第3401話 2024/12/24

『梁塵秘抄』次田温泉の入浴順新考

 「洛中洛外日記」3398話(2024/12/20)〝九州王朝の都、太宰府の温泉 (2)〟において、九州王朝御用達温泉としての次田温泉(すいたのゆ、二日市温泉)の入浴順序が『梁塵秘抄』に記されていることを紹介しました。次の歌です。

「次田(すいた)の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺、四には四王寺五侍、六膳夫、七九八丈九傔仗、十には國分の武蔵寺、夜は過去の諸衆生」 日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』383番歌

 この歌によれば、最初に入浴するのは太宰府の高官、次に丁(観世音寺の僧侶と理解されているが未詳)、安楽寺の僧侶、四王寺の僧侶、太宰府勤務の武士、太宰府勤務の料理人が続き、「七九八丈」の意味も不明。「けむ丈」は傔仗で護衛の武士。そして最後に入浴するのは武蔵寺の僧侶、夜は過去の諸衆生とされています。

 概ねこうした理解になるとは思いますが、「丁」を「寺」の誤りとして、観世音寺の僧侶とすることには賛成できません(注①)。なぜなら平安時代に於いて、何の説明もなく「丁」とあれば、律令で定められた労役にあたる「丁(よぼろ)」とするのが常識的な理解だからです。おそらく、歌の中に「三安楽寺」「四には四王寺」「十には國分の武蔵寺」という当地の著名な寺院名が詠み込まれているのに、太宰府を代表する寺院である観世音寺が無いことから、「一官」に続く「二丁」を観世音寺のこととしたものと思われます。しかし、これは誤解と言わざるを得ません。それは次の事情からです。

(a) 「宮」と並んで特に説明もなく「丁」とあれば、この時代の「丁」の字の第一義は律令による「丁(よぼろ)」である。これを「寺」のことと理解するのは無理。
(b) 後白河法皇(1127~1192年)の編纂とされる『梁塵秘抄』の成立は治承年間(1177~1181年)の作とされている。
(c) 平安時代以降の観世音寺はたび重なる火災や風害によって、創建当時の堂宇や仏像をことごとく失っている。康平七年(1064年)には火災で講堂、塔などを焼失。康和四年(1102年)には大風で金堂、南大門などが倒壊。その後復旧した金堂も康治二年(1143年)の火災で再焼失。治承年間頃に編纂された『梁塵秘抄』成立の頃には、観世音寺は廃寺同然となっていたであろう。
(d) 次田温泉の入浴順序の歌に、焼失していた観世音寺の僧の入浴順序が詠まれているとは考えにくい。この歌は編纂当時の太宰府で人口に膾炙していた「今様歌謡」(注②)とするのが穏当な理解であれば、「丁」を観世音寺僧のこととする解釈は無理筋である。
(e) 以上の理由から、この「丁」は字義通り、太宰府の労役に就いていた「よぼろ」(庶民)のことと解するのが最有力である。

 このようにわたしは考えました。そうであれば、次田温泉(すいたのゆ)の入浴順序は、太宰府の高官に続いて庶民から徴発された「丁(よぼろ)」であり、僧侶や武人、料理人よりも「丁(よぼろ)」が優先されていたことになります。これは当時の太宰府の人々の思想性を探る上でも貴重な歌と言えそうです。日々、労役に就く「丁(よぼろ)」の疲れや病を癒やすことを、僧侶や武人の入浴よりも優先するという判断(思想)は日本的で思いやりのある制度ではないでしょうか。もちろん、この入浴順序が七世紀の九州王朝時代と同じかどうかは、本稿の研究方法やエビデンスでは未詳とせざるを得ません。

(注)
①日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』383番歌頭注に、「丁―「寺」の誤写で観世音寺か。」とあり、補注には「山田博士(山田孝雄)」の説として、「丁は或は寺の誤写にして観世音寺をさせるか。」を紹介する。
②日本古典文学大系の「解説」には、『梁塵秘抄』は今様歌謡の時代を代表する「今様の集」であるとする。

フォローする