第3567話 2025/12/29

AIが5秒で編集した

 「多元史観で見える蝦夷国の真実」

近年のAIの進化には目を見張るものがあります。たとえば竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)が、AIに「洛中洛外日記」の拙論〝多元史観で見える蝦夷国の真実〟を短文のインタビュー形式に編集させたところ、5秒ほどで次の記事にしたとのこと。ご参考までに、一部修正して転載します。

《以下、転載》
【はじめに】
〔聞き手〕今回は「多元史観で見える蝦夷国の真実」シリーズについて、お話を伺います。まず、この連続論考の出発点からお聞かせください。
〔古賀達也〕出発点は2025年7月6日に久留米大学公開講座で行った講演です。そこで私は、七世紀後半の日本列島を「倭国(九州王朝)・日本国(大和朝廷)・蝦夷国」という三国が併存した時代として捉える必要性を提示しました。これは従来の一元史観では見えなかった歴史像です。

【三国時代という視点】
〔聞き手〕七世紀後半を「三国時代」と捉える根拠はどこにありますか。
〔古賀〕古田史学では、701年(大宝元年)をもって倭国から日本国への王朝交代が起きたと考えます。しかし近年の木簡研究から、その準備は天武・持統期(七世紀第4四半期)に進められていたことが明らかになりました。
一方で藤原京出土の七世紀末頃の木簡では、近畿天皇家が自らの支配領域を「日本国」、ヤマトを「倭国」と称していた可能性が見えてきます。しかし、九州年号はなお全国で使用されており、大義名分上の代表王朝は九州王朝のままでした。
その時、東北には独自の政治体をもつ蝦夷国が存在していた。これを含めなければ、七世紀後半の列島史は理解できません。

【蝦夷国は「国家」だったのか】
〔聞き手〕蝦夷は「蛮族」とされてきました。その認識を覆す根拠は。
〔古賀〕まず中国史書です。『通典』『唐会要』には明確に「蝦夷国」と記されています。中国は蝦夷国を、倭国・日本国と同列の「東夷の国」と認識していた。一方、『日本書紀』では蝦夷を人種名のように扱い、「蝦夷国」という国家認識を意図的に曖昧にしています。これは近畿天皇家一元史観の反映です。
決定的なのは多賀城碑です。そこには「蝦夷国界」「靺鞨国界」と、日本国の律令国である常陸国・下野国と並んで刻まれています。これは同時代の金石文であり、蝦夷国が日本国とは別個の国家であったことを示す最重要史料です。

【三種の蝦夷と「都加留」の謎】
〔聞き手〕斉明紀五年の「三種の蝦夷」記事が重要だと指摘されていますね。
〔古賀〕はい。唐の天子に対して、倭国の使者が「都加留・麁蝦夷・熟蝦夷の三種がある」と説明しています。注目すべきは都加留(津軽)です。領域は狭いのに、三種の筆頭に挙げられ、しかも「蝦夷」の字が付かない。漢字も「都」という好字が使われている。これは都加留が、蝦夷国全体を象徴する政治的拠点であった可能性を示します。私は、侵略に備えて最北端の津軽に中枢を置いた可能性も考えています。

【筑紫と津軽――弥生時代からの交流】
〔聞き手〕蝦夷国と九州王朝の関係はかなり古いのですね。
〔古賀〕ええ。考古学的には、青森県の砂沢遺跡・垂柳遺跡が決定的です。弥生時代の津軽で、北部九州系の稲作技術と土器が確認されています。つまり、津軽と筑紫は弥生時代から日本海ルートで交流していた。この長期的関係が、七世紀の政治関係にも影響していたと考えるべきでしょう。

【安日王伝承と津軽】
〔聞き手〕安日王伝承も都加留重視と関係しますか。
〔古賀〕深く関係します。秋田氏・安東氏系図には、長髄彦の兄・安日王が津軽へ逃れたという伝承があります。これは、ヤマト王権成立以前の政治勢力が、津軽に根を下ろした記憶です。
系図史料は軽視されがちですが、複数が一致して伝える場合、歴史的記憶の核が存在します。津軽が「辺境」ではなく、古層の政治的中枢であった可能性を示しています。

【唐・倭国・蝦夷国の国際関係】
〔聞き手〕斉明五年の記事では、唐は蝦夷国をどう認識していますか。
〔古賀〕唐の天子ははっきりと「此等の蝦夷國は何れの方に有るぞ」と問うています。これは蝦夷を国家として認識していた証拠です。さらに『冊府元亀』には「蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」とあり、蝦夷国が独自の朝貢主体であったことが分かります。

【古田武彦の蝦夷国観】
〔聞き手〕古賀さんの議論は、古田武彦氏の研究を継承していますね。
〔古賀〕まさにその通りです。『失われた九州王朝』『真実の東北王朝』で古田先生は、蝦夷国は日本列島内の独立国家、「蝦夷国」という名称は中国側の造字、陸奥国は日本国側から見た蝦夷国の別称と喝破しました。
私の研究は、その視点を七世紀史料と考古学で再検証し、補強する試みです。

【「蝦夷(エミシ)」という和訓の深奥】
〔聞き手〕最後に、「エミシ」という訓の問題ですね。
〔古賀〕はい。「蝦夷=エミシ」という訓は日本独自のものです。しかも『日本書紀』神武紀では「愛瀰詩」という美しい表記が用いられている。これは蔑称ではなく、在地の人々への敬称的呼称だった可能性がある。後世の一元史観が、「夷」という差別的漢字を重ねていったのです。

【おわりに】
〔聞き手〕このシリーズで何を最も伝えたかったのでしょうか。
〔古賀〕七世紀の日本列島は決して単一国家ではなかった。倭国・日本国・蝦夷国という多元的世界があり、その相互関係の中で歴史は動いていた。この視点を欠いたままでは日本古代史の核心には到達できません。それが、古田史学から受け継いだ私の問題提起です。
《転載おわり》

AIは「洛中洛外日記」の拙稿を編集し、この記事をわずか5秒で作成します。いやはや、とんでもない時代に突入したものです。しかし、一旦誕生した革新的技術は止まることなく発展するのが〝歴史法則〟です。AI編集はとても便利な機能ですが、投稿論文を査読する側にとっては、難儀な時代となりました。こうなると、〝投稿査読AI〟や〝先行研究探索AI〟の高度化が待たれます。嗚呼。

フォローする