第3324話 2024/07/13

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (7)

 『日本書紀』編者は孝徳天皇の宮殿名として「難波長柄豊碕宮」と記しており、その宮の場所が「難波長柄豊碕」であると主張しているわけですから、特段の理由がなければ喜田貞吉説のように大阪市北区にある長柄地域を候補地と考えるのが常識的な判断です。もちろん同じ大阪市内(難波)に「長柄」や「豊碕」地名が複数あれば、その内のどこが最も有力候補地なのかという検討が必用ですが、管見では北区の長柄・豊﨑しかないようですので、やはり喜田説が最有力です。

 そこでわたしは、江戸期成立の「石山本願寺合戦図」に見える、織田信長本陣があった長柄の「天満山」に注目しました。現在では当地に大阪天満宮が鎮座していますが、もともとは「大将軍社」があった所で(今も境内に祀られている)、伝承(注①)では孝徳天皇の白雉元年に創建されたとのことです。この白雉元年創建伝承が歴史の真実を反映しているのであれば、『日本書紀』では白雉元年は650年ですが、本来、白雉は九州年号ですから、元年は652年のことと理解できます。このように、現存地名の北区長柄地域にあり、白雉元年創建伝承を持つ大将軍社こそ、孝徳紀に見える難波長柄豊碕宮の有力候補ではないでしょうか。

 そこで問題となるのが「大将軍」という名前の由来です。そもそも「大将軍」という神様とは誰のことなのか、いま一つよくわかりません。京都市にも複数の〝大将軍神社〟が平安京を護る守護神のごとく鎮座していますが、難波には大阪天満宮の大将軍社しかないようです。前期難波宮を護る神様であれば、その東西や南にも鎮座していてほしいところです。飛鳥宮や藤原宮の周辺にも、古代に遡るような「大将軍社」の存在をわたしは聞いたことがありません。WEB上の辞書(注②)には陰陽道の神様とする、後世になって、とってつけられたような説も紹介されていますが、その神様がいつ頃から、なぜ「大将軍」と呼ばれるようになったのかもよくわかりません。(つづく)

(注)
①大阪天満宮ホームページによる。
②大将軍(方位神) 出典:『ウィキペディア』
大将軍(たいしょうぐん、だいしょうぐん)は陰陽道において方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一。魔王天王とも呼ばれる大鬼神。仏教での本地は他化自在天。
古代中国では、明けの明星を「啓明」(けいめい)、宵の明星を「長庚」(ちょうこう)または「太白」(たいはく)と呼び、軍事を司る星神とされたが、それが日本の陰陽道に取り入れられ、太白神や金神(こんじん)・大将軍となった。いずれも金星に関連する星神で、金気(ごんき)は刃物に通じ、荒ぶる神として、特に暦や方位の面で恐れられた。

大将軍は3年ごとに居を変え、その方角は万事に凶とされ、特に土を動かすことが良くないとされた。大将軍の方角は3年間変わらないため、その方角を忌むことを「三年塞がり」と呼んだ。ただし、大将軍の遊行日(ゆぎょうび)が定められ、その間は凶事が無いとされた。年毎の方位は十二支によって以下の通り。
亥・子・丑の年 – 西の方角
寅・卯・辰の年 – 北の方角
巳・午・未の年 – 東の方角
申・酉・戌の年 – 南の方角
遊行日は以下の通り。

春の土用(立夏前):甲子日~戊辰日(東方に遊行)
夏の土用(立秋前):丙子日~庚辰日(南方に遊行)
秋の土用(立冬前):庚子日~甲辰日(西方に遊行)
冬の土用(立春前):壬子日~丙辰日(北方に遊行)

大将軍は牛頭天王の息子とされ、スサノオと同一視された。(ただし後に、牛頭天王はスサノオと習合した)

京都では、桓武天皇が平安京遷都の直後、大将軍を祭神とする4つの大将軍神社を四方に置いた。
東: 左京区岡崎
西: 上京区紙屋川
北: 北区大徳寺門前
南: 所在不明

ただし、現在の所在は以下のとおり。これらは現在ではスサノオを祭神としている。
東: 左京区の岡崎神社と、東山区の東三条大将軍神社。
西: 上京区の大将軍八神社。
北: 北区の今宮神社摂社疫神社と、西賀茂大将軍神社。
南: 伏見区の藤森神社境内。

またこれらとは別に、祇園社(八坂神社)も大将軍を祭っている。また、北区には大将軍という地名が残っている。

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