洛外日記」で同墓誌について触れた。
古賀達也「洛中洛外日記」353話(2011/11/22)〝百済人祢軍墓誌の「日本」〟
古賀達也「洛中洛外日記」355話(2011/12/01)〝百済人祢軍墓誌の「僭帝」〟
古賀達也「洛中洛外日記」356話(2011/12/03)〝南郷村神門神社の綾布墨書〟

百済禰軍墓誌


第2426話 2021/04/08

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その4)

正木 裕

 「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)には「総括論文」として、先に紹介した谷本 茂さんの「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波」と並んで、正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)の「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」が掲載されています。
 この正木論文では、最新の考古学的発見が古田説の正しさを証明しているとして、福岡市の比恵・那珂遺跡が弥生時代最大規模の都市遺構であることや、近年立て続けに発見されている弥生の硯が福岡県を中心に数多く分布していること、銅鏡の鉛同位体分析の結果から三角縁神獣鏡が国産であることなどが紹介されています。更には『三国志』の里程記事の実証的な分析から、短里説(1里=約76m)の正しさを改めて証明されました。
 また、『俾弥呼と邪馬壹国』に収録された正木さんの別の論文「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」では、倭人伝に見える用語や漢字が周王朝に淵源していることに論究されており、倭人伝研究の最先端テーマを次々と手がけられていることがわかります。
 「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」の最後に書かれた「まとめ」を以下に転載します。〝「モノ」は「論証」されることによって始めて単なる「モノ」ではなく「物証・証拠」になる〟という指摘は、まさに学問(古田史学)の真髄です。

【以下、転載】
 『「邪馬台国」はなかった』発刊五十年を迎える。依然としてヤマト一元説は広く喧伝されているが、本稿で述べたように、近年の考古学や諸科学の発展により、五十年前に古田氏が唱えられた「博多湾岸邪馬壹国説」の正しさが、改めて証明されることとなった。
 また一方で、単なる砥石状の破片と見られていたものが、弥生期に遡る文字使用を示す硯だったことがわかった。これは「モノ」は「論証」されることによって始めて単なる「モノ」ではなく「物証・証拠」になることを示している。
 私たちの前にある「モノ」や「文献」を、一元史観による思い込みにとらわれず、もう一度多元史観により解釈することで『「邪馬台国」はなかった』で示された古田氏の事績をさらに豊にできることになろう。(54頁)