第3285話 2024/05/14

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (2)

 大下隆司さんが前期難波宮孝徳朝説への反対論者として紹介した研究者に白石太一郎さん(注①)がいます。しかし、白石さんは大下さんや泉武さんの天武朝説とは異なり、天智朝造営説です。白石さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」(注②)冒頭の「はじめに」に次のように記されています。

「今日では、少なくとも考古学の分野では、前期難波宮を孝徳朝の難波長柄豊碕宮と考える説がほぼ定説化している。」3頁

 このように、孝徳朝説に反対する白石さん自身が、孝徳朝説を「少なくとも考古学の分野では(中略)ほぼ定説化している」と認識していることがわかります。わたしが〝前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である〟としたことと同様の認識なのです。そして、白石さんは次のような見解をくり返し述べ、孝徳朝説と同時に天武朝説(672~686年)をも否定しています。

 「前期難波宮整地層出土の土器群の中には明らかに西暦660年代頃のものが含まれている可能性が大きいと思われる。」3頁
「このように、前期難波宮整地層にはおそらくは水落段階、すなわち前章の検討結果からは660年代中頃から後半の土器が含まれていることになる。」17頁
「前期難波宮の整地層と水利施設の厳密な層位関係はもとより不明であるが、この水利施設が前期難波宮造営の一環として建設されたものであることについては疑いなかろう。ただしその時期は、飛鳥編年では坂田寺池段階のものであり、660年代前半、遡っても660年前後にまでしか上らない。」20頁
「前期難波宮下層の土器が『到底天武朝まで下がるものとは考えられない』という考え方が大きな落とし穴になっていたように思われる。それは天武朝までは下がらないとしても、孝徳朝までは遡らないのである。」22頁 ※この部分は白石氏自身の以前の見解に対してのもの。

 以上のように、白石さんは前期難波宮天武朝説ではなく、天智朝説(662~671年)なのです。その根拠は飛鳥編年に基づくもので、「最近の飛鳥編年にもとづく土器の編年研究では、少なくとも七世紀中葉から第3四半期では10年単位の議論が可能な段階になってきている」(20頁)として、孝徳朝説も天武朝説も否定し、天智朝説を主張されています。
ですから、孝徳朝説(定説)を否定する少数意見のなかにも両立し得ない天智朝説と天武朝説があり、飛鳥編年による土器編年も一様ではないことが見て取れます。ここで重要な視点は、飛鳥編年とは『日本書紀』の記事をその年次も含めて正しいとすることを前提として成立しています。更に、飛鳥から出土した遺構や層位を『日本書紀』の特定の記事に対応させ、そこからの出土土器を相対編年するという手法を採用しています。

 従って、『日本書紀』の記述が正しいかどうかは検証の対象であり、論証抜きで是とする一元史観を批判するわたしたち古田学派の研究者にとっては、飛鳥編年も検証の対象であり、採用する場合でも用心深く使用しなければならないことを改めて指摘しておきたいと思います(注③)。わたしは、白石さんのように土器の相対編年だけで10年単位の年次判定をすることは危険であり、難波編年を作成した佐藤隆さんのように前葉・中葉・後葉の幅で土器編年を捉えるのが妥当と考え、佐藤さんの七世紀の難波編年を支持してきました(注④)。
今回紹介した白石さんの論文によっても、前期難波宮孝徳朝説が定説となっていることがご理解いただけると思います。(つづく)

(注)
①下記①の論文発表時、大阪府立近つ飛鳥博物館々長。
②白石太一郎「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報16』大阪府立近つ飛鳥博物館、2012年。
③飛鳥編年の基礎データそのものが信頼性に問題があるとした次の論文がある。
服部静尚「須恵器編年と前期難波宮 ―白石太一郎氏の提起を考える―」『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店、2014年。
④佐藤隆『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』2000年、大阪市文化財協会。

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