御井郡弓削郷にいた稲員氏(草部氏)
高良玉垂命の末裔の稲員(いなかず)家(旧・草壁氏。草部・日下部とも記される)の研究をしていたとき、同家の墓地を訪問したことがありました。墓石正面の上部に削られた痕跡があり、恐らくは家紋の菊花が削られたのではないかと思われました。稲員家は正応三年(1290)に上妻郡広川庄古賀村に転居する前は御井郡稲員村に居住しており、高良山から稲員村に移る前は草壁氏を名のっていました。
久留米市の地図を見て驚いたのですが、その御井郡稲員村は現在の久留米市北野町にあり、道鏡を祀っていた法皇宮と同じ町内だったのです。しかも稲員氏が草部や日下部を称していた頃、御井郡の大領・少領や弓削郷の戸主であったとする史料が残っており、『家勤記得集』の「発刊によせて」(注①)で古賀壽氏がそのことを紹介しています。
〝筑後の草部氏も、『高良縁起』(石清水文書)、『高良玉垂宮縁起』(御舟本)に「長日下部公」「弓削郷戸主草部公富松」「大領草部公吉継」「少領草部公名在」などとあるところから、公(君)姓を称する古代豪族で、高良山下御井郡弓削郷を本貫の地とし、御井郡司に任じた氏族であったことが推定される。〟『家勤記得集』「発刊によせて」古賀壽
すなわち、法皇宮がある御井郡弓削郷の戸主も後の稲員氏だったというのです。また、御井郡の郡衙は弓削郷にあったと考えられており(注②)、稲員村や弓削村(郷)の地に草部氏は郡司や戸主として重きをなしていたのです。そうすると法皇宮にあった菊花紋瓦は草部氏・稲員家の家紋だったのではないでしょうか。そして、その地で道鏡を祀っていたことになり、神護景雲三年(769)に起きた宇佐八幡ご神託事件は九州王朝王族の復権のための物部系氏族による〝共同謀議〟とする、わたしの作業仮説(思いつき)の傍証に菊花紋はなりそうです。(つづく)
(注)
①稲員安則『家勤記得集』元禄九年(1696)。久留米郷土研究会、昭和五十年(1975)。
②津田勉「『高良縁起』の成立年代」(『神道宗教』第170号、1998年)に次の指摘がある。
「ところで、御井郡の郡衙跡ともいわれるヘボノキ遺跡は、まさに弓削郷に存在する。弓削郷は筑後国府(枝光国府・朝妻国府)に隣接する筑後川沿いの郷であり、現在も弓削の地名は使われている。国衙と郡衙とが近接している実態は、御井郡の郡・郷を支配していた郡司と国司が強く結びついていたことを如実に示している。」60頁
なお、弓削地名は筑後川の両岸に遺っており、法皇宮は北岸の北野町、ヘボノキ遺跡は南岸の東合川町にある。筑後国の中で御井郡のみが筑後川の両岸にまたがっている。