第1830話 2019/01/26

難波から出土した「筑紫」の土器(2)

 大阪府歴史博物館の寺井誠さんの論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)によれば、福岡市早良平野から糸島東部にかけて多く見られる「平行文当て具痕」のある須恵器が難波から出土していることが確認され、七世紀前半頃に筑紫と難波との交流があったことの痕跡とされました。紹介された須恵器はいずれも破片であり、その数もそれほど多くはありませんでした。ところが、後期難波宮の瓦堆積層出土坏Bが報告されていた『難波宮址の研究 第七 報告編(大阪府道高速大阪東大阪線の工事に伴う調査)』(大阪市文化財協会、1981年3月)を精査していたところ、次のような難波宮下層遺跡出土須恵器の生産地についての記述があることに気づきました。

 「5.その生産地について
 これまで、難波宮下層遺跡出土の土器について、若干その編年的位相について述べたが、ここでは須恵器の生産地について述べてみたい。いうまでもなく、難波宮下層遺跡は須恵器の生産地でなく消費地であり、そこで使用した須恵器は単一の生産地のものだけではないことが想定されよう。もちろん、土器群の大部分は近畿の生産地によっていることもまた十分想定される。ただ、(B)の杯身中に際立った特徴をもつ一群があり、それらは他のものと生産地を異にすると考えられる。それは、158〜163で、たちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものである。これらは、個体数こそ少ないが稀有な例ではない。さらにそのうち、162・163は色調が灰白色を呈し、胎土も非常によく似ている。その色調・胎土の特徴は、(B)の坏蓋や、SK9343出土土器中の65・67にもみられ、特異な一群を形成している。
 杯身のたちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものは、管見の限りでは畿内地域より九州地方の窯跡出土の土器中に散見されるものに似ていると思われる。ただ、天観寺山窯出土土器の胎土とは肉眼観察の上では異なっており、現在のところこれら一群の土器が即九州等の遠隔地で生産されたとはいえない。しかし、その形態上の類似から何らかの系譜関係を考えることも不可能ではあるまい。また、難波宮下層遺跡が畿内以外の地域との交流があった可能性は考えておいてもいいのではなかろうか。このことはまた、難波宮下層遺跡の性格を考える上で重要な手がかりとなり得るであろう。」(186頁)※(B):黒灰色粘質土層

 このように慎重な筆致ですが、難波宮下層遺跡から出土した九州地方の須恵器と類似する特徴的な須恵器の一群の存在を指摘され、「その形態上の類似から何らかの系譜関係を考えることも不可能ではあるまい。」とされ、「難波宮下層遺跡が畿内以外の地域との交流があった可能性は考えておいてもいいのではなかろうか。このことはまた、難波宮下層遺跡の性格を考える上で重要な手がかりとなり得るであろう。」と締めくくられています。ここでの類似した九州地方の須恵器として次の報告書を紹介されています。

○北九州市埋蔵文化財調査会『天観寺山窯跡群』1977年
○太宰府町教育委員会『神ノ前窯跡-太宰府町文化財調査報告書第2集』1979年
○北九州市教育委員会「小迫窯跡」『北九州市文化財調査報告書第9集』1972年

 このように九州王朝の中枢領域の須恵器と類似していることは、先の寺井さんが報告した「平行文当て具痕」のある須恵器と同様です。難波宮下層遺跡からの出土ですから、7世紀前半頃には難波と筑紫とは交流があったことを疑えません。
 文献史学の研究によれば、『二中歴』に記された「難波天王寺」建立記事の他に、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)が「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』、『古代に真実を求めて』18集)で、九州王朝が河内の支配者(捕鳥部萬・ととりべのよろず)を滅ぼしたとする仮説を発表されています。これらによれば、九州王朝の天子・多利思北孤の時代に九州王朝は河内や難波を自らの支配領域とし、倭京二年(619)に「難波天王寺」を建立、白雉元年(652)には前期難波宮を造営したことになります。このように文献史学と考古学の成果が共に前期難波宮九州王朝副都説を支持する方向に向かっています。引き続き考古学の面からの調査研究を続け、古田先生からの宿題に答えていきたいと考えています。

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