第2197話 2020/08/07

「大宝二年籍」断簡の史料批判(21)

 「大宝二年籍」の一つ、「御野国加毛郡半布里戸籍」に掲載された人々、あるいはその中の特定の家族は七世紀後半に至っても二倍年暦に基づく二倍年齢で自らの年齢を数えており、その年齢が「庚午年籍」に記録され、「大宝二年籍」にまで引き継がれたという作業仮説(思いつき)に基づき、同戸籍中の「寄人縣主族都野」家族中の三人の年齢を補正したところ、リーズナブルな年齢構成になりました。この新たな作業仮説の当否を検証するために、本シリーズ(19)で取り上げた四つの「戸」の人々の年齢を補正してみました。次の通りです。
 補正式:(「大宝二年籍」年齢-32)÷2+32歳=一倍年暦による実年齢

○「中政戸務從七位下縣主族都野」戸
 「下〃戸主都野」(59歳→45.5歳)
 「戸主妻阿刀部井手賣」(52歳→42歳)
   ―「嫡子麻呂」(18歳)※33歳以下で補正対象外。41→27.5歳差。
   ―「次古麻呂」(16歳)※33歳以下で補正対象外。43→29.5歳差。
   ―「次百嶋」(1歳)※33歳以下で補正対象外。58→44.5歳差。
   ―「児刀自賣」(29歳)※33歳以下で補正対象外。30→16.5歳差。
     ―「刀自賣児敢臣族岸臣眞嶋賣」(10歳)※33歳以下で補正対象外。
     ―「次爾波賣」(5歳)※33歳以下で補正対象外。
   ―「次大墨賣」(18歳)※33歳以下で補正対象外。41→27.5歳差。
 「妾秦人意比止賣」(47歳→39.5歳)
   ―「児古賣」(12歳)※47→33.5歳差。
 「戸主姑麻部細目賣」(82歳→57歳)

   「戸主甥嶋薬」(33歳)※33歳以下で補正対象外。
     ―「嫡子安麻呂」(5歳)※33歳以下で補正対象外。嶋薬と28歳差。
     ―「次吉麻呂」(1歳)※33歳以下で補正対象外。嶋薬と32歳差。

○「中政戸守部加佐布」戸
 「下〃戸主加佐布」(63歳→47.5歳)
 「戸主妻物マ志祢賣」(47歳→39.5歳)
  ―「嫡子小玉」(19歳)※33歳以下で補正対象外。44→28.5歳差。
  ―「次身津」(16歳)※33歳以下で補正対象外。47→31.5歳差。
  ―「次小身」(10歳)※33歳以下で補正対象外。53→37.5歳差。

 「戸主弟阿手」(47歳→39.5歳)
 「阿手妻工マ嶋賣」(42歳→37歳)
  ―「児玉賣」(20歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と27→19.5歳差。
  ―「次小玉賣」(18歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と29→21.5歳差。
  ―「次大津賣」(15歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と32→24.5歳差。
  ―「次小古賣」(8歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と39→31.5歳差。
  ―「次依賣」(2歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と45→37.5歳差。

 「戸主弟古閇」(42歳→37歳)
  ―「古閇児廣津賣」(3歳)※33歳以下で補正対象外。古閇と39→34歳差。

○「中政戸秦人山」戸
 「下〃戸主山」(73歳→52.5歳)
 「戸主妻秦人和良比賣」(47歳→39.5歳)
  ―「嫡子古麻呂」(14歳)※33歳以下で補正対象外。59→38.5歳差。
  ―「次加麻呂」(11歳)※33歳以下で補の対象外。62→41.5歳差。
 「妾秦人小賣」(27歳)※33歳以下で補正対象外。
  ―「児手小賣」(2歳)※33歳以下で補正対象外。71→50.5歳差。

 「戸主弟林」(59歳→45.5歳)
 「林妻秦人小賣」(42歳→37歳)
  ―「嫡子依手」(30歳)※33歳以下で補正対象外。林と29→15.5歳差。
  ―「依手子古麻呂」(8歳)※33歳以下で補正対象外。
―「次結」(24歳)※33歳以下で補正対象外。林と35→21.5歳差。
―「次伊都毛」(16歳)※33歳以下で補正対象外。林と43→29.5歳差。
―「次稲久利」(13歳)※33歳以下で補正対象外。林と46→32.5歳差。
―「次奴加手」(7歳)※33歳以下で補正対象外。林と52→38.5歳差。
○「中政戸秦人阿波」戸
 「下〃戸主阿波」(69歳→50.5歳)
  ―「嫡子乎知」(13歳)※33歳以下で補正対象外。56→37.5歳差。
  ―「次布奈麻呂」(11歳)※33歳以下で補正対象外。58→39.5歳差。
  ―「次小布奈」(8歳)※33歳以下で補正対象外。61→42.5歳差。
  ―「次根麻呂」(2歳)※33歳以下で補正対象外。67→48.5歳差。
―「戸主の児志祁賣」(33歳)※33歳以下で補正対象外。36→17.5歳差。

 「戸主甥小人」(57歳→44.5歳)
  ―「嫡子知加良」(30歳)※33歳以下で補正対象外。小人と27→14.5歳差。
  ―「次麻呂」(17歳)※33歳以下で補正対象外。小人と40→27.5歳差。

 「戸主甥志比」(49歳→40.5歳)
 「志比妻不破勝族阿波比賣」(22歳)※33歳以下で補正対象外。
  ―「嫡子牛麻呂」(22歳、兵士)※33歳以下で補正対象外。志比と27→18.5歳差。
  ―「次比津自」(19歳)※33歳以下で補正対象外。志比と30→21.5歳差。
  ―「次赤麻呂」(13歳)※33歳以下で補正対象外。志比と36→27.5歳差。
  ―「次赤安」(8歳)※33歳以下で補正対象外。志比と41→32.5歳差。
  ―「次吉嶋」(4歳)※33歳以下で補正対象外。志比と45→36.5歳差。
  ―「次荒玉」(3歳)※33歳以下で補正対象外。志比と46→37.5歳差。
  ―「児小依賣」(8歳)※33歳以下で補正対象外。志比と41→32.5歳差。
  ―「次忍比賣」(3歳)※33歳以下で補正対象外。志比と46→37.5歳差。

 以上の補正結果を概観しますと、「戸主」あるいは戸主以外の父親とその「嫡子」との年齢差が10歳代中頃から30歳代に収まっており、補正前の年齢差と比べるとかなりリーズナブルになっています。更に、高齢者の年齢も補正の結果、他の八世紀前半の古代戸籍と似たような状況に近づいており、わたしが疑問視していた二つの問題、①当時としてはかなり珍しい高齢者群、②戸主と嫡子の大きな年齢差、を解決しています。従って、わたしの作業仮説(思いつき)は有効であり、検討すべき学問的仮説と見なしてもよいのではないでしょうか。(つづく)


第2196話 2020/08/06

「大宝二年籍」断簡の史料批判(20)

 「御野国加毛郡半布里戸籍」の二つの疑問点、①当時としてはかなり珍しい高齢者群、②戸主と嫡子の大きな年齢差、という史料事実を合理的に解釈するためには〝七世紀における二倍年暦(二倍年齢)の採用〟という仮説を導入する他ないと、わたしは古代戸籍研究を始めた25年前から考えていました。しかし、戸籍年齢を単純に半分にするという方法では、母親や若年者の年齢が若くなり過ぎることによる年齢の齟齬という新たな問題が発生するケースもあり、その仮説と方法を採用することができませんでした。
 また、本シリーズの(18)で紹介した「寄人縣主族都野」家族の下記の年齢も、半分にすると母46.5歳、子22歳、孫1.5歳とリーズナブルになるのですが、「都野」家族全員が「大宝二年籍」造籍時まで二倍年齢で年齢計算し、「庚寅年籍」(690年)や「持統十年籍」(696年)に登録されることもなく、大宝二年になって初めて二倍年齢で戸籍登録したとは考えにくいのです。中でも「都野」は「兵士」であり、徴用時に年齢は登録されていたはずで、その後も二倍年齢で戸籍年齢を更新できたとは考えられません。

〈「寄人縣主族都野」家族中の三人の年齢〉
 (母)「若帯部母里賣」(93歳)―(子)「都野」(44歳)―(孫)「川内」(3歳)

 そこで参考になったのが、「大宝二年籍」には「庚午年籍」(670年)造籍時に発生したと考えられる異常な年齢ピークが存在するという南部昇さんの下記の指摘でした。

 「とくに私は、岸氏の指摘した大ピーク・小ピークは庚寅年籍によって生み出されたものではなく、『自庚午年籍至大宝二年四比之籍』すなわち、庚午年籍・庚寅年籍・『持統九年籍』などによって重層的に生み出されたものと考えているので、この点、岸氏と大いに見解を異にしている。」(南部昇『日本古代戸籍の研究』361頁)※本シリーズ(11~15)を参照されたい。

 「大宝二年籍」の記載年齢に「庚午年籍」造籍時の影響が認められるということですから、もしかすると「御野国」では七世紀まで二倍年齢が採用されており、初めての全国的造籍とされる「庚午年籍」造籍時に、当時の二倍年齢で年齢申告し、その後の造籍ではその年齢に一倍年暦による年数が加算されたのではないでしょうか。もしそうであれば、「大宝二年籍」の年齢には次のような現象が発生します。

(1)「庚午年籍」造籍後は一倍年暦による年齢加算が造籍毎に行われるので、庚午年(670年)以後生まれの人は、それ以前の二倍年齢の影響を受けないので、「大宝二年籍」の年齢をそのまま採用できる。
(2)庚午年(670年)より前に生まれた人(34歳以上)は、それまでの二倍年齢とそれ以後に加算される一倍年齢の合計が「大宝二年籍」に記載される。

 従って、34歳以上の年齢は次の補正式により、大宝二年時点の一倍年暦による年齢を確定できることになります。

 (「大宝二年籍」年齢-32)÷2+32歳=一倍年暦による実年齢

 この補正式を先の「都野」家族に適用すると次のようになります。

 (母)「若帯部母里賣」(93歳→62.5歳)
 (子)「都野」(44歳→38歳)※母親の出産年齢は24.5歳となる。
 (孫)「川内」(3歳)※33歳以下なので補正の対象外。

 このように、「若帯部母里賣」の年齢は62.5歳となり、これは当時としては普通の老人年齢であり、「都野」出産年齢も24.5歳となり、補正前の49歳と比べるとかなりリーズナブルです。更に「都野」の年齢が38歳となることにより、嫡子「川内」との年齢差も35歳にまで縮まり、より穏当な年齢構成の家族になりました。(つづく)


第2195話 2020/08/05

「大宝二年籍」断簡の史料批判(19)

 南部昇さんが『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)で指摘されたように、八世紀前半の戸籍に「戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている戸は非常に多い」例として「御野国加毛郡半布里戸籍」の中から、顕著な四戸について関係人物を抜粋し、親子関係をわかりやすく並べ替えて紹介します。(『寧楽遺文』上巻、昭和37年版による)

○「中政戸務從七位下縣主族都野」戸
 「下〃戸主都野」(59歳)
 「戸主妻阿刀部井手賣」(52歳)
   ―「嫡子麻呂」(18歳)※41歳差
   ―「次古麻呂」(16歳)※43歳差
   ―「次百嶋」(1歳)※58歳差
   ―「児刀自賣」(29歳)※30歳差
     ―「刀自賣児敢臣族岸臣眞嶋賣」(10歳)
     ―「次爾波賣」(5歳)
   ―「次大墨賣」(18歳)※41歳差
 「妾秦人意比止賣」(47歳)
   ―「児古賣」(12歳)※47歳差
 「戸主姑麻部細目賣」(82歳)

   「戸主甥嶋薬」(33歳)
     ―「嫡子安麻呂」(5歳)※嶋薬と28歳差
     ―「次吉麻呂」(1歳)※嶋薬と32歳差

〔解説〕戸主「都野」(59歳)の嫡子「麻呂」(18歳)との年齢差は41歳。末子の「百嶋」(1歳)との年齢差は58歳で、戸主の妻「井手賣」(52歳)が51歳のときの超高齢出産となります。他方、戸主の甥「嶋薬」(33歳)とその嫡子「安麻呂」(5歳)との年齢差28歳は常識的です。

○「中政戸守部加佐布」戸
 「下〃戸主加佐布」(63歳)
 「戸主妻物マ志祢賣」(47歳)
  ―「嫡子小玉」(19歳)※44歳差
  ―「次身津」(16歳)※47歳差
  ―「次小身」(10歳)※53歳差

 「戸主弟阿手」(47歳)
 「阿手妻工マ嶋賣」(42歳)
  ―「児玉賣」(20歳)※阿手と27歳差
  ―「次小玉賣」(18歳)※阿手と29歳差
  ―「次大津賣」(15歳)※阿手と32歳差
  ―「次小古賣」(8歳)※阿手と39歳差
  ―「次依賣」(2歳)※阿手と45歳差

 「戸主弟古閇」(42歳)
  ―「古閇児廣津賣」(3歳)※古閇と39歳差

〔解説〕戸主「加佐布」(63歳)の嫡子「小玉」(19歳)との年齢差は44歳。末子「小身」(10歳)とは53歳差です。

○「中政戸秦人山」戸
 「下〃戸主山」(73歳)
 「戸主妻秦人和良比賣」(47歳)
  ―「嫡子古麻呂」(14歳)※59歳差
  ―「次加麻呂」(11歳)※62歳差
 「妾秦人小賣」(27歳)
  ―「児手小賣」(2歳)※71歳差

 「戸主弟林」(59歳)
 「林妻秦人小賣」(42歳)
  ―「嫡子依手」(30歳)※林と29歳差
  ―「依手子古麻呂」(8歳)
―「次結」(24歳)※林と35歳差
―「次伊都毛」(16歳)※林と43歳差
―「次稲久利」(13歳)※林と46歳差
―「次奴加手」(7歳)※林と52歳差

〔解説〕戸主「山」(73歳)の嫡子「古麻呂」(14歳)との年齢差は59歳。次子の「加麻呂」(11歳)とは62歳差です。妾「秦人小賣」(27歳)との子「小賣」(2歳)とは71歳差。
 戸主の弟「林」の場合は、嫡子「依手」以外の子供たちとの年齢差が開いていることが注目されます。

○「中政戸秦人阿波」戸
 「下〃戸主阿波」(69歳)
  ―「嫡子乎知」(13歳)※56歳差
  ―「次布奈麻呂」(11歳)※58歳差
  ―「次小布奈」(8歳)※61歳差
  ―「次根麻呂」(2歳)※67歳差
―「戸主の児志祁賣」(33歳)※36歳差

 「戸主甥小人」(57歳)
  ―「嫡子知加良」(30歳)※小人と27歳差
  ―「次麻呂」(17歳)※小人と40歳差

 「戸主甥志比」(49歳)
 「志比妻不破勝族阿波比賣」(22歳)
  ―「嫡子牛麻呂」(22歳、兵士)※志比と27歳差
  ―「次比津自」(19歳)※志比と30歳差
  ―「次赤麻呂」(13歳)※志比と36歳差
  ―「次赤安」(8歳)※志比と41歳差
  ―「次吉嶋」(4歳)※志比と45歳差
  ―「次荒玉」(3歳)※志比と46歳差
  ―「児小依賣」(8歳)※志比と41歳差
  ―「次忍比賣」(3歳)※志比と46歳差

〔解説〕戸主「阿波」(69歳)の嫡子「乎知」(13歳)との年齢差は56歳。末子「根麻呂」(2歳)とは67歳差。「志比」の妻「阿波比賣」の年齢22歳は嫡子「牛麻呂」と同年齢であり、不審です(誤記・誤写か)。

 以上の例のように、戸主と嫡子の年齢差が開いていることや、出産年齢が超高齢出産となるケースもあり、同戸籍の記載年齢をそのまま信用するのは学問的に危険ではないかと、わたしは感じました。常識的には一世代20年くらいとして、戸主と嫡子の年齢差は20~30歳程度ではないかと思うのです。実際のところ、「御野国加毛郡半布里戸籍」にはそのような「戸」も多数あるのです。この一見不可解な史料状況をどのように考えればよいのか、わたしはこの25年間、ことあるごとに考え続けてきました。(つづく)


第2194話 2020/08/04

「大宝二年籍」断簡の史料批判(18)

 わたしが25年ほど前から古代戸籍の研究を始めたとき、古代戸籍に当時としてかなり珍しい高齢者が少なからず存在することに驚きました。その後、本連載の(2)(3)で紹介した「偽籍」という概念を知り、一応の疑問は解決できたのですが、それでもなお違和感を持ち続けてきました。それは、「大宝二年籍」のなかでも御野国戸籍におけるもう一つの注目点、戸主と嫡子の年齢差が大きいという史料事実です。この傾向は、戸主が高齢である場合はより顕著に表れ、一つ目の注目点である高齢者が少なくないという御野国戸籍の特徴とも密接に関連していました。
 このことは古代戸籍研究に於いて、従来から指摘されてきたところでもあります。たとえば、南部昇さんの『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)には次のような指摘がなされています。

 「『大日本古文書』に記載されている八世紀前半の戸籍を検討してゆくと、第60図(三三三頁)に例示した型の戸がかなり多いことがわかる。これらの戸は戸主の余命幾許もないのにその嫡子はいまだ幼少である、という型の戸であるが、ここに揚げた例の外に、戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている戸は非常に多い。」(315頁)

 南部さんが非常に多いと指摘されたこの傾向は戸主以外にも見られ、たとえば「御野国加毛郡半布里戸籍」の「縣主族比都自」戸に次の「寄人縣主族都野」家族の記載があります。

 「寄人縣主族都野」(44歳、兵士)
 「嫡子川内」(3歳)
 「都野甥守部稲麻呂」(5歳)
 「都野母若帯部母里賣」(93歳)※「大宝二年籍」中の最高齢者。
 「母里賣孫縣主族部屋賣」(16歳)

 これを親子順に並べると、次の通りです。

 (母)「若帯部母里賣」(93歳)―(子)「都野」(44歳)―(孫)「川内」(3歳)
             ―(子)「(不記載)」―(孫)「稲麻呂」(5歳)
             ―(子)「(不記載)」―(孫)「部屋賣」(16歳)

 この母と子と孫の年齢差は49歳と41歳であり、異常に離れています。特に都野は母里賣49歳のときの子供となり、女性の出産年齢としては考えにくい超高齢出産です。また、二代続けて年齢差が異常に離れているということも不可解です。当初、わたしは都野家族の年齢は二倍年暦による計算表記(二倍年齢)ではないかと考えたこともありました。二倍年齢なら、母46.5歳、子22歳、孫1.5歳となり、これであれば常識的な親子の年齢差となるからです。
 しかし、わたしはこの単純な二倍年齢による年齢表記とする理解を採用できませんでした。なぜなら、仮に都野が一倍年齢で22歳とすると、「大宝二年籍(702年)」以前の「庚寅年籍(690年)」や「持統十年籍(696年)」の造籍時に年齢が補足されており、一旦年齢が戸籍に登録されると、その後の造籍時に一倍年暦によりその間の年数が加算されますから、二倍年齢による更新登録は造籍手続き上不可能だからです。
 このような不可解な史料状況を合理的に説明できる仮説はあるでしょうか。それとも、たまたまこうした高齢者があり、たまたま超高齢出産により子との年齢差が大きく、たまたま子と孫の年齢差も大きかったという〝たまたま〟が〝偶然〟に三回重なったと理解するしかないのでしょうか。(つづく)


第2193話 2020/08/03

「大宝二年籍」断簡の史料批判(17)

 定年退職となり、ようやく古代戸籍について時間をとって研究できる環境になりましたので、「大宝二年籍」の史料批判を再開します。

 「大宝二年籍」とは国内では現存最古の戸籍で、大宝二年(702年)に造籍されたものです。現存するのは西海道戸籍(筑前国、豊前国、豊後国)と御野国(美濃国)戸籍の一部(断簡)だけで、中でも御野国戸籍は古い「浄御原律令」に基づいて造籍されており、その戸籍年齢において注目すべき二つの史料事実があります。一つは当時としては考えにくいような高齢者が少なからず存在すること、もう一つは戸主とその嫡子の年齢差が大きい家族が多いことです。
 御野国戸籍には次の高齢者(70歳以上)が見えます。

〔味蜂間群春部里〕
「戸主姑和子賣」(70歳)

〔本簀群栗栖太里〕
「戸主姑身賣」(72歳)

〔肩縣群肩〃里〕
「寄人六人部身麻呂」(77歳)
「寄人十市部古賣」(70歳)
「寄人六人部羊」(77歳)
「奴伊福利」(77歳)

〔山方群三井田里〕
「下々戸主與呂」(72歳)

〔加毛群半布里〕
「戸主姑麻部細目賣」(82歳)
「戸主兄安閇」(70歳)
「大古賣秦人阿古須賣」(73歳)
「都野母若帯部母里賣」(93歳)
「戸主母穂積部意閇賣」(72歳)
「戸主母秦人由良賣」(73歳)
「下々戸主身津」(71歳)
「下々戸主古都」(86歳)
「戸主兄多比」(73歳)
「下々戸主津彌」(85歳)
「下中戸主多麻」(80歳)
「下々戸主母呂」(73歳)
「寄人石部古理賣」(73歳)
「下々戸主山」(73歳)
「寄人秦人若賣」(70歳)
「下々戸主身津」(77歳)
「戸主母各牟勝田彌賣」(82歳)

 人類史上初の高齢化社会を迎えた現代日本であれば、上記の高齢者の存在は不思議ではありませんが、古代はおろか中近世でも珍しい高齢者群なのです。わたしはこれらの高齢者の年齢は二倍年暦による計算結果ではないかと疑いました。しかし、他の中年層や若年層の年齢は一倍年暦によると思われ、「大宝二年籍」全体は一倍年暦によると判断せざるを得ません。
 このような戸籍年齢という史料事実を従来の古代戸籍研究では無批判に採用してきたようです。しかし、古代における二倍年暦と二倍年齢の研究を続けてきたわたしの経験と直感は、「大宝二年籍」、なかでも同「御野国戸籍」の高齢層の存在という「史料事実」を「歴史事実」の実証として受け入れることは学問的に危険と感じました。(つづく)


第2192話 2020/08/01

九州王朝の国号(14)

 九州王朝は多利思北孤の時代、六世紀末から七世紀初頭に中国北朝(隋)との国交では「大委国」を国号として国書に記し、国内では従来の「倭国」あるいは「大倭国」を継続使用していたとする理解に至りましたので、本シリーズ最後のステージ、七世紀後半から大和朝廷と王朝交替する701年(ONライン)までの期間の国号について考察します。
 この時期の九州王朝の国号を記した同時代史料が見つかりませんので、八世紀前半の史料中に残された七世紀の国号表記を史料根拠として紹介します。次の例が比較的有力なものです。

①「対馬国司忍海造大国言さく、『銀始めて当国に出でたり。即ち貢上る』。是れによりて大国に小錦下位を授けたまう。おおよそ倭国に銀有ることは、此の時に始めて出る。」『日本書紀』天武三年(六七四)三月条

②「唐の人我が使いに謂ひて曰く、『しばしば聞かく、海の東に大倭国有り。これを君子国と謂ふ。人民豊楽にして、礼儀敦(あつ)く行はるときく。今使人を看るに、儀容大だ浄し。豈(あに)信(まこと)ならずや』といふ。」『続日本紀』慶雲元年(七〇四)七月条

③「三宝の奴(やっこ)と仕(つか)へ奉(まつ)る天皇が盧舎那の像の大前に奏(もう)し賜へと奏さく、此の大倭国は天地開闢(ひら)けてより以来に、黄金は人国より献(たてまつ)ることはあれども、斯(こ)の地には無き物と念(おも)へるに、聞こし看(め)す食国(おすくに)の中の東の方陸奥国守従五位上百済王敬福い、部内の少田郡に黄金在りと奏して献れり。(後略)」『続日本紀』聖武天皇・天平勝宝元年(七四九)四月宣命

 ①の天武紀に見える「倭国」や②③の「大倭国」は共に「日本」全体のことを指していますから、『日本書紀』成立時点(720年)において、九州王朝の領域を「倭国」と表記していたことになります。②の「大倭国」は遣唐使が聞いた中国側の認識です。また、聖武天皇の宣命に見える「大倭国」も天平勝宝元年(七四九)時点のものと考えられますから、聖武天皇が九州王朝の国号を「大倭国」と認識していたことがわかります。
 こられ史料の「倭国」「大倭国」という記事から、王朝交替以前の九州王朝の国号が多利思北孤の時代の国号と同一と考えてよいと思われます。それ以外の国号としては、「大委国」と九州王朝系近江朝が採用した「日本国」くらいしか史料に見えませんので、九州王朝の国号は次のような変遷をたどったとして良いのではないでしょうか。

1世紀頃 委奴国(志賀島の金印による)
3世紀頃~ 倭国(『三国志』による)
6世紀末頃~7世紀末 大委国(主に国外向け表記。『法華義疏』『隋書』による)、倭国、大倭国
7世紀後半(670年~) 日本国(九州王朝系近江朝) ※この「日本国」は7世末頃(藤原京)から大和朝廷に引き継がれる。

 以上が九州王朝国号の考察結果ですが、新たな史料や論理の発見により、更に修正が必要になるかもしれませんので、現時点での到達点とご理解下さい。引き続いて、「大和朝廷の国号」をテーマに考察を行います。(おわり)


第2191話 2020/07/31

九州王朝の国号(13)

 九州王朝は多利思北孤の時代、六世紀末から七世紀初頭に国号を「倭国」から「大委国」に変更したと、同時代の史料(『法華義疏』)に見える「大委国」などを根拠に考えたのですが、事実はそれほど単純ではないことに気づきました。というのも、九州年号「倭京」(618~622年)の存在が問題を複雑にするからです。
 この九州年号「倭京」は九州王朝が太宰府条坊都市を都(京)にしたことによる年号と解されます。その字義から、「倭国」の「京(みやこ)」を意味すると考える他ありません。従って、倭京元年(618)時点の国号表記に「倭」の字が使用されていたことになります。このときは多利思北孤の治世ですから(多利思北孤の没年は法興32年、622年)、先に示した国号表記「大委国」の「委」とは異なります。
 この矛盾を解決するために、考察を続けた結果、次のような理解に至りました。

①九州王朝は国名を「wi」と称し、南朝系音(日本呉音)で「wi」と発音する「委」「倭」の字を当てた(委奴国、倭国)。
②中国での北朝の勃興により、北方系音(日本漢音)への音韻変化が発生し、「倭」字は「wa」と発音するようになった。
③その結果、九州王朝は北朝系中国人から「倭:wa」と呼ばれるようになった。
④自らを「倭:wi」と称していた九州王朝は、音韻変化していない「委:wi」の字を国号表記として採用することによって、北朝系中国人からも「wi」と呼んでもらえるようにした。その痕跡が『法華義疏』に見える「大委国」である。
⑤他方、国内では伝統的日本呉音により「倭:wi」と発音されており、従来の国号の「倭」字使用を変更する必要はなかった。その根拠が「倭京」(618~622年)という九州年号である。
⑥わたしたちは九州年号の「倭京」を「わきょう」と呼んでいたが、公布当時(七世紀前半頃)は「ゐきょう」(日本呉音)と発音していたと考えられる。

 以上の理解により、九州王朝が多利思北孤の時代に北朝(隋)との国交では「大委国」を国号として国書に記し、国内では従来の「倭国」あるいは「大倭国」を継続使用していたと、わたしは考えるようになりました。(つづく)


第2190話 2020/07/27

『東京古田会ニュース』193号の紹介

『東京古田会ニュース』193号が届きました。同号には拙稿「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」を掲載していただきました。おりからのコロナ禍もあり、古代における感染症対策としての九州王朝と大和朝廷の事績や伝承を紹介したものです。
 たとえば、聖武天皇の時代に九州方面から流行した天然痘の脅威に曝され、天平八年(七三六)二月二二日に天皇家(光明皇后ら)が法隆寺で大規模な法会を開催し、釈迦三尊像を含む諸仏像に多くの奉納品を施入しています。この法会が「二月二二日」であることから、近畿天皇家は九州地方から発生した天然痘の流行を前王朝の祟(たた)りと考え、その前王朝の寺院(法隆寺)で大規模な法会を多利思北孤の命日「二月二二日」に開催したのです。
 九州王朝でも感染症の流行により九州年号を改元しています。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の研究によれば、金光元年(五七〇)に熱病蔓延という国難にあたり、邪気を祓うことを願って九州王朝が「四寅剣」(福岡市元岡古墳出土)を作刀しています。また、『王代記』金光元年条には「天下熱病起ル」との記事が見え、熱病の蔓延により九州年号が「金光」に改元されたことがわかります。
 同号に掲載された安彦克彦さんの「『和田家文書』から『日蓮聖人の母』を探る」も優れた論稿でした。安彦さんの和田家文書研究の進展にはいつも驚かされます。


第2189話 2020/07/23

『九州倭国通信』No.199のご紹介

 先日、「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.199を頂きましたので紹介します。同号には拙稿「九州年号『朱鳥』金石文の真偽論 ―三十年ぶりの鬼室神社訪問―」を掲載していただきました。
 「朱鳥三年」銘を持つ同時代九州年号金石文「鬼室集斯墓碑」を紹介した論稿で、銘文が発見された江戸時代から偽造説が発表され、後代製造のものとする説が主流を占めてきました。拙稿では、古田先生との共同調査の想い出などにも触れ、同墓碑が同時代九州年号金石文であることを説明しました。
 同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「大宮姫伝承の研究」も掲載されており、鹿児島県に伝わる「大宮姫伝承」について分析されたものです。わたしが古田史学に入門した当時の論文「最後の九州王朝―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」(『市民の古代』第10集、1988年)も紹介していただきました。
 なお、大宮姫を九州王朝の皇女で、天智の皇后「倭姫王」のこととする優れた仮説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から発表されています。


第2188話 2020/07/19

『二中歴』年代歴の「不記」は「不絶」か

 昨日、「古田史学の会」関西例会が開催されました。今回は発表者が10人もあり、質疑応答込みで30分ずつという短時間での発表となりました。事前に発表者にはこのことが伝えられていたこともあり、各人ともしっかりと時間厳守で発表されました。関西例会常連の発表とはいえ、お見事でした。
 プロの学会ではこれが当たり前ですから、短時間で要領よく研究論旨をまとめて発表するスキルが求められます。原稿をそのまま読み上げるというスタイルではなく、詳細についてはレジュメを参加者に後で読んでもらうことにして、論証要旨を口頭で解説するという発表スタイルがこれからは求められるでしょう。
 今月の例会でも先駆的で優れた報告が何件もありました。中でも、『二中歴』年代歴の記事「已上百八十四年年号卅一代〈不記〉年号(以下略)」の虫食い文字についての、谷本さんの新説には意表を突かれました。従来は「不記」とされてきた虫食い部分の文字について、尊経閣文庫本と国会図書館本の当該部分をデジタル画像処理され、その画像から、虫食い部分の文字は「不絶」の可能性があり、そうするほうが文脈上妥当な理解が可能になるとされました。従来説の「不記」でよいとするわたしの説とは異なりますが、新たな研究手法と従来説の弱点(文意が不自然)を克服できる仮説ですので、『古田史学会報』への投稿を要請しました。
 この他にも、『日本書紀』の「磐井の乱」記事に転用されている『芸文類聚』記事の分析から、「磐井の乱」記事は九州王朝で成立したものが『日本書紀』に転用されているとする仮説が服部さんから発表されました。転用された『芸文類聚』記事の分析という、古田学派としては初めての「磐井の乱」研究方法であり、触発されました。
 正木さんからは、『日本書紀』の大化年間頃に藤原京造営記事が移されているとする仮説が発表されました。九州王朝系記事が九州年号「大化」と共に50年移動されているものがあるという従来の研究方法を更に徹底されたものです。『日本書紀』編纂方法に迫る一つの仮説と論理を妥協せず徹底すると、とうとうここまで来たのかと感慨深く思いました。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔7月度関西例会の内容〕
①石井の乱から生まれた九州新朝(大阪市・西井健一郎)
②継体二題〈継体天皇と女系天皇・磐井の乱は南征だった〉(八尾市・服部静尚)
③古墳の前方部の付加と埋葬施設の増改築(大山崎町・大原重雄)
④敏達紀日羅記事の捉え方について(茨木市・満田正賢)
⑤『二中歴』・年代歴の「不記」への新視点(神戸市・谷本 茂)
⑥日野智貴氏に答える―「俀国=倭国」説は成立する―(京都市・岡下英男)
⑦『古事記』「人代篇」の「倭」について(たつの市・日野智貴)
⑧「女王国の東」の証言(姫路市・野田利郎)
⑨移された「藤原宮」の造営記事(川西市・正木 裕)
⑩『記紀』の「驛」、「駅制」について(東大阪市・萩野秀公)

◆「古田史学の会」関西例会(8月は第四土曜日に変更) 参加費1,000円
 08/22(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター

《各講演会・研究会のご案内》
◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 07/28(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館
    「聖徳太子(多利思北孤)と九州王朝①」 講師:正木 裕さん
 08/18(火) 13:00~17:00 会場:奈良県立図書情報館
    日本書紀完成1300年記念講演会
    「『日本書紀』に息づく九州王朝」 講師:古賀達也
    「箸墓古墳の本当の姿」 講師:大原重雄さん
    「吉野行幸の謎を解く」 講師:満田正賢さん
    「壬申の乱の八つの謎」 講師:服部静尚さん
    「『海幸・山幸神話』と『隼人』の反乱」講師:正木 裕さん
 09/29(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館
    「聖徳太子(多利思北孤)と九州王朝②」 講師:正木 裕さん

◆「古代史講演会in八尾」 会場:八尾市文化会館プリズムホール 近鉄八尾駅から徒歩5分 資料代500円
 08/01(土) 14:00~16:30 ①「倭の五王」を経て、倭国の独立 ②「聖徳太子と十七条憲法」 講師:服部静尚さん
 09/12(土) 14:00~16:30 ①「九州王朝」と「倭国年号」の世界 ②「盗まれた天皇陵」 講師:服部静尚さん

◆水曜研究会 会場:豊中倶楽部自治会館
 07/29(水) 13:00~17:00


第2187話 2020/07/18

「倭」と「和」の音韻変化について(3)

 「洛中洛外日記」で連載中の拙論「九州王朝の国号」では、九州王朝の国号変化(委奴→倭→大委)の要因として、①「倭」字の中国側での音韻変化(wi→wa)の発生、②その音韻変化を九州王朝が知り、影響を受けた、という二点が基本前提となっています。この二点が認められなければ拙論の仮説は成立しませんから、この基本前提は重要です。
 そこで、読者の皆さんにこの音韻変化という通説成立の根拠として、『記紀』歌謡における「わ」表記に使用される漢字として「和」「倭」があり、『日本書紀』成立時には「倭」は「わ」表記として使用されており、八世紀初頭の大和朝廷内では「倭」の音韻変化を受容したことを説明しました。それに先立ち、中国側での「倭」の音韻変化が南朝から北朝への権力交替により発生したのではないかとも述べました(中国側での音韻変化については、古代中国の音韻史料『説文解字』『切韻』などを別途解説したいと思います)。
 『古事記』歌謡の「わ」表記には「和」が使用され、『日本書紀』歌謡では「和」と「倭」が併用されており、その巻毎の分布状況が森博達さんの仮説(α群とβ群分類。『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』中公新書)にほぼ対応していることも〝「倭」と「和」の音韻変化について(2)〟で紹介したとおりです。ただし、八世紀初頭成立の『記紀』よりも古い同時代史料でも音韻を説明したいと思案していたところ、「洛中洛外日記」802話(2014/10/15)〝「川原寺」銘土器の思想史的考察〟のことを思い出しました。改めてその要旨を紹介します。
 奈良県明日香村の「飛鳥京」苑地遺構から出土した土器(坏・つき)に次の銘文が記されています。

 「川原寺坏莫取若取事有者??相而和豆良皮牟毛乃叙(以下略)」

 和風漢文と万葉仮名を併用した文章で、インターネット掲載写真を見たところ、杯の外側にぐるりと廻るように彫られています。文意は「川原寺の杯を取るなかれ、もし取ることあれば、患(わずら)はんものぞ(和豆良皮牟毛乃叙)~」という趣旨で、墨書ではなく、土器が焼かれる前に彫り込まれたようですから、土器職人かその関係者により記されたものと思われます。ということは、当時(七世紀)の土器職人は「漢文」と万葉仮名による読み書きができたわけですから、かなりの教養人であることがうかがわれます。
 この七世紀の銘文の「わ」表記に「和」が使用されているという史料事実から、遅くとも七世紀後半の近畿天皇家中枢の人々は万葉仮名を使用し、「わ」表記に「和」字を用いていたことがわかります。「和」を「わ」と発音するのは、南朝系音韻(日本呉音)ですから、『日本書紀』α群歌謡を「音訳」(森博達説)したとされる中国人史官(渡来唐人)による唐代北方音(「和」ka、「倭」wa)の影響を受けていないことになります。従って、『記紀』歌謡に見える「わ」表記の「和」と「倭」では、「和」字使用が倭国のより古い伝統的音韻表記であることがわかります。(つづく)


第2186話 2020/07/17

九州王朝の国号(12)

 本シリーズも最終章へと入ります。それは九州王朝から大和朝廷への王朝交替期、七世紀末から八世紀初頭での九州王朝の国号です。「壬申の乱」により「日本国」を名乗った「九州王朝系近江朝」は滅びます。その後の九州王朝(筑紫君薩野馬の王朝)、あるいは実力的に列島内ナンバーワンとなった天武や持統は自らの国号をどのようにしたのでしょうか。ここでも、同時代史料に基づいて考察を進めます。
 結論から言えば、天武や持統は国号として「日本国」を「九州王朝系近江朝」から継承したと、わたしは考えています。その史料根拠は次の藤原宮跡出土「評」木簡に見える「倭国」の表記です。

 「※妻倭国所布評大野里」(※は判読不明の文字)藤原宮跡北辺地区遺跡出土

 奈良文化財研究所HPの木簡データベースによれば、「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のことと説明されています。これは「評」木簡ですから、作成時期はONライン(701年)よりも前で、藤原宮跡出土の七世紀末頃のものと推測できます。近畿天皇家の中枢領域から出土した九州王朝末期の木簡に「倭国」という表記があることは注目されます。
 『旧唐書』などの中国史書では、九州王朝の国名を「倭国」と記していますが、『日本書紀』などの国内史料では今の奈良県に相当する「大和(やまと)国」を「倭国」や「大倭国」などと漢字表記されています。そして、「倭国所布評」木簡によれば、九州王朝の国名「倭国」を、王朝交代(701年)の直前に、近畿天皇家は自らの中枢領域「やまと」の地名表記に採用しているわけです。
 それでは、このとき近畿天皇家は自らの国名(全支配領域)を何と称したのでしょうか。九州王朝の国名「倭国」は、既に自らの中心領域名に使用していますから、これではないでしょう。そうすると、あと残っている歴史的国名は「日本国」だけです。
 このように考えれば、近畿天皇家は遅くとも藤原宮に宮殿をおいた七世紀末(「評」の時代)に、「日本国」を名乗っていたことになります。『旧唐書』に倭国伝と日本国伝が併記されていることから、近畿天皇家が日本国という国名で中国から認識されていたことは確かです。その自称時期については、漠然と七〇一年以後とわたしは考えていたのですが、この木簡理解の論理展開によれば、七〇一年よりも前からということになります。
 以上の論理により、天武・持統らは七世紀末には天智の「九州王朝系近江朝」の国号「日本国」を継承していたと思われます。このことについては、『東京古田会ニュース』168号の拙稿「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」で詳述しましたので、ご参照下さい。(つづく)