鬼ノ城山麓の先行(五世紀)土塁
鬼ノ城の造営年代について、わたしは七世紀後半頃が穏当と判断していますが、城内の礎石跡や西門の造営尺が七世紀中頃以前のものと見ることもでき、悩ましいところです。それらとは別に、鬼ノ城の調査報告書(注①)には、鬼ノ城に先行する五世紀初頭の「城塞跡」が鬼城山々麓から発見されたことが報告されています。
高橋護「鬼ノ城に先行する城塞について」(注②)に土塁発見の経緯が次のように紹介されています。
「鬼ノ城を発見した当初、累線を追って何日も山頂を巡っていた。浸食の進行や、灌木の繁茂で明確に確認できない累線を追及していたのである。そんなある日、麓に目をやると不思議な光景が認められた。街道も通っていないのに、街村のように直線に谷を横断した家並みが見られたのである。不思議に思って現地を訪れてみると、周囲よりも一段高い土地が直線に伸びており、この土地を敷地として建てられた家並みであった。盛土は殆ど失われて整地されているが、東端では新池北側の丘陵の端に向かって斜面を這い上がっているのが観察された。
その状況から基肄城の山麓などに存在している小水城と呼ばれている防塁に相当するものではないかと考えていたのである」『鬼城山』181頁。
この土塁跡は「池ノ下散布地」と称され、鬼城山の東南1.8kmの山麓にあり、血吸川によって形成された谷部が総社平野に向かって大きく開放する位置に当たっています(総社市西阿蘇)。岡山県による発掘調査(2000年2~3月)の結果、古代の防塁であることが確認され、土塁の北にある山上からは掘立柱建物跡も発見されました。発掘調査結果は「付章 池ノ下散布地の試掘結果」(注③)に詳述されています。そして土塁基底部に敷かれた粗朶の葉の炭素年代測定値が五世紀初頭(AD410年)を示しました(注④)。
この測定結果を受けて、高橋氏は次のように自説を表明されました。
「5世紀の初め頃、吉備で起こった大きな出来事は、造山古墳群の築造であるが、それと並んでこの奥坂の土塁の築造があったのである。(中略)土塁から正面に見える山上に位置していることからみて、土塁と一体の遺跡である可能性を考えて良いのではないだろうか。
年代からみても、好太王軍と戦った倭の王は、この時代では最大の大王陵を築いた造山古墳の被葬者であったと考えられる。高句麗軍と戦った経験や、半島諸国の戦いの実績から城塞の重要性を知って、谷の入り口に土塁を築く高句麗型の城塞を造ったものであろう。(中略)
この城塞の築造が、後に足守宮の伝説を生む原因の一つになったものと考えられるが、土塁の前面に御門という字が遺されていることから、吉備太宰府や惣領所も奥坂に置かれていた可能性が考えられる。」同、185頁
この高橋氏の見解は「倭の五王」吉備説とでも言うべきものです。この結論には賛成できませんが、吉備の大宰や鬼ノ城の先行城塞などについて、九州王朝説・多元史観による検討が必要であることを改めて認識させられました。ちなみに、高橋氏は鬼ノ城を発見した考古学者です(注⑤)。(つづく)
(注)
①管見では鬼ノ城山史跡に関する次の報告書がある。
(1)『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書203 国指定史跡鬼城山』岡山県教育委員会、2006年。
(2)『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
(3)『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。
②高橋護「鬼ノ城に先行する城塞について」、①(2)所収。
③亀山行雄「付章 池ノ下散布地の試掘調査」、①(1)所収。
④「付載2 鬼城山における放射性炭素年代測定」、①(3)所収。
⑤河本清「岡山県内の史跡整備事業における鬼城山(鬼ノ城)整備の位置づけ」(①(2)所収)には、鬼ノ城発見の経緯を次のように紹介している。
「鬼ノ城跡の発見は1970(昭和45)年であった。その発端は、発見者高橋護氏が以前から『日本書紀』に記載されている「吉備の大宰」の居場所探し、つまり吉備の大宰府の場所探しに興味を示したことによる。その探りの視点はユニークであった。九州の大宰府の後背地には大野城跡があるので、この関係を重要視して吉備中枢において古代の山城さがしを始めたことによるものであった。そして以前から起きていた鬼城山の山火事跡地を踏査して、今の西門跡の東先で神籠石系の列石を発見したことによる。」189頁。