第2758話 2022/06/10

鬼ノ城の造営年代と造営尺の謎

 鬼ノ城のビジターセンターで購入した報告書『鬼城山』(注①)を何度も読んでいるのですが、従来の認識ではうまく説明できないことがいくつもありました。その一つが、鬼ノ城の造営年代と造営尺です。わたしはいわゆる神籠石山城の造営年代を多くは七世紀後半と考えてきました。その根拠を「洛中洛外日記」(注②)で次のように説明しました。一部転載します。

【以下、転載】
 古代山城研究に於いて、わたしが最も注目しているのが向井一雄さんの諸研究です。向井さんの著書『よみがえる古代山城』(注③)から関連部分を下記に要約紹介します。

(1) 1990年代に入ると史跡整備のために各地の古代山城で継続的な調査が開始され、新しい遺跡・遺構の発見も相次いだ(注④)。
(2) 鬼ノ城(岡山県総社市)の発掘調査がすすみ、築城年代や城内での活動の様子が明らかになった。土器など500余点の出土遺物は飛鳥Ⅳ~Ⅴ期(7世紀末~8世紀初頭)のもので、大野城などの築城記事より明らかに新しい年代を示している。鬼ノ城からは宝珠つまみを持った「杯G」は出土するが、古墳時代的な古い器形である「杯H」がこれまで出土したことはない。
(3) その後の調査によって、鬼ノ城以外の文献に記録のない山城からも7世紀後半~8世紀初め頃の土器が出土している。
(4) 最近の調査で、鬼ノ城以外の山城からも年代を示す資料が増加してきている。御所ヶ谷城―7世紀第4四半期の須恵器長頸壺と8世紀前半の土師器(行橋市 2006年)、鹿毛馬城―8世紀初めの須恵器水瓶、永納山城―8世紀前半の畿内系土師器と7世紀末~8世紀初頭の須恵器杯蓋などが出土している。
(5) 2010年、永納山城では三年がかりの城内遺構探索の結果、城の東南隅の比較的広い緩やかな谷奥で築造当時の遺構面が発見され、7世紀末から8世紀初めの須恵器などが出土している。
【転載終わり】

 以上の見解は今でも変わっていませんが、鬼ノ城については七世紀前半以前まで遡る可能性も考える必要がありそうです。確かに鬼ノ城から出土した土器は七世紀の第4四半期頃の須恵器杯Bが多く、その期間に鬼ノ城が機能していたことがわかります。
 他方、城内の倉庫跡の柱間距離から、その造営尺が前期難波宮(652年創建)と同じ29.2cm尺が採用されていることから、倉庫群の造営が七世紀中頃まで遡る可能性がありました。更に倉庫群よりも先に造営されたと考えられる外郭(城壁・城門など)の造営尺は更に短い27.3cmの可能性が指摘されており、時代と共に長くなるという尺の一般的変遷を重視するのであれば、外郭の造営は七世紀前半以前まで遡ると考えることもできます。
 この27.3cm尺は鬼ノ城西門の次の柱間距離から導き出されたものです。
 「(西門の)柱間寸法は桁行・梁間とも4.1mが基準とみられ、前面(外側)の中柱二本のみ両端柱筋より0.55m後退している(棟通り柱筋との寸法3.55m)。」『鬼城山』211頁
 この4.1mと3.55mに完数となる一尺の長さを計算すると、27.3cmが得られ、それぞれ15尺と13尺となります。その他の尺では両寸法に完数が得られません。この短い27.3cm尺について『鬼城山』では、北魏の永寧寺九重塔(516年)の使用尺に極めて近いとしています。今のところ、27.3cm尺がいつの時代のものか判断できませんが、鬼ノ城外郭の造営は七世紀前半か場合によっては六世紀まで遡るのかもしれません。(つづく)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2609話(2021/11/05)〝古代山城発掘調査による造営年代〟
③向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
④播磨城山城(1987年)、屋島城南嶺石塁(1998年)、阿志岐山城(1999年)、唐原山城(1999年)など。

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