二つの「中宮」銘金石文の考察 (5)
薬師寺東塔の檫銘の文の成立は藤原京にあった本薬師寺(もとやくしじ)創建頃であり、それが平城京の薬師寺東塔檫管に追刻されたとする見解が有力説です。東野治之さんの「薬師寺東塔の銘文」(注)によれば、『日本書紀』成立以前に銘文が書かれた根拠として、「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳」を挙げています。当該部分を転載します。
【以下、転載】
(前略)この銘も、藤原京の寺にあった銘文を、平城京の薬師寺の東塔が完成した七三〇年ごろに、新しく刻んだと考えられる。
その何よりの証拠は、甲辰の年を天武天皇の即位の八年といっていることで、これによれば天武は、先代の天智天皇が亡くなった翌々年に即位したことになる。七二〇年にできた『日本書紀』は、天武が天智没後すぐに即位したことにしているから、正史と食い違う年立てを採用しているこの銘文は、そういう歴史観が出来上がる前に書かれたとしか考えられない。
【転載おわり】
この東野さんの言わんとすることは理解できるのですが、やや不正確に思えます。『日本書紀』には天武二年二月に飛鳥浄御原宮で即位したとありますから、天智崩御の翌々年の即位であり、「即位八年庚辰之歳」(680年)という檫銘の表記が誤っているわけではありません。しかし、檫銘の記事について『日本書紀』では天武九年(680年)の事件としています。
すなわち、天武九年十一月癸未条に、「皇后體不豫。則為皇后請願之、初興薬師寺。仍度一百僧、由是、得安平。」とあり、皇后(鸕野皇女、後の持統天皇)の不予に際して、天武天皇が発願して薬師寺を創建し、僧百人を得度させ、皇后は平安を取り戻したという記事に対応しています。ですから、『日本書紀』成立後であれば、「即位八年」とするよりも「天武九年」と記すはずというのが東野さんの主張です。こうしたことから、檫銘の文は『日本書紀』の年立ての影響をうける前に成立したとする見解に、わたしも賛成です。(つづく)
(注)東野治之「薬師寺東塔の銘文」『史料学探訪』岩波書店、2015年。