大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (3)
大宰府政庁Ⅰ期(掘立柱建物)の造営年代について、九州王朝説による新たな仮説を提起したのが正木裕さん(古田史学の会・事務局長)です。正木さんの論稿「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」(注①)では、政庁Ⅰ期を七世紀中頃、前期難波宮(白雉元年〔652年〕創建)と同時期の造営としました。そして、太宰府条坊都市草創期とされる通古賀(とおのこが)地区遺構(王城神社の地)を「大宰府古層」と名付け、七世紀前半の多利思北孤と利歌彌多弗利の時代と編年されました。
この正木説の優れている点として感心したのが、政庁Ⅰ期の遺構の位置が太宰府条坊都市の北側にあり、言わば北闕式の王都になるとされたことです。しかも「南北正方位」の「掘立柱建物」であることから、これらは前期難波宮と共通した要素であり、両者の創建を同時期とする根拠とされました。その結果、各大宰府政庁遺構の年代が次のような位置づけとなりました。
〔大宰府古層〕条坊都市成立期 七世紀前半 ※条坊都市の中心領域、通古賀(とおのこが)地区、周礼式(注②)。 ※九州王朝の天子、阿毎多利思北孤と利歌彌多弗利の時代(618~646年)。
〔政庁Ⅰ期〕北闕式に相当 七世紀中頃。
〔政庁Ⅱ期〕北闕式 七世紀後葉(670年頃) ※観世音寺創建(白鳳十年)と同時期。
この正木説による大宰府遺構編年は、出土土器の相対編年とも矛盾はなく(通説の暦年リンクとは異なる)、前期難波宮九州王朝複都説とも整合しており、有力説と思いました。(つづく)
(注)
①正木裕「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」『古田史学会報』174号、2023年。
②『周礼』考工記に見える、条坊都市の中央に王宮を置く都市様式。