天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (6)
「船王後墓誌」には次の5件の年次・年代表記があります。
(1) 「乎娑陀宮治天下 天皇之世」 敏達天皇 (572~585年)
(2) 「等由羅宮 治天下 天皇之朝」 推古天皇 (592~628年)
(3) 「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 舒明天皇 (629~641年10月)
(4) 「阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」 (641年12月3日)
(5) 「戊辰年十二月」 天智七年 (668年12月)
なかでも(5)の船王後の埋葬(改葬か)年次、すなわち同墓誌成立年次と考えられる「戊辰年十二月」が、学問的には最も重視すべき記事と思われます。なぜなら、668年時点の墓誌銘文作成者の歴史認識、あるいは墓誌の読者(墓に埋納後の、またはその直前での読者を誰と想定していたかは不明)に対して、このように認識して欲しいとする編纂意図を知る上での貴重なエビデンスだからです。
この銘文を多元史観・九州王朝説の視点で読むとき、一元史観の理解とは全く異なる歴史像が見えてきます。それは次のようなことです。
(ⅰ) 668年は九州王朝(倭国)の時代であり、近畿天皇家は九州王朝の臣下であり、近畿地方の有力豪族である。
(ⅱ) 従って、「○○宮治天下天皇之世」や「○○宮治天下天皇之朝」という表現は、船氏の直属の主人である近畿天皇家の大義名分に基づく、当該領域「天下」のトップを意味する「治天下天皇」、その「治世」や「朝廷」を意味する「世」「朝」の字を採用している。
これは小領域版「中華思想」的表現である。埼玉古墳群(埼玉県行田市)の稲荷山古墳出土鉄剣銘に見える「左治天下」や(注①)、江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)出土鉄剣の「治天下」(注②)も同類の表現。
(ⅲ) すなわち、九州王朝時代であるにもかかわらず、『日本書紀』(720年成立)の大義名分「近畿天皇家一元史観」の表現を先取りするかのような銘文を、それが歴史事実か否かは別として、668年時点の船氏は採用したことになる。
(ⅳ) この船氏の行為は、白村江戦後の668年時点での九州王朝と近畿天皇家の力関係が影響していると考えることができる。
九州王朝説によるならば、以上のような考察へと進まざるを得ないのです。もちろん、他の解釈もありますので、直ちにこれと断定するわけではありません。
そのうえで、「戊辰年十二月」にはもう一つ重要な問題があります。それは、『日本書紀』によればその年は天智七年にあたり、同年二月には「称制」から「天皇」に即位しており、墓誌中の他の年次表記例に従うのであれば、「近江大津宮治天下天皇之戊辰年十二月」のような近畿天皇家の大義名分による表記になってしかるべきですが、そうはなっていません。同墓誌裏面末尾には数文字分の余白が残っており、「戊辰年十二月」の前に、たとえば「大津宮天皇」程度の文字を加えることは可能であったにもかかわらずです。(つづく)
(注)
①稲荷山古墳出土鉄剣の銘文(Wikipediaによる)
〔表〕辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
〔裏〕其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
②江田船山古墳出土鉄剣の銘文(Wikipediaによる)
治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也