実在した「東日流外三郡誌」編者
―和田家墓石と長円寺過去帳の証言―
6月17日(土)の午前中に開催される「古田史学の会」関西例会で(午後は『九州王朝の興亡』出版記念講演会)、わたしは「和田家文書の明治写本と大正写本」というテーマを発表します。内容は、昭和61年頃にテレビ東京で放送された、文書所蔵者の和田喜八郎氏が登場する番組「みちのく黄金伝説の謎を求めて」(注①)の紹介がメインです。同番組中に五所川原市飯詰の長円寺(注②)にある和田家の墓石が映っており、同墓石や長円寺の過去帳を古田先生と調査したときのことを思い出しました。
和田家文書偽作論者は「和田家は明治22年以前は飯詰村には住んでいなかった」と主張していましたが、現地調査により和田家が江戸時代から飯詰にあったことを確認できました(注③)。和田氏宅の近くにある長円寺に和田家墓地があり、文政十二年(1829年)に建てられた墓石が存在します。その表には四名の戒名と内三名の没年が彫られています。次のように読めました。
()内は古賀注。
慈清妙雲信女 安永五申年十月(以下不明)
智昌良恵信士 文化十酉年(以下不明)
安昌妙穏信女 文化十四丑年(以下不明)
壽山清量居士 (没年記載なし)
裏面は次のようです。
文政丑五月建(一字不明、「之」か)和田氏
壽山清量居士(和田吉次と思われる)が存命の文政十二年(1829)に建立した墓碑でしょう。
他方、長円寺の過去帳(原本は火災で焼失したとのこと。五所川原市教育委員会によるコピー版によった。)には「智昌良恵信士 文化十年十一月 下派 長三郎」「安昌妙穏信女 同年(文化十四年)十月下派 長三郎」との記載があり、墓石の戒名・没年と一致しています。長円寺御住職の説明では、「下派」とは「下派立(しもはだち)」の略であり、「長三郎」は喪主とのこと。ちなみに、和田家当主は「長三郎」を襲名しており、この長三郎は「和田氏」墓石との関連から、和田長三郎のことであり、時代からして和田吉次のこととなります。下派立とは長円寺や和田家がある旧地域名のことです。こうして飯詰村下派立に和田家が江戸時代から住んでいたことを金石文(和田家墓石)と長円寺過去帳の一致から証明できたのです。
この他、同過去帳には「和田権七」や明治の「和田長三郎(末吉か)」の名前も見え、和田家歴代当主の名前が、和田家文書の記事と一致していることも確認できました(注④)。
この調査は和田家が江戸時代から当地にあったことを証明するために行ったのですが、このことは、東日流外三郡誌の編者の一人、和田長三郎吉次の実在を意味しており、当調査の重要性に改めて気付くことができました。もう一人の編者、秋田孝季についても調査を続けています。
(注)
①「土曜スペシャル ミステリアス・ジャパン みちのく黄金伝説の謎を求めて」、テレビ東京・キネマ東京作成。MCは中尾彬氏。
②長円寺は曹洞宗の寺院で、和田家宅の近傍にある。
③古賀達也「和田家文書現地調査報告 和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年。
④長三郎吉次→長三郎権七→長三郎末吉→長作→元市→喜八郎。