日野智貴さんとの「河内戦争」問答(5)
日野さんへの返答の3回目を転載します。
2019.05.11【日野さんへの返答③】
九州王朝(倭国)の難波支配がいつ頃から始まったのかという問題への有力な「解」となったのが、冨川ケイ子さんの論稿「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収)でした。それは『日本書紀』崇峻即位前紀(用明天皇二年、587年)に見えるいわゆる蘇我・物部戦争記事の後半に記された捕鳥部萬(ととりべのよろず)征討記事です。河内を中心として八カ国の権力者であった捕鳥部萬を「朝庭」が滅ぼすという記事で、冨川さんはこの「朝庭」こそ九州王朝(倭国)のことであるとされました。
この冨川説によれば、この六世紀末頃の河内・難波征討により九州王朝はこの地を自らの直轄支配領域にするとともに、全国の分国と律令による一元支配の端緒になったとされました。従って、この「河内戦争」記事に律令用語(国司など)が現れるのは、九州王朝(倭国)が律令による支配を行った痕跡とされました。
わたしはこの冨川説を最有力と考え、九州王朝による7世紀中頃に前期難波宮や条坊都市難波京の造営を可能とした背景を説明できるとしました。というよりも、この冨川説以外に九州王朝が摂津難波を支配したとできる史料や伝承がないのです。
更にこのことと関連するような考古学的事実として、律令行政機能を有す巨大な難波複都造営に先立ち、数万人規模の巨大都市の出現に対応するための食糧増産の準備を九州王朝は始めています。それは古代最大規模のダム式灌漑施設「狭山池」(大阪狭山市)の造営です。この遺構から出土した木樋材の伐採年が616年(年輪年代測定)を示しており、まさに河内戦争以後の7世紀初頭頃から造営を開始したことがわかります。同時に九州王朝は難波天王寺も建立しています。このことは既に述べたとおりです。
「倭京二年 難波天王寺聖徳造」(『二中歴』)※倭京二年は619年。
この狭山池の堤体(ダム)の工法(敷粗朶工法)が水城と同じであることも判明しており、この点も九州王朝との関連を裏付ける根拠の一つとなっています。
こうして、前期難波宮九州王朝複都説と「河内戦争」説などにより、六世紀末頃(河内・難波侵攻と分国開始)から7世紀中頃(評制樹立)に至る当地の「九州王朝史」が復元できてきたのです。(つづく)