第2983話 2023/04/10

七世紀後半の近畿天皇家の実勢力

 — リモート勉強会での谷本・古賀問答

 4月8日(土)のリモート勉強会(注①)で発表した「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」について、谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)とわたしとで真剣な質疑応答が続きました。特に重要な指摘で、わたし自身も再考の必要を感じたのが、王朝交代前(七世紀後半)の近畿天皇家の実勢力(統治領域・具体的施策)をどの程度なのかという論点でした。
前期難波宮造営(九州年号の白雉元年・652年)には九州王朝(倭国)は評制と律令により全国統治(注②)を開始し、白村江戦敗戦(663)により国力は衰退しますが、それでも王朝交代の701年まで形式的には続いたとわたしは捉えていました。そう考える根拠は次の通りです。

(1) 茨城県から九州年号「大化五子年(699)」土器が出土しており、王朝交代直前の関東まで九州王朝の影響力が及んでいたと考えられる(注③)。
(2) 701年に行政単位が九州王朝の「評」から大和朝廷の「郡」へと全国一斉に変更されており、事前の準備(各国への周知徹底)がなされたはず。この事実から、王朝交代はほぼ平和裏に行われたと推定できる。
(3) 飛鳥宮・藤原宮出土の七世紀(「評」表記)の荷札木簡によれば、九州からの貢献が見えないことから、王朝交代直前まで九州王朝の権威・権力が九州には色濃く残っていたと考えるのが穏当。

 わたしはこのように返答したのですが、谷本さんからは(3)について、飛鳥宮・藤原宮出土の七世紀の木簡には干支だけで九州年号が記されていないのは、たとえば近畿天皇家の政治的意志(命令)であり、当時既に列島内の広領域を近畿天皇家が統治していたなどの可能性も考えるべきとする指摘がありました。そして逆に荷札木簡の国名から外れた九州諸国と長門が、当時の九州王朝の勢力範囲とみることもできるとされました。すなわち、七世紀の第4四半期には近畿天皇家(天武・持統)が九州王朝を超えたとする可能性の指摘です。
荷札木簡による近畿天皇家の勢力範囲について考察を発表したことがあります(注④)。また、木簡に九州年号が記されていない理由については、九州王朝が木簡への年号使用を禁じたとする仮説(注⑤)をわたしは発表していますが、谷本さんからの指摘も含めて、幅広く再検討する必要を感じました。このように真摯な指摘やご批判により、自説の弱点や不十分さに気付くことができ、感謝しています。11月の八王子セミナー本番に向けて、更に考察を深めたいと思います。(つづく)

(注)
①Skypeを使用した勉強会を毎月の第二土曜日の夜に開催している。
②九州から関東・越後くらいまでを九州王朝は統治したと考えている。それ以東は蝦夷国。
③七世紀の九州年号史料について次の拙稿で論じた。
「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」、「木簡に九州年号の痕跡 『三壬子年』木簡の史料批判」、「『元壬子年』木簡の論理」『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2012年。
「『白鳳壬申』骨蔵器の証言」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』古田史学の会編、明石書店、2017年。
④古賀達也「七世紀後半の近畿天皇家の実勢力 ―飛鳥藤原出土木簡の証言―」『東京古田会ニュース』199号、2021年。
同「七世紀末の近畿天皇家の実像 ―飛鳥・藤原宮木簡の証言―」『東京古田会ニュース』206号、2022年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」1385話(2017/05/06)〝九州年号の空白木簡の疑問〟
同「洛中洛外日記」2033~2046話(2019/11/03~22)〝『令集解』儀制令・公文条の理解について(1)~(6)

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