神護景雲元年に始まった高良社大祭礼
上妻郡上広川庄古賀村の大庄屋で高良玉垂命の神裔、稲員安則が著した『家勤記得集』(注①)を読んでいて、とても興味深い記事に気づきました。高良玉垂宮大祭礼が神護景雲元年に始まったとする次の記事です。
「大祝旧記に曰く、玉垂宮神事祭礼年中六十余度これを執行す。然りといえども春冬二季の祭祀五月九月両会の神事をこれをもって一社の大営なり。
称徳天皇〔第四十八代なり、孝謙帝重祚〕神護景雲元年(767年)丁未冬十月十三日勅使参向あり。明神朝妻に御幸し、大祝物部保維神輿に神体を奉遷す。(中略)これより毎歳大祭礼を行わる。光厳天皇〔第九十六代なり〕正慶二年(1333年)壬申(ママ)鎌倉北條家滅亡す。これにより諸国乱逆おこる。故に大礼断絶す。然りといえども毎歳九月九日祭礼を執行すること今に絶えず。」『家勤記得集』3頁 ※〔 〕内は二行細注。
「同(寛文)九年(1669年)己酉秋九月九日、高良社大祭礼を執行す。称徳天皇御宇始めてこれを行う。光厳天皇御宇断絶し、その後行われず。今年大祝保正と座主月光院寂源とこれを談じ、太守(久留米藩主)に訴え古例に任せこれを再興す。」同52頁
今日の高良大社の大きなお祭りは秋の例大祭「高良山くんち」(注②)ですが、古来より最も尊重されてきたのは「高良玉垂宮大祭礼」(御神幸祭)でした。この大祭礼が称徳天皇からの勅使参向により神護景雲元年(767年)に始まったというのです。わたしはこの年次を知り、驚きました。この年の二年後に宇佐八幡宮神託事件が発生しているからです。そこで、『続日本紀』に記された同事件(注③)を精査することにしました。(つづく)
(注)
①稲員安則『家勤記得集』元禄九年(1696)。久留米郷土研究会、昭和五十年(1975)。
②旧暦の九月九日に近い十月九日に行われている祭礼。「くんち」の語源としては、「九日」や「宮日」など諸説ある。
③ウィキペディアに次の解説がある。
宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。