筑後の弓削氏と現代の弓削さんの分布
高良玉垂命の末裔の稲員(いなかず)家が草部・日下部を称していた頃、御井郡の大領・少領や弓削郷の戸主であったことから、筑後地方の弓削氏について史料調査しました。高良玉垂命研究の碩学、古賀壽(たもつ)さんから二十数年前にいただいた論文や史料を改めて精査したところ、次の弓削氏がありましたので紹介します。
高良山に仏教を開基した人物は隆慶上人とされており、「白鳳二年癸酉」(673年)のことと伝えられています(注①)。この隆慶上人の伝記『高良山隆慶上人傳』には、上人の母親が弓削氏の出身であると記されています。
「上人諱ハ隆慶。世姓ハ紀氏。人皇八代孝元天皇十一世ノ之苗裔。武内大臣八代ノ之的孫ナリ也。父ハ紀ノ護良。母ハ弓削氏ナリ。自當社垂迹已降。紀氏累代 監察シ九國ヲ 守禦ス三韓ヲ。故ニ九州尤モ重ンス 其ノ氏族。」『高良山隆慶上人傳』(注②)
同じく高良山史料『筑後国高良山寺院興起之記』には隆慶上人の母親について次のように記されています。
「正覚寺
白鳳七年、隆慶上人ノ寿母、弓削戸部岩人麻麻呂ガ娘、老後髪ヲ薙リ、衣ヲ染メ、北澗ニ隠ル。弥陀三尊ヲ安ンジ、二六時中唱名念仏ス。朱鳥十年六十八歳ニシテ逝ス。」『筑後国高良山寺院興起之記』(注③)
以上の史料状況から、古代の筑後に弓削氏がいたことがわかります。また、『日本書紀』持統四年(690年)十月条に、筑紫君薩夜麻と共に唐の捕虜になった人物に「弓削連元寶の児」が見えます。筑後出身とまでは断定できませんが、筑紫君に付き従っていることから、筑紫の弓削氏と考えるべきでしょう。
ちなみに、現代の名字としての弓削さんの分布は次の通りで、宮崎県南部や福岡県筑後地方・鹿児島県・千葉県香取市に多いことが注目されます。道鏡の出身地とされる河内国弓削村がある大阪府には濃密分布地が見えないようです。(つづく)
【弓削さんの分布】※web「日本姓氏語源辞典」で検索。
人口 約7,000人 順位 2,093位
〔都道府県順位〕
1 宮崎県 (約900人)
2 福岡県 (約700人)
3 鹿児島県(約500人)
4 千葉県 (約500人)
5 東京都 (約400人)
6 京都府 (約400人)
7 大阪府 (約400人)
8 兵庫県 (約400人)
9 神奈川県(約300人)
10 滋賀県 (約300人)
〔市区町村順位〕
1 宮崎県 宮崎市 (約400人)
2 滋賀県 長浜市 (約200人)
3 鹿児島県 鹿児島市 (約130人)
4 福岡県 久留米市 (約130人)
4 宮崎県 小林市 (約130人)
6 福岡県 八女郡広川町(約130人)
7 宮崎県 西都市 (約120人)
8 兵庫県 加古川市 (約110人)
9 千葉県 香取市 (約100人)
10 熊本県 熊本市 (約100人)
(注)
①『高良記』(『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社発行、昭和47年・1972年)には次の白鳳年号が見えることから、本来の九州年号「白鳳」(661~683年)で正しく記された「白鳳十三年癸酉」が、『日本書紀』の影響により、「天武天皇二年癸酉」→「天武白鳳二年癸酉」→「白鳳二年癸酉」へと、後代に改変されたものと思われる。これを「後代改変型白鳳」とわたしは称し、本来の九州年号と峻別する必要を主張している。
「一、天武天皇四十代、御ソクイ二年にタクセンアリテヨリ、外宮ハ サウリウナリ」 17頁
「天武天皇四十代白鳳二年ニ、御ホツシンアリシヨリコノカタ(後略)」 32頁
「人皇四十代天武天皇白鳳二年、(後略)」 39頁
「一、御託宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」 82頁
後代改変型白鳳については、次の拙稿を参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」1883話(2019/05/03)〝改変された『高良記』の「白鳳」〟
同「洛中洛外日記」1930話(2019/06/30)〝白鳳13年、筑紫の寺院伝承〟
②「高良山隆慶上人傳」『續天台宗全書 史傳2』天台宗典編纂所、昭和六三年(1988年)。
③古賀壽「〔訓読〕筑後国高良山寺院興起之記」『高良山の文化と歴史』第5号、高良山の文化と歴史を語る会、平成五年(1993年)。