第2761話 2022/06/13

坪井清足氏の「鬼ノ城」六世紀築城説

 鬼ノ城や麓の五世紀の城塞跡を発見した高橋護氏は、鬼ノ城を七世紀後半の築城とし、『日本書紀』天武紀に見える吉備の大宰の山城とされました。他方、『鬼城山』(注①)に収録されている坪井清足氏(注②)の「鬼ノ城神籠石との出会い」では六世紀築城説が述べられています。鬼ノ城の築城は七世紀後半頃が穏当と、わたしは判断していますが、坪井氏の説明にも一理あると感じました。七世紀後半築城説に対して、坪井さんは次のような疑問を投げかけています。

 「ところがどうしても納得がいかないことがある。というのは底に矩形の列石を百陳べその上を版築で築きあげる城壁構築法は韓半島の三国時代に百済にしか例がなく、高句麗、新羅にはなく、後者には城壁は石垣作りしかみられないことで、百済でも7世紀の扶余の扶蘇山城などではこの方法は用いられておらず、百済滅亡後亡命した百済人に指導されて作ったと記録され大野城以下天智築城のいずれの城壁もこの方法で築いていないこと。さらに九州では神籠石の城門は精査されていないが鬼ノ城の四門と天智築城の城門の構造の作りが異なっていることがあげられる。
 (中略)いずれにせよ韓半島で百済でしか見られない城壁構築法、しかも百済でも最後の都扶余ではその方法をやめてしまい、したがって百済からの亡命者の指導で作られた天智築城のいずれにも使用されていない城壁構築法が、天智朝に継続する天武朝の吉備の大宰の築城につかわれ、さらに岡山市東端の大廻小廻り、対岸の坂出市城山に見られ、吉備の大宰時代よりほんの三十年前に築城された屋島城には用いられていなかったのは納得ゆかない理由である。」179~180頁

 坪井さんが根拠とした、百済の六世紀以前の築城技術については今のところ当否を判断できませんが、その技術が天智期築城とされる大野城や屋島城などには見られず、岡山県の鬼ノ城・大廻小廻と坂出市の城山にのみ見られるとすれば、その理由は多元史観・九州王朝説でなければ解明できないように思います。古田学派による本格的な鬼ノ城研究が待たれます。(おわり)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②坪井清足(つぼい きよたり、1921年~2016年)は日本の考古学者。元奈良国立文化財研究所所長、元元興寺文化財研究所所長。勲三等旭日中綬章、文化功労者。大阪府出身。(ウィキペディアによる)

フォローする