弥生時代の絶対年代編年の根拠?
昨日は正木裕さん(古田史学の会・全国世話人、川西市)と服部静尚さん(古田史学の会・『古代に真実を求めて』編集責任者、八尾市)が京都にみえられ、拙宅近くの喫茶店で3時間以上にわたり古代史鼎談を行いました。主なテーマは弥生時代や古墳時代前期の土器編年の根拠、畿内出土画文帯神獣鏡の位置付けについてでした。さらには「古田史学の会」におけるインターネットの活用についても話題は及びました。
近年の考古学界の傾向ですが、畿内の古墳時代の編年が古く変更されています。大和の前期古墳を従来は弥生後期とされていた3世紀中頃に古く編年し、「邪馬台国」畿内説を考古学の面から「保証」しようとする動きと思われます。すなわち、卑弥呼が魏からもらった鏡が弥生時代の遺跡から出土しない畿内地方を「邪馬台国」にしたいがために、銅鏡が出土する畿内の前期古墳を3世紀前半に編年しなければならないという「動機」と「意図」が見え隠れするのです。
その編年は主に土器(庄内式土器など)の相対編年に依っているのですが、それら土器の相対編年が絶対年代とのリンクがどのような根拠に基づいているのか疑問であり、その「本来の根拠」を調査する必要があります。服部さんは関西の考古学者と討論や面談を積極的に行われており、考古学者の見解がかなり不安定な根拠に基づいているらしく、人によって出土事実知識さえも異なることが明らかになりつつあります。考古学界の多数意見となっている「邪馬台国」畿内説の「本来の根拠(土器編年の絶対年代とのリンク)」を、丹念に調べてみたいと思います。「邪馬台国」畿内説という「結論」を先に決めて、それにあうように土器編年を操作するという学問の「禁じ手」が使われていなければ幸いです。
他方、北部九州の弥生時代の編年も大きな問題があります。その最大の問題の一つが須玖岡本遺跡(福岡県春日市)の編年です。主に弥生中期(紀元0年付近)と編年されてきたのですが、古田先生は梅原末治さんの晩年の研究成果として須玖岡本D地点出土の「き鳳鏡」が魏西晋時代のものであり、従って須玖岡本遺跡は3世紀前半とされたことを繰り返し紹介されています。ところが、梅原さん自らが作成した従来説を梅原さん自身が否定した画期的な報告を古代史学界や梅原さんのお弟子さんたちは「無視」しました。
この梅原新編年によれば、須玖岡本遺跡は邪馬壹国の卑弥呼の時代に相当します。弥生遺跡の編年が100〜200年近く新しくなる可能性がある梅原新編年こそ、『三国志』倭人伝の内容と考古学的出土事実が一致対応する重要な学説なのです。この点を九州の考古学者は正しく認識すべきです。
倭人伝の考古学的研究の再構築が大和朝廷一元史観の考古学者にできないのであれば、わたしたち古田学派がやらなければなりません。こうした問題意識に到着した今回の鼎談はとても有意義でした。