難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(3)
前期難波宮整地層出土「須恵器坏B」を記した『難波宮址の研究 研究予察報告第四』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)の「実測図第十一 整地層下並竪穴内出土遺物実測図(Ⅱ)」に掲載されている坏B「35」の詳細な解説記事を探していたところ、『難波宮址の研究 研究予察報告第五 第二部』(昭和40年大阪市教育委員会1965年)に坏B「35」と思われる須恵器[7]とそれよりも大きい須恵器坏B[8]の図面(Fig.11 難波宮整地層出土土器、24頁)や写真(第一四次 東地区整地層下灰色土層出土遺物〔須恵器〕Fig.11-7、95頁)が掲載されており、次のように説明されていました。
「坏(7・8) いずれも聖武朝難波宮造営時の再整地層と思われる部分から出土したもので、いずれも体部が外傾し、底部に高台のつく式である。(7)は口縁復元径14.4cm、器高4.6cmで、全体暗褐色を呈し、軟質である。(8)は口縁復元径19.3cm、器高5.3cmの大形で、堅緻なつくりのものである。」(26頁)
更に坏7と坏8の年代について次のように説明されています。
「その出土が聖武朝時の再整地層に限定せられることから、その存続年代の一点を聖武朝難波宮の造営期間--神亀3年(726年)から天平6年(734年)頃のうち、初期の段階に近い時期に想定することができる。」(31頁)
このように、小森俊寬さんが前期難波宮天武朝説の根拠とされてきた整地層出土の須恵器坏Bは聖武朝の後期難波宮の「整地層(再整地層)」からの出土だったのです。報告書には聖武朝時の再整地層からの出土と記されているにもかかわらず、前期難波宮整地層からの出土品として、天武朝造営説の根拠とされていたのです。すなわち、出土層位の誤解に基づいて、前期難波宮の天武朝造営説が発表され、孝徳期造営説との論争が続けられてきたのです。(つづく)