第3130話 2023/10/03

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学 (二)

 〝もうひとつの藤原宮〟の可能性を持つ「長谷田土壇」(橿原市醍醐)ですが、長谷田土壇説を提起した喜田貞吉の根拠や論理性は優れたものです。喜田の長谷田土壇説について、木下正史さんは著書『藤原京』(注①)で次のように紹介しています。

〝一九一三(大正二)年、喜田は藤原宮と京に関する優れた問題意識と理論を背景に斬新な新説を打ち出す。まず大宝令職員令にみえる左・右両京職の下に「坊令」一二人を置く、という規定に注目する。坊令は四坊ごとに一人置く規定だから、藤原京は南北一二単位、東西は朱雀大路を中心に左右両京をそれぞれ四単位に分割する碁盤目状の街区からなっており、その「坊」の一単位は令大尺の七五〇尺(約二六五メートル)になるはずだ、と考えた。(中略)
大宮土壇を中心として、南北一二条、左右京各四坊の京の範囲を現地に当てはめると、左京のかなりの部分が香具山などの丘陵地にかかってしまう。喜田は、藤原京=大宮土壇説は不都合だと考え、『扶桑略記』などが記す「鷺巣坂」に注目する(注②)。(中略)式内社鷺巣神社は、畝傍・香具山両山のほぼ中央にあり、ここに朱雀大路が通っていたのではないか。神社の北にある小字「門の脇」は朱雀門に関わる地名だろう。鷺巣神社の真北約一キロ、醍醐町集落の西はずれの小字「長谷田」に、周囲約一八メートル、高さ約一・五メートルの土壇がある。古瓦が出土し、近くで礎石も発見されている。「長谷田土壇」は藤原宮の建物跡で、大宮土壇は記録に残っていない寺院跡とみるべきだろう。〟『藤原京』14~16頁

 このように喜田の長谷田土壇説を説明し、木下さんは次のように絶賛します。

 〝喜田説は、地形や地名、古代の道路、文献史料などを綿密に、また多角的に検討し、それらを総合して打ち出した説得力ある論考であった。(中略)藤原京の構造復元に果たした意義は大きく、今なお光彩を放つ研究成果である。〟『藤原京』18頁

 わたしもこの見解に賛成です。そしてこの喜田の長谷田土壇説の再評価をうながす発見がありました。それは大宮土壇の藤原宮下層から出土した「先行条坊」です。この発見は、決着を見たはずの「藤原宮」所在地論争の新たな出発点となりました。(つづく)

(注)
①木下正史『藤原京 よみがえる日本最初の都城』中公新書、2003年。
②『扶桑略記』や『釈日本紀』によると、藤原宮は「鷺巣坂」の北にあると記されている。

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