興国の津軽大津波伝承の理化学的証明(2)
長谷川成一氏(弘前大学文学部教授)が「近世十三湊に関する基礎的考察」(1995年、注①)で紹介した国立歴史民俗博物館の報告書「福島城・十三湊遺跡 1991年度調査概要」(1993年、注②)には、十三湊(とさみなと)遺跡から出土した遺物(陶器・漆器・他)の点数が年代別に表記されています。次の「表6」(319頁)です。
表6 遺物年代別個体数(十三湊遺跡で年代を判定できた資料)
(1991年度分布調査分)
破片数 口縁部
12世紀 1 0.1
13世紀 4 0
14世紀 19 0.7
15世紀 21 0.7
16世紀 0 0
津軽の「興国の大津波」は興国元年(1340)・二年(1341)と伝承されていますから、14世紀の事件となります。伝承ではこの大津波で十三湊は壊滅したとされますが、採取遺物の編年によれば14~15世紀の遺物が増加しており、興国の大津波が十三湊を襲ったとは思われません。むしろ16世紀に遺物が激減しており、十三湊の活動停止時期がこの頃であることを示しているようです。また、津波の痕跡についての報告も同報告書には見えません。
津軽十三湊の遺構に津波の痕跡が無かったことをはっきりと記した報告は、国立歴史民俗博物館の報告書「十三湊遺跡北部地区の発掘調査」(1995年、注③)に見えます。それには次の発掘調査所見と意味深な「付言」が記されています。
〝 5 十三湊遺跡北部地区の発掘調査
ここでは十三湊遺跡の土塁以北の調査について記述する。対象となるのは92年度調査第1地区および93年度調査第1地区である。
《中略》
B 93年度第1地区
(1)位置と層序
93年度調査区は92年度調査の成果を受けて、土塁北側地区でもっとも中心的な施設が存在すると推測した十三小学校周辺で、面的な調査が可能であった地点として選択された。
《中略》
また、この調査では茶褐色砂質土中に厚さ1cm~5cm程度の薄い黄褐色のきめ細かな砂層がまばらに形成されている様子が観察された。この層は水性堆積によって、十三湖岸の砂がもち込まれたことで生み出されたと評価され、この地域が十三湊の活動期から何度かの水害に悩まされていたことを裏付ける。
しかし、このことは巷間に広く伝えられているように、大規模な水害によって十三湊が最終段階に壊滅的な被害を受けたという伝説を考古学的に認めるものではない。逆に水害の後、砂で埋まった道路側溝などの諸施設が速やかに修復されている様子がはっきりと確認できることから、十三湊の直接の廃絶の原因を大規模な水害とする可能性はなくなったと言える。そして、十三湊の成立と廃絶は安藤氏権力の消長とともに、日本海・北方交易の展開、北部日本の政治構造の変化を見据えた中で位置づけられ、評価していかなければならない。
なお、ひとこと付言すれば、二次的な編纂物と考古学的な調査成果との整合性を云々するのも、生産性のない議論であることは言うまでもない。(千田)〟『国立歴史民俗博物館研究報告』第64集(1995)
このように、十三小学校周辺には水害の痕跡はあるものの、大規模な水害(大津波)で廃絶したとする可能性を否定しています。そして、「二次的な編纂物と考古学的な調査成果との整合性を云々するのも、生産性のない議論であることは言うまでもない。」との付言で締めくくられています。ここでの「二次的な編纂物」とは『東日流外三郡誌』や津軽藩系の系譜の「興国の大津波」記事のことと思われますが、文献と考古学的出土物の関係や整合性を論じることを、「生産性のない議論であることは言うまでもない。」と切り捨てるのはいかがなものでしょうか。こうした論法が許されるのなら、倭人伝や『日本書紀』の記述と考古学的出土物の整合性を論じるのも「生産性のない議論」となりかねず、学問や歴史研究を志すものとしては到底首肯できるものではありません。(つづく)
(注)
①長谷川成一「近世十三湊に関する基礎的考察」『国立歴史民俗博物館区研究報告』第64集、237頁、1995年。
②千田嘉博・小島道裕・宇野隆夫・前川要「福島城・十三湊遺跡 1991年度調査概報」『国立歴史民俗博物館研究報告』第48集、1993年。
③千田嘉博・高橋照彦・榊原滋隆「十三湊遺跡北部地区の発掘調査」『国立歴史民俗博物館研究報告』第64集、88~112頁、1995年。