第3433話 2025/02/21

『三国志』短里説の衝撃 (7)

 ―畿内説と考古学の不一致―

 「邪馬台国」畿内説は短里(76~77m)でも長里(435m)でも成立しません。ですから、畿内説論者は短里説の存在には触れずに、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない。信用しなくてもよい。〟と言い続けるしかないようです。しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とします。その理由として、仁藤敦史さんは次の根拠をあげています(注①)。

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、(中略)考古学成果との対比(纏向遺跡・箸墓古墳)、などが求められていると思われる。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ) 略

(ⅴ)文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく、前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁)

 この中で具体的なエビデンスとして示されたのは次の事柄です。

❶纏向遺跡・箸墓古墳
❷前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)
❸三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)
❹有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)

 これらをわかりやすく解説します。❶の纏向遺跡・箸墓古墳は国立歴史民俗博物館(歴博と略す)研究グループ(注②)の発表によれば三世紀前半に編年されており、卑弥呼の時代に近い。❷の箸墓古墳をはじめとする初期前方後円墳の成立も三世紀に遡るとした歴博の見解に基づき、箸墓古墳を卑弥呼の墓とできる。同時に畿内の古墳から多数出土する三角縁神獣鏡も卑弥呼が魏からもらった鏡と見なしてよい。集落遺跡も纏向遺跡は卑弥呼の時代とできるが、北部九州には卑弥呼の時代の有力な集落はない。吉野ヶ里遺跡は卑弥呼よりも古い時代であり、対象とならない。ということを自説の根拠としています。

 このような考古学的知見を根拠として、畿内説が有力とするのですが、この考古学編年そのものが誤っていたことが、現在では明らかとなっています。すなわち、歴博の見解は炭素同位体C14年代測定値を根拠としますが、最新の国際修正値(較正曲線)intCAL20(イントカル20)により、弥生時代の編年が歴博の発表よりも約百年新しくなることが明らかとなりました。従って、箸墓古墳は歴博発表以前の考古学編年通り四世紀前半頃となり、卑弥呼の時代よりも百年新しくなります。同様に初期前方後円墳も百年新しく編年されたので、❶と❷の根拠が既に崩れているのです。

 仁藤さんの著書や論文の発行年は2009年と2013年ですから、おそらく古い補正値(intCAL09)を採用した時期のものであり、そのため不正確なエビデンスに基づいており、現在の倭人伝研究のレベルからすれば、問題が多すぎると言わざるを得ません。従って、仁藤さんの解釈や仮説を否定するところからしか、教科書を書き変えるような新たな研究は生まれないと思われます。

 更に❸の三角縁神獣鏡は中国からは出土していないことや、弥生時代ではなく古墳時代になって出土することも早くから知られており、これを弥生時代の卑弥呼が魏からもらった鏡とする考古学者は、現在ではほとんどいないのではないでしょうか。

 ❹の弥生時代の集落についても、現在の考古学では福岡市博多区の比恵・那珂遺跡群が「最古の都市」とされ、「弥生時代中期~古墳時代前期にかけて都市的な様相を示していた」(注③)とされていることに触れてもいません。そして、都市の条件である「街区」の形成は、「確かに比恵・那珂遺跡群をおいて他にはなく、「初期ヤマト政権の宮都」とされる纏向遺跡においては、そのような状況はほとんど不明である。」と報告されているのです(注④)。

 こうした現在の考古学水準からすれば、❹の見解も失当と言わざるを得ません。こうのように、仁藤論稿には数々の誤りがあることは明白であるにもかかわらず、なぜ古代史学界ではこのような解釈が通説的権威を持つのでしょうか。理系分野ではちょっとありえない〝奇妙な学界〟と言わてもしかたがないように思います。

 更に、(ⅴ)の「文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく」とするに至っては、理解困難な言い分です。そもそも、〝(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。〟〝(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。〟としたのは、仁藤さんご自身だからです。著書(2009年)と論文(2013年)とでは、基本的な見解が変わったようには見えませんが。(つづく)

(注)
①仁藤敦史 「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
同『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②国立歴史民俗博物館の春成秀爾氏を中心とする研究グループがマスコミに発表した後、2009年5月に早稲田大学(日本考古学協会)で「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」と発表した。
③菅波正人「那津宮家から筑紫館 ―都市化の第二波―」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年。
④久住猛雄「最古の「都市」 ~比恵・那珂遺跡群~」同③。

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