第3430話 2025/02/14

『三国志』短里説の衝撃 (5)

 ―『漢書』の中の短里―

 古田先生の短里説は「魏西晋朝短里」説と呼ばれ、三国時代の魏とその後継王朝の西晋で使用された里単位(一里76~77m。周代に使用された里単位に淵源する)で、西晋時代に陳寿が書いた『三国志』はこの公認里単位「短里」で書かれたことが古田先生により発表されています。その先駆的研究を古田先生とともになされたのが谷本茂さん(古田史学の会・編集部、注①)でした。古田先生亡き今、短里研究の第一人者です。

 谷本さんの短里研究は『三国志』以外の漢籍にも及んでいます。たとえば『漢書』は長里の時代(後漢代)に成立しており、里程は長里で書かれています。しかし、現存する『漢書』版本には後代の識者による「注」が挿入されており、その「注」の作者が短里を使用していた魏西晋代の人物の場合、そこに記された里程は短里で書かれるケースがあります。そのことに谷本さんが論究したのが次の諸例です。『古代史の「ゆがみ」を正す』(注②)の「『漢書』は短里なくして解読できない」より転載します。

 〝最近は、『漢書』は「短里」仮説なくしては解読できない、というテーマを強く感じているんです。
それは『漢書』自体というよりも、『漢書』にはいろいろな人の注が付いていますね。その人たちは、だいたい三国の魏の官僚なわけです。如淳にしろ孟康にしろ文穎にしろ。そうしますと、かれらが書いた「里数値」というのは、『漢書』の本文のなかの長里なのかという問題があるわけです。
そのなかでひじょうにおもしろい例がいくつか出てきたわけです。
たとえば、劉邦と項羽が会う「鴻門の会」という有名な故事がありますが、その場所がもちろん『漢書』の本文にも出てきまして、そのところの孟康の注に、新豊の東十七里のところに地名があると出ているんですね。ところが、後魏の酈(れき)道元が書いた『水経注』にも同じところが出てきまして、新豊の故城の東三里だと書いてあります。そして、『漢書』の孟康注では東十七里のところに鴻門というのがあると書いているけれども、いまわたしが実際に調べたらない、と書いてあるんですね(本書第Ⅲ章参照)。

 長里で三里と言いますと一二〇〇から一三〇〇メートルです。それぐらい短い距離で確定できるように、城壁と鴻門はだれが見ても明晰な指定ができたわけですね。そこが、孟康の注では十七里と書いてあるんですね。
もしかりに同じ場所だとすれば里単位がちがうわけで、十七対三になっているわけです。それで十七対三の比というのは五・七ですね。するともう短里と長里の比にぴったり合うわけです。あまりにも偶然すぎるので不思議な感じがするのですが。

 つまり、ひとつには「短里」と「長里」の比が五・七ぐらいであることと、もうひとつは孟康が魏の官僚であることが重要ですね。たしか中書省の長官だったと思いますが、そうした部署の長官が言っている。(中略)
そうした例が『漢書』注にはいくつかでてきます。

 古田さんも以前指摘しておられました、「山」の高さの問題でも、『三国志』のなかで天柱山の高峻二十余里がありましたが、『漢書』の武帝紀の注で文穎が、介山という山を周七十里、高三十里と書いています。これも短里なわけです。文穎も魏の官僚です。

 有名な『漢書』地理志の倭人の「歳事を以って来たり献見すという」のところで、如淳の注では帯方東南萬里にありと書いてあり、これも短里ですね。
このように魏の官僚たちがみんな「短里」らしいことをしゃべっているわけですね。これは単純に「短里」はなかったんじゃないかという話にはならない。恣意的に見つけてくるというのにはできすぎています。そうした里単位があったとしなければ説明がつかない。〟51~53頁

 以上の「短里」の痕跡の指摘は谷本さんの研究のごく一部です。倭人伝をはじめ中国史料中の里程記事や里単位研究に当たっては、谷本さんの先行研究を咀嚼した上で進めていただきたいと 後継者には願っています。(つづく)

(注)
①谷本茂氏は京都大学時代からの古田説支持者で、現在は古田史学の会『古代に真実を求めて』編集部。古田武彦氏との共著『古代史の「ゆがみ」を正す』(1994年)の著者紹介欄には次のように記されている。〝谷本 茂(たにもと しげる)
1953年 生まれ。
1976年 京都大学工学部電気工学科卒業。現在、横河・ヒューレット・パッカッード株式会社電子部品計測事業部勤務。
主な論文 「『周髀算経』之事」(『数理科学』№177)、「古代年号の一使用例について」(『神武歌謡は生きかえった』新泉社)、「中国古代文献と『短里』」(『古代史徹底論争』駸々堂)ほか。〟
②古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。

フォローする