王朝交代の痕跡《金石文編》(2)
―大和朝廷時代、金石文の年次表記―
701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代直後、木簡と同様に金石文の年次表記にも変化が見られます。大和朝廷時代(日本国)になると、木簡と同様に年号使用が始まり、その記載位置も末尾が主流となるのです。王朝交代直後(8世紀初頭)の代表的な金石文を紹介します。
【大和朝廷(日本国)時代の金石文の年次表記】
(1) 文祢麻呂墓誌 慶雲四年(707年)
奈良県宇陀市榛原区八滝 文祢麻呂墓出土
「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻
呂忌寸 慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」
(2) 下道圀勝母夫人骨蔵器 和銅元年(708年)
「下道圀勝弟圀依朝臣右二人母夫人之骨蔵器故知後人明不可移破」
「以和銅元年歳次戊申十一月廿七日己酉成」
(3) 伊福吉部徳足比売骨蔵器 和銅三年(710年)
「因幡国法美郡 伊福吉部徳足比売臣 藤原大宮御宇大行天皇御世慶雲四年歳次丁未春二月二十五日従七位下被賜仕奉矣 和銅元年歳次戌申秋七月一日卒也 三年庚戌冬十月火葬即殯此処故末代君等不応崩壊 上件如前故謹録錍
和銅三年十一月十三日己未」
(4) 憎道薬墓誌 和銅七年(714年)
「佐井寺僧 道薬師 族姓大楢君 素止奈之孫
和銅七年歳次甲寅二月廿六日命過」
(5) 元明天皇陵碑 養老五年(721年) ※今なし。『集古十種』所載
「大倭国添上郡平城之宮馭宇八洲 太上天皇之陵是其所也
養老五年歳次辛酉冬十二月癸酉朔十三日乙酉葬」
(6) 阿波国造碑 養老七年(723年)
「阿波国造名方郡大領正□位下
粟凡直弟臣墓
養老七年歳次癸亥 年立」
(7) 金井沢碑 神亀三年(726年)
「上野国群馬郡下賛郷高田里
三家子□為七世父母現在父母
現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加
那刀自孫物部君午足次蹄刀自次乙蹄
刀自合六口又知識所給人三家毛人
次知万呂鍛師礒部君身麻呂合三口
如是知識結而天地誓願仕奉
石文
神亀三年丙寅二月二九日」
王朝交代直後、8世紀初頭頃の大和朝廷(日本国)時代に入ると、墓誌や墓碑に見える銘文の主流様式は木簡と同様に、没年や銘文作成などの年次表記(年号+干支)が末尾に移動します。この史料事実から、王朝交代により、金石文も年次表記の変化が全国一斉に発生したことがうかがえます。従って、これらの変化は、王朝交代が平和裏で周到な準備期間を経て、強力な国家意思に基づいてなされたと考えるのが妥当です。
この〝平和裏で周到な準備期間〟(7世紀第4四半期)においては、そのことを示す現象が金石文に現れます。(つづく)