「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (1)
―藤本光幸氏の遺品、一枚の写真―
令和五年五月六日~九日、わたしは青森県弘前市を訪れ、三十年ぶりとなる和田家文書の本格調査を再開しました。〝令和の和田家文書調査〟と名付けたこの津軽行脚は、当地の「秋田孝季集史研究会」(会長 竹田侑子氏)の方々から物心両面のご協力をいただき、多くの成果に恵まれました。ところが、どうしても進まなかった重要な研究テーマがありました。「秋田重季氏ら記念写真」の調査分析です。
〝令和の和田家文書調査〟のとき、興味深い資料を弘前市の竹田家で拝見しました。竹田侑子さんのお兄様、藤本光幸さんの遺品中にあった一枚の「記念写真」です。縦約9cm・横約14cmのモノクロ写真で、前後2列に並んだ男女11名と左上に付された円内の男1名の写真です。人物は次のように並んでいます。撮影年次・場所は不明です。
○左上の円内《洋服正装の男X》1名
○後列(立ち姿)5名
《和服の女A》《洋服正装の男A》《和服正装の男B》《和服の女B》《和服正装の男C》
○前列(ソファーに着座)5名
《和服の男D》《和服の女C》《和服の男E》《和服の女D》《和服の女E》
○前列(床に着座)1名
《和服の男F》
女A・女B・女Eの3名は日本髪を結った若い女性で、芸妓さんのようです。女C・女Dの2名は「女将」のような雰囲気の女性です。
後列の男A・男B・男Cはいずれも正装で緊張した面持ち。それに比べて、前列の男D・男E・男Fは和服を着て、くつろいだ様子。しかも隣の女性と手をつないでいます。前列左端の男Dは、最も若い青年のように見えます。
こうした構図から、前列3名の男性が宿泊・宴会している旅館か料亭に、後列の3名の男性が訪問したときの記念写真のようです。恐らく主賓は前列中央の男Eと思われます。言うならば、地方の旅館に遠方より来た男D・男E・男Fが、地元の男A・男B・男Cにもてなされた際の記念写真とでもいったところでしょうか。男Xについては未詳。
これだけでしたら、どうということもない記念写真に過ぎませんが、前列中央の男Eが秋田重季子爵(注②)のようなのです。秋田子爵家は三春藩の藩主、秋田家の子孫です。すなわち、秋田孝季・和田長三郎吉次に東日流外三郡誌の編纂を命じた7代目藩主(秋田*倩季・よしすえ)の子孫なのです。その人物の記念写真が、なぜ藤本光幸さんの遺品にあったのか。このことの解明が、〝令和の和田家文書調査〟での未解決テーマとして残っていました。(つづく)
*倩:人偏に青(倩の異体字)。
(注)
①古賀達也「『東日流外三郡誌』の証言 ―令和の和田家文書調査―」『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店、2025年。
②秋田重季(あきた しげすえ)1886年(明治19年)~1958年(昭和33年)は、明治から昭和時代の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員、秋田家第14代当主。旧名・重光。位階は従三位。1910年(明治43年)、東京帝国大学工科大学を卒業し、逓信省臨時発電水力調査局や鉄道院で技術者として働く。1919年(大正8年)に貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動した。