第2970話 2023/03/20

続・異形の王都、近江大津宮

 「洛中洛外日記」2967話(2023/03/17)〝異形の王都、近江大津宮
〟で考察したように、律令制国家の一大事業である全国的戸籍(庚午年籍)の造籍が近江大津宮天皇(天智)により670年(天智九年、白鳳十年)に行われているにもかかわらず、律令制王都に不可欠な巨大条坊を近江大津宮は備えていません。そこで、九州王朝の複都、難波京(前期難波宮)が依然として行政の中枢にあり、従って数千人の律令制官僚群は難波で執務していたと考えるに至りました。従って、庚午年籍の造籍実務は前期難波宮の官僚群(中務省か)によりなされたことになります。
こうした理解と関連しそうな事象が、『日本書紀』天武紀上の〝壬申の乱(天武元年・672年)〟記事に見えます。乱の勃発により、近江朝側(大友皇子)は、吉備国と筑紫国大宰に「符(おしてのふみ)」(注①)を発し、味方につくよう命じますが不首尾に終わります。ここで不審に思ったのですが、なぜ難波宮に使者を派遣しなかったのでしょうか。更に、壬申の乱では難波宮争奪戦が行われた形跡も見えず、難波宮は壬申の乱においてどのような立ち位置なのかも『日本書紀』からは不明でした。単純化して考えると、次のようなケースがあります。

(a) この時期の難波宮は機能しておらず、官僚群も近江大津宮に移動していた。だから、使者を派遣する必要もなかった。
(b) 難波宮は機能していて、その官僚群の上司らは近江大津宮にいた。従って、難波宮の官僚群は近江朝の部下だったので使者を派遣するまでもないと近江朝は判断した。
(c) 難波宮の官僚群は表面上は近江朝の上司らに従ったが、天武側には中立の意向を伝えていたので、争奪戦は起こらなかった。

 この内、(a)のケースは、既に指摘してきたように近江大津宮に巨大条坊がないため、除外できます。そうすると、(b)(c)あたりが可能性として残りますが、前期難波宮自身が三方を海や川、河内湾(湖か)に囲まれた要衝の地にありますから、大勢が決するまで日和見を決め込んだのかも知れません。少なくとも『日本書紀』には味方についたとも敵にまわったとも書かれていませんし、そもそも難波京に残った有力者らしき人物も不明です(注②)。この点も今後の研究課題のようです。

(注)
①「符(おしてのふみ)」とは上級の官庁から下級の官庁へ出す文書。
②『続日本紀』に散見する「壬申の功臣」記事の精査により、判明するかも知れない。

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