「多元の会」リモート発表会を終えて
今朝は「多元の会」でリモート発表させていただきました。テーマは〝筑紫なる倭京「太宰府」 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―〟で、主に前期難波宮九州王朝複都説に至った理由と、九州王朝(倭国)が採用した倭京と難波京の両京制において、太宰府(倭京)が権威の都であることを中心に解説しました。
ご質問やご批判もいただけ、新たな問題点の発見や認識を深めることができました。いただいた質問に対しては次のように回答しましたので、一部を紹介します。
《質問》前期難波宮を九州王朝の都とするのであれば、七世紀頃の支配範囲はどのようなものか。
《回答》九州王朝が前期難波宮で評制支配を行った範囲は、出土した「評」木簡の範囲により判断できる。
《質問》七世紀に九州王朝が存在した史料根拠は『旧唐書』以外に何があるのか。
《回答》六世紀から七世紀にかけて九州年号がある。年号は代表王朝の天子のみが発布できるものである。
《質問》天武十二年条の複都詔を34年前とするのではなく、『日本書紀』にあるように天武によるものとすべきではないか。
《回答》わたしもそのように考えてきたが、複都詔は34年前の649年に九州王朝が出した前期難波宮造営の詔勅とすれば、九州年号の白雉元年(652年)に完成した前期難波宮に時期的に整合する。従って正木説(34年遡り説)が有力と考えている。
※この点については「洛中洛外日記」1986話(2019/09/10)〝天武紀「複都詔」の考古学〟や『多元』160号(2020年)の拙稿「天武紀『複都詔』の考古学的批判」で詳述しているので参照されたい。