『続日本紀』道君首名卒伝の
「和銅末」の考察 (3)
「末」の字義(ものごとの最後)は同一社会内での共通認識として〝頑固〟に成立していると、わたしは考えていますが(例外については後述)、『続日本紀』の時代やその編纂者たちがどのような意味で「末」という字を使用していたのかを理解するために、『続日本紀』そのものを調査する必要があります。その方法として、古田史学の研究者であれば当然のこととして「末」の字の悉皆調査を行うはずです。古田先生が『三国志』中の「壹」と「臺」の字の悉皆調査をされたようにです。
服部さんの発表資料には「『日本書紀』および『続日本紀』での時を表わす「末」の使用例(実は非常に少なくたった2例)」とありましたが、わたしの調査では「末」の字そのものは112件ありました(注①)。見落としや、「末」と「未」の見誤り、写本間でも同様の差異があり、誤差があるかもしれませんが、本稿の論旨や結論に影響はないと思います。〝時を表す「末」〟も少なからずありましたので、順次紹介します。
わたしは三十数年前にも、「従」の字の『続日本紀』悉皆調査を行った経験がありますが、同書は巻四十(文武天皇元年・697年~桓武天皇延暦十年・791年)まであり、難儀しました(岩波書店・新日本古典文学大系本全五巻を使用)。今回調べた「末」の字は、人名や宣命中の「マ」音表記に数多く使用されていました。それに比べるとはるかに少ないのですが、当時の人々の「末」の字義についての認識を示す記事もありました。次の三例を紹介します。
※読者が見つけやすいように、「末」の字に【】を付しています。
(1) 天平六年(734年)二月癸巳朔。
天皇御朱雀門覽歌垣。男女二百[四十*]餘人、五品已上有風流者皆交雜其中。正四位下長田王、從四位下栗栖王、門部王、從五位下野中王等爲頭。以本【末】唱和、爲難波曲、倭部曲、淺茅原曲、廣瀬曲、八裳刺曲之音。令都中士女縱觀、極歡而罷。賜奉歌垣男女等祿有差。
※[四十*]は「卅」の縦線が四本の字体。
これは朱雀門前で開催された歌垣の記事で、都の男女240名余りが参加した華やかな行事です。長田王ら4名が「頭」となり、参加した人々の「本末」が難波曲(なにわぶり)などを唱和したというものです。この「本末」とは本末転倒の「本末」のことで、歌垣参加者の初めから最後までの人々が唱和したという文脈ですから、「末」とは〝ものごとの最後〟という、「末」の字義通りの意味で使用されています。
(2) 天平十二年(740年)十月
己夘(26日)、勅大將軍大野朝臣東人等曰、朕縁有所意、今月之【末】、暫往關東。雖非其時、事不能已、將軍知之不須驚恠。
壬午(29日)、行幸伊勢國。以知太政官事兼式部卿正二位鈴鹿王、兵部卿兼中衛大將正四位下藤原朝臣豊成爲留守。是日、到山邊郡竹谿村堀越頓宮。
癸未(30日)、車駕到伊賀國名張郡。
十一月甲申朔(1日)、到伊賀郡安保頓宮宿。大雨、途泥人馬疲煩。
乙酉(2日)、到伊勢國壹志郡河口頓宮。謂之關宮也。
丙戌(3日)、遣少納言從五位下大井王、并中臣忌部等、奉幣帛於大神宮。車駕停御關宮十箇日。
これは聖武天皇の伊勢行幸の発端とその様子が記された記事です。聖武天皇自らの命令(勅)に「今月之末、暫往關東」とあり、当時の朝廷内で、「今月之末」の「末」がどのような意味で使用されているのかを知る上で貴重な記事です。この時代の「関東」とは鈴鹿関・不破関以東を指し、この記事では目的地が伊勢国であることから、河口関より東という意味かもしれません。
伊勢行幸の準備は10月19日から始めていますが、なぜか10月26日にこの勅を発し、都(平城京)を29日に出発、伊勢国河口頓宮に翌月の2日に到着しています。途中(11月1日)、伊賀郡安保頓宮に宿し、「大雨、途泥人馬疲煩」とあることから、大雨で旅程が遅れたのではないでしょうか。
こうした文脈から判断すれば、天皇は今月末(10月30日)に伊勢国に行くと命じたものの、それを10月26日に命じられた将軍や官僚たちにとっては突然だったようで(注②)、準備も大変ですし、大雨にもたたられ、2日遅れの11月2日到着になったものと思われます。従って、天皇が言った「今月之末」とは字義通り10月30日のつもりだったと考えてよいでしょう。当初から11月2日到着が目的であれば、「今月之末」ではなく、「来月之初」と言ったはずですから。また、今月内の到着でよければ「今月中」と言うでしょう(実現困難と思いますが)。しかし、聖武天皇は「今月之末」と、わざわざ「末」を付けて命じているのですから、10月26日にそれを聞いた官僚たちは10月30日には着かなければならないと、大慌てしたのではないでしょうか。聖武天皇は人使いが荒い天皇だったようです。
(3) 神護景雲元年(767年)八月
癸巳。改元神護景雲。詔曰、(中略)復陰陽寮毛七月十五日尓西北角仁美異雲立天在。同月廿三日仁東南角仁有雲本朱【末】黄稍具五色止奏利。如是久奇異雲乃顯在流所由乎令勘尓。
「神護景雲」改元の詔です。改元の理由がいくつか記されており、その一つとして、7月23日に「東南の角(すみ)に有る雲、本(もと)朱に末(すえ)黄に稍(やや)五色を具(そな)へつと奏(もう)せり」とあります。五色の雲の色として、最初(本)が朱色、最後(末)が黄色という意味ですから、ここでも〝ものごとの最後〟の意味で「末」という字が使用されています。
このように、聖武天皇の発言時(740年)や『続日本紀』の成立時(797年)においても、「末」という字は現代と同様に〝ものごとの最後〟の意味で使用されていたことがわかります。わたしの読んだ限りでは、〝ものごとの途中〟〝終わりに近い途中〟のことを表すために、「末」という字は使用されていませんでした。
次に、『続日本紀』に記された各「卒伝」中の〝年号+「末」〟の諸例を紹介します。(つづく)
(注)
①『続日本紀』全四十巻中に「末」の字は112件あり、巻毎の検索件数は次のとおり。
[巻1]1、[巻2]0、[巻3]0、[巻4]0、[巻5]0、[巻6]0、[巻7]0、[巻8]1、[巻9]2、[巻10]0、[巻11]1、[巻12]1、[巻13]1、[巻14]0、[巻15]3、[巻16]0、[巻17]2、[巻18]0、[巻19]0、[巻20]0、[巻21]0、[巻22]0、[巻23]1、[巻24]0、[巻25]21、[巻26]17、[巻27]13、[巻28]6、[巻29]2、[巻30]1、[巻31]2、[巻32]0、[巻33]0、[巻34]6、[巻35]6、[巻36]7、[巻37]3、[巻38]7、[巻39]5、[巻40]3。
②この直前(天平十二年九月)に、九州で藤原広嗣の乱が勃発しており、配下の将軍(大野朝臣東人)たちは進軍の準備をしていた。