第1365話 2017/04/07

大宰府政庁造営年代の自説変更の思い出

 古代史研究において、自説の誤りに気づき、撤回したり変更することは悪いことではありません。そうした経緯をたどりながら学問や研究は進展するからです。ただ残念ながら、自説への批判を感情的に受け入れられなかったり、自説への思いこみが強く、自説が間違っていることに気づかない人が多いのも古代史研究ではよくみられることです。恥ずかしながら、わたし自身にもそうした経験がありますので、心したいと思います。
 わたしは大宰府政庁Ⅱ期造営年代について、自説を変更した経験があります。当初、太宰府条坊都市と大宰府政庁Ⅱ期は九州王朝の都として同時期に造営されたもので、その年代を7世紀初頭の「倭京元年(618)」が有力と考え、「よみがえる倭京(太宰府)-観世音寺と水城の証言-」(『古田史学会報』50号、2002年6月)という論文で発表しました。しかし、この説には当初から問題点がありました。それは観世音寺が創建される白鳳年間まで、大宰府政庁Ⅱ期の東側に位置するその地が50年近く“更地”のままで放置されたことになるという点でした。この不自然な状況をうまく説明できず、わたし自身もその理由がわからなかったのです。もし、この点を誰かに指摘されたら、わたしは困ってしまったことでしょう。
 そうしたときに知ったのが、井上信正さんの大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の創建よりも条坊都市の成立が早いという新説でした。この井上説を知って、わたしは太宰府条坊都市はそれまで通りに7世紀初頭の造営、大宰府政庁Ⅱ期と観世音寺は7世紀後半の白鳳年間とする現在の説に変更したのです。これにより、先の「観世音寺敷地の50年間更地」問題が回避されたのでした。
 この画期的な井上説はわたしの説だけではなく、大和朝庭一元史観に基づく考古学編年にも大きな影響を与えました。そしてそれ以降、一元史観では解決できない様々な矛盾が現れるのですが、そのことは別の機会にご紹介します。

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