大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (6)
山村信榮(太宰府市教育委員会)さんは、政庁Ⅰ期古段階の成立を六世紀の第2四半期頃とする論文「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」を発表しました(注①)。大宰府政庁Ⅰ期(古段階)整地層から出土した須恵器坏Hを古墳時代の土器が整地盛土に紛れ込んだとする説を否定し、坏H(九州編年ⅢA)の時代(六世紀第2四半期)に政庁Ⅰ期古段階が成立し、同新段階の成立を七世紀の第4四半期とするものです。いわゆる〝磐井の乱(528年)〟のすぐ後に政庁Ⅰ期古段階が成立し、政庁Ⅰ期新段階成立は通説通り七世紀第4四半期とする仮説です(注②)。
この山村説は、六世紀前半の古墳時代から7世紀末までを大宰府政庁古新Ⅰ期の時代、そして八世紀初頭成立の政庁Ⅱ期までの遺構を、連続して廃絶・造営されたものとする歴史理解に基づいたもののようです。そうした認識が次の説明に表れています。
〝このように大宰府政庁地区ではⅢA型式(坏Hの古いタイプ)の土器群を主体とする時期に谷部が整地され、正方位を示す柵や掘立柱建物が建てられ、Ⅳ型式(坏Hの新しいタイプ)を消費する段階では政庁地区西の蔵司地区からさらにその西側の谷部にまで土地の利用が広がっている。調査報告書では政庁正殿Ⅰ期古段階の遺物は「古墳時代の遺物」とされ、遺構生成時の前代に当たる混入遺物として取り扱われる。Ⅰ期古段階の出土須恵器がⅢA型式、Ⅰ期新段階がⅥ(坏Bの古いタイプ)からⅦ型式(坏Bの新しいタイプ)であり、土器の型式的不連続がそういう結論を導き出したのかもしれない。(中略)古段階と新段階の建物群に連続性があった可能性は捨てきれない。古相段階の建物の柱が抜き取られて新相段階の整地がなされていることも見逃せない。(中略)このことから政庁Ⅰ期古新相の遺構群は後に大宰府政庁の中枢となるⅡ期政庁の遺構群と連続性を持つ可能性があると言える。(注③)〟※()内は古賀による補記。
既に指摘しましたが(注④)、わたしは山村説よりも通説のように政庁Ⅰ期古段階整地層から出土した坏Hを古墳時代の古い土器が整地盛土に紛れ込んだとする理解が穏当と思いますが、これは考古学に関するテーマであり、発掘当事者たちによる論争の発展に期待しています。(おわり)
(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②同①の「第1表 土器のセリエーションとフェイズ」による。
③同①204~205頁。
④古賀達也「洛中洛外日記」2960話(2023/03/06)〝大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (5)〟